34.呑込む







ゆりかごの中の生き物は、やわやわとしていて頭が重たい。女の子が遊ぶお人形はきっともっと軽いのだろうと思いながら、やたら長いお包みを引き摺り持ち上げて、乳母車に移す。…赤ちゃんには日光浴が大事であると雑誌に書かれていたのを、彼女が目敏く見つけて以来の習慣。
閉鎖的な世界に生きている彼女は、俗世の決まり事(何曜日が燃えるごみの日で、家の中の電気や水道がただではないということなど)にあまり関心がないのに、時折こうした気まぐれを起こす。何かしらが彼女の心を動かすのだろうけれど…勿論、何もなければ当然心動かされはしないのだけれど…その何かしらを察することは困難だ。そうして心動かされたとき、それらの素晴らしさや驚きをまた別の誰かに伝えずにはいられないと言わんばかりに彼女は口を開く。「ねえ、草慈?」。此処には限られた人間しか出入りしない。
昔はもう少し落ち着きといえるものも持ち合わせてはいたのだ。けれど、長いこと心臓を止めていた間に、彼女の中の大人の部分の大半は、酸素が行き届かず壊死してしまったらしい。外から覗いて確かめることはできないけれど、そのときの彼女のお腹の中にいれば分かることだ。信じられないことに、彼女は長いこと死んでいたのだ。死んでいた彼女のお腹から取り出されて、自分は此処にいる。流れたとか流れないとか、実際どうだったのか分からないけれど、当時はまだ彼女の一部だったに違いないので、ちょっとした衝撃で死亡するということはなかったのだろう。彼女も彼女なりに、あのときは必死だったのだし。考えてみれば、あのときが一番彼女が大人らしい時期だったのかもしれない。いまとなっては見る影もない、わけではないけれど、すっかり少女のような有様。彼女自身が、大人に戻る必要性をもう感じていないのではないか?それを、彼女の子どもとしてどう受け止めていいものなのかは、未だに分からない。
「じゃあ、お願いね、草慈」
あの育児雑誌は確か…ESPに関して研究しているという施設の女の人が持ってきた。その施設は現在の生活費の半分以上を援助してくれていて、その女の人も顔馴染みの人だ。雑誌を持ってきたのも、毎日、彼女が退屈しているのを見かねてのことなのだろう。それはかまわないし、有り難いことなのだと思う。けれど、みな、何を勘違いしているのか…もうこの生き物は赤ん坊ではないので…乳母車に乗せるだけでも、一仕事だ。頭を最初に目一杯押し込まないと落ちてしまいそうだし、抱え上げて優しく下ろすなんて、大人みたいなことはまだ出来ない。
外に出ると、近隣の家から金木犀の匂いがした。道路沿いの日陰。生き物の、青白い肌。この間散歩したときは、赤く日焼けさせてしまって、彼女に咎められた。(「こんなに赤くなって、気をつけてあげなきゃだめよ、草慈?」)なので今日はしっかりと乳母車の日除けを下ろしてから、ここ最近覚えた道を歩き始めた。自分と同じくらいの子どもとはあまり顔を会わせたくなかったので、スクールの通学路とは正反対の方向へ。それでも、子どもが乳母車を押しているのは目立つのか、こちらの道でも知り合いが自然と出来てしまう。同じ散歩道を歩くことを日課としているおばあさんだとかに、四角い透明な膜に包まれたゼリーを貰うこともある。これは何かと尋ねたら、おばあさんはオブラートだよ、と笑っていた。食べられるから、剥いたりしないでいいからね。
途中で食べると口の中がべたべたするのでポケットに入れて持ち帰ったら、彼女はそれを手に取り、宝石みたいと笑みを零した。
「誰に貰ったの?」「散歩してたおばあさん」「ならいいの。でも、知らない人からものを貰っちゃだめよ。何が入ってるか、分からないもの」「おばあさんは知らない人だったよ」「いかにも、な雰囲気を出してなければいいの」「ふうん」彼女が一般論を話すのは少しの間だけだ。たぶん飽きてしまうのだろう。とにかく、それは今日でない日の話だ。
乳母車を押して坂道に差し掛かる。この乳母車は遠くに住む眞智子叔母さんが買ってきた。二人は見た目も中身も全然似ていない。
こうした散歩は果たして意味があることなのか…決して目を開かない生き物を見下ろし思う。顔の前に手のひらを伸ばすと、呼吸を感じるので、生きているのは確かだけれど。
坂道を上り切った先に、さびれた遊具が二つ三つあるばかりの、こじんまりとした公園がある。ベンチに腰を下ろし、力を込めていた手首を振りほぐす。名前の知らない鳥が鳴いている。雲が流れ、太陽が隠れてはまた顔を出す。めまぐるしい。しばらくして、のどの渇きを感じ、立ち上がった。
乳母車の日除けが覆いかぶさっているのを確認し、五メートルほど離れたところにある水道の蛇口を捻り、屈み込む。冷えた水は独特の味がした。ベンチに戻り再び腰を下ろす。仰向けに寝転がり、忙しない太陽を視界から遠ざけるように目を閉じた。僅かな睡魔が瞼を揺らした。
眠ってしまいそうになったので、身体を起こした。自分だけならまだしも、今日はそれを連れているのだ。何が起きるわけではないだろうが、何か起きてからでは遅い。そう思って、乳母車の日除けを捲り上げた。
どうしたことか、そこには何も乗っていなかった。











