39.後悔





翌朝。
瑞樹は、フローリングの上に敷いた布団で眠る新を跨いで自室を出た。
しんとしたリビング。部屋を覗いてみても、玄関の履物を見ても、草慈はまだ帰って来ていないようだ。
彼は電話でユミさんが歳を取ってしまったと言っていた。
鏡の前で、ぺたりと自分の頬に触れる。睦月や新よりも幼い顔。互いに十代である今はまだ大した違いは見られなくとも、今後隔たりは大きくなるだろう。そのことに、何も感じないというわけではない。けれど幸か不幸か、自分にはユミさんという前例、格好の見本がいて、そのおかげで、ショックもいくらか緩和されたところがある。おそらく、自分も彼女のように、しばらくは若さを保ったままでいるのだろう。それが永遠でないことは、今回彼女が証明してくれた。どうしてそうなったのかまでは…新の存在で気が散っていたために聞けなかったけれど、これで少しは気が楽になる。
瑞樹はつらつらとそんなことを考えた。それから、台所の冷蔵庫のドアを開けた。
シリアルに牛乳かけただけ十分でないかという横着な気持ちもあるにはあったけれど、新が帰って誰に何を話すかも分からない。あそこの子は客人にシリアルしか出さないと言われたところで痛くも痒くもないにせよ、純粋に、新の健康面をどの程度気を遣ってやればいいのかが瑞樹には計りかねた。新はどの程度病人扱いされているのか。食事まで病人食なのだろうか。ただ中身が幼いだけで、身体は健康だろうに。そこまで考えて、新の口にしたものが彼の精神に与えた影響を思い出した。…実際がどうであれ、病院側が新の食事に気を遣っていないとは考えにくい。彼は過去にそれで常軌を逸し、未だその途中にあるのだ。
なおったわけじゃない、と瑞樹は口に出した。誰も聞いているはずがない…自分自身に言い聞かせているのだろうか、と思う。何の為に。新が新であることを、認識したいのか。分からない。分からなかったので、冷蔵庫に入っている、ラップされたご飯…ちょっと硬くなっている…を、電子レンジでチンしてほぐした。手のひらに水と塩をつけて、やたら大きく握って、味噌と砂糖を混ぜ合わせたものを塗ったくって焼いた。
香ばしい匂いが部屋中に広がる。換気しよ、と窓を開けて、入って来た空気の冷たさにひょっとなってすぐ閉めた。自室のドアが開く音が聞こえて、そちらを見ると新が布団に包まったまま顔を覗かせていた。
「いいにおいがする」くんかくんかと新は犬のように鼻をつかった。
「布団から出ない子にはあげないよ」
「じゃあでる、でるけど…ミズキ、ストーブつけて」
「そういえば何もつけてなかった」
起きてすぐ台所に向かってしまったのだった。かがみ込んでスイッチを押すと、まもなくボッと点火した。いつもエアコンなので、いささか焦げ臭いのだが、たまには役に立ってもらうのも良いだろう。新が布団を脱ぎ捨てて、ストーブの前に滑り込む。
「トイレは?行かないで漏らさないでよね」
「自慢じゃないけど、おれ漏らしたりしないもん」
「ああそう、そうだろうとも」
そんなことになったら現実の悪夢を通り越して布団に潜り込み、綺麗な夢の世界に突入したくなるかもしれない。
瑞樹は焼き上がったおにぎりを皿に乗せて新の横にずいっと座り込んだ。
「ミズキ寒い!」
「僕だって寒い。いい子はストーブを独り占めしないもんだ」
「よくわかんないけど…ミズキ、これ食べても良い?」
「いいよ。そのために作ったんだよ」
新は熱そうに手の中で転がしながら、はふはふ言いながら食べ始めた。
瑞樹もその横で、無言でかぶりついた。すぐ隣で動く存在があるのはなかなか邪魔くさいものだなと思った。



午前九時を回った頃に、睦月がやってきた。
「おはよう。新、瑞樹と上手くやれた?」
「うん!上手くやれたよ!おにぎりおいしかった」
「それはよかった。瑞樹、新はいい子にしてたみたいだね?」
睦月は曖昧な笑みとともに向き直る。彼が満面の笑みを浮かべるときは、ろくなことがないと思われるので、いまはひとまず安心していい。
「僕は台風に見舞われた気分だ。避難していた睦月と違って」
「その季節外れの台風はもう過ぎ去ったのかな?」
