33.落花





あの子どもの視線は、もう感じなくなっていた。





どれくらいの時間が経過したのか。千尋が目を覚ましたとき、まだ窓の外は闇に覆われていた。
フローリングの床が赤い。なんだろうなこれは、と考えながら重たい瞼を閉じかけ、それがあの女性の流した血であることを思い出し、緩慢に身体を起こした。家の中には他にも見慣れない異物があった。一つはよくよく見てみると椿の父親だった。状態が悪かったので、そこここに散らばるのを組み合わせて見ないとよくわからなかったのだ。そしてもう一つは女性だった。椿がその横に座っている。
「見ちゃったのか…」
四つん這いで近寄り、椿の顔を覗き込む。大丈夫だろうか、いや、大丈夫なわけはないが…参って、しまっていないだろうか。顔色は青白いというより色が抜け落ちていた。千尋は床の濡れていないところに手をついて立ち上がり、離れたところにある棚の引き出しを探った。それから台所の水道水を一杯持ってきて、椿の横に戻った。
「椿、少し寝た方がいいよ、もう夜なんだし」夜だからなんだというのか。案の定、彼は返事をしなかったし、ひたすら女性を見下ろしていた。そうしていても、普通の人間である彼女の身体が再生するわけもなく、血腥過ぎる夢のような現実を突き付けられるだけだというのに。
「椿」
肩に手を掛ける。あれほどさわらないようにしていたのに。椿があまりにも無反応なのでいっそ拒絶してほしいという気持ちもあった。だが、掛けた手が払いのけられることはなかった。千尋は引き出しから取り出した錠剤とコップの水を口に含み、口移しで椿にそれを飲ませた。
やがて瞼を下ろした彼を乾いたベッドの上に横たわらせ、千尋は壁に掛かった時計を見上げた。午後十一時十三分。この惨状をどうしようかと考えるには少々時間が遅過ぎるように思える。
そのとき誰かが玄関のベルを押した。今日はよく人が来る日だと思いながらもドアを開ける。開けた後に、部屋の中が人を迎え入れるには不適切な状態であることに思い至った。
「こんばんは」
しかしそう言って外界の冷えた空気を部屋に流し込んだのは、”農場”に自ら足を運んで来る物好きな学生で、椿の親戚筋に当たる人間だった。
彼ならやたらと騒ぎ立てたりはしないだろう。千尋は来訪者の顔を見てひそかに胸を撫で下ろしていた。
「こんばんは。残念なことに、いまは客人を迎えられる状態じゃないんだ」
「それくらい見れば分かるさ。というより現場は此処らしいな」
彼は小説に出て来る、頻繁に事件に巻き込まれる人々のように落ち着いていた。
「まさにその通りだ。そこで家政婦さんが弾けて、いつのまにか綾城さんも死んでいた」
「綾城さん?」
彼は一見温和そうに見える顔を崩して、足下を見下ろした。そういえば、『綾城さん』は彼の父にも当たるのだったか。つまり亡くなった父親とそれを後から知った息子の対面というわけだ。さて、しばらく彼は下を凝視していたが、やがて靴を脱いで、『綾城さん』を跨ぎフローリングに足先をつけた。きょろきょろと周囲を見回し、奥のベッドに横たわる椿を睨むように見て、千尋を振り返る。
「珈琲でもいれよう」客人であるはずの草慈が言う。
「眠れなくなるかもしれない」
「柚谷にとっては、この状況よりも珈琲の方が刺激が強いのか?」
……彼は何をしにきたのだろう。千尋はソファに腰掛けながら、珈琲が運ばれてくるのを大人しく待った。何かしら思うところでもあったのか、草慈は正面の席を避け、千尋の横に腰を下ろした。「今日はこんな時間に何をしに来たんだ?」早速疑問を口にする。
「電話で椿が柚谷に挨拶すると言っていたんだ」ずず、と草慈が珈琲を啜る音。その横顔は椿に似た雰囲気があり…勿論細かいパーツは違うのだが…千尋を落ち着かない気持ちにさせる。
「それで?それがどうして、君が俺のところに来る理由になるんだ」
「多分柚谷は、別れの挨拶なんてされた日には、彼のことばかり考えて他の何にも手を付けられなくなるだろうと踏んだんだ」
「確かに俺は椿のことばかり考えていたよ」嘆かわしいくらいに。
