36.心







肩に触れる冷気に目が覚めた。
月の気配。自分が何をしていたのかすぐには思い出せずに、千尋は窓に映る空の瞬きをしばし眺めた。随分長い夜だな、と思った。
身支度を整える。徐々に頭が冴えてきて、眠りにつく前に抱いた記憶と感情がすうっと元の場所におさまった。さいごだと告げた彼の表情。自分の身体を荒らされたおののき。死体になった者達がいて、草慈がその上を歩いてやってきて。暗闇に見上げた椿の姿。彼のものが、
思い出すだけで鼓動が乱れる。椿があんなことをするはずがない。だが、あれは夢ではなかった。
つばき。
そうだ、椿は何処にいる?横を見遣る。誰もいない。
白い布団を捲り上げて、寝室を出る。当たり前のように並ぶ家具達と、吹き飛んだままの死体達。
明かりをつける。
椿はいない。
玄関の扉。早過ぎる朝の澄み切った空気。
門のところにくすんだみどりのコート姿を見つけて、スニーカーを突っかけて駆け寄った。
「草慈!」
「早いな、柚谷。まだ五時前だ」
「椿を知らないか」
缶コーヒーを片手に、草慈は白い息を吐いた。
「知らないな、ずっと此処にいたわけでもないし」
「外に出たみたいなんだ」
「自宅に戻ったのかもしれない」
彼は色のない声音でそう言ったのち、「ちょっと聞いてみようか」と、ポケットから携帯電話を取り出した。電話を耳に押し付けたまま、彼は持っていたコーヒーを千尋に差し出したが、千尋が飲まないので自分で一口飲んだ。
やがて、
「おはよう、瑞樹の兄の橙眞です」
朝五時という非常識な時間にもかかわらず、電話は繋がったらしかった。
「朝早くから悪いね。綾城さんは帰ってる?…いや、息子さんの方の。…お願いしてもいいかな」
草慈はちらと千尋を見て、口を閉ざした。おそらくあの屋敷内を捜してもらっているのだろう。戻っていればいいが、椿があそこに戻ったところで何も残されてはいないだろう。…共に遠くへ行くはずだった、家政婦の彼女を捜しに行った、と辛うじて考えられなくもなかったが、彼女はこのすぐ近くにいるのだ。彼には分からなかったのだろうか。いや、まだ彼が自宅に戻ったとは決まっていない。
草慈が携帯電話を切る。
「戻ってないらしい」
「俺のところに来るくらいだ、椿に他に親しい人間はいないはずなんだ」
いたとしても、彼に救いの手を差し伸べることが出来たかは疑問ではある。
椿は何もかもに絶望しているに違いなかった。彼自身が過去にしてしまったことに追い詰められ、しかしそれでもと足掻いた矢先に実母が見るも無惨な死に方をし、そして彼は厭っていた自身の力で実父を殺めている。彼はとうの昔に足裏で消した一線を、もう一度、描き直して越えたのだ。
誰かが椿の行為を肯定し、彼に許しを与えたところで彼の救いにはなり得ないだろう。
おそらく彼には、彼自身を許すことも懐柔することも出来まい。
昨夜の時点ではそのことに気がついていなかった。簡単に、手を差し出して見守ってさえいれば、長い時間がかかろうともいずれ解決すると思っていた。人間を飼うことを生業としている自分と彼の持つ価値観の違いから、理解が追い付いていなかったのだ。暗闇の中で彼を見上げるまで。
以前までの彼から想像もつかぬ行為に及んだと言うのなら、椿が正常な判断力を失っている可能性を考えるべきだ。
もし時間の経過によって、判断力を取り戻していたとしても、彼にはもはや縋れる希望がない。したがって、後者の方が危ない。
最悪の結果になるかもしれず、こうしている今も気が気でない。喚いても仕方がないのだけは分かっているので、ぐっと堪えているだけだ。
「当てがないわけでもない」
草慈は冷たくもあたたかくもない、程々にぱさついた口調で言った。
千尋が顔を上げると、彼は視線を合わせないまま、
「綾城は俺の母に会いに行っている可能性がある」
「椿は、後妻である君の母を一度殺しているんだったか」
彼女の腹の中にいる子どもが疎ましくならなかったと、以前彼が告白している。
「君の家はあまり近くなかったろう、それこそ電話して確かめてみたらどうなんだ?」
「母は電話には出たがらない。かけることはあってもだ」
どうせそれぐらい調べて知っているのだろうと言わんばかりの素っ気なさだが、事実そうなので言い返そうとは思わなかった。彼の母である橙眞由美は足が悪いのだ。
しかしこれで無駄足になったらという仄暗い不安が、思考に覆いかぶさる。
(無駄になるかならないか…どちらの確率が高いか)目の前に立つ、草慈の瞼、通った鼻筋を視線でなぞる。
過去に囚われていた椿を思えば。
「わかった、君の家に行こう」
告げると、草慈は伏せ目がちに千尋を見た。彼が瞬きをすると、その瞳に影が落ちる。