睦月は人畜無害そうな顔で首を傾げ、踵を返した。歩きながら話そうということらしい。今日の目的地までは少し距離がある。三人でのろのろと歩きながら、しかし新だけは落ち着きなく二人の周囲をうろつきながら、バス停に到着した。
「あと十分くらいで来るね」と、腕時計を眺めて睦月。極めてどうでもよい情報だが、彼は革バンドの時計を愛好している。
「バスに乗るんだね!」新はカエルのパスケースを手ににこにこしている。
「そう、他のお客さんもいるから、静かにするんだよ」柔らかく言い聞かせる睦月は、保護者さながらだけれども、昨日はさっさと帰った男でもある。子どもの世話はしないくせに、遊びに行くときだけ調子の良い旦那の話は耳にするが、そのようなものか。ただでさえシスコンだというのに、将来の結婚相手は苦労するな、と思う。睦月のことだ、ちゃっかり手篭めにして、包容力のある優しい夫の振りして、その実、自己中心の思想に塗れた輩になるだろう。
「やれやれ、睦月は結婚しない方が良い」
「え、どうして?いまのところ、予定はないけど」
「間違いなく相手の女性を不幸にする」
想像から勝手に断言した瑞樹に対し、睦月は穏やかな表情を崩すことなく、
「そうかな?僕がもし結婚するとなったら、愛し、互いに幸せになれるよう努力できる相手を選ぶと思うな」
そうしないと結婚する意味なんてないじゃないか、と述べた。更には、打算でするようなことはしないよ、とも。
「そうだろうか」
「そうだよ。愛せないような相手と一緒にいたって時間がもったいないよ」
まだ成人してもいない睦月が、こうも結婚に対し熱弁を振るうとは予想していなかった瑞樹は、少々辟易した。けれども考えてみれば、コンプレックスの対象である姉を亡くした彼が、女性や愛情というものに関し、こだわりをもっていたとしても何ら不思議ではない。逆に、語っている内容が真っ当なものであったとしても、彼の口から出た瞬間、それは偏愛の主張に変わるのだ。
「バスきたよ!」
何やら気味悪く熱っぽい雰囲気を蹴散らすような新の声を聞いて、瑞樹は安堵の息を吐いた。
自分から話を振っておいて何だけれど、聞かないほうがよかった。カエルのパスケースを機械に押し付ける新の後に続いて乗車する。バスは空いていたが、
「ミズキ、はやくはやく!」
と、ぶんぶん手を振られて、新の隣の席となった。前の座席に座る睦月が笑っているように見えたが気のせいではないだろう。
「なにがおかしい白カバ」
「べつに何もおかしくないよ。それとたまに思うんだけど、瑞樹の目に僕は人間として映ってないのかな?」
「被害妄想だ。気にし過ぎだよ」
「そう?まあ十五分くらいの辛抱だから、我慢してよ」
「何を?睦月を?」
「バスを」

そしてバスは水上公園に到着した。
公園内の遊具類はやや年季を感じさせるものの、夏はプール、冬はスケートリンクとしての営業もされており、地元の家族連れには定番のスポットである。
つまり瑞樹たちはスケートをしにバスで揺られてやってきたわけだが、決して誰一人として上手いわけではない。瑞樹と睦月は一回やったことがある程度で、新なんぞは記憶がない。
「まずは靴を借りよう」
睦月の発言を切っ掛けに、サイズごとに靴を借りた。瑞樹はもう少しだけ若い頃に来たことがあるのだけれども、そのときに靴を履くのにえらく手こずったのを思い出した。履いた後の歩き難さも。睦月は何かと器用なので、スムーズに着用を済ませている。新は待つだけ時間の無駄なので、履かせてやった。
「歩きづらい」挙動不審の新。
「陸の上で跳ね回る魚の気持ちになって歩けばどうということもないさ」
「魚のきもち…」
瑞樹のいい加減なアドバイスに、新は真剣な表情でつぶやく。そのようなタイトルの雑誌があったような気がする。一度は目を通しておいた方が良いのだろうか。
いびつな歩き方をする新を引き連れて睦月を追うと、彼は場所取りを済ませていた。
「この辺でいいね。新、貴重品…お金は持ってる?」
「うん、これ」がま口。
「じゃあこれは僕が預かるよ。瑞樹は自分で持てるね?」
「当たり前のことを聞くんじゃない」
「うん、ごめんね」
まさか先程の十五分睦月を辛抱する発言を根に持っているのだろうか。
そんなことを考えながら、後から行くよと言う睦月を残し、瑞樹は新とリンクに繰り出した。

ほぼ手すりに掴まりながら滑り、戻ると一時間ほど経過していた。
