32.夜








椿が千尋のもとへやってきたのは、午後七時を過ぎた頃のことだ。
やや薄着とも思えるシンプルな装いの椿は、その格好には似つかわしくない…しっかりとした作りの旅行鞄を携えていた。
「悪いな、連絡もなしに突然訪ねて」
「…いいや?それはかまわないけども、今日は何か大事な用があって此処に?」
千尋は開いたドアを手で押さえたまま、自分よりも低い位置にある椿の顔を見下ろした。
顔色は良くもないし悪くもない。ただ少し痩せたか…ストレスで胃が食べ物を受け付けなくなっているのだとしたら、せめて点滴でも打っていくよう言った方が良いのかもしれない。しかし、まずは椿の用件を聞くのが先だった。
「出発を少し早めたんだ」
「出発?一体、何処へ」行くつもりなのか。疑問は途中で途切れた。遮るように、椿の硬く艶のある声が空気を震わせた。
「前々から、淑恵と家を出ようと考えてはいたんだ。それが少し早まって、今日は挨拶に」
千尋は、自身の心臓が動悸を乱す音を聞いた。
「そう、なんだ」閉まろうとするドアを手で押さえ直し、椿の端正な顔を見る。ほんの一瞬だけ触れたことのある、伏せられたその目許。どうして、と尋ねるには千尋は事情を知り過ぎていた。なのに、こうなることを予想出来なかったのはどうしてなのだろう、と彼は思った。
「その淑恵さんは?外に待たせてるのか?」自分の口が冷静な声を出すのをどこか不思議な気分で聞きながら、自問する。今はそんなふうに話す場面なのか?
「いや、少し急だったからな。準備があるとかで、ちょっと遅れてくるらしい」しかし椿も負けず劣らず淡々としている。
二人の人間が同時に家を出ても目立つからな、と椿は歩いて来た方向を気にするようにちらりと振り返った。つられて千尋もその方向を見てみたが、彼の身体を境界線として外はしんと静まり返り、人の話し声一つきこえてこない。千尋は習慣的な、極めて曖昧な微笑を浮かべながら、視線を手前の彼に戻した。
「なら淑恵さんが来るまで上がって待つといい。外は寒いし、こんな大事なときに体調を崩したら大変だろう」
「…いいのか?」
「別にかまわないよ」人間一人居たところで大して邪魔にはならない。椿の斜め後ろに腕を滑らせ、彼を招き入れるようにドアノブを閉める。
「それにしても、今日は随分他人行儀なんだな、今までも散々勝手に押し掛けたりしてきたのに」
アポなし訪問を謝罪したり、いいのか?だなんて殊勝なこと聞いたりして。
千尋は暖房の温度設定を一度上げた。客人をソファに座らせ、自分は台所の棚を探る。お茶の葉は切らしている。珈琲しかない。
「そう思うのか?」
「そりゃ、思うよ。これまでの椿の暴虐の限りを振り返れば」近づくなと声を荒げて拒絶されたり、突然訪ねてきたかと思えばどういうことなんだと詰問されたり、焦燥し切った顔で泊めてくれるよう頼まれたりと、考えてみれば俺は椿に対して何かと心の広い対応をしてきたよ、と千尋は心の中でつぶやいた。怒ったりしないで何だかんだで聞き入れてね、何せもう泣かせるのはごめんだと思っていたからなのだけれど。
「お前だって、俺に他人行儀にしたことはあった」
「公私混同はよくないと思ったんだ」あのとき、彼の父とは正式な売買がなされた。彼は顧客の息子だった。
「でもお前は、良かれと思ってそれをしたんだ」
それは私情ではなかったかと、椿は言いたいのだろう。
怜悧な眼差しに面の皮を射抜かれながら、千尋は珈琲の注がれたティーカップを彼の手前に置いた。砂糖はいくつ必要だろう。…少し迷って、一本だけ添えた。
「そうだよ、俺は良かれと思ってそれをした。俺なりに正しいと思ったことをしたつもりだったけど、結果的には椿を傷つけた」
思い入れのある子どもが知らぬ間に出荷されているとなれば、彼は悲しい思いをするだろうと思った。どうしたらよかったのかなんて、本当は今でも分からないのだ。そもそも彼は、この改良された人間を売買する事業に嫌悪感を感じていた。
彼は珈琲に手もつけず、俯いた。極端に翳る表情。安定しない彼の態度。
「悪い…今日はこんな話をしにきたわけじゃないんだ」
「椿が謝る必要なんてないんだよ。言いたいことがあるなら言って行けばいい、心残りのないように」
無論吐き出した程度ですっきりするようなことでもないだろうが、言わないよりは良いだろう。後で何を思おうと遅い…挨拶とはそういう意味のはずだ。
千尋はソファに腰掛けず、部屋の中途半端な位置で立ち尽くしたまま、項垂れる椿の頭部を見下ろしていた。
彼の判断を、責めようとは思わない。あんな人間の元で暮らしていても、彼は幸福にはなれない。否…彼自身が幸福を手に入れることをもはや望んでいないとしても…必要な決断だっただろう。殺めるよりはずっと穏便な選択でもあったはずだ。罪の数は少ないに越したことはない。(ちなみに自分のは既に飽和しているだろう、つまり救いようがない)。しかしそんな彼に対し、自分がいまどう振る舞うべきなのかが分からない。