「それで俺は柚谷がふやける前に横槍の一本でも突き刺してやろうと思ったわけだ」
余計なお世話だよ、と言いかけて、千尋は沈黙した。俯いて、滲み出す何かを振り払うように頭を揺らして、尚も留まらぬ、もう何が何だか、頭が考えるのを拒んでいるようだった。このまま…どうでもいいことを、例えば横にいる草慈の行動を意味もなく眺めたり、砂糖もミルクも入っていない珈琲を延々とティースプーンで掻き混ぜ続けたりして、夜が明けたことすら気付かないでいられたらいいのにとも思った。
だがそんなわけにはいかなかった。
「…綾城さんたちが亡くなって、椿が此処を離れる必要はなくなった。椿はもう何処にも行かないだろう、きっと」
「そうだな」
「そして俺は、実母を亡くして傷心の彼に援助の手を差し伸べるべき立場にある、彼の友人として。そうだろう?」
顔を伏せていると、視野には自分の膝ぐらいしか映らず彼の表情は窺えない。それでも彼が、”椿以外の誰かが”、此処にいるということが重要だった。
「たぶん、いや、確実にと言ってもいい。明日になれば俺はいくらでもそうしてあげることはできるだろう。身の回りの世話にしろ経済的な援助にしろ…綾城家の財産を考えればそんな必要はないかもしれないけれど。ただ今は、出来ないししたくないんだ。まったく…こんなこと、椿に言ったら、別に頼んでないって…言われるんだろうな。分かっちゃいるんだけれど」これまでも勝手に良かれと思ったことをしてきただけなのだから。彼にとって、大半が自分にとって。決してそれは、必要とされたからではなく。
「…今したくなくて、明日なら出来ると言うならそうすればいい。今日のところはもう寝たら良いんじゃないのか」
草慈の声色は小気味良いほどに傍観者に徹し切っている。
「俺は君を見送ったら寝るさ。けど…」
言葉が続かない。今日が駄目なら明日。彼は千尋の意思を尊重しようとしている。『けど』…なんだというのか。
(俺は草慈に出来なくてもやれと言ってほしかったんだろうか?)だとしたら随分甘ったれている…腑抜け、ふやけている…確かに。こんな愚痴のようなことを彼に話してしまうくらいなのだ。彼は、椿の話なんてされても苛立つだけだろうに。
…そうして、千尋が継ぎ足す言葉を見失うのを待っていたかのように、草慈は千尋の左腕を掴んだ。引っぱり立たされて、引き摺られる。
「おい、草慈…」怒ったのなら謝る、と言おうとした。今日はいたずらに誰かを怒らせたい気分ではなかったので。
向かった先は椿の眠るベッドだった。彼の手は無遠慮に椿の身体を少しずらし、千尋の身体を押し込んだ。肩に、椿の身体が当たる。
動揺した、情けないくらいに。
「このベッドはシングルなんだ、休むならソファでも十分…!」
「…俺を見送ったら寝るんだろう。なら、今日はもう帰るよ。おやすみ」
「草慈!」
…立ち去ろうとする草慈の腕を掴む。いやだいやだと言うだけで、ならどうしたいのかは説明出来ない。まるで聞き分けのない子どものようだと頭の片隅で冷静な声が聞こえこそすれ、その手を放すには至らなかった。ただ、既に声を荒げたことを後悔していた。
草慈は明後日の方向を見つめたまま、掴まれた腕を振り払うでもなくその場に留まっている。
「…あんまり騒がしくすると彼が起きるぞ」
「…椿には、睡眠薬を飲ませてあるんだ…眠らないといけないと思ったから」
話しているうちに波が引くように落ち着いてきて、「悪い、」恐る恐る指先の力を緩める。すると彼は振り返り、千尋の手首を掴んだ。
「草慈?」
顔を上げると…さながら海の底の如き色の眼差しとぶつかった。そして、千尋はそこに燻るものに気付いて眼を僅かに見開いた。どろりとした泥濘。彼の唇は、その温度とは裏腹に冷めた声色を紡いだ。
「柚谷は今後も、友人として、彼と関わっていくつもりがあるんだな?…」
「…椿が、此処に残るのなら、そうだよ」
「でも彼は、柚谷の気持ちを知ってる。
 一度でも自分に好意を向けた人間を、彼はただの友人としては、見ないかもしれない」