キーを解除する電子音。
狭い車内は一種のプライベートな空間ともいえるが、草慈の車は売られていたであろう頃よりあまり変化がないようだった。生真面目に清掃しているのかもしれないが、ただ移動することだけに使用しているといった様子でもある。
「気が急いているであろう柚谷には悪いが、飛ばしても三十分はかかる」
「だとしたら、椿もすぐには着かないはずだ。単純な速度なら安全運転するタクシーより速いだろう」
昨晩の記憶から、彼の車に同乗するのはあまり気が進まなかったが、そんなことを言っている場合ではない。先程、目的地を彼の家と定めたのちに、椿が徒歩で移動していることを想定して、周辺を自転車で捜索するも、見つからなかったのだ。既に余計な時間は食っている。
「その時間差が命取りになるかもしれないな」エンジンがかかり、車体が震えた。
「自殺するつもりなら昨日のうちにしてるだろう。それとも、君の母親は椿を殺しかねない人間なのか?」
「思い通りにならなかったら、或いは」できないわけじゃない、と彼は付け足した。
「母親が罪を犯すのを、君には止める義務がある。よかったじゃないか、運転する理由が増えて」
道案内のためだけではあまりに味気ない。しかし、草慈の言うことを考えただけでもぞっとした。
千尋が彼に言った言葉は、自分自身に言い聞かせているに過ぎない。”いまの椿”に、自殺をする気はないだろう。しかし”いまの椿”だからこそ、簡単に『して』しまえるとも思える。
「柚谷は止めなかったんだろう、自分の父親を」
「止めなかったさ。ただね、椿は君の母親のものじゃない」
「…彼女はいつも、同じ子どもの夢を見ると言っていたよ」
同じ子どもの夢?
草慈の横顔を、千尋は半ば睨むように見ていた。どういうことだろう。彼とは、ただでさえ交わした言葉数が足りておらず、発せられた言葉の意味することが分かりづらい。
彼の母親にとって、椿の存在はいったいどういうものだったのか。
自分を暴行した先妻の子どもだ。憎んでいて、当然だが。死なない身体の持ち主の思考が分からない。ついでに、この男の考えることも現段階では意味不明だ。流れている血の半分は同じだろうに、椿とは全然違う。椿は思ったことをすぐぶつけてくるし、顔にも出す。感情を隠すということが出来ない。それに比べて、この男ときたら、柔和な面立ちのわりに表情が少ない。知り合った当初はあまり感じなかったので、ある程度取り繕うことは出来るようだが、人間臭い感情を表に出しても仕方がない、それか出したくないと考えているふしがある。椿のことを問うたときの反応を思い返してみても、決してそれらの感情自体がないわけではない。(あくまでも、憶測だ)。
信号の赤い光が鮮明に輝く。気がついたように、草慈が暖房をつけた。設定温度を上げている。時間帯による冷え込みもあるだろう。まさかコートすら忘れた俺のためじゃないだろうな、と千尋は内心毒づいた。上着といえるものは薄いパーカーしか羽織っていない。無論、草慈がそう言ったわけではない。しかし、そんなささいな心配りが出来るなら、数時間前の行為は何だったのだと聞きたくなる。あんな身体がどうにかなりそうなことを平然とするだなどと。(人の身体をなんだと思っているんだ?)だがいまは、冷静でいるより他にない。
