40.在処






真夜中。
何か物音が聞こえて、キタウラアラタ君は目を覚ましました。
隣のベッドを見上げてみると、トウマミズキ君がいません。(一時はハルノミズキ君ですが、結局はトウマミズキ君です)。
寒かったけれど、気になったので、布団から抜け出し、物音のした方向へと向かいます。
すると、台所の灯りがついていました。ミズキ君の後ろ姿も見えました。
「ミズキ?」
呼ぶと、彼は振り返りました。薄暗くても、彼は彼だと一目で分かります。ミズキはきれいだ、とアラタ君は思っています。しっとりとしていて、つくりが違うのです。
「ああ、起こした?」
ミズキ君は無感動な声と表情で、アラタ君を見ます。それも、他の人とは違います。他の人は、おかしくないのに笑い、よく分からないことで泣いています。そのときは、一緒になって笑ってみたり、涙は出ないので懸命に悲しい顔をしてみたりしようとしますが、叩かれることもあって、結局はどうしたらよいのかは分かりません。ミズキ君はその点、大して気にしていないようなので、アラタ君としても気が楽です。ここにはいないトリゴエムツキ君も、あまり大きな声で笑ったり、泣いたりというのはしません。ふたりとも、さっぱりしたものです。何を考えているのか分からない、という問題はありますが、他の人も表情と話すことが一致していないことはしばしば。自分以外の人の、頭の中は覗けないのです。
けれどそんなミズキ君が今日は一度だけ大きな声を出し、アラタ君はびっくりしました。
怖かったのではなく、彼にもそんな一面があることを知らなかったからです。
「なにしてるの?」
「牛乳パックを切ってたんだ。開いておかないと、持って行ってくれない」
いい加減、電動パックスライサーとか売り出されてもいいと思うけれどね、とミズキ君。いまはもう、すっかりいつもどおりです。
「おれもきるよ」
「いいよ、危ないし、もう終わる」
アラタはもう寝な、と彼は鋏を片付けます。眠たかったけれど、明日にはもう帰ることを思えば、まだ寝室には行きたくありませんでした。病院には、ミズキ君もムツキ君も滅多に来てはくれません。でもそれは遠いので仕方ありません。
ソファに居座り、膝を抱えます。ミズキ君は溜め息をついて、マグカップに牛乳を注ぎ、レンジにかけました。
「ミズキの家には、おとうさんもおかあさんもいないんだね」
「おかあさんみたいなおにいさんはいます」
「でも、おにいさんはおにいさんだよ」
「おとうさんとおかあさんは、死んだからもういない」
ミズキ君はチンしたマグカップを持って、アラタ君の前に座りました。それをアラタ君の方へと差し出します。
「しんだ?」
「そう。飲んだら寝なね。まだ夜は長いよ」
「ミズキはねないの?」
「僕もキミがそれを飲み終えたら寝る」
じゃあずっとのまなかったら?とアラタ君は少しずるいことを考えました。ミズキ君はずっと遊んでいてくれるのでしょうか。
けれど、夜は暗くて、何にもできそうにありません。公園に行っても、道の角や遊具のトンネルから何か出てきそうで怖いです。もしそうなったら、それはアラタ君を大きな口で簡単に呑み込んでしまうでしょう。そしたらもうでてこられません。
家の中でなら、ミズキ君もいます。やっぱりねよう、とアラタ君は温かい牛乳を飲み干しました。お腹がぽかぽかします。







午前八時。駅構内、改札前。
どこかへ向かう人々に紛れて、睦月の姿。





「おはよう」
声の主は、焦げ茶色の丈の長いコートの中に厚手のニットを着込んでいる。
その下にも何枚か着用しているようだけれど、彼に着膨れという現象は無縁だ。
「おはよう」
無難に、必要最低限の挨拶を返したつもりが、横で新が「おはっ」と跳ねた。
もっと短くなるとは知らなかった。睦月は菩薩のように微笑んで、
「新、忘れ物はない?」
「ないよね?ミズキ」
「僕が知るか」
貴重品であればともかく、全部の荷物の管理までしていられるか。
突き放して、ついでに新の背を押して睦月の横に追いやる。保護者交代の時間だ。
新が何か言いたそうにしている…やっぱり帰りたくないと言い出したところで聞いてやる気はない。
それか…もしも家族のことを、新が話したがっているのだとしても、瑞樹としてはやはり聞かないでおきたかった。
気にならないわけではない。負い目に近い気持ちもあり、現在の新をどうにか受け入れてほしいと思う。それしか有り様がないのだから。
しかし自分が聞いたところで、何もしてやれることもないだろう。それどころか、本気で死ぬつもりなら、手首でなくて首をひと突きすればいいのだと思ってしまうかもしれず。いまはまだ、頭で予想しているだけで、直接聞いたらどうなるのかは分からないけれど。
…何がしたいのか、と醒めた感情が彼の家族を嗤うのだ。自分が一方的な被害者かのように、傲慢に。