…彼の指摘は、千尋に決して小さくはない衝撃を与えた。
椿は…、彼自身が過去にしてしまった所業だけでなく、父親からの仕打ちにも傷ついている。柚谷の特に意味のない言葉や行動に、何らかの不安や恐怖を抱いても不思議ではない、と草慈は言いたいのだろうか。彼が何処まで知っているのか分からない以上、そこまでの意味はないのかもしれない。椿の潔癖な性分から指摘しているだけなのかもしれない。
実際、今日も彼は…千尋と普通に会話をしていたのだ。…だが、それは…別れ際だったために感情を押し殺すことが出来ていた、だけなのかもしれない。

…そこまで頭が回らなかったな、と辛うじて呟く。

聞こえるか聞こえないか程度の大きさであったものの、この距離なら草慈にも聞き取れたろう…彼は眉を顰めたようだった。
…そもそもがまず、椿が此処に残るだろうということすら、千尋自身の憶測でしかないのだ。それをそうだろうと決めつけて…頭が回っていないどころか、想像力が欠落していると言われても不思議ではない。草慈にも今日は寝ろと言われるわけだ。本当に、そうした方がいい。こうして必死に考えようとしていても、頭が十分に動いていないのが分かる。けれど、それでもそうと気付かされた衝撃が抜けきらない。

