37.生き返る







(どうして俺がこんなことを…)
わざわざ部屋まで追いかけてやるなどとお人好しもいいところだ、それもこれも、他に適当な人間がいなかったからだと、千尋は草慈が入って行った部屋をノックした。
「草慈?入るぞ」
返事はなかったが勝手に開けた。椿相手ならともかく、草慈相手に繊細な心遣いをするつもりはない。例え、母親との間にある隔たりに心痛めているのだとしても、優しく手を取って慰めるだとかいう気色の悪い真似はしたくもなかった。自分たちは決して清らかな友人でも、甘い戯れ言を囁き合う恋人同士でもないのだ。
「草慈」
此処は彼の自室なのだろうか。ベッドがあり、彼はそこに仰向けに寝転がっている。
近づいて、上から彼を見下ろした。
「目え開けたまま寝てるんじゃないだろうな」
「起きてる」
「いくら睡眠不足でも、寝ないでくれよ。起き抜けに運転なんてされて事故起こされても困る」
「柚谷は人使いが荒いな。…あれ…いいのか?綾城置いて来て」
いつになく、草慈はぼんやりしているように見えた。温和な顔立ちの中に、特に荒立った感情も持たぬといわんばかりの眼差しは、彼を知らぬ人間からすれば何の違和感もないのだろう。しかし彼がもっとささくれた人間だということを知っていれば、逆に違和感しか残らない。
此処に来る前から、心穏やかでないと彼は口にしていた。そして実際に行なわれた母親との遣り取り、そこにおける椿の存在に思うことも考えることもあっただろう。だのに、たかが二十を過ぎた青年が『わかった』などとそれこそ聞き分けの良い振りをしているのは不自然だ。
あの場にいるのが堪え難くて、逃げ出したに違いないのに、この瞬間でさえも煩わしく取り乱しもせず。
(そりゃ俺が此処にいることで、草慈に『気を遣わせている』部分もあるだろうさ)追って来ておいて、どうかとは思うけれど。
だが、彼のどことなく虚ろな眼差しを見て、千尋はこうも思うのだ。感情を剥き出しに、異論を述べることは彼にとって無意味なことなのかもしれないと。自身と相手の感覚が違い過ぎるとき、言葉や感情は全く意味を成さない。千尋は母を食らった父を完全に理解するのは無理だと諦めているし、椿に泣かれた意味も半分くらいしか理解出来ていない。草慈にとっては彼の母親はそういう対象で、過去に類する出来事が、あったのかもしれない。無論、彼の口から聞いたわけではないから、これらは千尋の憶測でしかない。想像が過ぎると切り捨てられてしまえばそれまでだが、あの母親を見る限り、そう外れてもいまい。自分とて他人だからこそちょっと面白い女性程度に見られるが、現実にあんなのが母親だったら面倒でかなわない。
つまりは、見込みがないのだ。互いを理解することに関し。彼自身それを認識していながらに、割り切れないでいるのか。
(そういう意味では、俺なんかは椿に割り切られたのか)脇道に逸れた考えに一瞬視界が暗くなりかけ、頭を振る。
椿が混乱し、草慈も抜け殻のようになっているいま、自分まで沈んだ思考に囚われ座り込んでしまっては、誰もまともな判断力を持てなくなる。せめて、立場的に第三者である自分だけでも冷静であるべきだ。そして出来ることなら草慈にも、早々に我に立ち返ってもらいたい。彼は現在の当事者のうちの一人なのだ。寝転がったままの彼を見下ろしたまま、言葉を紡ぐ。
「俺だって好きで来たわけじゃない。仕方ないだろう、君がいないと帰れない」
ここは嘘でも『君のことが心配だったんだ』とでも言うべきだったか、と内心自問するも、否、有り得ない、白々し過ぎるという答えが出た。その白々しさを承知で言ってみても良かったのだが、そんな遣り取りをするだけでもいまは時間の無駄だ。
草慈は何も言わなかった。ただ、ぼんやりとしていた眼差しにいつもある暗がりが戻ったように見えた。
