43.紅
女体を抱いた。
彼女も子どもを求めている人間だった。その手の情報が集まっているところで知り合った。
『籍を入れずに、子どもだけが欲しい人へ』。
子どもは最低でも二人以上は作らなくてはならない。
平等に”分け合うため”、二人目が出来るまでは一人目は第三者に預けられる。
上記のような規則はある。しかし医療の進化や、生殖能力に問題のないことが基準とされていることから、比較的事はスムーズに運ぶらしい。妊娠率を高めるための薬剤にも副作用はほどんどないと云われている。
「貴方のような人となら、きっと美形な子が出来るわ」
行為が終わった後、女性はてきぱきと衣服を身につけながら、言った。薄いストッキングが足にするすると纏わりついていく。
きちんと契約さえ交わせば、こうも簡単に誰かと繋がることが出来る。
だのに何故、あの男は無理に男の子どもを縛り上げ、鞭打つような真似をしたのだろう。
そんなことをしなくとも、逃げはしなかったろうに。柚谷の手配した子どもだ、そのくらいの聞き分けは持っていただろう。
柚谷も。
柚谷も大人しく、橙眞に身体を委ねていた。
真っ暗い中で身体を繋げたとき、いやだ、と言われたことを思い出す。彼は自分を好きだと言っていたので、『される』のが同性として許せないのだろうかと、後になって考えた。自尊心だとかの問題。だが、橙眞相手には大人しい。柚谷は、橙眞のことも特別な人間だと認識しているのだろうか。
不思議にずっと、柚谷は自分を好きでいてくれるものだとばかり思い込んでいた。何をしても。そんなふうに愚直に思い込んでいたのは、これまでの彼の振る舞いもあったろう。少しだけ互いに大人になってから再会したあの日から、彼はある意味最も彼らしい、卑劣で辛辣な態度を見せなくなっていた。常識人のような立ち回りをして、逃げ場にもなってくれた。(それなのに、いやだと言って、)
女性とするときには、自身を昂らせることに苦労した。
柚谷のときはすぐにできたのだ。あのときは、彼を起こす前から興奮していて、彼の中もきつくて熱かった。女性としたときの方が、”彼女”のお腹の中によく似てはいたけれど。
家に戻ると(柚谷の家ではある)、彼は夕飯の支度をして待ってくれていた。
「おかえり、椿」
彼は僅かにぎこちない笑みを浮かべ振り向いて、白いご飯の入った皿にシチューを盛った。
シチューにご飯を合わせることよりも、その笑みを見て、彼はまだ自分のことが好きなのだと少し安堵する。
女性を抱く為に外に出ることを、彼は知っている。そのことに対して傷ついている。そんなことをするべきじゃない、と言われたことはない。彼の中には、極端に綾城椿という人間を傷つけることを恐れる気持ちがある。何を言ったら傷つくのか分からない、と、考えてもいるらしい。彼は基本的には心を読まれまいとしているので、…人飼いとなるとESPの対応策は必要らしい…これらはそんな彼のほんの一瞬緩んだ隙などから感じ取ったことだ。
しかし彼も橙眞と同じようなことをしているかもしれない。そう思うと、ざらざらした気持ちになる。気持ちが頭の中か、胸の中か、何処にあるのかは知らないが、手を差し入れたらきっと砂利のようなものがたくさん詰まっているだろう。彼を不純だとも感じた。
風呂に浸かる。ぽちゃんぽちゃんと水音とともに、建物から為たちのざわめきがきこえる。
穏やかな、それらの雑談。肉になることを知らぬ、歳若い為たち。
生命の寝静まる夜。しゃらしゃらとした雑草を踏みしめて、彼の働く施設へと足を運んだ。
以前のあの子どもがいた牢。誰もいない。コンクリートにこびり付いた、薄い血の跡。
階段を下る。果てしなく続く牢。丸まって眠る為、餌をぼそぼそと貪る為、目玉を見開いた為、元人間たち。
匂いが変わる。寄り集まる奇怪な群れ。出来損ない。壁際に掛けられたホースから水が零れている。声。
唐突な眩しさ。
それが懐中電灯の灯りだと気がつくと同時に、彼の姿を捉えて、彼の声を聞いた。
「駄目だよ、椿。此処は少し暗いから、上に戻ろう」
驚いた様子もない、平坦な声色。彼は背を向けて、来た階段を上り始めたので、後に続いた。
「何か、探し物でもあった?」
建物に併設された休憩室。黒い珈琲を出して彼はパイプ椅子に腰掛けた。