睦月が記憶を取り戻し、新が此処へやってくる。
泊まり客の来ることだけを、ユミさんのところにいる保護者に瑞樹が連絡したところ、彼はすぐに帰ってきた。冷蔵庫の中の具合と部屋の中が乱れていないことを確認して、「俺も今日は出掛けないといけないから」と、言った。帰ってきたばかりなのにまた出掛けるのかと、遊んでばかりいる子どもに対する親のような台詞を言ってみると、彼は「うん」と答えた。どこか、心此処に非ず、という顔で。まるで本当に子ども返りしたみたいに。やれやれだ。
けれど、ユミさんのところに行ってきたのだから、多少幼くなっても仕方が無いのかもしれない。あんな浮世離れしていても彼女は彼の母親なのだ。たとえ、ユミさんが彼に聞き分けのない態度を取ることがあって、その逆がなかったのだとしても、それは変わらない。
「じゃあ、火の元には気をつけること。知らない人が来ても、ドアは開けないこと」出掛け間際の彼は、いつも通りの彼だった。出来た子どもが、そのまま大人になったような、何を考えているのか分からないような。
それが昨晩のこと。いまはもう、夜が明けている。
草慈が出掛ける前に焼いていった鮭の西京焼きは夜のうちに食べてしまい、いま鍋の中に残っているのは豚汁だけだ。量は十分あるし、バターと食パンもあれば冷蔵庫にラップで包まれているご飯だってある。材料もきちんと整えられているので、いざとなれば自分で料理することも出来る。けれど、いったい彼はいつ帰って来るつもりなのだろう?もう、まもなく昼になるというのに。鞄があるので、直接大学には行っていないのだろう。…まさか新が帰るまで、彼も帰って来ないつもりなのだろうか。親子ではなく、友人水入らず?家事が趣味のような彼にとっては、せっかくの大人数分の料理を作るチャンスだろうに。(ちなみに、彼が最も好きな家事はアイロン掛けである)。せめて置き手紙ぐらい…いや、直接顔を会わせていたのに、それは変だ。
そう、変だけれどそれはそれとして…あまり考えても仕方がないことだ。
新は十三時にはやってくると睦月に聞いた。あの後…新が外泊届けを出したという電話の後に、彼はもう一度電話してきたのだ。情報はより詳細なものになっていた。全く、正気の沙汰じゃない。けれど、そう言ってやったところで、彼は澄ました顔で「何が?」というに決まっている。それか、「瑞樹にとって必要なことだと思うから」だとか言うのだ。かなり余計なお世話だ。
瑞樹は壁掛け時計を見上げた。
時計は黙々と針を進めている。睦月によると、この後自分たちは神社にお参りに行くらしい。無論、誰一人として神妙に頭を垂れる者はいない。目的は神社に隣接する公園の露店なのだ。聞けば新からのリクエストとのこと。その後、新はこの家に一泊し、睦月自身は夕方か夜には帰る。子守りは睦月の方が得意だろうに。夕食は何も考えていなかったが、もし草慈が帰って来ないのだとしたら、新の面倒を見ながら適当に調理しなければならない。ジャンクフードで済ませられたら良いのに。周囲は彼を病院に隔離し、病人のように扱う。ちょっとでも、異常値が出たら責任を求められるかもしれない。(たとえば、プリン体が多過ぎるだとか)。なら此処に居させている間ぐらいは、真っ当に世話してやったほうが自分のためにもなる。どうせ明日になれば、朝一の新幹線で新は帰る。
どうして、新は今日此処へ来ようと思ったのだろう?
時計の針が、十二時半を指す。そろそろ迎えに行かなければならない時間だった。