千尋はベッドに腰掛け、そんな草慈の顔を眺めた。彼は、椿と瑞樹のふたりに似ているのだと言う。瑞樹は彼の弟の名前だ。橙眞由美とほぼ同じ能力のESP。ふたりいる子どもが、陰性と陽性に分かれたならば、自分と似た陽性を偏愛したくなるのも分からないではない。しかし、思い出して恋しくなるだなんて、母親の言っていい言葉ではない。我ながら散々、彼と椿を重ねておいて何を言っているのやらとは思うのだが。ようやく…今頃になって違いが分かって来たからか。
黙ったまま、上半身を屈める。上から覆いかぶさるようにして、彼の唇に自分の唇を合わせた。
彼が驚いたように眼を見張る。しばし間近で、見つめ合ったというほど甘ったるい視線でもなく、せいぜいが見合うという程度に互いの顔を覗き合い、
「そんな間の抜けた顔するなよ。君が落ち込んでいるようだったから、こうするのも良いかと思っただけだ」
身を起こす。俺は君の『好きな人』なのだと君の母君も言っていたし、と内心で付けたし、けれどどう考えても母親の勘繰り過ぎの勘違いだと切り捨てる。道理がない。今しがた、キスをしたのは彼がそれが好きらしいと思ったからだ。何度もしているし、大したこともないだろうと…慣らされているのなら、問題だが。
草慈が身体を起こしたのを機に、ベッドから離れる。ふて寝をやめただけでも効果はあったのだろう。であれば、もうこれ以上の長居は無用だ。
ドアの前で最後に彼の様子を確かめようと振り返る。否、振り返ろうとして、動けなかった。
目の前に、彼の腕。温度。
背後から草慈に抱き締められている。
気がついて、思いがけず動揺した。
彼の顔が耳許、すぐ近くにある。表情は、分からない。ただ硬く抱き竦められたまま、彼の声が耳朶に触れた。
「ありがとう…千尋」









扉が閉まる音を聞いて、薄くスライスされたレモンが浮かぶ紅茶に彼女が口をつける。
「千尋くんって、本当に貴方のこと好きなのね」
「…」
「貴方が帰りたがってないと言ったとき、なんていう色だったかしら…そう、勿忘草色の綺麗な瞳が、傷ついたように歪んで、でも少し怒ったようでもあったわ。私に、貴方のことを言ってほしくなかったみたい」
透き通るような微笑。彼女の躯は人間というよりも、植物や水に近い存在に感じられる。それでも、開けば血も粘膜もある。
「ねぇ彼に…どうして何も言ってあげなかったの?…意識はちゃんとしているんでしょう?…」
「貴女のキスを受けたときから」
「ええ…その代わり、貴方の記憶はとても断片的なものなの。全部を抱えてはいられないから」
…彼女は、強靭な再生能力を持つESPだ。しかし、記憶を操作することまで出来てしまうのは、もはや人間の域を越えているのではないか。しかし、なら人間の域に留まる程度の能力とはいったいなんだということになる。…自分も彼女も、化け物じみていることに変わりはない。
「私もよく分からないわ。もしかしたら、いま貴方の脳の一部は死んでいるのかもしれない、けれど」
でも、死んでいたらこうして会話も出来なくなってしまうかもしれないのだから、実際は生きているのね、と彼女。半々かしら。
「でも、ESPって、人によってタイプが違うの。瑞樹と私も、よく似ているようで、違うわ」
「瑞樹というのは?」
「私の子ども。貴方の義理の弟にあたるの。十六程度で肉体年齢は止まってしまっているけれど…仲良くしてあげてね」
仲良くする機会があるかどうかは分からないが、首を縦に振ると、彼女は満足そうにナイフでフレンチトーストを切り分けた。それを口の中に入れて、咀嚼して。生き物として自然な振る舞いをしているのに、彼女が生きているという実感がどうしても得られない。
しかし、殺した実感があったか、と聞かれたら、それも答えられない。