彼のことは好きだ。いっそ、みっともなく縋り付いてもいい。多分そうしたい気持ちもある。だがどうやら、遠くへ行く決断を下した以上、彼に自分は必要とされていないのだ。泣き落とせば優しい彼は心を動かすかもしれない。けれどそれは彼の本意ではない。困らせるだけで、よくないことだ。

思考は闇雲に彼のことを追いかけたがる。どうしてこんなに彼のことばかり考えなくてはならないのだろう、と千尋は思う。何の興味も持たずに、思い出さないでいられたら楽でいいだろうに、彼の存在そのものがそれを赦してはくれない。まだ青白い若葉のような彼に初めて会ったときから、気に入らないと思ったときからそれは変わっていない。彼が笑ってくれさえすればきっと馬鹿みたいに嬉しいのに、こんなふうに思考を支配してしまえる彼の存在は疎ましくて仕方がない。
そこで千尋はぼんやりと気がついた。
今までに椿が俺に笑いかけてくれたことなんてあっただろうか、と。
儀礼的な微笑くらいはもしかしたらあったかもしれない、けれど。
「…柚谷?」
椿がこちらを見ている。
「座らないのか」
「あ、ああそうだな…」
客人である椿にしてみれば、家の主人である千尋が立っていたら落ち着かないのだろう。
千尋は近くにあるソファに浅く腰掛けた。ガラステーブルを挟んで椿が正面に座っている。
「柚谷、俺は…お前の好意には応えられない」
「真面目だな、椿は…知ってるよ、そんなこと」心残りがないようにするのは、良いことだ。たとえどんなことでも。
彼はまるで喋りたがらない喉に無理矢理音を絞り出させるように、その喉の側面を手で押さえ、そして首を振った。
「お前は俺を肯定するから……、いいや、肯定してくれたというべきなんだろうな、お前だけが、俺を」
…淑恵は我が子可愛さ…なんだろうあれは…後は負い目からかやたらと庇だてしてくれるけれども。何もなかったことにしたがってる。と、椿。
「……だから、お前にだけは、最後にちゃんと言っていかなきゃいけないと思ったんだ」