そして草慈は、何を思ったのだろう、腕を隣に眠る椿に伸ばし、

長い指が硬く締められたベルトをぎちりと緩める。千尋はその手の動きをぼんやりと目で追っていた…草慈の意図が飲み込めなかったがために。頭の中を踏み荒らされたかのように、思考が上手く固まらない。
間もなくして無反応の性器が眼前に取り出されて、千尋はようやく目を見開いて、現状でまずすべきことを認識した。
「おい…、椿になにしようとしてるんだ」
半ば椿に飛びつくように、草慈との間に割って入る。
「まだ何も?」
「椿はそういうことに関しては潔癖で…とにかく駄目なんだ、だから、っ…?」
正当な主張の途中で…突如柔らかいものが強引に唇に押し付けられ、千尋は混乱した。それが、先程草慈の手によって晒された部位だということに気付いて、息が止まりそうになる。後頭部は草慈によって無慈悲に固定されている。
触れたままの唇を動かすのも憚られて、自由の利く腕で草慈に憤りを精一杯伝えるも、
「だからするべきじゃない?でも、柚谷だってしたいと考えたことはあるだろう、一度ぐらいは」
上から降ってきた声はろくでもなかった。しかしその言葉は、椿がいずれ思い至ることであるようにも思えた。そんなことはないと言ったところで、過剰に痛めつけられている椿は信じないだろう。そんなことを考えるような人間を、友人として傍に置いておくことは出来ないと思うかもしれない。
否…もしかしたら、もう、椿はそこまで考えていたのだろうか?だから…連絡を取ることすら嫌で、遠方に行くことを選んだのだろうか。
草慈は千尋の返事を待たず…千尋の意思を無視して、椿の大人しい性器を千尋の口に捩じ込ませた。
「ぅっ、ぐ…っ」
柔らかく生温かなそれが舌先に触れた瞬間、千尋は自分の目尻に涙が滲むのを感じ、また同時に込み上げてきた感情に驚いた。気色悪いとかではなく…もちろん息苦しさは少しばかりあったが、それも違う。
穢した、と思ったのだ。
…椿からの信頼を得るにあたって、傷つきやすい彼を拒否せず支えとなるのが最も手っ取り早い方法だと思いながら、それでも、どうして椿のために自分がこんな振る舞いをしなくてはならないのだろう、こうもしないと彼との関係は築けないのかと、彼に焦がれるのとは別の冷めた部分で考えることもあった…にも拘らず、だ。
そして、ひどくかなしくなった。
自分と彼の終わりつつあったものの、修復される可能性も僅かに…残されていた関係に、致命的な亀裂が入ったように思えた。すべてが無駄になったのだ。悲観的に考え過ぎだ、と自分で自分を宥めてみても、その感情が薄れることはなかった。
しかしそんな千尋の胸の内を忖度することなく、草慈の手が千尋の股間に伸び、彼を現実に引き戻した。かたちをなぞるような指の動き。
椿のものを咥えているがために、音にはならない僅かな息が唇の隙間から漏れる。耳許で草慈の声。
「…勃ってるな」
強烈な羞恥に頬が紅潮する。椿のものを与えられて、頭はともかく身体は反応している。友人として見ているなら、そんなことにはならないはずだと、言外に責められているような気がした。
だがここで動揺しては…ただでさえ、草慈の行動は境界線を無視し、侵略的ですらあるのだから。いったい、何の理由があって…彼の考えていることは、全く分からない。こんなことをして、彼に何の得があるというのだろう。彼が仮に…何らかの理由で自分に性的な欲求を抱いたのだとしても…それが一過性のものでしかないということに、彼自身気付かないわけがないだろうに。
千尋は思考しながら意識的に呼吸を整えようとした。しかしその直後、彼の手が千尋の臀部を掴んだ。以前押し付けられた熱を思い出し、身体が強張る。
彼の指は尻の割れ目を、布越しにゆっくりとなぞった。反射的に抗議の声を上げようとして、椿のものが再び舌に触れる。それは口内の生温さに反応して大きさを増した。体温が上昇する。羞恥と居たたまれなさが入り混じり、引っ込んだ涙がまた滲みそうになる。(椿がこのことを知ったらなんと言うだろう?)(徹底的に損なわれた、)
草慈の指は何度も窪みを往復したのち、するりともう一度千尋の股間に指を這わせるように撫で上げた。
熱くなっていた身体はたまらず精を吐き出して、するとその刺激に反応したかのように彼の口内で椿の精液も流れ出た。
「う…ぅっ」
草慈の手が頭部から離れたのは、千尋がそれを完全に飲みこんでからのことだ。一度では綺麗に飲みこみきれなかったので、喉に絡んだ分は何度か咽せてから無理矢理押し流した。それから、半ば椿にのしかかるような体勢になっていたので、のろのろと身を起こし、草慈の襟首を引っ掴んだ。
「草慈、おまえ」非難を浴びせようしたが、声が出難い。しかしどうしても、込み上げる感情があった。糾弾したいような、嘆きたいような…けれどそんなことをして何の意味もないだろうと咎めるような…よく分からない、喪失感にもよく似た。胸の中に生じる冷たい空白。堪えきれず、椿の精液に濡れた唇で、草慈に口付けた。
その間は、一瞬もなかったろう。勢いよく引き剥がされて、そのまま押し倒された。掴まれた手首を振りほどこうとし、力で劣ることに気付かされ、身体の奥底で、本能的な恐怖が疼くのを感じた。ファスナーを下ろす音。荒い手付きで精液に塗れた下半身を露にされる。彼は何も言わず、指先を精液に絡め、布越しではなく直接指をそこに挿し込んだ。異物によって肉を抉じ開けられる感覚に身体が悲鳴を上げる。
彼は中を探るように押し擦ったのち、滑りが足りないとでも思ったのか、ポケットからローションを取り出し(つまり今日は最初からそのつもりだったのだ)、冷たいそれを内壁にたっぷりと塗り込んだ。あまりに丹念に塗り込むので、もはや手で口を押さえつけなければ、呼吸の乱れはどうしようもなくなっていた。
草慈はそんな千尋の手を取りながら、昏く笑い、
「声、我慢しなくてもいいのに」
特に敏感な場所を抉るように責め立てた。
意思に反して腰が震える。身体の一カ所を押さえられただけで、口からは泣いているかのような甘ったるい声が漏れ出た。
こんな声を出したら感じているようにしか聞こえないじゃないか、と焦る意識とは裏腹に、身体は生温い泥になったかように、ひたすらその快楽を受け入れている。徐々に積もっていく快楽に身体も頭もどうにかなりそうで、駄目だ、と呻いた。
分からない…理不尽に拘束されているわけではないのだ。逃げればいいのに、どうしてされるがままになっている?何をどうしたら、彼から逃れられるだろうと、筋道立てて考えられないくらいに、彼に翻弄されているとでもいうのだろうか。彼は自分にとって特別でも何でもないのに。(けれどその他大勢でもない)。
とにかく、彼とこんなことをしたいわけではないのだ。
しかし千尋がいくら拒絶の声を上げても、彼は中を掻き回すのをやめてくれない。おかげであそこがまたたっている。
「…柚谷」
草慈の指が、それをなぞり。
「なあ…どうして、彼が良いんだ」
「っ草、慈…」
「彼は柚谷を、好きになってはくれないよ」

