41.雫








何をやっているのだろう。
新が轢き殺されるのを、黙って眺めていればよかったのに。
そしたらマチコさんもサクタロウさんも新もみんな死んだ。誰の所為で誰がどうなっただとか考えずに済むだろう。
…ああでも僕が残っていた、瑞樹はそう思って目を閉じた。
誰も訂正する人がいないなら、僕の所為で三人とも死にました。それで良いような気もする。
その方がいまの状況よりは遥かにすっきりしていて分かりやすいだろう。全部が全部僕の所為ですとか言い出す人間は嘘くささに塗れているけれど、中途半端な期待をするよりはずっと。
期待?
しかし結局はそうしなかった。咄嗟に新を助けることを選択した。
すっきりしたいがために見殺しにされたのでは新も救われないだろう、いくらなんでも。けれど、彼を生かして何の得があるだろう。ろくでもない奴なのに。
(僕は新に何を望んでいるんだ?)

「ミズキ!」

頭上で新が何度も名前を呼んでいる。助かったのならそれはそれでかまわないが、うるさいのでちょっと静かにしてほしい。背中がとても痛い。
新が車にぶつかったら、死ぬ可能性がある。そのため、死なない瑞樹が助けるのは道理にかなっているといえる。けれど、当たれば痛いものは痛いのだ。
畜生、ぶつかってきた車は何処行ったんだ。救急車くらい呼べ、ひき逃げか、よりによって。
「ミズキ!起きて!」
「新、うるさい…」
延々と揺さぶられ続けるのも煩わしく、瑞樹は転がって、背中を庇いつつ身を起こそうとした。
途端に強烈な痛みが走り、呼吸が突っ張る。奥歯を噛み締める。
「ミズキ…」新の心配そうな声ときたら。(こいつの弱気な声は聞きたくない)。
「ちょっ…と、骨がくっつくまで、待って」
「でもここ、道路だよ。またひかれちゃうよ」
それは勘弁してほしい、身体の骨という骨が砕ける、粉になる。身体の内側が不安定に軋み擦れるような痛みに閉口しながら、瑞樹は這うように移動して歩道に突っ伏した。いくら無理が通る身体だといっても、意識自体が飛びそうになるのを掴まえておくのでやっとだ。汗が目に入る、ついでに道路に染み込む。血は、出ていない。見えない。
息を吐く。それだけでも響くので、懸命に浅く浅く吐いた。
「ミズキ、きゅうきゅうしゃ…」
「呼…ばないでいい」
轢き逃げ犯にはそのくらいの誠意を見せてほしいと思ったけれど、実際には来るだけ無駄だ。好奇の目に晒されるのも好きでない。
「でも」
「いい、普通のつくりじゃない」
新は怯えたような目をする。そんな目で見るな、と言いたいのに満足に起き上がれない。
新は僕が怖いのだろうか、と思う。この間、血も見ただろうに。いざ轢かれても話していられる姿を見て薄気味悪くなったのか。それならそれで、彼はもう近づいてこないだろう。顔も見なくて済む。せいせいする。
けれど、考えてみれば彼は病院に閉じ込められていて、自ら近づいて来ることはない。
(わざわざ会いに行っているのは僕の方だ)。それも、底意地の悪い理由で。優しさや、間違っても友情からではない。
そんなものは、意味がない。誰に言われなくとも、そんなものを手渡したところで新は思い出しはしないだろうと分かっている。

