44.首







元々は父から教わった仕事だ、段取りは必要に応じて変えてあるとはいえ、基本的な部分は説明するまでもない。
旅行に行きたいという千尋の相談を、父は快く受け入れてくれた。「お前のしたいようにすればいい」とも、言った。
椿になんと説明しようか、と思ったが、椿は口論をした日から橙眞由美の元に滞在しているとあの後本人から直接電話で聞いていた。
「怒ってるのか?椿」
『別に、気にしちゃいない。俺が少し考え過ぎていただけだ』
ただしばらくは、彼女の傍にいたいと告げられ、頷いた。身内を亡くした彼にとっては、橙眞由美は母親代わりのようなものなのだろう。能力を喪失した橙眞由美はただのふわふわした女性に過ぎず、間違っても椿に危害を加える心配もなさそうだった。
そうして、二週間が過ぎた。
旅行など、これまでの生活には無縁な代物だった。誰かと一緒にあるなら、今いる場所で十分だとも考えていた。しかし、いざ計画してみると、椿への後ろめたさはいくらかあれど、心は浮き立ち、そんな自分自身に千尋は驚いていた。
すっかり準備を終え、出発一時間前にもなるとそわそわと落ち着きがなくなってきて、ちょっと休憩しようと自分用に珈琲を入れた。
(やれやれ…幼い子どもでもあるまいに)
ちょっと電車に乗ってちょっとうろついて食べて寝て帰って来るだけじゃないか。それが。
と、そのとき、彼のいつになく健全な葛藤を妨害するかのように、電話の音が鳴り響いた。
千尋はマグカップを置いて、電話機の前に立った。普段電話でやり取りはしないが、この数字の並びは見たことがある。草慈の番号だ。
そうだ、これが終わったら椿に電話だけでも掛けておこう。そんなことを考えながら、千尋は受話器を持ち上げた。
「もしもし…」
『千尋?』
「そうだよ、どうかしたのか?」
聞き慣れた、橙眞草慈の声である。(椿の声は硬質な響きがあり、草慈の声は誠実そうながらやや抑揚を欠く)
『悪い、ちょっと…』
「草慈?」草慈らしからぬ、歯切れの悪い話し方に、不吉な予感が芽生える。
彼は息を呑んで、それから精一杯落ち着こうと努力した痕跡の残る声色で言った。
『旅行には行けない。かあさんが、死んでいるから』
「!…、草慈、なあ、いま何処に居るんだ?」
彼の母親…橙眞由美が死んでいるというなら、きっと彼の実家なのだろう。彼は何か用があって、そこに立ち寄ったのかもしれない。だとしても…彼の母親の死亡という事態は解せなかった…ESPでない彼女が死んでも何ら不思議ではなかったが、問題はそこではない。
(誰が彼女を殺したか?…)
「いまから、そっちに行くよ」
『いや、その必要はない、片付けは一人で出来るし…』
千尋に状況を告げて、速やかに心の切り替えでも行われたのか、彼は痕跡のきれいに消された返事をした。しかし完全に落ち着けるわけがない。彼とその母親の関係は普通ではなかったとはいえ、ついこの間までは死ぬはずのなかった母親が死んだのだから。
『千尋』
「うん?」
『母さんは、妊娠していたみたいだ』
裂かれた腹の中に、へその緒が繋がっていた跡があるのだと、彼は。

草慈の発した言葉について考えている余裕はなかった。農場内の牢が、管理者以外の鍵で開かれたという警報が鳴らされたからである。父には世話は今日の夜からと頼んであるし、そもそも鍵も管理者権限のものを渡してある。この状況下での侵入者と言えば、一人しか思いつかなかった。
(しかし…なんだってそんなことをする必要が)
家を飛び出し、農場内の階段を駆け下り、該当の牢へと辿り着く。失敗作の群れ。牢の前に佇むのは…、
「椿!」
駆け寄って、腕を引く。鍵が開いているということは、為たちが出て来る恐れがあるということだ。知能が低く凶暴な生物ではないにせよ、人間と距離の置かれていない状態には慣れていない。直接の接触は危険だ。そう考え、彼を牢から遠ざけてから、問題の鍵を確認した。
…おかしい。
「開いていない?」
「ああ…そうか、センサーか何かついてるのか」
背後から、椿の声。振り返り、彼の肩や腕に触れる。怪我がないことを確かめてから、彼がその手に持つ物に気がついた。
「椿、…それは?」
血の付いた鋸。…それで、橙眞由美の腹を裂いたのだろうか。
「首を落とすのに必要だったんだ」
「首?」だれの…橙眞由美の首はついていたか?…聞いていない。
千尋の訝しげな眼差しに気付いたのか、椿は部屋の端の方を指差した。
「そこの、子どもの」
でも上手く切れなかったな、と椿は肩を竦める。示された方を見遣れば、首が皮膚で繋がった人間の赤ん坊によく似た未成熟な生物が転がっている。断面には、細胞の塊のようなものが形成され始めている。再生しようとしているのか…ESP、橙眞由美は無能化している、遺伝子情報はともかくとして…椿との間の子か?
