35.きこえない




手のひらで口を塞ぐ。頬骨に指先が食い込む。
刃先を埋めたまま力を込める。
不規則に痙攣する身体。
見開かれた瞳の中に、魚が視えた。








何処かで落としたのだろうか?
と、頭の中にしまい込まれている記憶を突つきかけ、首を振る。不適切な言い方だと感じた。落としたのではなく、見失ったが正しい。だが、何故。意識のないそれがひとりでに動くはずがない。
戸惑いが薄く思考を覆う。けれど戸惑いきれず、取り残されている部分も少しだけある。それの喪失に現実感がない所為だ。
先程まで隣にいて、日焼けしないようにと気遣ってさえいたのに、いざいなくなると本当にいたのかどうか確信が持てない。いったい、自分は何に対して気を遣っていたのだろう。見ているつもりで全く見ていなかったのなら、見失うのも当然だった。
けれど、いまは実感が伴わないだとかを考えている場合ではない。自身の感覚がどうであれ、これが現実であることには変わりないのだから。
果たして、それはいつからいなかったのか?家で乗せたときには確かに乳母車の中にいたはずだ。重たいのを抱えて下ろした記憶がある。もしも、この時点でそれがそれでなかったら、もはや自分の頭が信用出来ないことになる。そうでないことを祈りながら、新鮮さの残る記憶をなぞる。
家を出て道中、呼吸をしているのは確認した。
だが、この公園に到着した後は、一切顔を見ていない。
(考えながら、ふと自分の身体が意識的に呼吸しようと努めているのが感じ取れた。)
自分でない誰かに確認しようにも、此処には誰もいない。
そう、此処には誰もいなかった。
だから誰もそれを攫ってはいない。
途中、うとうとしてしまったとはいえ、第三者が近づけばさすがに気付く。