…聞き流せばいいだけの、第三者の言葉に過ぎないのに、息が詰まった。
たちまち、正常に動いている心臓を鷲掴みにされたかのように苦しくなる。早く放してくれと思っても、彼は何も握ってなどいない。指先で微かに触れているだけだ。その間にもじりじりと柔らかく、快楽が膨れ上がる。淡白に尖った彼の言葉。言い返そうとしても、声が上擦りそうになる。懸命に、乱れる息を殺して、吐き出す。
「な、んだって、さっきから…っ、草慈には…関係ない…じゃないか…」
「関係なかったのに、縋り付いてきたのは柚谷の方だろう」
「あ、れは…っ、っぁ…っ…」先端を初めて強く揉み込まれて、痺れるような快楽が突き抜ける。
緩急をつけ与え続けられる快感に…口先をどうにか動かしていても、思考は熱で溶けてまともなかたちを成さなくなってくる。執拗に辱められた体内も、ローションで温くぐずぐずになっているのを感じる。先程はまだ、椿に触れていたということもあったのに。もし、このまま達してしまったら、そこに椿は介在していないということであって。そんなのは。
…そろそろいいかな、と彼が無表情に呟く。それはもはや問いかけではなく、具合をみての確認でしかない。(彼は許可を必要としていない)。そして、千尋の身体の奥深くを…以前布越しに押し付けられた欲望が、容赦なく差し貫いた。
「っひ、…っ」
それだけで、限界に近づいていた千尋はまたしても絶頂に達した。硬くそそりたつ彼を咥えこんだまま、身悶える。わけが分からないまま、彼と繋がっていることだけを…身体で、感覚で、実感させられる。生き物として、彼に屈服させられたかのような錯覚さえ覚えた。
草慈の視線が粘り気を帯びて絡み付く。彼は溜め息をついて…千尋の身体を押さえ込んだ。