「ミズキー!」
駅前に到着したのは十二時五十分だった。新が満面の笑みで喚いているのが見える。
一方で隣に立つ睦月の澄ました顔ときたら。どう見てもキミの連れだし、もう少し静かにさせても良いのではないだろうか。
心の中でそんな苦情を呟きつつ、瑞樹は二人に近づいた。
「おはよう、瑞樹」
「おはよう、むうみ…んじゃなかった、睦月」
「ミズキ!ミズキ!」
「おはよう、新。今朝は何食べてきた?」
「ゼリー!とご飯となむる。ミズキは?」
「豚さんのお肉が入ったスープ」

先を走る新の首に首輪でも括りつけておきたいなと考えながら、神社までの平坦な道のりを睦月と歩く。
「瑞樹のところの、橙眞さん。新が泊まるのOKだって?」
「電話では特に気にもされず流された模様。昨晩から出掛けてて、今日はまだ帰ってきていないけれど」
「僕のところも、昨夜はみんな出掛けてしまってね、広い屋敷に僕以外誰もいないみたいだった」
「そしてだれもいなくなった、って、どういうシチュエーションの話だったっけ」
語りどころの一人が残されていたのか、それともその人間すらいなくなっていたのか。後者だった気もする。
「もしかしたら、このまま誰も帰って来ないかもしれないと思いながら、今日は出てきたんだよ」
「夜逃げしたんじゃない」
「それに近いことが起きたのかな、とは思っているんだけども」
だとしたら、睦月の住まい問題にも直結するわけなのだけれど、彼は呑気に此処にいる。住まいなんてどうにでもなる、とでも考えているのだろうか。頼むから転がり込んできての同居だけはしたくない。少し前までの綺麗な睦月なら考えないこともなかったが。
「母さんがああなったことだし、僕もそろそろ大学に戻らないとね」
「中退しようとは思わないの?」
「うん…入ったからには出ておいた方が良いだろうし、お金は大学を出られるまで持ちそうなくらいには、あるから」
多分親御さんが貯めていたお金だろうと想像はついたけれど、口には出さないでおいた。睦月の家族関係を考えると、誰に同情すべきか、そもそもしなくていいのではないかとか、よく分からなくなって来るのだ。詰まる所、親子ともどもおかしいのだ。
「警察から電話とかないの?」
「あるよ、たまにね」母さんは精神鑑定を受けたとか聞いたよ、と睦月。狂っていると、罪には問えないんじゃなかったかな。この法律は昔からちっとも改善されないね。
同意を求めるかのような睦月の眼差し。新が早速綿あめ屋に飛びついているのが見えたので、返事をせずに足早にそちらへ向かった。
「あ、ミズキ!おれ、これ欲しい」
「新はお金持ってるの?」
「うん、ある。すこしもらってきたから」
彼はカーキ色のがま口から、千円札を取り出して露店のおっちゃんに渡した。「二つください!」敬語なんて立派なものが使えたのかと少し感心していたので、その内容を考えるまでに間があった。
「二つ?」
「あいよ、二つだね!」と、おっちゃん。三百円が二つで、六百円。新の手に戻ってきたのは、四百円。
「ありがとう!」新は嬉々としてお金と綿あめを受け取り、一つを瑞樹に手渡した。
「はい、ミズキ。わたあめだよ」
「僕は、わぁ有難うって言うべきなんだろうか?…三百円はくれてやるけど」
「新がせっかく買ってくれたんだから、そこは素直にお礼を言っておくべきだと思うよ」いつのまにか追い付いた睦月がしゃしゃり出る。何処からどう聞いても正論のはずだけれど、耳の調子が悪いのかえらい白々しく聞こえる。
目と目が合うと、睦月は微笑を浮かべた。そこでにこりと笑い返してやるようなサービス精神は持ち合わせていない。
「ごめん、ムツキにはわたあめないんだ」と言ったのは新だ。彼は、自分の綿あめを半分千切って、睦月に渡した。
「有難う、新。でも大丈夫だよ、そんなにちぎらなくても。瑞樹の分も貰うから」
「二十歳目前の男二人で綿あめの分け合いをする気なのかな、鳥越氏は」
「大丈夫だよ、瑞樹はもう少し若く見える」
ふざけたことをぬかしながら、睦月は人の綿あめをもっしゃもっしゃと食べている。その横の新も似たような感じだ。彼は棒切れを片手に再び走り出す。とはいえ、人の波もあるので、そこまで遠くに行く心配はなさそうだった。
「新は…お面や金魚すくいには見向きもしないね」
「すくったところで、病院へのペット連れ込みはあまり聞いたことがない」
「うん…それもあるけれど、そういう意味では、あまり子どもらしくないかもしれない」
「新は子どもじゃない」
「今の新は、子どもだよ。瑞樹の接した方だって、そうじゃないか」
睦月を見遣る。彼は、綿あめの最後のひとかけらを飲み込む。
「新は、いつまで子どもでいるのかな?」
「分からない」
「大人になれない瑞樹と、心が子どものままの新と。身体取りかえたらちょうどいいんじゃないかな」
新は、イカ焼き屋の主人と話している。彼とは意思疎通が出来ないわけではないのだ。なら何が、いけないのだろう。理解する次元が下がったことか。子どもは次元が低い生き物なのか?記憶がないことでどんな支障をきたす?彼の記憶の場合、それが全くないとは言えない。ただ、記憶がきちんと残っていて、新が新自身に戻れたとしたら、それで…どうなっていただろうと思う気持ちもある。何もかも丸く収まりはしないのだ。
「どうしたの?」と、睦月。
「なにが?」
「苛立っているように見える」
「僕が?」
「そう」
「それは…睦月に会話のセンスがないから」
「新のこと、気になるの?」
「僕の話聞いてた?」
空気が冷たくて、耳が痛い。耳当てをしてくればよかった。けれどそうしたら、周りの音を捉え難くなる。