ああ、困る。これは、面倒なことになった、と思う。

近隣に住むおとなたちだとかに、おとうとがいなくなりました、と泣きつくべきだろうか。多分、大人と一緒には来なかったのかと聞かれ、母である彼女があることないこと言われてしまうのだろう。保護者としての責任を果たしていないだとか。事実そうなのだけれど、それを非難がましく口にするのは意味のないことだ。何故なら彼女にそんなことはできない。彼女にそれは届かない。彼女は普通の大人とは違うのだ。
彼女は子どもから大人になり、そして死んで、また生きている。
大人が死んだら何になるのだろう?
彼女を見ていて分かるのは、もう普通の大人には戻れないのだろうということだけだ。普通であることを装うことすら、やめてしまう。そうすることに、何ら価値を見出せないのかもしれない。死ぬことで価値観が変容するなら、彼女はそれらを求められることすら不思議に思うだろう。
けれど、ならどうするべきか。闇雲に動いて見つかるだろうか、どうやって見失ったのかも分からないのに。
効率を考えれば、一人でなく大勢で捜すべきなのだろう。彼女に非難が集中するのは、きっと一時限りのことだろうし、彼女も外部の人々が何を言おうと大して気にはしないだろう。(「私でないのに、どうして私のことが理解出来るのかしら?」と首を傾げるくらいはするかもしれない)。それよりも心配なのは、それがいなくなったと知り、挙げ句見つからなかったときに彼女自身がどうにかなってしまうのではないか、ということだった。彼女は、自分自身を責めて塞ぎ込んだりする人間ではないものの、過去におかしくなりかけたことがある。
いったい何年前の話なのだろう?当時、妊婦だった彼女が暴行を受け…病院に運ばれた後、自分たちは拾い上げられたのだけれど、明らかに普通でなかったとのことで…特にそれの方の肉体が欠けたりしていたので、精神的に打撃の大きかったであろう彼女には存在すら知らされなかった。おそらくそれで彼女も自分の子どもたちは亡くなったものだと思い込んでいたのかもしれない、帰宅した彼女は自身の腹を切り裂き、あの子どもをそこに入れようとしたのだ。
どうしてそんなことをしたのか?それは直接彼女に聞いた。
「誰でもいいから中に入れてチャックをすれば、何もなかったように錯覚出来ると思ったの」
そうして無謀過ぎる行為の末に死んだ彼女の元へ、自分たちの存在が伝えられ、不確かな年月を経て現在に至るわけなのだけれど、未だそれは目覚めず、肉体の成長すら覚束ない。手がかかる分可愛いのか、彼女はそれを溺愛している。
それがいなくなったとなれば、彼女はまた錯乱するだろう。面倒なことになる。
(だけれども)生い茂った葉っぱを掻き分けながら考える。
それの存在が、世間に知られるのはまずいだろう。乳母車で散歩するくらいなら問題ないだろうが、捜してくださいとお願いして回れば、多くの人間にその異常な存在を知られることになる。目覚めることのない子ども。ESPの存在が社会的に明らかになるにつれて、風変わりな人間もいくらか認められるようになってはきたものの、その存在を疎ましく思う人間は未だ数多くいる。何せそれらは得体が知れない能力を持っている。特殊な能力を持たぬ人々からすれば、不気味な存在には違いない。
もしも、今回のことでそれの存在が知れ渡り、害意を抱く人間が現れたとして、どうやってそれを守ればよいのだろう。家にはセキュリティもかかってはいないし、時折施設の人が来るとはいえ、基本的には自力で歩くことのままならない女性と子どもしかいない。押し入ろうとすれば簡単だ。場合によっては、彼女も危害を加えられるかもしれないし、そうなったら、大人になりかけの、つまるところやはり子どもでしかない自分に、彼女とそれを守り通すことは果たして可能なのだろうか。
顔を上げて、公園内をぐるりと見渡す。
殺風景な公園の中に隠れるところは見当たらない。ちいさな子どもがかくれんぼをするには向いてないな…と考えながら、上ってきた坂道を見下ろす。失せ物をした現状には似つかわしくない爽やかな陽光。もう一度ベンチに寝転がり、瞼を閉じたらそれが戻ってきてやしないだろうか、と空想する。何の意味もない。時間がいたずらに経過するばかりだ。
たぶん、帰った方がいいのだろう。
ただ、彼女の顔を見たくなかった。言われるであろう言葉も聞きたくなかった。
けれど、どうせ明らかになるなら、此処にいるよりも早いうちに報告した方が事態は良い方向に進むのだろう。そう、帰ってたとえば、施設の人に連絡を取るのだ。彼と彼女たちなら、彼女に害意を及ぼす恐れもない。どのぐらいの人数が来てくれるのかは分からないけれど、自分一人で捜すよりはずっと良いはずだ。
そうしよう、と乳母車を引き摺って、はた、とこの場を離れることへの不安が芽生える。
それは戻って来るかもしれない。そのときに、自分がこの場にいなかったら、と。
考えているだけ時間は流れて行く。この時間の浪費が、事態にどんな影響を与えることになるのだろう。
いっそ木の枝に留まっている鳥が、伝言を括りつけて施設まで飛んで行ってくれないだろうか。だけれど、鳥は人間の言うことなんて聞いてはくれないし、伝言を書き記す紙切れすらいまは持ち合わせていないのだ。駄目だ、また無駄なことを考えてる。
次に視線の先に映ったのは、坂道を少し下った先にある電話ボックスだった。遺産じみた代物であるものの、まだ使えるはずだ、と乳母車を放り出し、駆け足で近寄る。薄いオレンジ色の四角い機体。ドアを開けて、受話器を手に取ろうとして気付く。
今日は散歩だけのつもりだったから、お金を持っていない。