睦月が疲れたから休むとのことなので、瑞樹も休憩することにした。新はまだ元気が有り余っているようで、引き続き滑りに行った。
「瑞樹、新をひとりにして大丈夫なの?」
「たぶん。恐る恐る滑ってるだけなら、ちんぴらに絡まれることもなかろうて」
貴重品も預かっているわけだし。新をたかっても何も出て来ない。本当の子どもではないので誘拐だとかも有り得ない。
人混みに紛れ、小さくなっていく新の後ろ姿を見送ると、瑞樹はそれとなく睦月に視線を向けた。彼が何か言いたそうにうっとおしい視線を送ってきていたからだ。
「昨夜はどうだった?」
「質問の意味がよくわからないけれど、どうして新を連れて来た?」
基本的には寛容な睦月は、質問を質問で返すなとは言わずに答えた。
「新はあのことを思い出す必要があると思ったんだ。瑞樹だっていい加減、待ちくたびれたろう」
「それで今回のお泊まりを企画したと?」
「勿論、そう簡単に事は運ばないだろうね。でも瑞樹といて、新が全く何も感じないということは、ないはずなんだ」
なんたって、瑞樹は新が忘れたがっている出来事に直接的な関係があるわけだから。気を悪くしないでほしいのだけれど、そのもの、と言っても決して言い過ぎではないよ。…と、睦月は言った。
「新は僕といても、苦しそうな様子はない」
仮にトラウマとして認識されているのなら、そうした症状があってもおかしくないだろう。それがないのはつまり、綺麗に忘れ去られているからなのではないのか。言いながら、瑞樹は椅子を座り直した。
さかなが、こちらを窺うように皮膚に留まっている。上目遣いが気に入らない。こいつは何が良くて、こんな身体の中にいるんだ?
「それよりは」相手にするのをやめて、新の幼い顔を思い浮かべる。
「それよりは?」
間も空けず、先を促す睦月の声。彼の目を見れば、睦月も目を反らさずにこちらを見てくる。
人の良さそうなさらついた口調に潜む、粘着質に絡むような、上手く折れずに欠けたカッターの刃が混じっているかのような響き。
昔の彼はそんな声の出し方はしなかった。ただただ落ち着いた、害のない、大人に近い声で喋った。それが時折、こうした話し方をするようになったのは、彼が新を傷つけたときからか。それとも、彼が記憶を取り戻したときからだったか。
「睦月、もっと普通に聞いてよ」
「僕は普通だけど」そう言った彼の声はかつての通り普通だった。
「僕は、キミが大袈裟に話すのは、好きじゃないんだ」
「重要なことは真面目に話さないと。ねえ、瑞樹。僕は何かおかしいこと言ってるかな?」
そうだ、その通りだ。それに近しいことを、自分も睦月でない人間につい最近電話で言ったばかりだ。
けれど、言いたいことはそういうことではないのだ。
「もっとさっぱり話せよ」
「よく分からないけれど、それより、瑞樹が気になったことを教えてよ」
睦月は笑って、首を傾げた。頭の天使の輪が揺れる。それだけが変わらず、彼の頭に存在している。
彼の視線を受けて、躊躇する気持ちもあった…僕がそれを聞いてもいいのか分からなかったからだ…けれど、口を開いた。
「新の家族はどうなってる?」
「新の家族?さあ、どうなんだろう。僕は数えるくらいしか会ったことがない」
でも、ご両親は存命だったと思うよ、と睦月。それは自分たちの年代では平均的なことだ。新は平均的な人間だった。良くも悪くも。
「新は、母親がリストカットしたのを見たと言っていた」
「気の毒だね。でもしょうがないよ、新の状態は家族にそうさせても、仕方のないものだよ。
 自分の子どもが、精神に変調をきたして、幼児みたいになってしまったなんて、誰だって認めたくはないさ」
それは僕が、ふたりに自分がESPであることを気付いてほしくなかったのと似たようなものだろうか、と内心で問いかけた。
すなわち、普通でなくなってしまったので。たぶん、普通が何よりだったので。僕は、普通でいたかった?誰の為に。
考えると、うんざりするようなこと。
「勿論…瑞樹、君が気に病むことでもない」
「そんなつもりじゃない」ただ新が口にしたから、聞いてみたくなっただけだ。本人以外の人間に。
「気になるなら、新に聞いてみたら。子ども目線も大事だよ」
「聞いてどうする?僕はどうもしないのに」他人が口を出すことではない。口を出していい立場でもない。