「そうだ、柚谷は…こういうのは得意だったな」
すまないが、代わりに斬り落としてくれないか、本当なら…お前の手は借りない予定だったんだが。椿は言った。
千尋は差し出された鋸を受け取ると、躊躇いもせず捨てて足で蹴飛ばした。無感動な椿の瞳。床には血の擦れた模様が出来た。
「何の為にそれの首を落とそうとしているんだ?」
「必要なんだ、首のない子どもがいるから」
「いるって、何処に」
人体の構造を考えれば分かることだが、首もなく生きている人間など存在しえない。
そこにいるだろう、と椿は彼の足許より少し離れたところを指差したが、千尋には何も見えなかった。
「椿、俺には何も見えない」
「見ようとしていないだけだ」
「違う、それが椿の内側にあるものだからだ。心配しなくてもいい、ESPの能力で説明はつけられる」
「柚谷…」
彼は何故理解されないのだろうという失意に傷ついた目を、千尋に向ける。
千尋にしてみれば、現実のものでない幻のために人を再び殺めてしまった椿が…憐れでならなかった。
その言動や行動を、くるっているからだ、と口にすることは彼の尊厳や人格を否定するようで出来なかった。
自分が彼の一挙一動に、もっと気を配ってさえいてやれば。鳥越睦月の存在が、彼に及ぼす影響をもっと深く考えていたなら、こんなことにはならなかったかもしれない。
こうした愚かしい後悔を、何度繰り返してきたのだろう。だが、どれだけ後から取り繕うとも…初めに犯したミスが取り返しのつかないものであったことに、千尋はようやく気が付いた。
(こうなったのは…あのとき俺が椿に…為の子どもを近づけた所為…なんだろう)
(此処に立ち入りさえしなければ、椿が壊れてしまうこともなかった)
それでも…いびつなかたちではあっても、能力を引き継いだことで…椿もようやく正常な精神を取り戻しつつあると思ったのは、千尋の勘違いだったのだろうか。やはり、不自然な能力の在り方は不必要な軋みを生むのか。椿の内側に生じた軋みは、もう元には戻らないのだろうか。
「椿…」
千尋は過去の自分がしたことへの堪え難さ…あのときはそれが正しいとか正しくないとか考えもしていなかった…椿が何故泣いたのかも分からずに、ただ目の前にいる彼が彼でなくなっていくことに、ようやくその意味や重みが分かってくるぐらいの馬鹿さ加減だった…に言葉も出ないまま、椿の細い肩を掴んだ。血に塗れた彼の右手を取り、握りしめる。彼は必死に、無情な現実に耐えようと自分のもとへ逃げ込んで来たのに。
(椿が逃げ込むべき場所は此処じゃなかった)
(でもほかに、彼の逃げ場はなかった)
椿はそんな千尋を冷めた目で見下ろして、呟いた。
「別に柚谷の首でもかまわないんだが」
「…?」
「お前にもあの出来事の責任はあるし、俺も二度目は上手く落とせるかもしれない」
椿が…何を言わんとしているのかはすぐに分かった…千尋は動揺するがままに顔を上げ、椿を見た。
光の差す、何ら現状に疑問を抱いていない瞳と視線がぶつかり、気がつけば…握りしめた手を放してしまっていた。
そして何故なのか、蹴り飛ばしたはずの鋸が椿の手には収まっていて、彼はその切っ先を千尋の喉に押しつけた。
一歩後退すれば、背は牢に当たる。
「無…理だ、椿。人間の首は…そう簡単に落とせるもんじゃない」
ましてや、成人男性である千尋の首はそこの赤ん坊より太い。赤ん坊で上手くいかないのなら、到底成功は見込めない。
椿は口を噤んで、じっと千尋の顔を見上げる。それから視線をそろりと下ろして、僅かに身を引かせた。
「なら方法はゆっくり考える。…そこの赤ん坊のをちぎり取り直してもいいわけだからな」
かちりと、鍵の開くような音。(背後?)だが椿は、目の前に立っている。
背を預けていた牢の扉がスライドし、千尋はよろけた。慌てて体勢を立て直そうとして、得体の知れない何かが腕に触れ。視界に捉えるよりも早く、腕にぐんと力が加わった。