「草慈」
「綾城に関することなら、いまはあまり聞いてやりたくない。正直、心穏やかじゃないんだ。事故は起こしたくない」
「君の母親と椿が接触するのは、君にとっても好ましくないことみたいだな」
草慈にしてみれば珍しく殊勝な発言かとも思ったが、極めて抑圧された、しかしやはり冷たいわけでもない口調で言うあたりは彼特有のものだ。
(考えようによっては、彼はとても気をつけて話しているし、それが習慣づいているともいえる)。(だから彼が冷淡な口調のときは、いや、思い出したくない)。
やがて車が大きな道路に出た。いくつもの街灯が鈍く光っては両端に消えて行く。法定速度40キロという白文字を70キロで踏み越える。
椿のことを考え始めると冷静でいられないのは同意するところなので、話題を変えた。
「君はどうしてあんなことをしたんだ?」
思い出したくないが、聞かねばならぬことでもある。
「柚谷が犯して欲しそうな顔をしていたから」
「ははあ…君が初対面の人間だったら、機械でミンチにしてやるところだ。そして肥え太った親父どもに売り飛ばしてやる」
街灯が途切れ、左右の街路樹が消える。狭い道、目つきの鋭い猫がこちらを見て鳴いたのが口の動きで分かった。
返事はない。…いったい…このひとり空回りしているような気分は何だろうか。彼は心穏やかでないから仕方ない。しかし…。
溜め息をついて、腕を組む。
「正直なところ、草慈の考えていることが俺にはちっとも分からない。君はもっと分かりやすくあるべきだ。そう思わないか?」
「俺は何も隠したりしていないよ。聞かれたことには答えてる。柚谷は何を分かりたいんだ?」
そうだったろうか…と首を傾げる。何も隠したりしていないというのなら、何がいけないのか。言葉数もあるが…感情が伝わって来ないから、分かり難いのか。豊かな感情がないと、人はそれを得体の知れないものと見るのか?
どうすれば言葉の意味が正確に伝わるのか、千尋は指で頭部を揉みほぐしながら、口にした。
「俺は君の気持ちが知りたい。考えもだけど、どう感じているのかってことだ。楽しいのか、不快なのか、辛いのか」
「…」
「そうすれば、俺は君を同じ人間として捉えやすくなる。錯覚しやすい。ああ…勘違いするなよ、俺は君に好意を寄せてるんじゃない。ただ、何を考えているのか不明なのと一緒にいるんじゃ安心出来ないだけだ」
よくある一晩過ごして情が移ったというのと一緒にされては困るし、辱められた事実を正当化しようと加害者に好意を持とうとするのとも違う。分かりにくいと上手く自分のペースに持っていけないようで嫌なのだ。
…それどころか…!隣にいる男と身体を重ねた感覚が甦りそうになり、唇を噛む。頬が赤らみそうになるのを堪え、ちゃんといま自分が言ったことを聞いていただろうかと、彼の顔を視線で捉えた。
すると、車に乗って初めて視線がぶつかった。ほんの少しだけ驚いたような、珍しく年相応の顔をしている…気もしたが、もしかしたら気のせいかもしれない。じっと見つめ返せば、彼は澄ました顔で前方に視線を戻した。
「柚谷は物好きだな」