…彼、橙眞草慈の作った朝食に、肉類が入ってなくてよかった、と思う。彼女の体内の記憶は、変わらず残されている。ところどころ抜け落ちているのは感じるのに、何を忘れているのかは思い出せない。柚谷を突き放したのは自分なのに、彼がいないことに心細さを覚えるのは勝手なことか。彼女とふたりでいるのは、とても緊張する。
「それで、どうして?」
「どうして、とは」何を問いかけられていたのだったか。
「貴方は千尋くんのこと、どう想っているの?彼が、貴方のことを好きだと言うのは、聞いていたんでしょう。でも、何も言ってはあげなかった」
「柚谷のことは大事な友人だとは思っています。ただ、柚谷は俺とは違う人間ですし…彼の気持ちも、俺のとは違う」
柚谷とは、昔ほど価値観が隔たりがあるとは感じない。彼が学生となったことで世間擦れしたのかもしれないし、自分も多少は丸くなったのかもしれない。しかしそれでも、根本の部分で、自分たちは違う人間なのだという感覚が拭えない。多分彼は今でも、自分の知らないところで為という人々を肉として観察し、出荷し続けているのだろう。それはいわば彼の家業なので。鬼畜のような所業だと非難したところで、彼はそれを「だって椿、これは仕事だから」の一言で片付けてしまえるのだろう。出会ったばかりの彼であったら「おかしなことを言う」と嘲笑すらしたかもしれない。
自分も目の前の彼女に人間とは思えぬことはした。だが柚谷のように、それを平気にはなれない。
そこまで考えて、ふと気付く。俺は柚谷を軽蔑しているのかと。大事な友人だと言ったばかりのくせに。それは嘘ではないし、彼には不快なこともされたが、良くもしてもらった。今とて、彼がいたらどれだけこの状況が楽になるだろうと思っている。にも関わらず、決して彼の内包する性質を受け入れることは出来ないだろうと諦めるだけでなく、彼の人間性を批判的に捉えている。
結局、彼の好意を利用していただけなのか。そんな馬鹿な、と自分の内側で叫ぶ声がある。
柚谷は友人だ。唯一、味方をしてくれた…裏切るかもしれないとは思ったが、別れの挨拶をしたときも、彼は惜しんでくれたではないか。
だのに、どうして今になってそんなことを考えるのか。自分のことで精一杯で、彼とのことをあまり考える余裕がなかったのは本当だ。どうせ…分かり合うことなど出来ないと思っていたのだし。彼がどれだけ親切にしてくれようとも、彼への不信感を根こそぎ奪ってしまうには至らず。(可能性はひとかけらもない)。彼女に抜かれた記憶の所為で、自分は混乱しているのだろうかと思う。
「かわいそうに、少し混乱しているのね」
「そう…かもしれません」
「無理もないわ。だって少し前まで…貴方はおかしくなっていたのだもの。それを私が一時的に正常に戻しただけ」
「…一時的?」
聞き返すと、彼女は悲しげに首を傾げた。自然な薄茶色い髪がさらりと肩を流れる。
「この後のことを選ぶのは貴方だわ。このまま記憶を欠落させたまま現状を維持するか、すべてを思い出してその後を決めるか」
「…それは、」…彼女の言葉の意味することに気付いて、背中が薄ら寒くなる。
「すべてを思い出したら、貴方はまた…普通でなくなってしまうかもしれない。いまの貴方には分からないでしょうけど、過去の貴方にとっては堪え難いことだったはずだから」
俯く。過去にこの女性を殺している。それだけでも頭が痛くなる…というのに、まだ他に同じようなことがあるというのか。せめて、隣に柚谷がいたらとまたおかしなことを考える。彼のことを受け入れられないと思っているくせに、何故なのだろう。彼がいたら、苦痛を少しでも紛らわすことが出来るだろう、と。けれど紛らわせなかったから、自分は正常を逸脱したのではないか。それとも彼はやはり自分の傍にはいなかったのか。だとしても、それは彼の責任ではなく、自分が弱い人間だったからだ、と思う。