「……!」そのまま中へと引き摺り込まれそうになり、咄嗟に牢の格子を掴む。だがその手首を強かに打ち据えられて、千尋は低く呻いた。閉まる扉。(まずい!)と思った直後には、出来損ないの為たちの気配をすぐ間近に感じた。
すぐに扉に取り付いたが、開かない。更には背後から羽交い締めにされた。
「よかったな。そこにいる為たちはお前に懐いてるらしい。こんなに傍に来てくれたことはないと…喜んでる」
てっきりお前の仕事のやり方だと毛嫌いされてるものかとばかり思ってたが、そんなこともないんだな。と、椿は牢の外側から言った。
まるで他人事のように話すその姿に、千尋は声が戦慄きそうになるのを、懸命にこらえながら、
「椿、…そこの後ろに緊急用のスイッチがあるから、探して押すんだ」
「押すとどうなる?」
「為に有効な催眠ガスが出る、だから」
「良質な為肉を取るには愛情も大事なんだろう?せっかく喜んでいるのに、無理に眠らせる必要があるのか?」
不思議そうな顔をする椿。千尋は唖然としたが、その間も為たちは蠢いている。懐かれているだか何だか知らないが、早いところ出なければとしがみついてくる為を振り払おうとして、腕を押さえつけられた。作業着のボタンをひとつふたつ引きちぎり、忍び入る奇妙なかたちながらもしっとりとした手のひら。
「!…っ、こいつら…!」
手指が無数の虫のように這い回る。視界にはそれらのおぞましくも膨れ上がった一物が映り込み、この為どもは発情しているのだと千尋は衝撃を受けた。
(人間との接触何て普段しないからか?だとしても、俺は男でそんな対象ではない、はず…)
それとも、男女の区別すらついていないのか。下腹部に別個体の腕が潜り込むのを目の端に捉えて、千尋は息を飲んだ。
ズボンの中の性器を揉みしだかれ、鳥肌が立つ。震えている場合ではないが、知性のまともに発達していない連中に欲の対象として認識され、取り囲まれている状況に、心臓は忙しなく脈打ち、声は無様に上擦った。
「つ…つばき!」
「どうかしたのか?柚谷」
高みの見物、赤ん坊の首を片手間に斬り落とそうとしながら、椿は首を傾げる。
どうかしたもなにも、どうかし過ぎてるじゃないか!しかしいくら喚いたところで、いまの椿が聞く耳を持つとは思えず、千尋は尋常でない冷や汗が背中を伝うのを感じた。現状は椿が動いてさえくれれば簡単に抜け出せるものなのに、彼には自分を助けようとする気はない…。
目のない為が、嬉しそうに胸の突起にしゃぶりつき、それをともすれば押し潰れそうな強さで噛んだ。
「……!」
過剰な痛みに頭の中が一瞬真っ白に染まる。先はつんと硬く尖り、よりいっそう為の歯が深く食い込んだ。身体は極度の苦痛を示すように引き攣ったが、解放しようとする気配はそれらの間に微塵も感じられなかった。
腕は別個体によって頭上でまとめられ、優しく撫でられている。”それ”なりの愛情表現なのか、引き抜こうと試みれば慌てたようにぎゅうと握りしめられて、骨が軋んで息が詰まった。教えられていなければ力加減を知ることはない。
「う、…」嫌な汗が額から流れ落ちる。
(せめて夜になれば……親父は、早めに来てくれたりは…だめだ、まだ午前中だ)
身を捩ってそれらの腕を解こうとすると、今度は太腿を掴まれた。馬乗り状態とでもいうべきなのか、為が千尋に背を向けるかたちで股がってきて、俯せになることすらままならない。為たちにとっては大好きな主人に戯れついているだけでも、千尋にとっては悪夢以外の何ものでもなかった。
為の背中に阻まれてよく見えないが、両方の太腿を鷲掴みにされて、開かされているのは感覚で分かる。容赦なく無防備な体勢を強いられて、屈辱よりも恐怖に再び千尋は助けを請うていた。
「つばき…!頼むから、スイッチを押してくれ…」
「まだ大して遊んでやってないだろう」