玄関に綾城椿の靴を見つけたとき、脳内から思考が消し飛んだように思えた。
異物を呑み込まされるような不快感が喉を抜け、胸の中に広がる。
自分でも…何故こうも綾城を忌々しく感じるのか理解出来ない。彼は以前までとは違い、己のしたことを自覚、認識している。思い出したのならそれでいいではないかと思う反面、自分の中に彼を許せない感情がある。何故か?親としての能力は欠落していようと、あれでも彼女は自分の母親だ。母親に危害を加えられて穏やかな心境でいられる子どもはいない。…しかしそれにしても、自分は苛立ち過ぎていると感じる。
彼が、彼女のことを思い出せないくらい、とちくるってしまっていればよかったものを。
「椿が来てるんだな」
僅かに安堵を滲ませた口調で柚谷が言う。彼女を柚谷に会わせていいものだろうか。家族は家族で、常識的な瑞樹ならまだしも、彼女はその外にある。彼女と会わせることで、彼に自分の内側を覗き見られるような居心地の悪さも感じる。しかしここまできて、此処で待っていてくれと告げたところで聞くような性格でもあるまい。
客用のスリッパだけ出して、先に廊下を歩いた。どこか手に馴染まぬ、ドアの取っ手を回す。
灯りがついている室内。淡茶色の緩く癖のある髪が、広がって揺れている。
ソファに腰掛けた青年に、車椅子に座ったまま覆いかぶさる彼女の後ろ姿。
「おかえりなさい、草慈」
振り返って彼女は微笑んだ。
「どうして、」
何がどうしてなのか、自分でも分からないまま、そう問いかけていた。
異物を転がす胸の中が、プールの水でも呑み込んだかのようにすうすうした。
「どうして、彼にキスしていたのかを聞きたいの?草慈」
彼女の手が、青年の黒髪を撫でる。ドアを開けたとき、彼女は彼に口付けていた。驚きこそすれ、彼女の突飛な行動は今に始まったことではない。
…なのに、身体の中が水で満たされていくかのようにつめたい。
「したかったから、したの」
彼女の眼と髪は色素が薄い。
「好きな人に触れたいと考えるのは、いけないこと?…」
それを、自分の子どもに聞くのだろうか。…いや、彼女に母親としての態度を求めてはならないことは、とうの昔に知っていたはずだ。
もしも彼女に好きな人ができて、そうしたいというのなら、そうすればいいのだ。彼女だってひとりの女性だ。止めはしない。
けれど…視野の端に映る…その相手は、綾城椿でないといけなかったのだろうか?
彼のことは、血が繋がりがなくとも、自分の子どもとして見ていたのではなかったか。
「母さんは、綾城を男として見ていると?」問いかけながら、ちっとも面白くもないのに後半は口が笑ってしまった。
なんて陳腐な質問だろう。母親の女性としての側面を認められない思春期の子どものようだ。彼女が誰かに恋愛感情を抱こうと、全くかまわないのに。長い人生、もう一、二回、籍を入れてもおかしくはない。
「分かりやすい言い方をすれば、そうだわ。でも、この子が女性でもきっと同じようにしたと思うの」
彼女の言う通り、人を好きになることに性別は関係ないのだろう。(たぶん、子を成せるか否かの違いぐらいだ)。
しかしよりによって…自分を殺そうとした子どもに向ける感情ではあるまい。
「いい加減にしてほしいな…」
自分でも気付かぬうちにそんな言葉が出ていた。彼女も咄嗟に何を言われたのか分からなかったようで、綺麗な眼を丸くしている。同じ血が流れているはずなのに、彼女を前にすると自分が穢れた人間のように思えてならない。
…一呼吸して、出来るだけ彼女を傷つけないように声の調子を抑えて言った。
「母さんが綾城を好いているのは分かった。ただ今日は、彼の友人も迎えに来ているから、連れて帰るよ」
そうして言われて初めて、彼女の視線が後ろにいる柚谷を捉えたようだったが。
「駄目よ」…彼女の返事は、思いがけず硬く素気無いものだった。
「母さん、あまり聞き分けのないことを…」
「草慈、貴方も覚えているでしょう?瑞樹を眞智子に引き取られたときのこと」
どうしてここで瑞樹のことが出て来るのか。けれど、聞かずとも彼女は勝手に話すので、黙って頷いた。
「眞智子はとても此処に置いておけないと言って、半ば強引に…眠っているあの子を連れて行ってしまった…そうだったわね?」
「ええ」
「私、あの日以来とても後悔していたの。どうして瑞樹を手放してしまったのかって。
 私の日常から、あの子はいなくなってしまったって」