半分だけ乱れたベッドのシーツ。
柚谷の紅潮した目許に、行為の余韻が漂う。指先を撫でるように這わせると、彼は薄らと眼を開けた。淡く澄んだ水色の瞳が、草慈を捉える。
「…椿がいなくなったら」
それが苦しげに歪む。彼はそんな顔をしたことを…恥じるように、眼をきつく閉じて、横を向いた。
「草慈も此処には来なくなるんだろうな」
「…どうして?」
「君は俺に興味があるわけじゃない、椿と繋がりのある人間だから、関わりを持とうとしているだけだ」
訥々と言葉を紡ぐ声は少し掠れている。饒舌な彼の喉も、疲れることがあるらしい。
閉じられたままの瞼にかかる柔らかい髪をのけながら、「だとしたら?」と先を促す。
彼はされるがままになりながら、それでもささやかな意思表示か、眉を僅かに寄せて。
「…いやなことばかり聞くんだな、さっきから」
「多少性格が捩じれてるんだろう」
やはりいくらか疲れているのだろう。彼は切り返しに迷っているようだった。少しの間が空いて、他愛無い言葉は受け流された。
「…だとしても、どうもしないよ。俺にとって、草慈はいなくなっても悲しくなるような存在じゃない」
「そうだな、多分俺にとっての柚谷も、そうだよ」あの青年はどう思っていたのだろう。あの、電話の声。ためらい。
「誤解しないでほしいのは、俺は椿のことを考えたくないだけなんだ。君がどうしようと、君の勝手で、俺は知らない」
多分それは柚谷に迷惑がかからない範囲で、ということなのだろうと想像する。
それきり彼は再び黙り、夜にふさわしい沈黙があたりを満たした。
(『誤解しないでほしいのは』)。頭の中で、今しがたしたばかりの、彼との会話を反芻する。(でも、)と思いながら、彼の唇に自分の唇を近づける。
(それでも柚谷は綾城…のことばかり考えているし、俺は柚谷がそうしていることが嫌なんだろう)。足許の水たまりを思い出す。
彼は身じろぎ、しかし眠いのか眼は閉じたまま。拒絶されないのをいいことに、長く、唇を押し重ねていた。







だれかのこえでめがさめた。
此処は何処だったろう。見慣れない天井を視野に捉え、身体を起こすと、横には柚谷が横たわっていた。色素の薄い髪を乱し、すやすやと寝息を立てている。その寝顔からは緊迫した雰囲気は感じられず、ほっと息を吐く。けれどふと、自分のからだに違和感をおぼえてあちこちまさぐってみると、それはあるまじきかたちをしていた。興奮していた父親の股間についているのと似たようなかたちをしていた。醜く、けがらわしい。
こんなものは必要ない。ベッドの外を見回すと、ちょうどいい刃物がおちていた。あのおとこがよしえをさしたものだ。刃物を拾ってベッドへ戻る。よし、これできりおとしてしまおう。心地よい冷たさが触れる。けれど、すこし力を入れた途端、いたくて、どうしてこれをきろうとすると、いたいのだろう、と思った。いたいのは、いやだ。
刃物を投げ出して、仕方なく、柚谷、とよびかけた。彼は起きなかった。なのでそのまま、柚谷の服のファスナーを下ろした。きりとっていけないのなら、小さくしてしまうしかないだろう。あのいまいましいちちもよくやっていたことだ。いまは床に転がっているので何もおそれることはない。不思議と彼のそこは柔らかくて、しっくりとそれは収まった。
何度がゆすっているうちに、柚谷は起きたみたいだった。なんでいやだやだって、と彼はいつになくうろたえていたけれど、内心ではきもちよくおもっているのがつたわってきていたので、無視して腰を動かした。そしたら眠っているときにきいた声が鼓膜をゆらして、ああこれでいいのかと思った。かつてちちがちいさなこどもにしていたこととおなじことをするのは、かなり気分が悪かったが、床のよしえのかおをみていたらどうでもよくなっていた。おれはよしえの腹からうまれてきたのだし、ゆえの腹に奇怪な膨らみはなかった。

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