新幹線が来るまでの間、ほんの二十分程度、睦月と新は駅の待合室にいた。
「新、楽しかった?」
「うん」
「でも、何か言いたそうだね。どうしたの?」
睦月の問いかけに、新は顔を上げた。その表情はどう話したらいいものか迷っているようで、しばらく定まらなかった。横を向いては、鼻の頭をかき、俯いて、けれどやがて、彼なりに意を決したように動きを止めた。
「ミズキはね、つっけんどんだけど、やさしいよ」
「うん、そうだね」
「でもね、なんだかかなしそうなときがあるよ。どうして?」
真摯な眼差し。睦月は笑う場面ではないかな、と思いながらも口元に微笑を禁じ得ず、頬杖をついて覆い隠した。
「その質問は、とてもむずかしいね。僕が答えていいのかもわからないし」
「ムツキは知ってるの?」
「知っていると言えば知っているし…ねえ、瑞樹はどういうときにかなしそうだったのかな?」
聞き返すと、新は眉を寄せて「きのう」と言った。
「おれが、おかあさんのはなしをしたとき」
「うん」
「おれって恥ずかしいのかな、って聞いたとき、すごく怒って」
「へえ、怒った。瑞樹が」
「かなしそうだった。でも、つらいのはおれで、ぼくはつらくないって」
そっか、と睦月は相づちを打った。それから、瑞樹は真面目だなあとも思った。そんな局面でも、新のことを気遣ってあげられるなんて。
瑞樹はそこまでして、新の何を守ろうとしているのだろう。新が傷つこうが、周囲に冷ややかな目で見られようが、瑞樹が被害者側の人間であることに変わりはないのに。思い出してほしいのなら、相手の心なんて気遣っている場合ではないよ、と助言したくなる。それとも、彼は怯えているのだろうか。新が自分自身を追い込んで、自暴自棄になって、また自分も周囲も傷つけるようなことをすることを。そうなったときに、彼は何を仕出かすか分からないがために。
けれどそうなったところで、瑞樹には失うものなどないではないか、と思う。残念なことに、ご両親は前回でお亡くなりになっているのだし、彼の周囲で巻き添えを食う人間などいないだろう。若い保護者はいるけれど、見た目とは裏腹に、羊のように大人しく狩られるような人間ではなさそうだった。
だから結局瑞樹が何を恐れているのか、睦月にはよく分からないのだった。
許すことはできないと、恨んでいるのなら、その心など慮る必要はない。友達だったから、と情けをかけているのなら、それはそれで瑞樹らしい、ともいえるけれど。非情になりきれない、彼の寛容さは美点であり、欠点でもある。自分と友達でいてくれているのだから、美点と言っておくべきか、と睦月は微笑んだ。
睦月は、自分自身の感性が、普通と離れてしまっていることを自覚している。
前はもうちょっとまともだったんだけど、と懐かしむこともある。でも、姉さんが死んでしまった以上、仕方ない。
「ムツキ?」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え込んじゃってね」
何を聞かれていたんだっけ、と記憶を探る。そうそう、瑞樹がかなしそうなときがあるのは、どうして?という質問だった。
「どうしてかな?瑞樹は、新に気付いてほしいことがあるのかもしれない」
「きづいてないだけだ、ってミズキいってた」
「そうなんだ。じゃあ、そうなんだね。新は、何かに気付かなくちゃいけない」
新は、首をぶんぶんと振る。
「わかんない。ミズキは、おれがミズキのところにのこるのはよくないことだ、って言ってたけど。なんでよくないの?」
新は初めの頃よりは、随分滑らかに話すようになった、と睦月は思う。停滞しているわけではなく。
微笑する。よいことだ、それはとても。
「新は、昔、瑞樹を傷つけたんだよ」
「なに、それ?」新の声が震える。
これは多分、言ってはいけないことなのだろうと思った。瑞樹は嫌がるであろうこと。
けれど新だって少しぐらい傷ついても、かまわないだろう。彼の家族とは別のことで。つまりは瑞樹のことで。
睦月には、新に遠慮する理由がない。むしろ片耳をちぎり取られたことで、訴えてもいいくらいだ。それをひとつあればいいと済ませている。思い出してみれば、あれは痛かった。麻酔もなしに、実に遠慮のない暴力だった。けれど、暴力はそういうものだと、いまの睦月は知っていた。考えようによっては、新に教えてもらったようなものかもしれない。
「おれなにも、してないよ」
「それは新が、わすれているだけ、気付いていないだけ」
「うそだ」
覚えていないことを責められたらそう言いたくもなるだろう。睦月は新に同情しながら、魔法瓶からコーヒーをそそいだ。待合室の中は外に比べれば暖かいけれど、まだ冷える。
「そう思うなら、瑞樹に聞いてごらん」疑心暗鬼になったり、堂々巡りしたりするぐらいなら、直接聞くのが一番早い。
新は鞄を手に、飛び出した。振り返りもしない。嫌われただろうか。
余計なことするなよ、と瑞樹はきっと怒るだろう。それでも、こっちはこっちで新幹線の切符を取り直さなければならないのだ。大変なのはお互い様だった。