人から聞かされて、否、自分自身を保てなくなっていたときのことは覚えている。ただただ混乱し、自分が考えているのが正しいことなのか間違ったことなのか、下から上へときちんと組み立っていたのかどうかさえ分からなくなっていた。考えようとしても考えられず、考えているつもりが実は全くおかしなことをしている。何をしているのかも、自分が存在していることさえ枠の外になる。そのくせ、感覚だけがそこにある。
彼にしたことも、覚えてはいる。あれも結局は、彼の好意を利用したことになるのだろうか…。行為自体はいまの自分なら、しなかった。だがあのときの自分は、ただとても、その行為に必要性を感じていた。彼は自分を好いているのだし、してもかまわないだろうという浅はか…最低な考えが、朧げながら意識の水面下にあった。粘膜を擦り合わせることに、彼女の体内に埋もれたことを思い出していた。興奮はしていた?それは、柚谷の声を聞いたからか、彼女のことを想ったからか。…目の前にいる彼女を見る。どちらにせよ、低俗だ。
自分を見失っていたときの自分は、品性も何もない、自分のしたことの責任も取れぬ、ただの…ろくでなしだ。
責任も取れなくなるほどのことが、あったのか。それは分からない。綺麗に色がない。思い出せば、また同じ結果に陥るのかもしれない。彼女の言うように、おかしな、普通でない人間になってしまうのかもしれない。覚えているだけに、またこうして思考することが出来なくなるかもしれないと考えるだけで、恐ろしかった。死して自分の意識が二度とないものになる、ということに似ているかもしれない。いまの自分がなくなる。
しかし、思い出さないまま、自分がしたことを知らないまま過ごすのは、何も考えることの出来なくなっていた自分と何が違うだろう。
数える程度にしか顔を合わせていない、彼女の息子はかつてこう言っていた。「自分の仕出かしたことさえ満足に覚えていない人間」。
そのとおりだ、と思う。自分は…彼の言葉、そのままの人間だ。今も昔も。生きる為に忘れた。そんなふうにしか、生きて来られなかったのだとしても、いつまでもそれではいけないのだろう。仮に受け止めきれないとしても、それは卑怯でやり方で、自分に都合が良過ぎる。
嫌だ。
「記憶を戻してください」
「…」
「確かに俺は自分を見失うかもしれません。だとしても、忘れたまま生きることは出来ない」
実際、彼女のことを忘れていたときは、謝罪すらままならなかったのだ。彼女の息子に恨まれても仕方がない。
「そう…」
彼女は俯いて、表情を窺えない。何を考えているのだろう。彼女が黙ると、不安が募る。昔からそうだった。
「貴方が…謝りに来てくれると聞いたときから、迷っていたことがあるの」
「…、はい」
「貴方にとってはきっと酷なこと。でも、もう、私、決めてしまったの」
彼女はフォークを置いて、華奢な腕で車椅子を押し進めながら、テーブルを迂回してこちらまでやってきた。
何故なのか、彼女の食べかけのフレンチトーストに視線が行く。ギザギザの、ナイフで切られたフレンチトースト。の、断面。
彼女を前にして、せめて柚谷に一声掛けておけばよかっただろうか、という考えが、頭を掠めた。彼は彼女が自分に何かしないかととても心配していた。直接口にしたわけでない。ただ彼の視線が、痛いほど物語っていた。彼女は何か決めてしまったようだが、今ならまだ、「少しだけ待ってもらえますか」と言えば聞いてもらえるだろう。焦っている気配はないので。
けれど、柚谷は、何も知らない。彼なら、記憶を戻すことになんと言っただろう。……反対したかもしれないな、と思う。







がたん、とドアが慌ただしく開く音が聞こえた。続いて響いた足音が立ち止まる。
草慈が離れて、その体温が遠のく。息を吐く。
(いまの音は…車椅子である橙眞由美ではない、となると椿、か…?)