瑞樹はふたたび目を閉じて、息を吐いた。
痛みが深いだけで死にそうだとかは全く思わないけれど、出来ればこのままで起き上がらずにいたかった。先程一度、起き上がろうとして懲りたわけでもなく、新を庇ったことで、とても疲れた。
「ミズキ」
死んだと誤解されるのも億劫で、仕方なく目を開ける。新の丸い目は不安げにゆらゆらと揺れている。
(どうしてそんな目でいられるんだ?あんなことをしておいて)(それをしたのはこの新じゃない)(じゃあ誰だって言うんだ)自らの、呼吸が聞こえる。
その新の後ろに、自分の荷物がぺしゃんこになっているのが見えた。裂けた紙袋から、潰れた箱が覗く。中身のクリーム。
昨晩真面目に作ったんだけどなあとか、また作らないと駄目かなあとか、考えながら、新を見上げて、胸を切り開かれたかのような細い痛みを覚えた。
なにかがでてくる。潰れた箱の隙間から。たかだかケーキがぐずぐずに崩れてしまったからといって、何がなくなるわけでもないのに。また作ればいいだけだろうに。(ただ、今日はふたりが自分を引き取ってくれた日だったのだ)。
新を庇ったがゆえにそのケーキが崩れたことが、無性にやるせないことのように思えて。
新の命を軽視しているとか、そんな大それた理由からではなく。
自分が何をしているのか分からなくなった。
それで、悲しくなった。そういうことだろうか。
痛みの薄らいでいく背中が重たかった。触れられるものは、何も背負っていない。何も背負ってなどいない、のに。
幻覚を振り払うように、それを無視して身体を起こす。よくできた身体。もうおそらく何ともない。
「ミズキ、大丈夫?」
新が服の裾を掴んでいる。泣き出す一歩手前の顔。目の前で人間が轢かれて動揺しない方が問題があるので、今の新がそんな鬼畜でないことは喜ぶべきことなのだろう。あの日、口の端についた食べこぼしを拭い、うんざりしているくらいだ、と吐き捨てた彼を思えば。
彼の母親は息子の血で赤く染まったTシャツをきちんと分別して捨てたのだろうか。まさか漂白して使い回しているということはあるまい。
…頭が軋むような記憶。
「新」
「なに?ミズキ…」
どこかいたいの?と聞く彼の声はノイズのように遠くに聞こえた。
「どうして思い出さない?」


硬直する新の指先。瞼がぴくりと震えて、彼はじっとこちらを見た。
聞いてはいけないことだと思っていた。問いただし、追い詰めたところで、互いの混乱と消耗を招くだけだと。進展しない状況を再確認させられ、不快な気持ちになるくらいなら、聞かない方が良いとも思った。けれど、考えてみれば、向き合いもせずに彼を引き摺り出すことなんて出来やしないのだ。何もしないで彼が勝手に思い出してくれるような都合の良い話は、いつになっても転がってこない。それが来るかもしれないときを気長に待とうともしたけれど、思った以上に余裕が足りないようだった。
今この瞬間に。彼が、新が、この場所にいたばかりに。(新幹線でとっとと帰っていればよかったのだ)(そしたらこんなこと聞かなかった)
思い出されても何にもならないとしても、思い出されないことが堪え難くなった。
「答えろよ、新」

「ミズキ」
舌ったらずな声が返る。
無駄だと分かっていたにもかかわらず、どうして思い出さないんだという気持ちが胸の中で暴れて、空回りして、項垂れる。
思い出したところで意味なんてないのだ、マチコさんもサクタロウさんも生き返らないし、彼に何が出来るわけでもない。だから思い出しても思い出さなくても大した違いはない。自分で自分を宥める言葉を胸の表面に必死に張り付ける。こうでもしないとやっていられないし、そう間違ってもいない。けれどならどうして自分が新に思い出してほしがっているのか分からない。分からないので、納得出来ない。
呼吸が乱れる。地べたについた手のひら、指先に力がこもる。アスファルトの硬さ。
息の吐き方も分からなくなるような。

不意に、髪に何かが触れた。
頭を上げれば、視野で不自然に動くものがあって、それは新の腕のようだった。
「…何してんの」
「ミズキが、かなしそうにみえたから」
全然説明になってないのだけれど。そう言おうとしたら、
「おれはかなしいときには、あたまなでてもらうと元気でるから」
前にミズキいってたから、と新は言う。
彼の言葉の意味が分からずに顔を顰めた直後、思い当たることがあった。
あれは、彼の母親が病院に来るたび泣いているのだと聞いたときのことだったか。
どうしたらいいのかとしょげ返る新に、
『新がかなしいときにしてもらいたいことを、してあげればいいんだよ』
と、適当な助言をしたのだ。そしたら彼はこう言った。
『そしたら、おかあさんわらってくれる?』

そうなると、僕はいま笑わないといけない立場なのかと瑞樹は少しだけ可笑しくなり、
どうしてこうも無駄なことは覚えているのかと唇を歪めた。
勿論、新が以前の記憶を無くしてからのことだからだ。それは分かる。けれど、だからこそ。