「…お前を探してたんだ」
「俺を?朝になれば、ちゃんと帰るのにどうして?」
軽さを乗せた声に無言で返して、真正面に座る彼を見る。
「柚谷、」
「夜で一人淋しくなって、とかでも、それはそれでかまわないけど、それなら電話で呼んでくれればさ」
「お前はまだ、俺のことを、好きだと思う気持ちはあるのか?」
とても卑しい質問だなと思いながら口にする。自惚れていると嘲笑されても仕方がないとも。だが、聞くだけ人間としてのモラルに沿っていると思ってほしい。閉じられていても強引に抉じ開ければ、感情など簡単に知れる。そうしたくはないという気持ちはまだある。
「もしも、好きだと思ってくれているなら、キスしてくれないか」
「え」
彼は笑ったまま、きょとんとした表情を浮かべた。それは至極当然な、予想された反応ではある。
以前までの自分なら、こんなことはおぞましくて言い出すことすら出来なかったろう。
しかし今となっては、指先を掠める程度の接触さえも恐れた日々が、遠い過去のように思えてならない。垣根なんてものは容易く踏みつぶせるのだと。
「何を言うんだ、椿」
苦笑を滲ませる柚谷の顔が、
「冗談で言っているわけじゃない」
たちまち困惑の色を張り付ける。
何のことはない。女性を抱いてからというものの、その場にいなかった柚谷のことが頭から離れなくなって、それがどうしてなのだろうと分からずにいるだけなのだ。おそらくは、同じ身体を繋ぐ行為であったとしても、彼が他の女性とは違い、友人という見知った存在であるからなのだろう。
とはいえ、もしかしたら、自分の中には彼を特別だと思う気持ちがあるのかもしれないと、キスをしてみればそれが確認出来るのではないかと踏んで(父はそうしようとはしなかった)…先程の発言に至ったわけなのだが、柚谷に分かるはずもない。それでもよかったのだ、ただ獣じみた快楽を得たいが為に、彼との行為を反芻しているのでなければ(子どもだって出来ないのだし、彼とでは)。
「椿」
柚谷は唇を動かして、それから手で顔を押さえた。心理学的に、人が自分の顔周りを触るときはどんなときだったろう。
澄んだ空色の瞳が歪められて、白い耳はひそやかに紅潮している。反面、明らかに肩は震えているようだった。
「それは出来ない」
「何故?」
彼に何かを断られるということを想定出来ずにいた(二度目なのにだ)がために、問い返す。何故。慣れぬ不安が胸中で膨れ上がり。
(柚谷が俺のことをもう好いていなかったら)(だとしても、俺は何を恐れているんだ?)
自問する。元々、彼とは…いつから友人だったのか、本当にそうなのかも分からぬような半端な間柄だ。
他に頼る当てもなかったので、いつのまにか、取り囲む状況が、そう思い込ませただけであって。
(彼の涙が、何かに縋りたいと思ったときに、そこにあったのだ)(生きたかった)
だのに、なにか、裏切られたような、荒んだ心持ちにさせられるのは、その錯覚が深いところにまで根付いていたからなのか。
分かったのは、柚谷が、もう味方であってくれることはやめたのだ、ということだけだった。(抜け落ちた、)
「俺だって、…いや、でも椿は、俺のことを好きじゃないから」
好きじゃない。
「…なら、ほかにどんな理由があって、俺が、こんな馬鹿げたことを言い出す?」
生じた空白に濁った苛立ちが湧き出し。しかしすぐにそれは膜がかった、埋もれた苛立ちへと変わった。上手く怒ることが出来ないな、とぼんやりして、頭を振って、不快感だけが残るのを感じている。
「お前は、自分が出来ないことを、俺の所為にしているだけだ」その不快感から辛うじて口にする。必ずしもそんなことはないと頭では分かっていても、内側から突き上げて来る怒りに、寒気を感じた。柚谷が拒絶するのはあってはならないことだと、どろどろとした部分(それが自分なのかなんなのか分からない)が疼き、なにかを垂れ流した。
ショックだったのだ、多分。ショックだったのだろう、相当に。依存していたのか?唐突な自覚に、鈍い怒りが再び込み上げてきて、頭が痛くなる。埋もれる。彼にかつて別れを告げたのは、隣に淑恵がいたからで、淑恵がいなければ、結局は、