瑞樹はソファに腰掛けていた。
彼は壁に掛かった時計を見上げ、瞬きをひとつすると、ゆっくりと身を起こした。
マフラーを首に巻き付ける。小さな箱を紙袋に入れて、家を出る。緊張はない。何年も繰り返していることだ。
冷えた空気に満たされた街を歩く。灰色のアスファルトの道路と、ありふれたイチョウの木と。
不思議と頭には何も具体的なことは思い浮かばない。こえかたち、それらを思い出すと足が止まると予想していて、そうなる前に忌避しているためか。
時間は無限のようにあった。当たり前のように、しかし漠然と上っていくように思っていた階段は、躯が変わって消えていた。区切りがなくなり、けれどどうすることもなく生きていた。いつか終わると夢見ていたわけでもなく、逆にそのいつかさえ見えずにそうしていた。苦悩はしなかった。それでも、ユミさんのことを聞いて、少しだけ、気が楽になったのは事実だ。だから、気がついていないだけで自分は息苦しいのかもしれない、とも思う。ただ、いまとなっては、昔の、新たちと過ごしたときの方が嘘みたいな、自分の躯ではない借り物だったのではないかという気もしている。普通の躯だった、そんな時代もありました。すごく、短い間だけの。
いまの躯なら、起こった出来事、ありのままを覚えていられるんじゃないだろうか、とあの日以降に考えたことがある。
歳を重ねると、記憶も薄れて忘れてしまうものだ。それがないならと。安堵する気持ちがあって、けれどそうしたら、頭の中は記憶で一杯になってしまうだろうと、じゃあやっぱり無理なのかとも思った。薄れるのかと。
試しに何も特別なことはせず、睦月や新を眺めて、季節だけが巡った。そうして、実際過ごしてみると、忘れたことはあまりなかったと思う。けれど、共有された時間は、確実に角を削り取られていた。丸く、頭に収まりやすいようにされていた。それらは借り物で、夢だったのではないかという錯覚の芽生え。話したことやそのときの空気は覚えているのに、もう自分とはあまり関係のないことのような。
しかし、当時抱いた憤りだけは、原形に近いかたちで残っていた。ほかが薄れていくとしても、それだけは持ち続けていようと必死だったので。忘れてしまえるわけがなくとも、完全に同じ気持ちでなくとも、それを無くしたら死んでしまうような感覚だった。肉体的なことではなく、僕は僕でなくても良いんじゃないかと、無くしてしまうくらいなら、他の誰が僕をやっても同じだと。

道路の角を曲がる。
物陰で、いまどき珍しくなった鴉が何かをついばんでいる。ゴミの回収システムが変わったのはかなり昔の話で、それ以降、さぞかし鴉も餌探しが難しくなったことだろう。じっと見られたところで、鴉の生態について詳しく知らないので、彼(女)が何を考えているのかは分からない。
通り過ぎ、自分以外の生き物を認識したことで、思考が現実のものに傾いた。(散々人とはすれ違っているのにおかしな話だ)。