「そういう問題じゃない。…近づき過ぎてもいたずらに興奮させるだけで、かえって良くないんだ…」
感情的に訴えても聞き入れられそうにないので、懸命に彼が納得しそうな言葉を震える喉から絞り出す。しかしどうせ通じないのではないかと思えて、話しながらも声は掠れてしまっていた。此処にいる誰も自分を、人間として扱っていない。椿でさえも。
「どうして、」椿は為にこんなことをさせる?遊び相手をしろというのは適当に言っただけで、本当は千尋を恨んでいるのだろうか。分からない、分からなかった。千尋は自身が混乱しかけていることに気付いて、頭を小さく振った。
(…怯えて取り乱したところで、どうにかなるものでもない…)
むしろここで我を忘れて暴れたり叫んだりしたら、それに驚いた為たちに殺されてしまうかもしれない。
そんな不吉な想像が過り、千尋はまた混乱がぶり返してきそうな感覚にとらわれ、深く息を吸った。
(まずい、だめだ…何をやっているんだ、たかが…たかが為たちに身体を触られているだけじゃないか)
自身に言い聞かせ、言い聞かせている途中で、(いやだ)と感情が爆発しそうになる。(どうしてこれしきのことが耐えられないんだ!)
肩で息をしながらも、じっとしていられずに、千尋は押さえつけられている足に力を込めようとした。一瞬くらい隙が生じることはあるはずだ。すると馬乗りになっている為は、前のめりになった。
(……?)
そして、びり、と布の裂ける嫌な音。千尋は不穏な気配に全身に力を入れた。が、よってたかって押さえられているため、びくともしない。逆に太腿を大きく押し開かれた。牢の真正面にいる椿に聞けば、何が起きようとしているかは分かったろう。
「うあ…っ」
何か、ぬるぬるとした…これは舌だと、何度かそれを斬り落として出荷したことのある千尋は気付いた…が、尻に差し込まれている。失敗作の中には、舌の作りが平均より長いものもいた。そいつがやっているのだということは、深く抜き差しされる感覚で分かった。
つぷ、となめくじのように入ってきて、内壁を肉厚な舌全体を使って叩き付けるように舐め回していく。あまりのおぞましさに、頭から足先まで悪寒が駆け抜ける。先程までの強烈な痛みに緊張していた神経が悲鳴を上げる。
「あ……」ぽろ、と一粒涙が目から落ちた。
舌をごそりと引き抜かれて、束の間、異物感がなくなり。千尋は口を開いて、意味はないと分かっているのに、つばき、と大事な友人の名前を呼ぼうとした。その瞬間、勢いづいたそれに貪るように体の内側から吸い上げられ、反射的に身体が大きくしなった。
「っいや、だ…っやだ、あ…っ」じゅる、と舌で肉を啜る音が静寂の中、断続的に響き渡る。
そこに介在する椿の意識。彼は為の感覚を通して、千尋の中に射精した。















「瑞希、また寝てるのか?」
柔らかい髪が、風にそよそよと揺れている。
それを梳かすように撫でる指先。
「母さんさ、死んだよ。死体は、施設の人が持っていってくれた」
青年は、穏やかな笑みさえ浮かべて弟の寝顔に触れた。
ちゃんとそこに温かさがあることを確かめでもするように。
「でも俺は、瑞希のようにはできそうにない」










「お邪魔します」
お決まりのパターンと言われればそうだ、と草慈は綾城椿の姿を見つけて立ち止まり、上着のポケットに手を入れた。
自宅の方に誰もいなかったので、ランプの灯るこの階へとやってきた。
綾城がいるなら千尋もいるのだろう、と首を動かすと、閉め切られた牢で繰り広げられている醜悪な光景。
群れる為たちの中心に千尋が力なく横たわっている。右腕は曲がり方からして折れているようだ。服の隙間から覗く、体液にまみれた素肌。あとできれいにしてやらなければ、と考えながら、綾城の方へと歩み寄る。じっとこちらを見ている綾城の後ろの壁に手を伸ばし、出っ張ったスイッチを押した。噴射されるガス。呻き声と寝息が混じり合う。