柔らかい粘膜の襞。息を吐く。いまは息ができる。
彼女のもとへ行かなければ。
でも彼女とは、だれのことだったろう。咄嗟に、おもいだせない。どうかしてる、彼女のことをすぐに思い出せないだなんて。電話で話していた。だれが…彼女の子どもが。彼女の子どもが電話で話していた。(落ち着けよと自分に言い聞かせる)。膨れていたお腹の中身だ。ちがう、あれば潰れて、何処かにいってしまった。のこっているわけがない。でも、彼は彼女のお腹がなくなったことを知っていた。あれは彼があの中身だったからなのではないのか。否、おそらく彼女から聞いたのだ。中身は何処かにいってしまったのだから、のこっているわけがない。
彼女に謝らなければならない。何故そうしなければならないのだろう。ひとごろしだからだ。彼がそう言っていた。
おれが彼女を殺したのだと。だが、彼女は死んでなどいなかった。ころしたのは、あのおとこだ。あのおとこが、彼女を扉の奥へ連れて行き、そこから出て来たときに彼女はもう息をしていなかった。だから…でも、おれだってあのおとこをころしたじゃないか?あのおとこの精神に、異様な干渉を、圧力をかけて。ああ、あいつの精神の汚さときたら、下水道に溜まった澱のようで、さわったら同じように汚くなりそうなぐらいで。けれどそうしなければいけなくて。
だってあの男は淑恵を殺したんだ!
だから、殺した。
ああ、やっぱり、けっきょく、ころしたんじゃないか。否定したのに。三度目はないといったのに。

あのとき、彼女のお腹の中で溺れていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。

所詮は同じだと、分かっていたなら。
…いや、同じどころか、あいつよりもずっと汚い。







ドアを押し開いて外へ出た。







硬貨の一枚くらい何処かに落ちていやしないかと、公園までの道筋を戻ってみたけれど見つからなかった。
くすんだ色のコンクリートとの境目、茶色くやや湿り気を帯びた地面を踏みしめる。
立てかけられたままの乳母車。光を透かす鮮やかな緑の葉。

不意に、背中にだれかの強い視線を感じた。

振り返らずとも分かるほどの。
静寂に、せわしない鳥の羽ばたきが大きく響く。
瞳を尖らせた野良猫が、口の回りに血をこびり付かせて前を歩いて行った。
そいつは悠々とした足取りで、余所見ひとつせず塀を越えて姿を消して。
その猫が来た方向、ベンチのあるイチョウの木の根元を見遣れば、何羽もの鴉たちが蠢いている。
視線はその黒い塊の中から感じた。
目を凝らす。人間らしきものは見えなかった、が。
"目"があった。
まばらに飛び立つ鴉たち。残り、執拗に嬲り続けるものもいる。強烈な飢えに取り憑かれたかのように。まだそれは削られ続けていた。
血が、あかい。(ほんとうにそれは生きていたのだ)
「   」呼ぼうとして、声にならなかった。またしても、なんと言えばいいのか分からなくて。(不適切)それに関して、あまりにも脳はのろのろと動いた。
くちばしの先に咥えられた細い筋が、切れる。

「瑞樹!」

鴉を素手で払いのけ、それに覆いかぶさる。険のある声で鴉が鳴いた。それは千切れて転がっていた。産まれたときよりもっとひどい状態で。繋ぎ合わせ方すら分からないくらいに。ただ『彼』の目玉は開いてこちらを見ていた。意思のある目。怖気が走る。
どうしたらいいのか、さっきよりも分からなくなっていた。
ただひたすらに、無我夢中で、彼を掻き集めて乳母車に乗せて日除けを引き下ろした。誰にも見られてはなるまいと思った。乳母車の布地はたちまち湿り気を帯びた。一目見て異様だと悟られる。いっそ全部喰わせてしまえば。駄目だそんなことをしたら、彼が無くなってしまう。ただでさえ残り少ないのだ。他に落ちている部分はないかと色の異なる土の周辺を見渡して、一足彼の履いていた靴下を見つけ拾い上げた。薄い水色と白の縞模様の。見覚えのあるものであることを確認して、息が…止まりそうになった。
その靴下の底面は土でじっとりと汚れていた。