今頃、睦月と新は新幹線に乗っている頃だろうか、と瑞樹は友人たちのことを考えた。

睦月の経済状況はよく分からないけれども、付き添いでよく券を取る気になるものだ。
睦月は、新と何をしているのだろう。記憶を取り戻した彼を見ていると、不安が頭を擡げ、付きまとう。睦月にとっても過去の彼は借り物でしかないのだろうか。被っている最中は、自分はこういう人間なのだと思い込める借り物。よく出来たお面のような何かか。誰から貰えるのだろう。それがぽろっと取れたかして、人が変わったかのように、彼は本性を剥き出しにしているのだろうか。何処に落としたかは分からないので見つけ出せず、とどまらせたいと思ったところで、彼は迷いもなく彼自身が正しいと思ったことをしでかす。
…本当にそうならまだ救いがあったものを、彼の中ではちゃんと理由があって理性もあるので、余計対応に困る。三人の中での、保護者役であったはずが、その役回りに飽きてしまったのか、熱心に務めたところで何の得もないと思ったのかは分からない。彼は彼で出来上がってしまっていて、新以上に聞く耳を持たないだろう。どうにかしなければと思いながら、心のどこかで、彼はまだ以前の無害な睦月に戻れるのではないかという、淡い期待も捨てきれないでいる。期待だけでどうにかなるわけがないと、新のことで知っていながら。
(僕も大概、馬鹿なんだろう)
けれど淡い期待を捨てたところで、どうすることが彼のためになるというのだろう。自分が彼に及ぼせる影響等たかが知れているのではないか?…。
睦月に対してだけではない、新に対してもそうだ。
瑞樹は、自然と昨日のことが思い出されて、ひとり忍び笑いを漏らした。勿論、誰も見ていないのを確認してだ。
この道を辿りながら、笑うのは初めてのことだった。そもそも思い出し笑いをまずしない、今回は特別だ。
新も、見事に否定してくれたものだ。少しくらい、一緒にいたくない気持ちがあってもいいだろうに。
彼は、本当に、ひとかけらも何も覚えていないのだろうか。無意識にも、何も感じることはないのだろうか。ちょっとくらい、ちょっとくらいは、と期待するだけ意味のないことか。
これまでの年月は、彼に何の影響も与えはしなかった。
やれやれ、こんなことを考えるだなんて感傷的過ぎる、と瑞樹は歩きながらも自分自身に呆れるような思いだった。変に期待するから痛い目を見るのであって、思い出さないのなら、気長に待てばいいだけのことだろうに。時間はいくらでもあるのだから。睦月の言うように傷つけて、思い出すのなら話は手っ取り早いけれど、僕と新はそんなのではない、と。本当は、そうしてあの日と同じように彼と向き合うのが嫌なだけかもしれないけれど。出来れば、彼を二度も追い込みたくはない。勿論、人の振る舞いを拡大解釈して、勝手に追い詰められた新自身にも非はある。
信号のない交差点。瑞樹はそれを先に認めて、左右に視線を走らせた。交通量は決して多い通りではないので、走って来る一台をやり過ごしたら通れるだろうと見越したとき。





アラタ君は懸命に走っていました。
ムツキ君の話してくれたことは、嘘に決まっています。自分のしたことを忘れるはずがないからです。
それでも、アラタ君は自分が頭の病気であることをちゃんと知っていました。それで、たちまち、怖くなりました。
わるいことをしたら恥ずかしいニンゲンになります。ミズキ君は否定してくれたのに、もしかしたら、気付いていなかっただけでやっぱりアラタ君は恥ずかしいニンゲンなのかもしれません。おかあさんの言う通りなのかもしれません。
だけれど、それ以上にミズキ君を傷つけたかもしれないと思うと、いてもたってもいられませんでした。
友達なのです。嫌われたくありません。かなしそうな顔だって見ていたくありません。にこにこしなくても、元気があるのとないのは分かります。
アラタ君は走りました。
鞄の中でシャンプーハットやおやつが跳ねます。
やった!角を曲がると、まっすぐ先にミズキ君の姿が見えました。
ミズキ君はまだ気がついていません。距離をどんどん縮めます。
「ミズキ!」
呼びかけると、ミズキ君も気付きました!
翠の眼がまんまるにアラタ君を捉えます。
アラタ君は、一目散に駆け寄ろうとしました。
もう手が届きそうです。

でも、なんでしょう。
からだにどんとなにかがぶつかりました。




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