その辺の思考が考え終わる前に、身体は部屋を飛び出していた。リビングへと戻る。椿の姿はない。この家に入るときに開けたドアが、開きっ放しになっている。テーブルの横を通り抜け、玄関へと繋がる廊下へ出る。人の気配。見覚えのある後ろ姿が振り返る。
「椿…!」
彼は一瞬言おうとしたように見えたが、そのまま玄関を勢いよく押し開いた。
遠ざかる背中。何処へ。
「椿、待ってくれ!」距離が有り過ぎて、声が届いているのかも分からない。昨夜のあれやこれやで身体が怠くて追い付けないなどとなれば、格好がつかないにもほどがある。速度を上げて間を詰めれば、彼は黄信号が赤信号に変わる瞬間の道路を渡った。
朝方で、通勤の自動車やらが走り始めている。このまま逃げられたら、見失う。それが何を意味するのか、千尋には分からなかった。彼は戻って来るかもしれないし、”戻って来ないかもしれない”。どちらも、有り得た。だからこそ、千尋は椿を追わなくてはならなかった。しかし、そうして駆け抜ける自動車の隙間をどうにかして渡れないかと視線を動かしたとき、千尋は彼が横断歩道の向こうで立ち止まっていることに気がついた。
「椿…」
名前を呼んで、(いったいこれで何度呼んでいるのやら)、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
自分を見る彼の瞳が、正気の光を宿していたからだ。玄関で遭遇したときから、もしやとは思っていたが。
たった一晩程度の出来事だ。それでも、千尋は彼の澄んだ強い眼差しを再び見ることが出来て、途方もなく…嬉しかったし、同時に彼が非情な現実に戻って来たことに悲しくもあった。自我を取り戻すことで、彼は悩み苦しむことを余儀なくされる。
自分が、彼に救いを与えられないことにも変わりはない。
なら何故、こうして彼を追うのか。彼を追ってつかまえたところで、自分に何が言える、何が出来る。何も出来ないと思ったからこそ、彼との別れを受け入れようと思ったのではなかったのか。正気を失った彼の隣にいることは出来ても、いまの彼に自分の存在は必要ない。
「つばき、」
(俺が一方的に、彼に縋りたいと思っているだけだ……)
漠然とした事実が、胸に落ちる。何を今更、分かっていたことではないかと自問する。分かっていながら、彼が弱っているのを良いことに、彼の隣に居ようとした。家族を亡くした彼は一人きりだったので、そういう意味では都合が良かったのだろう。良識ある友人を演じようとして、本当は自分が彼の傍にいたかっただけなのだ。彼を想って?我ながら…口先ばかりの独り善がりだ。
椿が、通りかかったタクシーに乗り込む。
追わないといけない。そう思うも、追ってどうする?と囁く声もある。彼が逃げたのは、結局のところそういうことではないかと。
必要とされていないのなら、諦めるほかないだろう。そうして彼を見送ろうとした、昨夜。
信号が青に変わる。横断歩道を渡る。一つ先の交差点で、赤信号を前に停まるタクシーが見える。信号待ちなど僅かな時間だ。だがここで迷ってなどいたら彼に追い付ける機会を失うと考えるやいなや、身体は勝手に動いていた。交差点の、対向車側の青信号が黄色に変わる。手を伸ばす。
千尋はタクシーの窓ガラスを叩き、運転手に一緒に乗せるよう告げた。今乗っている客の知り合いなのだ、と。
運転手は、後部座席に乗る椿を振り返る。これで断られたら、強引にでも乗り込んでやると思ったが、後部座席のドアが開いた。
素早く身体をすべり込ませる。
「行き先は同じで良いんですね?」
運転手が胡散臭そうに聞いてきたので、聞き返した。
「彼は何処へ?」
億劫そうに、運転手が口を曲げて答えようとしたのを、椿の声が遮った。
「お前の家だ、柚谷」
「俺の家?」
何をしにいくのかまで説明する気はないらしく、彼は前を向いた。タクシーが動き出す。
自ら勢い任せに乗り込んだものの、椿が隣にいることが信じられないような気持ちだった。何故、椿は自分が乗ることを許可したのだろう。気が変わった?しかし、何をすることに対して。素直に聞けば答えてくれるかもしれないが、何故なのかそうすることは憚られた。彼に対する負い目もあったが、それよりは、彼に何か…違和感のようなものを感じたのだ。椿であることは間違いないのだが、しかし別人であるような。