ねえ、草慈。あの子がいないと、さびしくて、たまらないの。
うん。
ねえ、草慈。瑞樹を連れて帰って来て。貴方の言うことなら、眞智子も聞いてくれるかもしれない。
それは無理だよ。僕が瑞樹を分けるところ、眞智子おばさんは見ていたから。

「だから…この子まで手放したくないの、分かるでしょう?草慈」
「母さん…」呼びかけて、溜め息をつきそうになるのを唇を引き結んで堪えた。
どうして…こうも聞き分けがないのだろう。瑞樹のことはもう過ぎたことではないか。眞智子さんが亡くなり、瑞樹は橙眞家に戻って来たのだ(ただし彼女との同居は拒否して、自分の元に転がりこんできた)。それでも時間があれば顔も見せるようにもなったのだし、これ以上何の不満があるというのだろう。
綾城のことも…まるで、息子の自分が彼を厭えば厭うほど、彼女は執着を深めていくように見える。…違う、逆なのか。彼女が執着するから、綾城が疎ましくてならないのか。彼女の執着は、昔の瑞樹に対するものを思い起こさせるので。
こちらの声音に咎める響きを感じ取ったのだろう。彼女は憂いに帯びた眼差しを向けて、言った。
「ねえ、草慈。この子を連れて行くなら、瑞樹に会わせて」
「分かったよ。瑞樹なら、また別の日にでも来させるから」
「いま、会いたいの。この子が帰ってしまったら、わたしひとりだわ」
「そんなこと言っても、こんな朝早く瑞樹を引っ張って来るわけにもいかない。話し相手が欲しいなら、俺が残るよ」
第一、家政婦の女性がいないときは大概ひとりで過ごしているではないか。いつもならもう少し聞き分けがいいのだが…綾城に会えて、興奮しているのだろうか。
「…だめ」
「駄目?」なにが、
「私が会って話をしたいのは、瑞樹なの」


……彼女の言葉に他意はない。
けれど、言われたとき、どうしたらいいのか、分からなくなることは、昔からあった。
自分と彼女はずっと一緒に暮らして来ていたし、引き離されていた瑞樹に思い入れが強くなるのは仕方のないことだ。
…違う、元々彼女は瑞樹を溺愛していたのだったか。どちらにせよ、なにをいまさら。

「母さん、瑞樹は無理だよ、きっと友達と一緒だ。だから、もう少しだけなら綾城と話していてもいいよ」
「もう少しって、どのくらいまで?」
「…簡単に朝ご飯でも作るよ。それを食べ終わったら、彼には帰ってもらう」

綾城がすぐには帰らないと聞いて、彼女は「本当?」と嬉しそうに目を見開いて、無邪気な笑い声を漏らした。
「ねえ、草慈。フレンチトーストが食べたいわ。いつも目玉焼きか炒り卵なの」
「わかった。少し時間かかるから、先に紅茶でも容れるよ」
彼女の喜ぶ声を背に、視線を感じて顔を上げる。
…柚谷はそこらに座ってるといい、空いてるソファはあるはずだ。