「本当に、どうもしない?」
「しないよ」
睦月は笑う。今度こそ、厭な笑い方で。横っ面殴りたくなるような。爽やかな公共の場にふさわしくないと、監視員につまみ出してもらいたくなるような。
「するよ。瑞樹は、新を心配して」
「なにを?」
「自覚をおぼえない程度に、優しくする」
だって瑞樹は、子どもの新に優しいよと、睦月は白いテーブルの上にある紙コップを手に取った。全く飲まれていなかったので存在感は皆無だったのだけれど、アイスコーヒーの入った紙コップはずっと我々の間にいた。ちなみにテーブルの上にはもうひとつ、カルピスの入った紙コップも佇んでいる。
「僕は、最低限のことをしているだけだ。勝手に気色の悪いフィルターをかけて人を見るな」
「瑞樹はそれが自然に見え過ぎるんだよ。僕が瑞樹だったら、そんなことは出来ない」
常識的に、いやもっと冷静に考えてごらんよ。
「僕がおんなじように、家族に…まあ姉さんか…に手をかけられたら、僕は新を生かしておかない」
「どこが冷静だ」
「瑞樹はそれでいいの?新は確かに何も覚えていない。でも瑞樹は新に対し、もっと冷たくしたって許されるよ」
むしろ思い出してほしいのなら、以前の新にそうしたように、多少素っ気ないくらいでちょうどいいくらいなんじゃないかな。
…睦月との間に、テーブルを挟んでいてよかったと思った。
「極論、僕は新を殺すべきだと聞こえる」
「僕だったらそうする、と言っているだけだよ」
「人は人を簡単に殺すべきじゃない」
この当たり前で面白くもないことを口にしないといけないなんて、世の中いったいどうなっているのだろうか。
睦月の返答は、コップの中の氷が溶け出す間もないくらい軽やかになされた。
「いや、人は殺すべき理由があるときは、そうするべきだよ」
「もし睦月のような人間が、裁判員制度に目一杯駆り出されたら、世の中無罪も増えるかもしれない」
「瑞樹、茶化さないで聞いて。僕は君の友人として、そんなことはしてほしくないと思ってるよ。でも君が、一時の感情に流されて、何もなかった、絆され忘れようとするのが、一番良くないことだと僕は思う」
「何も、なかったことにはならない。ちょっと落ち着け」
睦月の言動に熱が入り過ぎたのを感じて、瑞樹は宥め、諌めるように、紙コップの蓋を取り外し、中のカルピスを睦月のアイスコーヒーに注ぎ込んだ。不味そう。この場にいない新に飲ませてやりたい心境だ。それか、中身をスケートリンクにぶちまけて、細々した氷で転倒させてやりたい。
それくらい、睦月の言葉は神経を逆撫でする。彼も意図的にそうしているのかもしれない。
「僕も、瑞樹が家族のことを忘れたりしないと信じてはいるんだ」
茶番なくらいに真摯な目を見返して、その背後、離れたところに滑って来る新の姿を捉える。
「ちょっとそろそろ黙らないか。新も戻って来る」
「いいよ。お腹も空いたし、そろそろお昼にでもしよう」


壁や床がいちいちさびれた食堂にて。


食券購入、食事と引き換え。横並びに三人は、中心の席に腰掛けたのだった。
端からしょうゆらーめん、カレーライス、特製☆太麺やきそば、である。
しょうゆらーめんをするするとすすりながら、睦月は新に尋ねた。
「どう新、スケート楽しい?」
「うん!おれねえ、もうなんにも掴まなくっても滑れるようになったんだあ」
ミズキも見てたでしょう?と彼は、特製☆太麺やきそばを豪快にすすっている瑞樹に話を振った。
「最後のなら見てたよ」
服にカレー零さないでよ、と付け足して、口の端の青のりを指で払いのけながらコップの水に口をつける。
「ムツキももっと滑ろうよ!」真ん中は忙しい。
「そうだよお、睦月ももっと滑っておいでよお」見向きもせずに加勢する。
「僕はあんまり運動得意じゃないからね、瑞樹が一緒に行ってくれるよ」
「ミズキ!」
「あれ、ゴールキーパーやってたの誰だったっけ?」
「懐かしいね、瑞樹は膝擦りむいたんだっけ?」
睦月は和やかに微笑み、瑞樹もつられたように笑いかけてから、特製☆太麺やきそばを口に突っ込んだ。咽せながら食べ終えた。
「やれやれ、瑞樹。何してるの」
「やれやれ、ミズキ何してるのー」
「そこ真似しない。いいんだよ、僕は急遽甘いものが欲しくなったんだ」