「俺のことを好きでないなら、そう言えば良い。友人なんだろう、なら問題はないはずだ」怒ることに、消耗する。いやに生々しい疲労が、纏わりついてくる。(俺と彼女の能力は、相性が悪かったのだろうか?)。
「そうじゃないよ、椿。でも、友人だからこそ、出来ない」
頼むから、そんなことを言うのは止してくれ。柚谷は、そう口を噤んだ。かなしそうな、突然舞い込んだ、吹き荒れる嵐に堪えるような顔をして。
向き合っていても、互いに譲歩する気配は見られず。別に大きな問題ではない、些細な感情の行き違いがあるだけだと己に言い聞かせ、彼の残る施設を後にして、彼の家へと戻って、ベッドの布団に包まって眠った。
朝になると電話の音で目が覚めて、受話器を持ち上げると懐かしい彼女の声がした。
「おはよう、朝からごめんなさい。まだ、眠っていた?」
「いえ」
「昨夜、貴方の夢を見て。それで…声が聞きたくなったの」
彼女の姿を思い描く。どうしても、まだ若き頃の彼女の姿になる。もういまは、歳を召したと聞いたが、声には艶が残っていた。
受話器を持ち直しながら、ふと足許を見ると、こちらを見上げる子どもの胴体。何か物言いたげに、喉の赤い肉が動き。そうだ、自分にはやらなければならないことがあると思い出す。同時に、何かを忘れた。
「俺も貴女に逢いたいと思っていました」
椿の発言をいったい誰が想像出来ただろう。千尋はようやく暖房が効き始めた部屋のベッドに寝転がった。
作業着は洗ったばかりで綺麗だ、それにシーツが血で汚れたところでまた洗えばいいだけだ。
椿の硬い声と、特に表情のない顔と、そしてその唇の動きを思い出す。
また、傷つけてしまったらしいと彼の苛立ちの混ざった声で分かった。だが、してはいけなかっただろう、今回の判断は間違っていなかったはずだと千尋は思う。しただけで、何が変わるというわけでもないだろうが、しない方が、彼の後悔は少ないだろうと思われた。彼は少々自暴自棄になっているようにも見えた。言い争う前から、ぴりぴりした、神経質になっているのが伝わってきていた。
勿論、頼まれた直後は、彼に触れる瞬間のことを想像した。漆黒のしなやかな髪先。夢のように、酔いそうなまでに現実味がなく、極度の緊張を強いられ。どれだけ焦がれようとも、やはり触れてはならないもののように思えた。ESPの能力は関係ないだろうに、彼はもはや…ただの愚直で繊細な子どもではないのだ。
しかし結局は、それすらも言い訳かもしれないと千尋は思う。
今日は午後の講義だけ聞いておけば良いかと、午前中は大学に行かないことを決めた草慈は、午前十時を過ぎた頃に『ユエ』の自宅を訪ねた。が、家主は留守のようだった。お邪魔します、と声を発して中を覗いたが、人間が誰一人としていない。施設の方にでもいるのだろうと、コートのポケットに手を突っ込んで寒風に吹かれながら向かった彼を、休憩所のピントのずれた灯りが出迎えた。
ドアの鍵はかかってはおらず、開けると千尋がベッドの上で作業着のまま寝ているのが見えた。暖房の熱で部屋は満たされている。昨夜からこの状態だとしたらなんて不健康なのだろうと、草慈は千尋に歩み寄って、その頬を軽くぺちぺちと叩いた。
「千尋、起きろ。いつから寝てるんだ」
仕事の途中で眠くなったのかもしれないが、せめて布団を掛けて寝ろと言いたい。
千尋は草慈の姿を認めるなり跳ね起きて、きょろきょろと辺りを見回した。状況が呑み込めないようにも、誰かの姿を探しているようにも見えた。
「ああ、草慈…悪い、珈琲でも出すよ…」
それは彼にしては”しおらしい”発言で、まだ寝惚け半分なのではなのか、そんな状態でお湯でも零しはしないかと不安になる。
彼は台所に行きがてら、テーブルに置かれた手つかずの珈琲のカップを見つけ、やや憂いのある表情をし、それらを手にした。
先客の正体は容易に想像出来たが、そこで何が起きたのかまでは考えたくはない。
草慈は勝手知ったる態度でソファに腰掛けて待っていたが、いつまで経っても台所から千尋が戻って来る気配はなかった。というよりは、彼が珈琲をいれ直したのまではここから見えていたが、その後動く様子がない。元来、珈琲にしてもいれる方が性に合っている草慈にしてみれば焦れったくなって、すたすたと千尋の元まで歩み寄った。
「千尋?」