「ごめん」

頭を撫でる彼の手が震える。
地面に染み込む水滴に、彼の言葉に、俯いたまま目を見開く。

「ごめん、ミズキ」
「あらた、」
「ムツキにも言われたけど、おれ、全然おぼえてないよ。おもいだせないよ」

ひゅぅ、と空気だけが喉を通り抜ける。
腕を退けて、屈ませていた頭を持ち上げると、幼い顔で彼が涙を流している。
澄んだ眼をして、色のない雫をぼろぼろ落としている。
「あの、さ、新」
なんで人に笑えと行動で強要しておいて、自分は泣いてるんだ、しかも身に覚えもないくせに。
やってもいないことを責められて泣けるなんておかしいだろ。
「だっておれ、ミズキのことすきなんだ」
ミズキはいやがるかもしれないけど。
ミズキはおれのこと、きらいだとおもうけど。
真正面で新が泣く。
退けられた腕を半端な位置で留めたまま、子どもみたいに。子どもみたいに。
「僕は、」
……眼を背けていられたら、気付かずにいられた、なら。
「新を嫌いだと思うようなことは、何もされていない」
睦月の言ったことは、言ったであろうことをしたのは。
「人違いだ、キミじゃない」













「瑞樹、何だか大変だったんだってね、新から聞いたよ」
客人睦月が荷物を下ろしてソファに腰掛ける。その手前のテーブルにインスタントコーヒーとへしゃげたケーキを置き、向かい側に座った。
向き合うかたちで、睦月の姿を捉える。新を送り迎えしてきた彼には疲れが見えたけれど、一日眠れば癒される程度のものだろう。
痛みも擦り傷も残っていない身体、背中を意味もなく撫でる。彼の若さを思った直後に、自分の身体のことが過る。有り得ないくらい、馬鹿馬鹿しくて異常だ、と瑞樹は思った。自分の身の上に降り懸かった不幸に酔いしれているわけではなく、事実として。
「新はちゃんと病院へ?」
「うん。ちょっと元気なくて、看護士さんに聞かれちゃったけれど。旅の疲れじゃないですか、って言っておいた」
「ならいいんだ」
そのうち元気になる。コーヒーを飲む。美味くはない。睦月も飲む。砂糖が必要なら、ケーキでも混ぜて溶かせば良い。
「瑞樹?」
「なに?」人の名前を疑問系で言わないでほしい。別の何かみたいに聞こえる。
「新には、ちがうよ、って言ったんだね」
どうして?と、彼は理由を聞きたがった。埋もれた記憶を引っ張り出せるかもしれなかったのに。
「そうだよ、って言ったところで、新は思い出さない」
「そんなこと、試してみないと分からないだろうに」
睦月は歯痒そうに、悩ましげに額に手を当てた。彼は、瑞樹と新の関係性をとても気にしているのだ。膠着した状況を打開する機会を与えたにも関わらず、それをドブに捨てたも同然の瑞樹を理解しがたいと感じているのだろう。
「睦月には申し訳ないことをしたとは思ってるよ」
「瑞樹が僕に申し訳ないと思う必要はないんだ。思うよりは…思うくらいなら、新と話し合ってほしかったな」
「僕はもう新に期待していないから」
間髪入れずに返した言葉に、睦月の顔が強張った。
彼は口を一度開きかけ、けれど閉じて引き結び、続けざま震える手でコーヒーを呷った。あまりに落ち着きに欠けた動作だったものだから、手を滑らせてカップを割りやしないか、中身を零しはしないかと心配になるくらいだった。
「僕の耳が足りないから、上手く聞き取れなかったのかもしれないのだけれど」
彼は苛立ちも露に、しかし落ち着いた低音で、天使の輪も相変わらず乗せたまま、
「瑞樹は、それがどういうことを意味するか、分かって言っているんだね?」
と、言い、対し瑞樹は、
「そうだよ」
と、答えた。
睦月がここまで怒るのは彼の姉以外のことで初めてなのではないだろうか。
瑞樹はそんなことを考えて、コーヒーをまた一口飲んだ。
睦月は我慢強く膝の上で手のひらを握りしめ、更に言葉を投げつけてきた。
「瑞樹は自分のご両親が何をされたか忘れたわけじゃないだろうね」
「忘れてないよ」
「君が新に期待するのをやめたということは、新がしたことを許すということだよ」
瑞樹は睦月の眼を見た。睦月も険しい眼で瑞樹を見ている。
「瑞樹にとって、ご両親の死はその程度のものなのかな?」
彼は、自身の姉の死同様、瑞樹にとっても両親の死は堪え難いことであったはずだと考えているのだ。残虐で理不尽な死。間違ってはいない。あれは堪え難く、許され難いことではあった。自分が普通の人間であったら、彼らは死なずに済んだはずだと思ったことは何度もある。