”彼は自力で歩いて此処にいた”のだ。

何故なのかは分からない。猛烈な吐き気に見舞われて、その場で吐いた。
しゃがみこみ、手が血泥に汚れるのもかまわずにその靴下を握りしめる。捨てたくとも、捨ててはいけない、そうする余裕さえなかった。
息を吐く。意識的に、呼吸を二度三度繰り返した。背中を伸ばして身を起こし、手のひらのものを乳母車の隙間から押し込む。
来るときには大変だった坂道も、帰りは下りということもあり、乳母車は軽やかに走り出さんとした。それを引き留めて…そうしないと飛び散ってしまいそうだったので…ゆっくりと道を下った。誰にも会わなければいいのにと考えながら、わざと辺鄙な道を遠回りして辿った。車さえ通れないような道。自分は何を連れて帰ろうとしているのだろうと思っても、日除けを上げてまたあの目と見つめ合う勇気はなかった。
自分の心臓が大きな音をたてて動いている。生きてる。けれど、乳母車の中の彼のはきこえてこない。いつからかは、分からない。確かめたことなどなかった。
車輪…動作にわずかにもたつく。見れば、手が震えている。大丈夫だ、もうすぐ家に着く。へまをしなければ、問題ない。角を曲がる。家の前に、近所に住む年老いた女性がいる。何故。視線。距離はまだある。おさんぽ?えらいのね、これ回覧板なの。近づくな。乳母車から手を放し、回覧板を受け取るために前に出る。多少の愛想笑い。自分の年齢なら、少しくらい素っ気なくしても、恥ずかしがっているのだと思われる。弟くん、いまいくつぐらいになったの?見たがる。これ以上、近づけてはいけない。何気なく下げる。気付かない。急いで踵を返して離れるのは簡単でも、そうすると彼の軽い部分が落ちてしまう恐れがある。はっきり拒絶するしかないか。口を開く。「あの、」間。緩んだ表情。
「あ、草慈くんおかえり!」…唐突に玄関の扉が開き、施設の女性が朗らかに顔を覗かせる。
彼女はいそいそと、しかし図々しく乳母車を奪い取って家にしまいこみながら、老女に頭だけ下げた。顔はこちらを見ている。
「クッキー焼けたから、冷めないうちに食べてくれる?」
「…はい」
玄関の扉が閉められる。乳母車に蹴散らされ、乱雑に散らばった靴たち。
彼女は日除けを上げて、彼を”点検”した。
「すごいね、鳥の餌にでもなったみたい」
「みたい、じゃなくて、なったんです」
「大丈夫?草慈くん。顔色悪いよ」
近くなる彼女の顔が不快で、首を振った。それに気付いた様子もなく、彼女は再び乳母車を覗き込んで、こう言った。
「ねえ、草慈くん。きっとこの子は元に戻るから、平気だよ。もう兆候があるの」
「そうですか」
「だから、ね、この部分…こことここはいらないよね?」
振り返る。彼女が手にしているのは耳朶と腸の一部だ。意味が分からず、じっと彼女の顔を見つめると。
「ねえ、このいらない部分私にくれないかな?もちろん、ただでとは言わないから」
「ただでとは言わない?」
「そうよ。いくらなんでも、ただ貰っていくんじゃ私が悪い人みたいだから。…これぐらいあれば、今日のおやつくらいは買えるんじゃないかな」
手渡される一枚の紙幣。「でも、今日はせっかくクッキー焼いたんだから、それも食べてね」と、言い残し、彼女は彼の一部を小さな密閉パックに入れて戻って行った。鼻歌を歌いながら。
汚れた乳母車をたたむ。散ってしまいそうな彼を近くにあったお菓子の丸い缶の空き箱に詰めて、靴を脱いで家に上がった。
靴下が擦れて、足を滑らせそうになる。
「おかえりなさい、草慈」
彼女は穏やかに微笑んでいる。手元の缶を見て「どうしたの?」と聞かれたので、「瑞樹が入っているんだ」と答えた。
伸ばされた華奢な腕。彼女はうっとりとした様子で、
「なんて素敵なのかしら」
缶を撫で、唇を優しく持ち上げた。予想していたよりは随分と落ち着いた反応だった。…彼女はこの現状を、理解出来ているのだろうか。指先を擦り合わせてぬめった感触をまぎらわす。先程の施設の女性との遣り取りを告げれば、口元に手を当てて、控えめな笑い声を零し。
「なら草慈。そのお金で苺のミルフィーユを買って来てくれる?せっかくいただいたのだもの」
クッキーがあることを指摘すれば、秘密よ…あの人のクッキー、とてもぼそぼそしているの、だから。と。
「貴方も自分の好きなケーキを買って来たらいいわ」