名を呼ぶと彼は弾かれたように顔を上げて…危うく珈琲が零れそうになった…思い詰めたような顔をして、「悪い」ともう一度言った。
彼には存外素直なところがあるが、二度も大したわけもなく謝られると気色が悪い。その先に言葉が続くのかと思えば、気まずそうに俯いている。
「綾城に何か言われたのか?」
何故このような不愉快な話題を自ら振らなければならないのか…しかし要因が他に思い当たらず、問いかける。
すると彼は緊張を僅かに緩めた横顔で、
「キスしてくれないかとは言われた」
「…」
「でもしなかった。してあげればいいのに、俺もしたかったのに、しなかった」
と、なだらかな坂を従順に転がり落ちる石ころのような声で話した。その内容から分かるのは、いまの彼の頭の中からは、目の前の男に好かれているかもしれないという記憶はきれいに抜け落ちているのだろうということだ。しかし彼が周囲への配慮に長けた人間であったなら、草慈の関心の度合いもたかが知れていたろう。(馬鹿な子ほど何とやらと言ったら、彼は怒るに違いない)
しかしついこの間、その綾城椿が女性と付き合うことにしたと聞いたばかりではなかったか。展開が不明だ。
「すればよかったろう、したかったのなら」半ば投げ遣りに返すと。
「違うと思ったんだ」怒濤の勢いで後悔の言葉を吐き出すかと思ったら、そんなこともなく。
「違う?」
「草慈」
薄く透き通った眼が、じっとこちらを捉える。外道の如き生業を持ち、非道な行いに何ら痛みも感じぬ男にほとほと似つかわしくはない。
彼は一歩近づいて来て、草慈の襟首を荒っぽい手付きで掴んだ。
「…」
会話の流れからして、キスをするのだろう。
『違うと思ったんだ』と、彼は言った。
いざなわれるかのように、既に何度か触れたことのある唇を見遣る。血色の良い…初めて触れたときは、酒が入っていたこともあって、濡れていたことを思い出す。酔っていた彼が、相手を認識しないままにしがみついてきて、その唇が妙に視界に散らついて、自然と口付けていた。二度目がその翌日のことだ。
つらつらとそんなことを思い出しながら、彼の唇を指先で押さえた。その感触はとても生々しかったし、口付けたときの記憶をより鮮明にした。
拒否されたと思ったのだろう、彼は不服げに、そして少し傷ついたふうに目尻を赤らめた。
「君は散々しただろう」恨みがましい口調。彼からキスを受けたこともちゃんとある。なので、誤解を解くようにゆっくりと言った。
「キスしたら、それ以上のこともしないわけにはいかない」
……こいつは何を言い出すんだと言わんばかりに、見開かれる瞳。しかし非難されるほどのことは言っていない。
千尋は…綾城にキスを請われて、その延長線上の行為を微塵も想像しなかったのだろうか。キスだけでも舞い上がるような純情な関係性なのだとすれば聞こえは良いが、実際のところ、千尋は綾城を同じ人間として扱っていないのではないかと思う。犯されても、あのときは正常な精神状態ではなかった、女性と関係を持っても相手に誑かされていると考える。盲目の度が過ぎていると、傍目にもあまり気分の良い物ではない。綾城の価値を自分が理解出来ないだけかもしれないが。
しかしこれでこの問答も終わりかなと、疼いた欲望を誤摩化して、珈琲をお盆に乗せた直後。
「わかった」
消え入りそうな声が聞こえて、振り返った。
千尋は頬を火照らせ、そんな声を出したことすら認めまいとするような強気な口調で言った。
「それでもいいから、しよう」
窓の外の夕焼けが部屋を紅く染めている。
「今度、旅行にでも行こうか」
「為たちの世話がある」
「千尋も綾城とこもってばかりいるんだ、たまにはリフレッシュしないとさ」
「椿もよく出掛けるようになったわけだし?」
「そうだな」
「確かに、為の世話は親父に任せても良いんだが…同じようにさせても何故か数値が変わるんだ」
「戻せば良いだけだろう。そしたら…二週間後ぐらいで良いかな。大学が休みに入る」
「いったい…俺と旅行して、君に何のメリットがあるんだか」
「千尋と一緒にいられる」
見つめれば、彼は呆れたような顔をした。
「きみは…恥ずかしいことを真顔で言うなよ」
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