客の二人が知り合いでありながら黙りこくっていることを受けてか、運転手も格別車内を盛り上げる話題を提供することなく、無言のままタクシーは走り続けた。
やがて”農場”まで到着した。
千尋が料金を支払い、椿を見ると、彼は既に歩き出していた。
椿はまず千尋の自宅へと足を向けた。ドアを開ける。片付けてはないので中はそのままだ。惨状が朝の光に晒されるのを、千尋は彼の背中越しに眺めていた。彼は無言のまま家政婦の女性の死体の前にしゃがみこみ、そっと手を伸ばしてひらいたままの瞼に触れた。閉ざそうとしているようだが、「無理だな」とつぶやき諦めたようだった。父親の残骸には目もくれず、外へ出てドアを閉めた。振り返る。
「なあ、柚谷。ここの施設で、為をばらしたりするところは何処に有るんだ?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?…」
「そこへ案内してくれないか」
「椿が、見るようなところじゃないよ」
眉を寄せる。物好きな見学客ならまだしも。しかし彼は「何処に有る?」と問いを繰り返した。教えてくれなくとも、勝手に捜すと言い出しかねない頑な口調だった。例えそうされても、鍵は掛かっているため入れないようにはなっているが、何故彼がそんなところを見たがるのかが千尋には不可解だった。
彼の腕を掴み、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「いったい、どうしたって言うんだ?見ちゃいけないとは言わないが、椿が見たって決して楽しいところじゃない。それどころか、気分を悪くするだけだ」
「取引先がどんなふうに事業を展開しているのか、商品を生産しているのか知っておきたいだけだ」
「そりゃあ…そうかもしれないけど。綾城さんがしていた事業を、椿が無理に引き継ぐこともないだろう?」
それを第三者が言うのもどうかと思うけれど。というよりは、彼の言い分はただの言い訳でしかないように千尋には思えた。得体の知れない不安がにじり寄る。
「椿、どうしてそんな嘘をつくんだ?…」
「嘘なんてついていない」
「だって明らかにおかしいじゃないか。綾城さんが亡くなったとはいえ、椿が毛嫌いしていた為肉の事業を引き継ごうと考えるわけがない」
「経済的に考えて必要だと思ったんだ」
「例え経済的に必要だろうと、椿一人なら、何処かで雇ってもらえば済む話じゃないか。わざわざそれを」
彼の拒絶的な態度を前に、どうしても詰問するような口調になってしまい、千尋は口を閉ざした。
(椿を責めてどうする。彼には彼なりに理由があるはずだ。それを落ち着いて聞けば…)
正気に戻ったばかりの彼はまだ多少混乱してもいるだろう。とにかくいまは、休ませることが肝要だ…、
「もういい」
「椿?」
「悪いが、柚谷。もう一度お前の家に上がらせてもらう」
それはかまわないが…と返事をするより早く、椿は玄関のドアノブに手を掛けている。
どう考えても、いまの椿を一人で行動させるのは危険で、彼が室内に入るとすぐ後に続いた。
血腥い。ハウスクリーニングに頼んだら来てもらえるものなのだろうかと考えながら、彼の挙動を警戒していたが。
椿は壁際に固定されているカレンダーを見ている。その取っ掛かり部分に刺さっている画鋲を音もなく引き抜き。小さいながらも何処かしらに傷を追わせるには十分なそれを、千尋は彼から取り上げんと慌てて近づいた。彼の腕が空を切る。危うく目に針が触れるところで、千尋は一歩後退した。
「椿、何を…!」
彼はするりと、千尋の横を通り抜ける。しまった、と思ったのは直後のことだった。後ろは台所だ。画鋲よりも遥かに危険な代物がある。
そして視界に衝撃が突き抜けた。
躊躇は…なかったのだろうか。包丁が、椿自身の腹部に突き立てられていた。
「……!」
色の抜けた顔色。彼自身がそれを眺め確かめるように屈み込みながら、ゆっくりと膝をつき、やがて前のめりに頬を床に押し付けた。