そう言って顔を上げて縦書きのメニューを見れば、甘い選択肢はソフトクリームしかなかった。瑞樹は立ち上がり、食券購入、ソフトクリームのMIXと引き換えた。新が口を尖らせる。
「いいなあミズキ、おれもたべたい!」
「ふはは、新はカレーライスを食べ終えてから頼むと良い」
上から柔らかいソフトにかぶりついて、ひそかに溜め息をつく。その間に睦月もしょうゆらーめんを食べ終えたようで、彼は手洗いに立った。
新がカレーライスをもぐもぐしながら、言った。
「たのしいね、ミズキ」
「ああうん、たのしいね?」食べ物を食べてるときは口閉じろ。
「こうして、ずっとあそんでられたらいいのになあ」
「え、なんか子どもらしくないセンチなこと言ってるこの子」
子どもって連続した時間の認識とかできたっけ、と瑞樹が昔を振り返っていると。
「おれがいるとねえ、おかあさんなくんだあ」
新はへらりとした口調で言った。口の横にカレーがついている。
瑞樹は無造作に立てられた紙ふきんに手を伸ばし、一枚するりと引き抜いた。
その一連の動作をしながらも、新から目を反らさなかった。
「なんでかなぁ。おれが、頭の病気だからなのかな」
「新、あまり公共の場でそういうことを大きな声では…」人いないけど。
「はずかしいから?おれって、はずかしいの?」
新はふふ、と子どもらしくない笑い方で笑った。
どうしてそんなことを言うのか…などということは、問いただすまでもない。誰かに言われたからだ。
瑞樹には、新の態度を、冷静に窘めることは出来なかった。
気がついたら、大きな声を出していて。
「恥ずかしくない、新は、恥ずかしくなんかない…!」
心臓の音が煩い。慣れないことをするからだ。けれど、新が恥ずかしい人間として扱われている、そうされてしまう原因を考えれば、冷静でいられるはずもなかった。そんなふうに彼が見られているであろうことは容易く想像出来たはずだろうに、自分のことで手一杯で、ろくに考えようともしなかった…またしても彼への無関心が露呈されたことにも、強烈な憤りを感じた。
どうして気付かなかった?…ちっとも反省していない…僕はこの数年、何をしていたんだ?身体と一緒に頭の成長まで止まったのか。
けれど、考えられないわけでもなかった、と指摘する声も憤りの裏側から聞こえた。本当に、無関心なわけではなかったと。
幼い彼と病室で向かい合いながらも、深く考えることを拒否したのは自分自身に他ならない。
(深入りしてやる義理などないと思った。新のことなど考えたくもないという気持ちが確かにあった。いまもある)
けれどそれがいけなかったのだと苦い感情が口から入り込んで身体中を満たす。普段どこにあるか分からないそれは、あのときのことを浅くも深くも考えるたびに、すぐにでも取り出せるよう準備されていたかのようにやってくる。
楽観した結果、彼の人格は死んだのだから。
(新が恥ずかしい人間として扱われるのは、自業自得だ。彼の行動にまで、僕が責任を持ってやる筋合いなんてない)
(けれど本当にそうなんだろうか。僕は新を助長させた。止めなかった。見捨てた)
頭の中がごちゃごちゃする。このことを考え出すと、際限がなくなる。一度、新と睦月が病院に搬送されたのちに考えようとしたことがある。そのときに気がついて、それ以来考えるのはやめていた。
(とにかくいまは、新に分かるように説明しないと)頭の病気であっても、新は恥ずかしくないのだということを。彼には、彼自身の存在についての負い目を感じてほしくなかった。
口を開け、無理矢理くだらない、説明をする。分からないことを言っても、意味がないので。
「大人が虫歯を人前で言わないのと同じようなもので。あれは手入れを怠ると、なるから。さぼっていることがわかるから」
「でもミズキ、いまこーきょうのばでってむずかしいこと言ったじゃない」
「そりゃ中にはいるよ、恥ずかしいのも。それで人に危害加えたりとか、するのとか。でも、新はそんなことしないでしょ。それともなにか、わるいことしたくなるわけか?キミは」
本当はもっと難しい問題なのだけれど、とにかく、新の中の否定的な概念を打ち消したくて、何を言っているのかよく分からないままに言い募り、終いには新に詰め寄ってすらいた。負い目を感じてほしくないってなんだ?何をこんなに必死になっているのか、瑞樹自身にも分からなかった。