「ねえ、瑞樹」
睦月の声が、急に優しくなった。
「君は疲れてるんだよ。人を恨み続けるのは根気の要ることだ。それで、そんなことを言い出したんだよ」
慈悲深い眼差しは、先程までと同じ人間とは思えないほど柔らかい。肩に触れた手は友人のものだ。瑞樹はその手を、そっと払いのけた。立ち上がり、食器を片付けようと手を伸ばす。出来ることなら、もう彼には帰ってほしかった。
「だとしても、新に望むことは何も無い」
「瑞樹…」
二人分の食器を持ち、流し台へと向かう。それらを軽く濯いで戻ると、彼はソファの横に立っていた。
タオルで手のひらの水滴を拭いながら、彼と向き合う。
「瑞樹、ちゃんと説明してほしい。君にとって、ご両親のことが大きな痛手だったのは僕だって知っている」
落ち着いた声色と、訴えかけるような真摯な眼差し。これはまだ昔の睦月に近い、と思える。人は多様な面を持ち合わせているものだ、と今更ながら考える。知っているのは、ほんの一面に過ぎないのだ。
「新の頭の中には、以前の僕らのことなんて収まっちゃいないよ」
「どうして」
「小さな頃の新は僕らを知らない。そういうことだよ」
このことを言わずして、彼の理解はまず得られないだろう。突然の心変わりだ。睦月の反応も当然予想できたものではある。
瑞樹の言葉に、睦月は困惑した様子で、
「瑞樹、僕には君の言わんとしていることがよく分からない」
「新は覚えているものを忘れているんじゃない。完全に、初期化された状態にあるんだよ、頭が」
存在していないのだ、記憶そのものが。上手く記憶と記憶が繋がらないのではなく。
「瑞樹、それは飛躍し過ぎてる。有り得ないよ」
「有り得ないと否定して、その現実がなくなれば苦労しない」
「根拠は?」
「僕がESPだから。新は不味いものを食べたんだよ」
睦月は、黙り込む。タオルをハンガーに戻して、瑞樹は彼が発言するのを待った。
「瑞樹、それは」
「うん」
「それじゃあ、納得は出来ない。君の能力ははっきりしたものじゃないし、あくまで君の感覚に由来するところが大きい」
「睦月は、僕が妄想に囚われている、若しくは嘘をついている可能性があると言いたいわけだ」
「そうだね、酷いことを言っている自覚はあるけれど、瑞樹の言う通りだ」
「僕に嘘をつく理由なんてないよ」
睦月は肩を揺らし、
「瑞樹は新を傷つけるのが怖くなったんだよ。友達想いだから」
「あまり気色の悪いこと言うなよ、いくら僕でも頷けない」
眉を小さく寄せた。怒っているかのようであり、悲しそうなようでもある。
「ねえ瑞樹、君はすぐに冗談で誤摩化す。いまはだめだよ、きちんと話をして」
「いや、冗談言ったのは睦月であって僕じゃない」
「そうだったかな。でも、駄目だよ、そうじゃない。例え、新に思い出す記憶がないとしても、彼がしたことは変わらない」
「そうだろうか」
「そうだよ。彼が北浦新という名の人間であることは同じだよ。瑞樹だって、本心から納得しているわけじゃないだろう」
「僕は納得しているよ、北浦新という人間はいないんだ。死んだようなもんさ」
口を動かしながら思うのは、これじゃあ睦月を納得させることは出来ないのだろうな、ということだった。
彼は自分がESPであることを理由として告げても、まだどこか同じ人間として見ようとしているから、そこでずれが生じるのだろうとは思うのだけれど。(落ち着けと言ったのは彼の方だったはずなのに)。やはり、それこそきちんと口にしなければ、いけないのだろうか。
「僕が殺したようなもんだ」
睦月は、懸命に否定した。
「違う、それは違うよ。瑞樹。君がそこまで新を想う必要はないんだ」
そう言うだろうとは思った。人は自分の都合の良いことしか聞き入れないものだ。
(睦月にとって僕は何なんだろう?)硝子のように繊細な何か?そこまで夢は見ていないだろう。長い付き合いなのだし。けれど、ESPであることで、彼の中では何か変わってしまったのだろうか。それとも、大事な家族に先立たれた、悲劇的な人間だろうか。姉を失った彼と同じ。
「瑞樹は…、新が君のご両親にしたことを直接見ていないから、そんなふうに考えるのかもしれないけれど」
もどかしげに俯いた睦月。髪先は耳があった頃と比べて少しだけ長めに切られている。
「新は君のご両親の首を、亡くなってから斬り落としたわけじゃないよ」