近所の小さなケーキ屋に足を運んだ。
ショーケースの中には綺麗なケーキが並んでいる。彼女の欲しがった苺のミルフィーユは上段に二つ残っていた。
好きなケーキを買って来たらいい、と彼女は言っていた。此処には、焦げ茶色のチョコレートケーキも、薄ら焼き色のついたミルクレープも、みかんやキウイの入ったフルーツケーキもある。…ショーケースに手をついたまま沈黙する。
…自分も苺のミルフィーユがよかった、だとか、少しだけ思う気持ちもあるのだけれど、そうすると、彼女は気分を損ねるだろう。(ひとつしかないものと、ふたつあるものとでは、価値が変わる)。少し思っただけなので、それは大したことではなかった。それよりは、ケーキなんて別に欲しくないのだという気持ちが、奇妙な重しとなって胸の中を圧迫していた。いらないのに見ていても仕方がない。けれどせっかく、彼女が買って来てもいいと言ったのだし、何かは選ばなければ彼女の善意が無駄になる。(だけど本当に欲しいのは、ケーキじゃない)。
幼い癇癪。こんな気持ちはすぐに消える。

「ただいま」

扉を開けると、先程までと同じ場所でまどろみかけていたらしく、「帰っていたの」と彼女は顔を上げた。
買って来たばかりのケーキを小皿に取り出し、銀のフォークを添えて彼女の方へと差し出す。空き箱を潰して、ゴミ箱へと入れると、後ろから「貴方の分は?」という声が聞こえた。か細い取っ手のカップに紅茶を注ぐ。
「あの人が作ってくれたクッキーがあるから」
「そう?貴方って本当に真面目な子ね」
浮ついたところがまるでなくて、私の子どもじゃないみたいって、ときどき思うの。