目の前に立つ、精液に右手を濡らした男。
これが男以外の何だと言うのだろう。千尋はこの男を神聖な存在であるかのように捉えていた。汚してはいけない奇麗な彼の綾城椿。
昔はそうだったのかもしれない。否、そんな子どもが妊婦の腹を叩き潰すわけがない。どこぞの気の違った子どもに乗せられて?子ども特有の無邪気で無責任な残虐さで?知ったことかとその当時の腹の中身としては思う。彼の手にぶらさがる、引きちぎれた未熟な赤ん坊は何を思っているのだろう。彼女はこの間までは妊娠していなかった。とても短い夢を見ていたのだ、彼女は。
「遅かったな。さっきまで…柚谷はなりふりかまわずお前のことを呼んでいたのに」
綾城が口を開く。耳慣れない、自分の口の中で歯と歯の擦れて軋むような音を聞きながら、その切れ長の瞳を見下ろした。
「千尋が貴方に何をしたって言うんです?母のことにしても、」
そのときのことを彼女から聞こうにも、草慈が到着したときには既に事切れていたので、無理だった。
綾城は上目遣いで草慈を見上げた。媚び諂っているわけではなく、身長差でそうなるのだろう。
「胎児を取り出すために彼女が死ぬのは仕方がなかった。…柚谷は…お前に心変わりしたから、かな」
柚谷はずっと、俺の味方でいてくれると思っていたんだ。
無表情だった綾城椿は、そのときだけかなしそうに微笑んだ。身勝手な笑みだった。
草慈は、その腕の中に抱かれたぼろ雑巾のような赤ん坊を見た。掻き出された彼女のはらわたも同様の有様だった。裁縫は得意だが、腹の皮膚の表面だけでなく中身までとなると少々心許なかったので、そのまま施設の人間に渡した。いま思えば、縫っておけばよかった、駄目元でも。
足下には血痕のこびりついた鋸が置かれていて、彼はこれを使ったのだろうと容易に想像出来た。
しゃがんで手に取ってみると、なるほど切れ味はあまりよくなさそうだったが、使えないということもない。力任せにするから、そこの赤ん坊のようになるというだけであって。柄を握り込むと、何故だか彼女の細い手首が思い出された。

……ねえ、草慈、こっちへきて。












目が覚めると、見慣れた浴室の天井が見えた。
あれ、と思い身体を動かそうとすると、途端に右腕が痛んだので左手で押さえた。ぴちゃんとお湯が跳ねた。
自分は風呂に入っているらしいと千尋は思った。衣服も何も身につけていなかった。
「ああ、千尋。動かない方がいい、泡が目に入るから」
草慈の声が頭上からした。なので、少し上を見ようとしたら、泡が目に入った。痛かった。
「だから動くなって言ったろう」
そうは言っても、起きてすぐ髪を洗われているだなどと誰が想像するものか。
骨張った手が伸びてきて、千尋の頬に触れる。シャワーのお湯を指先でなすりつけるようにして目許を濡らした。
そのやり方もどうなのだろうと思っていると、何故か目から涙が出てきて、泣いていた。ぴちゃんぴちゃんと水面が幾度となく跳ねた。
ぶるぶると悪寒がしたので、草慈に向けて左腕を伸ばすと、彼はシャワーを下ろし、千尋をしっかりと抱きしめてくれた。
草慈がいるなら、たぶんもう大丈夫なのだろう。そんなふうに安堵してはじめて、自分が未だに怯えていたことに気がついて、千尋は、音にならない声を漏らした。みっともない。
身体を離すと、彼の七分袖のシャツに血が点々としていた。驚いて、
「草慈、怪我してるのか?」
彼の身体をぺたぺたと触った。もしかしたら、あの為たちに何かされたのかもしれないと思ったのだ。
すると、草慈は「違うよ」と笑って千尋の手をやさしく取った。あたたかい草慈の手。
「鴉に餌をやってたんだ」











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