実に優雅な紅茶を出したのち、草慈はキッチンに引っ込んでしまった。
彼の母…橙眞由美と椿の姿を眺めながら、千尋がティースプーンでカップの紅茶を掻き混ぜていると。
「お名前を窺っても良いかしら?」
ふわふわとした柔らかな口調で橙眞由美が話しかけて来た。
「柚谷千尋です」ユエ、だけだと下の名前と勘違いされることがある。
「そう、千尋くんは…草慈の好きなひと、よね?」
「いえ、残念ですが彼に好意を告白されたことはありません」
「あら、あの子意外とシャイなのね…でも、貴方はこの子が好きなのね?」
橙眞由美はふふ、と声を出して微笑んだ。シャイどころか非常に手癖が悪いのだが、母親を前にしてそれはない。
「その通りです。僕は今日、椿君を連れ戻すという用件で、息子さんに車まで出してもらいました」
「正直な子は好きよ。でも、貴方がこの子にとって信頼に足る人なら…どうしてこの子は此処へ来たの?傷ついているのは、何故?」
「…」
千尋は微笑を浮かべたまま、内心彼女の心理を推し量りかねていた。
(初対面の人間に随分遠慮なく質問してくるな。それぐらい椿への関心が強いってことなんだろうか?)
草慈との遣り取りを眺めていたときも、なかなか面倒そうな女性だとは思ったが…前妻の息子が好きだなどと本気で言っているのだろうか。
「それは彼が昨夜実の両親を亡くしたことに起因しています。此処に来たのは、過去のことを、ずっと貴女に謝りたいと考えていたからでしょう」
「そう…」
橙眞由美は口を閉じ、俯いたままの椿の頬に手を伸ばした。
何かに思い巡らせている様子で、一度撫ですぐにその手を離し、
「私はその場にいたわけではないから、何にもわからないけれど」
「そうでしょうね。ただ、彼の精神には大きな負荷がかかった」
「あの人、事故や自殺をする人ではなかった……それで…貴方もこの子の心を守ることが出来なかった。そういうこと…かしら?」
草慈を前にしていた無邪気さは消え失せ、ぞっとするほどきちんとした大人の声色で彼女は千尋に問いかけた。
思わずその顔を凝視すれば、彼女は儚ささえも漂う微笑みを浮かべ、こう言った。
「いいえ、決して責めているわけではないの。これは、ただの事実だわ」
「事実?」
「そして彼は貴方のもとに戻ろうとはしていない…」
…千尋は、そっと華奢なカップを小皿に乗せた。
「だとしても、彼は連れて帰ります」
「分かっているわ。でもお食事が終わるまでは待ってくれるんでしょう?」
「そのつもりですが、貴女は息子さんを相手にしていたとき、あまり帰したくなさそうなご様子でしたね」
彼女は透明な瞳で、じっと千尋を見つめた。それから、キッチンにある草慈の背中に視線を移し、
「あの子を見ていると、椿と瑞樹のふたりを思い出すの。たぶん、ふたりともに少しずつ似ているからだわ」
「そして、そのどちらかが恋しくなる、と?」
「ええ」
「…でもそれは、俺には間違っているように思います」
「間違っている?」
不思議そうに聞き返す彼女の瞳から目を反らし、キッチンから料理を持って出て来た草慈の姿を捉える。
(あまり人様のことを言えた義理じゃない…が…)
彼はテーブルに三人分のフレンチトーストを並べ、レタスとミニトマトのサラダやら切ったオレンジを盛りつけた器、そして新しい紅茶を置いた。それから、飲み終えたティーカップを持ってキッチンに踵を返し、手早く洗って片付けるなり、部屋を出ようとした。
千尋は立ち上がって、彼の背に声を掛けた。
「草慈は?」
彼は背を向けたまま、
「俺はいらない」
静かな口調で拒絶した。


「千尋くん、冷めてしまうわ」
名前を呼ばれて、その場に立ち尽くしていた千尋はゆっくりと後ろを振り返った。
穏やかで幸福そうな食卓の姿。フレンチトーストの香ばしい香り。
橙眞由美の隣に座る椿の姿を認め、一瞬の逡巡ののち、千尋は部屋を出た。

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