45.赦し









「新!」
お母さんが大きな声を出す。
けれどそれも無理はなく、仕事のない日曜日、たまには家族そろって食事でも行きましょうと前に言われていたのだ。
お父さんもそうしようそうしようと乗り気になっていた。その会話がされたときは夕食時で俺もしっかり同席していて、そんな話もしたかなあと思い出せるくらいには記憶もある。にもかかわらず、本日その約束をすっぽかして出掛けようとしたので、お母さんは憤っているのだ。
だけど、今日は大事な日なんだ。行かなきゃさ。
理由はちゃんと説明した。それでもお母さんは怒っている。どうしてもっと早く言わないの、とかあなた、うんと言ったでしょうとか。だけど実際、言ったところでお母さんは怒っていただろうし、うんと頷いたりもしていない。何も言わなかったからイエスとなったのだ。そういうの…なんだったか、屁理屈を言い出すときりがなく時間ももったいないので振り切って玄関を飛び出した。親不孝だろうなあ。物心つく頃から、病院のベッドにいた頃から泣かせてばかりいた。今頃はきっと、お父さんと一緒になってしょげ返ったような顔をしているのだろう。


全速力で自転車を漕ぐ。これって若いからこそできることだと最近少し思った…どうしてだったか、別の用事で自転車に乗ったとき、前よりも自分が身軽でないと思ったのだ。その前というのがいつのことだったかは、分からないけれど。とにかく、脇目も振らずに漕いでいた。
だのに、そのとき道沿いに建つコンビニエンスストアを見て…脇目を振らずは言葉の綾だったということで…、ちょっと寄っていこうという気になったのは、目的をど忘れしたわけではなく、自分が手土産すら持っていないことに気がついたからだ。
お店に入り、棚にあるよもぎ饅頭を手に取る。これくらいがちょうど良いだろう。ところが、レジで会計を済ませようとしたら、思っていたよりもカードの残金が少なくて慌てて小銭入れを探す羽目になった。リュックの底からそれを取り出した頃には、後ろに待っている人たちの不満げな顔がずらりと並んでいた。もたもたしていたのは反省するけれど、みんな心が狭いったらない。

とんだ寄り道をしてしまったが(正確にいえば寄り道じゃない)、今度こそ一直線に目的地へと向かった。
思うように変わらぬ信号に時間を取られつつも、そこに一歩踏み込めば空気が市街地とは切り離されたものに変わる。

しんとした静寂。葉が揺れて鳥の啼く自然の音がくっきりと聞こえるようになる。
正直なところ、此処へ来るといつも落ち着かない気持ちになる。煩いのも嫌いだけれど、静かなのはもっと嫌いだ。病院から離れて久しいのに、未だ緊張を強いられるような感覚に囚われる。
それでも引き返すわけにもいかず、歩き続けて、時折手に持つ饅頭のパックと足下の砂利を見下ろしながら、見慣れた後ろ姿の佇む墓の前に立つ。足音で気付いているだろうに振り返らないのは意地が悪いのでないかと、後ろから彼のシャツを掴む。
「瑞樹」
その頭が僅かに動く。小さく息をついたようにも見えた。
「なんだ、来たの」
「来たの、って、毎年来てるじゃん」
彼の無関心さながらの態度に、つい拗ねた子どもじみた言い方になる。
こんなのは大人らしくないよなと思いながら。
数年前の病院を出る日、「キミはおとななんだ」と瑞樹から言われて、雷が頭の中心を貫いたみたいな衝撃があったことを今でも覚えている。
(ちなみにそのとき瑞樹は、迎えに来るお母さんたちと出くわさないようにと足早に退散した)
「去年のことなんて覚えてないよ」
「瑞樹が覚えてなくても俺が覚えてるよ。俺は間違いなく去年も此処にいました」
「それは良いけど、その手にある饅頭はなに?」
暖簾に腕押しとはこのことか。前はもう少し真面目に相手してくれた気もするが、今日が瑞樹にとって特別な日であることは知っていたので黙って(大人らしく!)指摘された饅頭を持ち上げた。
「お供え物だよ」
「わあ新のくせに気が利く」
「くせには余計だよ。そんな言い方するなら持ち帰る」
さすがに少しだけ悲しくなって、団子を持ったまま帰ろうとしたら、パーカのフードをぐいと掴まれた。
振り返ると、少しだけ自分よりも低い位置に瑞樹の綺麗な顔がある。前は同じくらいだったのに、いつのまにか追い抜いていた。
「ごめん、新。僕の言い方が悪かったよ」
「瑞樹」
こうしてすぐに謝ることが出来るというのは、やはり瑞樹が大人だからなのだろうか。
簡単に往なされているようではあるにせよ、放っておかれるのも嫌なので少々心中複雑ながら、こうなるともう許すしかなくなる。というよりも、許す機会を与えてもらって嬉しいような気持ちもあって、我ながら馬鹿みたいだ。
「ほんとに悪いと思ってる?」
「うん」
素直に頷く瑞樹。淡白な彼の態度は昔からで他の大人みたいな煩わしさはないけれど、同じ土俵に立ってくれていないようでたまにもやもやした気持ちになる。本当は早く瑞樹に飛びつきたいのに、ちょっと待てよそれでいいのかという葛藤が邪魔をする。
そんな複雑な心中が顔に出ていたようで、瑞樹は苦笑し、
「まったく。ね、あんまり拗ねるなよ。帰りにプリン買ってあげるから」
ああ、もちろん、睦月にもね、買ったげるよ。隣にちょこんと立っている睦月にも言う。
睦月は睦月でも、病院のときに顔を出してくれていたムツキとは違う。小さい子ども。
でも。
「瑞樹、甘い。もう俺の時代はプリンアラモードだよ!」
勢いでそう言ってしまってから、これって彼を許したことになるんじゃないかと気付いても後の祭りだった。
瑞樹は聖人のように微笑んで…もうこいつは本当に簡単だなとか思われてるんだよ絶対そうだ…饅頭を取り上げ、中身だけ墓前に備えた。冷たそうな墓石の上に深緑のまんまるが三つ並ぶ。
それで彼のお墓参りは無事終了したらしい。彼は睦月の手を引いて立ち去りかけて、ついとこちらを振り返った。
「ほら、新も帰るよ。プリンアラモード食べるんでしょ」そんなもんファミレスでも行かないとないよ、と瑞樹。
そして、差し出された手のひら。
思わずその手と彼の顔を見比べて…いや瑞樹は昔から手を繋ぐのを嫌がっていたから…突っ立っていると、彼は催促するように手をひらひらさせた。なにこれ、今日特別な日?瑞樹の単なる気まぐれ?睦月のついで?プリンでつられたから子ども扱いされてる…のか。色々な疑問が頭を過っては消えて、込み上げて来る嬉しさだけが残った。
両腕を開いて抱きつく。

「瑞樹、大好き!」

重たかったのか、瑞樹はしかめ面をして。
けれどすぐに、しょうがないなとでも言うように笑って、肩をぽんと叩いた。
「はいはい…僕もだよ、新」


だからほら、早く行こう。睦月も待ってる。













fin.
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