それはまだ腹部に刺さったままだ。抜けば大量に出血するだろう…千尋は包丁が刺さったままの彼を抱え込み、救急車に連絡しようと携帯電話に手を伸ばした。だが、緩慢にも椿が自らその包丁を引き抜こうとしたので、急いでその手を押さえ込んだ。
(何をしているんだ、これは。椿は死ぬ気なのか?いや、だとしたら、俺をタクシーに乗せた意味がない…)
「ゆ、え…手を」
「駄目だ、椿、黙って…大人しくしていてくれ…」
(それとも何か、椿は俺の前で敢えて死ぬ気だったのか?それこそ…いったい何のために)
嫌がらせでしかない。それも自分の命をかけた?…有り得ない。冷や汗が、噴き出す。慌てるな、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
千尋はゆっくりと椿の身体を床の上に横たえさせ、彼の手を押さえながらもう一方の手で携帯電話を操作した。指先は動くには動いたが、たかがボタン三つ押すのに集中が要された。極度の緊張と現実味のない恐怖(死ぬ?椿が、ここで?腹を刺しただけで?どうして刺さってる)が綯い交ぜになる。
「もしもし、救急車を、お願いします。男性がひとり、腹部を刃物で刺して…」
どうにか、最後に場所を告げて、携帯電話を放り出す。両手で包丁を掴む彼の手を引き剥がそうとして、白い顔をした椿が突如強引に身を捻った。
抉れて、鮮血が噴出する。このままでは却って内部を傷つけかねない、と咄嗟に手を放すと、包丁が床を転がった。引っ掛かっていたタオルを彼の腹部に強く押し当てる。
手のひらが、生暖かい。閉じられた瞼。
「椿…、なあ、死ぬ気なのか?椿…」
黙っていてくれと言いながらも、問いかける。何をしているのだろうと思いながら、周囲の静けさと彼の浅い呼吸に寒気を感じ、緊張が麻痺したかのように薄らぐ。父が母を食らったときと同じ均一な静寂が、全身に纏わりつく。心臓の音がいやに大きくきこえる。これが、自分の心臓の鼓動なら、彼のは、彼の心臓はまだ動いているか?さっきといまではもう違う。耳を澄ませる。彼の、呼吸をきく。浅く、頼りない。
…或いは、彼はこのまま眠りについた方が幸せなのかもしれない。痛みに何も考えずに、死に至れるのなら、それは幸福なことなのかもしれない。
果たして自分に…それを邪魔する権利があるのだろうか。
…否、もしも彼の為を思うなら、この手は放すべきだ。後は命が流れるがままに、任せればいいだけのこと。
できないのか?(…タオルに染み込む鮮血が目に痛い)。
「つばき…」
つくづく、情けないなと思う。ひとりでに、水滴が頬を伝い落ちていく。
彼のことが好きなら、彼が過去を思い出したなら、それで死を望むなら、その通りにしてやればいいではないか。彼が苦しみ生きていくのを見るのは、自分だって辛い。
だのに。

「頼むよ、椿、死なないでくれ…」

馬鹿じゃないのか、本当に。
最後の最後に、自分の願望を口に出し、あまつさえ押し付けるだなどと。
しかし、どんなに馬鹿げていて、後々身勝手だと責められようとも、彼には生きていてほしかった。失われてしまったら、嫌われることさえままならなくなる。
「…だ」何か言いかけた、彼の口の端の血を指先で拭い取る。
「椿?」
「…駄目…だ、死ね、ない」
切れ長の目許が悲痛に歪む。しねない?言葉の意味が分からず、青白い顔を見つめる。やはり生きようという力強い宣言であればよかったものの、彼の表情からはそうも思えない。それどころか。彼がぎこちなく指先を伸ばしたあたり…傷口の部位が、みるみる塞がっていく。
「…傷の再生、不死性…橙眞由美と、同じ能力?」呆然とする。
信じられないことに、息も絶え絶えになっていた椿は何事もなかったかのように身を起こした。傷口は驚異的な速度で塞がり、噴き出された鮮血だけが、周りの皮膚や衣服に残されている。ESPが特異な身体能力を示すことは知っている…が、かつての椿のものとはちがう…。
彼の腕を掴む。触れてはいけないという考えが、一瞬頭を過ったが、それよりは事実を確認したい気持ちが勝った。
「橙眞由美に何をされた?」
「彼女は俺に能力を移した」
「移した?…彼女が自分の意思でESPとしての能力を引き剥がしたっていうのか?」