「ミズキー!ムツキも、もっと食べなきゃだめだよ!」
「僕はわりと食べているよ」睦月は焼きそばをすすっている。彼は、焼きそばを食べても青のりがくっつかない。
新は瑞樹の腕を掴んでいる。睦月と後方で会話ばかりしていたのが気に入らなかったのか、先程からずっとこの調子だ。尚、最初は手を繋ごうとしてきたので、全力で拒否した。さすがに無理がある。思い出すだけでも結構おぞましい。
新は、綿あめを始めとし、それからたこ焼き、からあげ、冷やしパインと食べ進めた。そろそろ胃袋は一杯なのではないか?瑞樹にはそう思えた。普段の病院での食事、ときどき差し入れ、を考えると、結構な量を食べている。お腹が痛いだとか言い出したら面倒だ。
監督責任という単語が頭に浮かぶ。
「新は、ちょっと食べ過ぎだよ」言ってから、こういうのは睦月の役回りではなかっただろうか、と考える。
「もうちょっとだけ」新は上目遣いでこちらを見る。ちっともおいしくない構図。
「もうちょっとって、あとどれだけ?」
「あと、ひとつだけ」
捨て犬のように悲しげな顔をする新の言葉に、昔、国語の教科書で「ひとつだけちょうだい」と口にする少女の物語を読んだことを思い出す。あれは悲惨な話だけれど、新は食い意地を張っているだけである。そう考えると、わりとひとつくらいどうだってよいかな、という気になってくる。誰にいざなわれたわけでもない、諦めの境地にいつのまにか辿り着いたらしい。
「じゃあ、あとひとつだけだよ」肉巻きおにぎりだとか言い出してみろ。腹壊しても知らないからな。
「うん。おれ、あれがいい!」
新は迷いもせず、あれとやらを指差した。もう決めていたのか…と思い顔を向ければ、おもちゃのような菓子が並んでいた。
「りんご飴か、子どもの頃以来食べてないね」と、言ったのは睦月だ。
「ミズキ、行こうよ?」これは新。ほぼ同じ高さの、彼の顔を見つめる。日に焼けていない白い頬が、寒さで少し赤くなっている。
やれやれ、と思う。甘い物は、嫌いではないけれど、どうしてこんなものを食べたがるんだ。病院で散々、差し入れの果物食べてるだろうに。こんなのは、ただりんごに水飴と砂糖を絡めただけの。
くだらない言葉が炭酸のように頭の中に溢れて弾けて消える。過去の一瞬。今となっては、誰も知らない。生きていればよくあることだ、と言い聞かせる。これまでも、これからもそうだ。いちいち考えていては、きりがない。

掴まれた腕。冬なのに汗ばんだ、彼の手のひら。
血腥い。

「ねえねえミズキ、今日はミズキの家に泊まっていっていいんだよね?」
「そうだよ」
「ムツキに聞いたよ、ミズキの家はいっぱい草があるんだって」
「せめてお花やお草と言ってほしかったと思うのは、僕の我が侭だろうか」
「お草なんて言葉はないよ瑞樹」
「白いのは黙ってなさい、教育に悪い」
「僕はこれでも、ご老人などに道を聞かれるタイプなんだけれど」
噛み合わない会話を繰り広げながら、帰路につく。
睦月は人畜無害を装った笑みを浮かべ、
「じゃあまたね新。瑞樹と上手くやるんだよ」
「うん、おれ、上手くやるよ」
「新が帰るときに迎えに行くから」
それぞれに声を掛け、帰って行った。
夕刻に伸びる影が二つになる。「わーいミズキのいえー」とはしゃぐ大きな子どもをよそ目に、思う。
新はともかく、上手くやらなければいけないのは僕の方だ、と。
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