数日後、彼は相変わらず歪なかたちをしていたが、いくらか人間らしさを取り戻しているように見受けられた。
そんな彼の眠る部屋に施設の女性が入って行くのが見えて、なんとなく気になって珈琲を容れる手を止めて後を追った。
「   さん」
声を掛ける。彼女は彼の右手首を持っている。それぐらいのこと、何とも思わないのに、彼女は後ろめたそうな顔をしていた。だから、後ろめたいことをしようとしているのだな、と思った。
「何をしているんですか」
「草慈くん」
彼女はおどおどと目許を歪める。見られて動揺するくらいなら、もっとこっそりと入り込めばいいのに、どうしてそうしなかったのだろう。もしかして、発見されるのを期待していたのだろうか。彼女の態度はそうとも取れる。そして散々視線を泳がせたのち、彼女は薄く微笑んだ。
「草慈くん。この間は、ありがとうね」
あまり聞きたくはなかったが、視線で先を促す。
「みんな喜んでた。一段と研究もはかどりそうだって。それでね、もう少し貰えないかって話になったの」
「瑞樹を?」
「何度も申し訳ないって思うよ、でも、これっきりにするから、ね?」
申し訳ないだなんてちっとも思っていないのに、どうしてそんなくだらない嘘をつくのだろう。へらへら笑って許しを請うぐらいなら、勝手に持って行ってくれればいいのに…けれど彼女が部屋に入るのに気付かぬ振りをしなかった自分もいけなかったのだろうか。それとも、いけなかったのは…一度でも彼女の要求を受け入れてしまったことか。優しく微笑んだ”彼女”の顔が脳裏に浮かぶ。ベッドに転がる、彼を見下ろす。
「そうしてくれたら、補助費も増やす。草慈くんだって、これから学校でもっとお金が…」
「…母に聞いてください」
「草慈くん」
「ぼくには答えられない」
段取りが増えたことが億劫なのか、彼女は期待が外れたとでも言いたげな声を出して、部屋を後にした。けれど元々、彼は”彼女”の所有物で、許可を得るなら彼女のもとへ行くのが筋だ。そう思いながら、部屋を出ると、”彼女”が微笑んで待っていた。施設の女性と二人並んで。
「ねえ、草慈も聞いたんでしょう?この人の話」
少しは。
「私は、とんでもないはなしだって、思ったわ。あの子の身体を切り取らせてほしいなんて」
…僅かに目を見張り、母である彼女を見る。先日のこともあり、彼女はあっさり許してしまうのだろうな、と予想していたのだ。驚嘆や批判をする必要もない、取るに足りない話だと言わんばかりに。隣に立つ施設の女性は冴えない表情を浮かべている。
よかった、今日はおかしなことは起こりそうにない。
「だってこの人ときたら、あの子を養殖可能な食材か何かだと勘違いしているのだもの。そんな人に、あの子にふれてほしくないわ」
「誤解です、橙眞さん。私は瑞樹くんを大切なお子さんだと考えています」
「違うわ。だって貴女…欲に眩んだ目をしているもの。私の瑞樹を汚い目で見るのはやめて」
橙眞さん、と、施設の彼女はつぶやいた。自分の希望を理解出来ないこの親子はどうかしていると言わんばかりの目で。
けれど、そんな視線で見られる筋合いはない。社会に適合しているはずのこの女性だって、十分どうかしてしまっているではないか。保護者である彼女のいつに無く毅然とした態度も、心強く感じられた。
「とにかく、瑞樹にふれるのは貴女以外の人間にすべきだわ」
この奇妙な言葉を聞くまでは。
「…母さん?」
「瑞樹の一部を提供することは、施設にお世話になっている以上、ある程度仕方のないことだわ。私もそうされて育ったもの」
施設の女性の目に、鈍い輝きが戻る。
「橙眞さん…!」
女性は彼女の手を握ろうとして、振り払われた。表情が瞬く間に翳る。…風が強い日に、太陽が頻繁に雲に覆い隠されるのとよく似ている、と思った。
そうした空の動きを、遠目に眺めていられたら、どれだけよかったろう。
「あの子もESPである以上、そうした経験は必要だわ…自分が普通でないことは、早めに知っていた方が傷も少なくていいはず」
…なのに今回のことを、この人はそう捉えるのか。
勿論、自分がESPではないから、彼女に理解出来て、自分には理解出来ないこともたくさんあるのだろう。けれど、普通でないことを彼が、”普通でないからこそこうなったのだ”と、認識出来るものなのだろうか。そして…『貴女以外の人間』は、限られた人間しかいない。
会話は目の前でなされているはずなのに、後ろから得体の知れない何かに影を踏まれた。
「だから瑞樹の一部を切って運ぶのは、草慈の仕事にするべきよ」
草慈なら、瑞樹を汚い目で見たりしないもの。彼女は聞き間違いでもなんでもなく、そう言って、こちらを見た。綺麗な目で。
「母さん」
どうしてそんなことを言うんだろう?
「ぼくは、したくない」踏まれた部分が、へしゃげていく。
「分かってるわ。でも、したがるような人には、させたくないの」
瑞樹が汚れてしまうから。だけど、でも、だとしたら。
「やってくれるでしょう?草慈、お兄さんだものね」
大丈夫、つらいのは最初だけよ。そのうち慣れるわ。











寝心地の悪さを感じて、目を覚ました。
視線を壁に掛けられた時計を見遣る。午前四時。起きるには早過ぎる。しかし、ソファの上では二度寝する気にもならない、と身体を起こす。
他人の部屋。開け放たれたドアの向こうに寝室が見える。二つの影。換気が必要かもしれない。だけれど窓を開けたらきっと寒いだろう。
彼は…どんな気分なのだろう?言葉を交わしたかった。ただ、彼を起こしてまでそうしたくはなかったし、この部屋から出たい気持ちもあった。
なので、コートを羽織って、生臭い死体を跨いで外へ出た。
空には無数に瞬く星が見えた。



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