…一転して、誠実そうな響きを削ぎ落とした彼の声色と、その内容に、皮膚の裏側から怖気が走る。あの日、瑞樹が家に帰り着くまでの時間のことを、睦月が口にしたことはなかった。瑞樹にとっても、玄関を開けた瞬間にそれは既に衝撃に変わっていたので。
「新はちゃんと、味見してたよ」
「…」
「近所の誰も気付かなかったのは、悲鳴を上げる喉の皮膚が柔らかそうだったからだよ」
睦月の言葉が皮膚を擦り抜けて浸透する。魚が身体を揺する。ぴちぴちぴちぴちと水音をたてる。
煩い少しは黙ってろ。
喚く、喚く。
わらっているかのような水音は、誰にもきこえない。気泡がくぷくぷ舞い上がる。

あのとき、洗濯籠から抱き起こした身体は、滴り落ちていく血は、まだ温かかった。

鮮やかな記憶に、気がつく。
(もうずっと、冷たいな)
触れることもできない場所にいる。


気がついたら、睦月が真正面に立っている。
「大丈夫?瑞樹…ごめんね、僕が無神経なことを言ったからだね」
肩を支える彼の手のひら。これは友人の手か?或いは。
「でも僕は、君に大事なことを忘れてほしくなかったんだ。諦めてほしくなかったんだよ」
自分の気持ちを押し殺して結論を出したんじゃ、何にもならないから。
慈しみに満ちた睦月の言葉。血腥い自分達の記憶。
(でもそれは睦月の望む結論であって、僕の結論じゃない)
義理の両親は、死んでからは何も語りかけてこない。ならば生きている人間がどうしたいかであって、新を引き裂いても何も出てこないなら、むしろそうなるように仕向けた要因が少しでも自分にあるなら、これ以上何を望めるだろう。
口を動かす。
「駄目だよ。悪いけど、僕は、睦月の言う通りにはしてやれない」
「瑞樹……」
見開かれた睦月の眼。彼は手に力を込める。
「瑞樹は、ご両親の痛みや苦しみをどうも思わないとでも?」
「それとこれとは話が違う」
「どうしたら、分かってくれるんだろう?瑞樹は……」
彼は項垂れる。掴まれた両肩に彼の重みを感じる。
「分からない同士は、そっとしておくのが一番だと僕は思う」
「それはできないよ、瑞樹は僕の大事な友人なんだ」近い、睦月の声。
「なら友人をやめればいい、僕の存在は、睦月には悪い影響しか及ぼさないような気がする」
惚けたような顔の睦月。彼はしばし沈黙して、やがて肩を震わせて、泣いてるみたいに笑った。
「それこそ出来ない相談だよ。僕はこう見えて、瑞樹に執着しているところがある」
「そうなんだ?」
けれど、そうでもしないと、睦月は悶々とし続けるだけだ。互いの言い分を認めることも、相容れることも出来ないのだから。
「でもどうしたら、…やっぱり一度くらいは、同じ痛みを共有しないと分からないものなのかもしれない」
囁くような彼の言葉に、耳をふと庇う気持ちになる。引きちぎられたくはない。友人に対してそんな警戒をしなくてはいけないというのどうなのだろう、と瑞樹は思う。けれど睦月なら、やりかねない。
直後、瑞樹は床と触れ合った。足を払われたと気付いたのは、足首の鈍い痛みを認識してからだ。
「瑞樹」
真上から見下ろすのは、友人の澄んだ瞳。首に、削れたような痛みを感じた。視野の端にフォークの柄のようなものが見える。
…予想していなかったわけではない。けれど、実際に行動を起こされると、理解し難いような苛立ちのようなものを覚える。こうなるしかないのか、彼はこうするしかないと思うのか、と。
「いたいな」
「僕は姉さんを食べたことがあるから、瑞樹だって食べようとすれば、食べられないことはない」
「それはやめた方がいい、さっきも言ったはずだ、不味いだけだって」
フォークの先端が首に食い込む。いくらなんだって、そんなもので人の首は切れないはずだと思いながらも、フォークがかなり深く突き刺さる痛みと感覚に息のような声のようなものが突き抜ける。喉を舌が這う、おぞましい感触。
「僕は瑞樹の仮説は信じない」
どうして信じない?と聞き返そうとして、口を閉じる。それは新の消失を信じることにも繋がる。友人を想う気持ちが、睦月の中にもあるのかどうか、そればかりは、分からない。
「新ほど酷いようにはしないよ」
痛みが増す。止めようにも、声は出ないようだった。
…もっと上手く説明出来たなら、睦月にこんなことはさせなかったろう。けれど、何を言ったところで、彼は、新を許す選択をした自分を許しはしなかったろう。他人ではなく、友人であったがために。手をかけるだけの意味がある存在。
(穏やかな話し合いで終われば、と思ったけれど、)
やはり上手くはいかないものだと、瑞樹は眼を閉じて、