ただ、新は『そんなことしない』し、もう『してほしくもなかった』。子どもらしくない笑い方も、いらない。
「ミズキ、つらいの?」
「僕はつらくない。つらいのは新だ。つらかったら、わらうな、泣けよ。うっとおしい」
「なくの?」
「子どもなら、そうする。もちろん、泣きたくないのなら、話は別だ。無理に泣く必要はない」
新のことを子どもだと言ったり子どもじゃないと言ったり、我ながらわけわからないと瑞樹は大きく息を吐いた。
新は新であって子どもでないし、けれどいまこうして、カレーライスを頬張りながらおかあさんのことを考える新は子どもなのだ。
「ミズキ、おれなかないよ」
「そうかい」
「でもね、できたらもっとミズキといたい。今日もかえりたくない」
「何さらっと我が侭言ってんだ」
新のくせに人を困らすようなことを言うんじゃない、とその頬を摘む。柔らかくない。カレーちゃんと呑み込めよ。
「あしたには、かえる」
明日に帰れるなら、今日帰ればいいだろうがと、瑞樹は新を見下ろした。
「ねえ、新。キミが、僕のところに残るのはよくないことだ」
「せんせーがうるさいから?」
「気付いていないかもしれないけれど、キミは…僕といることを望んでいない」
手を放す。こんなことを言っても、彼にはわけがわからないだけだろうけれど、他にどんな言い方をしたらいいのか、分からなかった。
睦月が発言したことが、当たっているのかどうかも、はっきりしない。一緒にいることで新が苦しみや違和感を感じるなどということは、自分達の願望でしかないのではないか。そうであってほしいと、そうでなければ、いま目の前にいる新が誰なのか、分からなくなるので。
「そんなことない」
「気付いてないだけだ」
「そんなことないったら!ミズキのいじっぱり!うそつき!」
「いつ僕が意地を張って嘘をついたよ」
「ほんとはミズキが嫌なんだ!おれのことが…おかあさんがそうなんだから、ミズキだってそうなんだ!」
それをおれのせいにしないでよ、と新は喚いた。そして唸るように俯いて、肩を揺らして、息を吐いた。
瑞樹はそんな新の背の肩のあたり…を見た。そこに何があるわけでもない、ただ視線の先として適当だっただけだ。
子どもよりは、大人に近い肩のつくり。
親に愛されている実感を得られない子どもは、こんなにも自己肯定感が低いものかとか、
喧しいけれど泣きはしないのかとか、
僕は新のことが嫌なのかとか、
ぼんやり考えながら、
瑞樹はそれを目で追って、再び視線を新の横顔に戻した。彼はカレーライスのルーとお米をスプーンで練るように掻き混ぜている。
「まずそ…」
「ふーんだ」
「ねえ、新。新は勝手に僕のことをいじっぱりでうそつきだとか言うけれど、僕にしてみれば新は何でも決めつけ過ぎる」
「だって、さ」何か言いたげな。手のひらを返すような態度だったことは認めるけれど。そこでまた、遠くから飴を投げつけるのか。
「僕はまず、新のことを嫌いだとか言った覚えはない」何の為に?
彼はカレーライスを嬲る手を止める。まん丸い目でこちらを見上げて、小声で言う。
「じゃあ、きょうもとまっていい?」
「…明日の朝、睦月に迎えに来させる。だから、それ以上は延長出来ないからな」
「やった」
不安そうな顔から一転し、彼は満面の笑みを浮かべる。
瑞樹は苦い塊をひとつ飲み下して、後ろを振り返った。にこやかに白い口無しが立っている。
「そういうわけで、明日の朝、新を確実に連れて帰っていただきたい」
「僕はかまわないけど、外出許可が出てるのは今日までだからね、延期しないといけないんだよ、本当はね」
どちらに言って聞かせているのかは分からないが、睦月はそう言って、椅子に残しておいた荷物を肩に掛けた。

食堂を立ち去る間際、先を跳ねる新を見遣りながら、睦月は大きくはない声で言った。
「瑞樹は甘いね」
決して褒めてはいないそれを無関心に右から左へ聞き流し、瑞樹は返事の代わりに呟いた。
「分からない」
僕自身に分からないことが、新に分かるはずがない。




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