ESPの能力は移るものではない…と聞いていたが、まだそれらに関しては未知の部分は多い。橙眞由美は似た能力を自身の子どもに遺伝させている…いやしかし、それは関係ないのか…ただ彼女の能力が、元々素養のあった椿の躯を強く望んだ結果なのか。だとして、現状は…。
椿の顔を覗き込む。
「椿、どこまで覚えてる」
いったい何がきっかけで…橙眞由美の何らかの働きかけがあったに決まってるが…正気に戻ったのかは分からないが、全部を全部抱えた状態で、彼が精神の均衡を崩さずにいられるだろうか。何か取りこぼしがあるくらいがいっそ自然だ。
「全部」
返って来たのは、光の映らぬ眼差し。自嘲する声の響き。
「俺が過去に彼女を暴行したことも、為と呼ばれた子どもの肉を喰ったことも、親父に性器を押し付けられたことも、淑恵が惨たらしく死んだことも、それで俺が親父を殺したことも」
千尋は下唇を噛み、顔を背けた。こうして…再び話せることを嬉しさがないわけではなかったが、やはり彼は思い出すべきでなかったと思ってしまう。いま耳にしたことを、彼自身が思い出す必要が何処にあったろう?忘れていても…むしろ忘れていた方が彼のためではなかったか。
橙眞由美は、えげつない能力を植え付けて、彼が強引に埋め立てた記憶を根こそぎ表に晒してしまった。
「…彼女は記憶だけでなく、能力も俺の躯に馴染ませた。それで永く死ねなくなったことがわかったとき、いっそお前のところの機械で肉片にでもなれないかと思った。そしたらさすがに死ねるかもしれないと…けどお前の顔を見たら、そうはさせてくれないだろうなと思った」
話す声を聞きながらに、…椿はそれほどまでに罪深いことをしたのだろうか、と思う。自分の感覚はずれているようなので…分からないけれど。…彼は…重た過ぎる記憶を抱いたまま、永久に近い年月を生きなくてはならなくなったのだ。それこそ、発狂してもおかしくはない。
しかし彼は泣くことも嘆くこともせず、覇気のない声で喋り続け、
「だからせめて一度くらいは足掻いてみようと思ったんだが、無駄だった。
 …ただ、それでよかったような気もする」
現実を、肯定した。千尋は…耳を疑い、彼を見た。
その疲れた声とは裏腹に、彼の瞳には薄く光が差し。傷つき弱っていた彼が、顔を上げる。視線がぶつかり、声も出せない。
「これでようやく、自分が仕出かしたことへの責任を取ることが出来る」
椿の、噛み締めるような言葉が、耳を通り抜ける。
(…椿が自身を許せないだろうだとか、考えていたのに、)
(椿は許すことすらしないつもりか。なんだって、そんなことが出来る?)
(そんなのは、椿自身が辛いだけだろうに)
千尋の内心の反発を読み取ったか、椿が小さく笑んで俯き、頭を軽く振った。
「細かいことは気にしないでいい。俺が生きるのを決めただけのことだ」
「けど…!」
記憶を戻したばかり、更に橙眞由美の能力に取り憑かれたばかりで混乱も甚だしいはず、何故そんなことが言い切れるのか。
まだ出会って間もなかった頃、彼に目の前で泣かれたときのことが思い出されて、千尋は動揺するばかりだった。
椿は目障りなほど硬質で綺麗な存在ではあったが、折れてしまえばそこで終わってしまいそうな危うさを持っていた。それはいまも変わらないはずで。
また彼は無理をしているのではないかと千尋としては心配になり、しかし彼の瞳はそんなことはないと主張していて。
「もちろん…全く無理をしてないとは言わないが」
「…不死性を得たのに、まだ前の能力も残ってるのか?参ったな」
「お前の顔に書いてある…なあ、柚谷、あまりらしくない顔はするなよ」
椿の指先が、千尋の目許をなぞり離れた。あっという間、一瞬だけの。
「どうあっても死ねないなら、それだけで十分に重い。それが彼女から与えられたものなら、尚更だ」
「…椿がそれで、平気だと言うなら、俺はかまわないけど」口元を歪めて、笑う。
「ああ。それにお前は、此処から離れる予定はないんだろう?…なら、それでいい」
愛想の欠片もなく椿はそう言って、床に落ちている包丁を拾い上げた。遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきていた。


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