彼が崩れ落ちる音を聞いた。






「み ずき」
ソファで横たわる睦月が、目を覚ましたようだった。
「起きた?」
見下ろして、声を掛ける。
「ぼくは、寝ていたのかな?…」
「そうだよ。三時間くらい」
「あ、れ」
瑞樹、僕は縛られているようだけれど、どうしてだろう。
「僕の身が危ないから」
喉の傷が塞がったのだって、ついさっきだ。それまでは、ふたりして呑気に床に転がっていたわけだ。そう答えて、手首を彼の顔の上に晒す。
不思議そうな顔をする睦月の前で、ぷつりと深めに手首を切った。躊躇い傷くらいつけた方が可愛げもあるかもしれない、すぐ消えるにせよ。右手で睦月の鼻を摘んで、左手首を彼の唇の上にかざす。相当な切れ込みを入れたので、結構な量の血を、彼の顔面にぶちまけていることになる。
「瑞…樹…?」
「仮説を証明しようと思う。でも、睦月のやり方じゃ僕が痛くてかなわない」
これも相当あれだけど、喉喰い千切られるよか良いはずだ。言いながら、咽せて吐き出しかける睦月の首に注射を一本差す。
「心配しなくともキミが寝ている間に終わるよ。ただ一言、説明しておきたかっただけなんだ」
睦月も新もことを仕出かすときに、前もって説明のひとつもしておいてくれれば、何か変わったかもしれない。新に対しては、そんなことはないと否定してやって、彼のシャツも血で濡らさずに済んだかもしれない。けれどそんなふうに過去を振り返ることに、どれだけの意味があるだろう。(心の整理のためだとしたら、いったいそれはいつ終わるのか)。
流れる血の量を傷口を抉ってコントロールしながら、(何せ再生してしまうので)、瞼を閉じる睦月を見守る。どれくらいの量を流し込めば、新のようにまっさらになってしまうのかは分からないので、気長に待つとしよう。
こうすることに何も感じないわけではない。これでも人の子だ。
彼が自分に手をかけなければ、思い留まるか、先送りにはしたはずだ。
他に方法もあったかもしれない。後から思いつくこともあるかもしれない。けれど、いま思いつかなければ意味がなく。
(多分僕が逃げても、睦月は追って来たろう。そしたら彼は簡単に僕の首を捻り潰したはずだ)
(そうされても、僕は死なないだろうと彼は分かっているから)
(でも僕にだって恐怖の感情くらいある)
(出来ることなら、出来ることなら)
(でももう遅い。僕も睦月も)







「睦月、気分はどう?」
同じ位置に腕を固定し続けるのも疲れて、少しだけ捻りを加える。
彼は眠り込んだまま、流し込まれる血を飲み続けている。それを眺めるのは、チョコレートを冷やし固めるときの気分とよく似ている。
何か、食べたいな。結構これもお腹空くものなんだな。そんなことを考えながら、窓の外から差し込む夕日に目を細める。







やれやれ、そろそろチーズのひとつでも摘むかと、睦月はそのままに台所へ行って冷蔵庫を開けてスライスチーズを一枚抜き取って、(ホット専用だったけれどかまうものか)、レーズンバターロールの袋からひとつだけ取り出して、定位置に戻った。睦月の横の椅子に腰掛け、それらをむしゃむしゃと食べる。
「さて、もう少し頑張るとするか」
これぐらいじゃ記憶飛ばないよなあ。







植物達の世話もさぼり、夜が更けて空が朝日に白むまでずっと睦月に付きっきりでいた。
さすがに一睡もせず、血を抜き続けると貧血気味だ。生産を上回る。卵をふたつ茹でて、塩を振って食べた。







睡眠薬を一本追加し、死んだように眠り続ける睦月。
人間って、起きなくても生活出来るんだなとわけのわからないことを考える。血が足りないみたいだ。当たり前か。








「もうちょっとかな」
語りかける。返事はない。
でも分かる、まだ睦月だ。







「もうちょっと」
だいぶ良い感じになってきたのではないか。
でもまだだ。







「あとすこし」
あとすこしだ。











あとすこし。
あとすこし。
あとすこし。














「瑞樹、ただいまー」
年老いた母さんの世話してたらすっかり遅くなっちゃったよ、と草慈は中にいるであろう弟に言い訳しながら、玄関のドアを閉めた。見慣れぬ靴が一足ある。鳥越くんでも来ているのかな、と留守中に足りなくなったであろう食料品諸々の買い物袋を手に、室内に足を踏み入れる。
「瑞樹。いないのか?」
てっきり昼ご飯でも食べている頃だと思ったのだが…ふと、寝室のドアが僅かに開いていることに気がついて、草慈は中を覗いてみた。すると、真っ昼間だというのに、瑞樹は眠っているようだった。布団を首元までしっかりかけて、昼寝というよりは完全に就寝している状況である。まさか、自分が留守の間に昼夜逆転の生活を送るようになってしまったのだろうか、と草慈は保護者らしい心配をしつつも、寝ている者を無理に起こすこともないかと寝室を後にして、リビングに戻った。
立ち止まる。
どこからか物音がしている。
どこか、どこだ?あちら側。
台所に誰かいる。
玄関にあった、見慣れぬ靴のことを思い出し、だがそれにしても不自然な状況ではないかと草慈は不審に思った。もしかしたら、瑞樹は何かの間違いで体調が悪く、鳥越くんあたりがお粥でも作ってくれているのかもしれない…と思わないでもなかったが、だとしたら自分が帰って来た時点で挨拶に出てこないのはおかしいだろう。瑞樹の友人はそこまで礼儀を知らぬ人間ではなかったはずだ。
草慈は台所に向かった。
得体の知れない人間、若しくは瑞樹に違った種類の友人が出来たか、それはどちらでもよかったが、確かめないことにはどうにもならない。
草慈は、台所に入るなり、相手の姿を視野に捉えた。相手も、草慈に気付いて動きを止めた。
…手にはふたが半端に開かれたヨーグルト。その目には怯えすら見受けられ、姿かたちを含めても、危害を加えられる心配はなさそうだったが。草慈は恐る恐る近づき、台所を満足に使えそうにないほど幼い子どもの正面にしゃがみこんだ。
……玄関にあった靴は、この子の足のサイズとはもう合わないよなと考えながら、声を掛ける。
「…君の名前は?」
子どもは答えた。
「とりごえむつき」









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