(最後に、)
眼を反らす。床の上で揺れる彼の影。胸の奥まったところが強く疼き、


「わけがわからないよ、椿」
気付いたら、口に出してしまっていた。
この期に及んで批判めいたことを口走ったのは本意ではなかった。しかし、…椿は…何を言っているのだろうか。
自分が肯定したから、彼は此処を発つとでも?違う、肯定したから、挨拶だけはして行ってくれると…いったいそれに何の意味が。別れの挨拶?彼は遠くへ行ってしまうのに。(責めたいわけじゃないと思っていたくせに、結局、そうなるんじゃないか)(行かないでほしいなんて本気で考えているのか?)(彼にはそれが必要だろうに)

冷静さを、欠いた思考。迷惑な、嫌だ、駄目だ。落ち着け。思考を、感情を撫で付ける。

……彼は、否定を求めていたのか?だが何を否定するべきだったのか。彼は義母に暴力を振るうべきではなかった、父親を拒絶するべきではなかった、過去を忘れてしまうべきではなかった?何がいけなかったというのだろう。…当時の彼にはそれらは必要なことであったはずだろうに。
「すまない、お前を混乱させるつもりはなかったんだが、」
椿の声に、顔を上げる。そうだ、椿は、まだ此処にいる。そこにいる。どうして顔を背けたりしたのだろう。
千尋とて、椿を困らせたいわけではなかったし、動揺を口にするつもりもなかった。ただ、彼の言い方は、千尋が彼を自ら遠ざけたのだというように受け取れたのだ。もしも自分が彼を否定していたら、彼は自分に別れを告げようとは考えなかったかもしれない、ともに行くことは出来ずとも、友人として連絡を取り合うくらいの可能性は残されていたかもしれないと。
椿の謝罪と、そうして消え失せたかもしれない可能性は千尋の思考を締め上げた。視野に映る…椿の、微妙に緊張を含んだ視線。駄目だ…感情的になったところで何ら良い結果はもたらされない。既に悪い結果はさらに悪くなるばかりだ。
口を、動かす。
「…大丈夫、混乱しているわけじゃない、ちょっとしっくりこなかっただけさ。……椿は、自分自身のしたことを…至るまでの過程はどうあれ結果だけを見れば…肯定してはならないことだと思っているんだな。…いやしかし…椿が最後だからとわざわざ俺のところに寄っていってくれるだなんて、昔を思えば考えられないことだよ」
千尋の言葉に、僅かに目許を緩めて小さく頷く椿。千尋は唇に笑みを張り付けながら、彼がいま自分に求めているのは率直な理解を示すことだけなのだと察した。(いやだ、なあ)
少しでも引き留めようものなら、おそらく彼は二度目の失望を経験し、足早に千尋のもとを去っていくのだろう。(本当に、)
だが結局、彼がこうして自分のもとから離れていこうとしていることに違いはなかった。そして千尋は、そんな彼を引き留めるすべを持たない。(…どうしようもない)


訪れる静寂。
否、静寂はずっと足元に佇んでいた。それは何者かに息を吹き込まれたかのように膨らみかけ、来訪者を告げるベルの音に引き裂かれる。


「淑恵かもしれない」
「つ、」
立ち上がる椿。彼は千尋の横を通り抜け、出入り口のドアを開けた。そこには、地味なコートを身を包んだ中年女性が立っていた。
「坊ちゃん…ああ、こんなに遅れてしまって申し訳ございません…」彼の家で家政婦をしている…彼の実母であった女性だ。
「いいんだ、淑恵。今は何の問題もなく発てさえすれば」
気遣わしげに女性の肩を支える椿。『問題』。千尋は、ソファ横に置きっ放しである荷物を椿に渡してやった。これを忘れては彼の出発はままならない。きっと、これからの生活に必要最低限なものが詰め込まれている。
千尋は、椿が今しがた言ったように、何の問題なく二人が出発できればと思っていた。こうなった以上…無事に何の妨害もされずに。彼は、椿がいなくなろうとしている現実を、自分の内側から吐き出して、道端にできた水たまりを眺めるかの如き心境で見つめていた。口は心にもないことを話し、腕は勝手に動くのに、感覚だけが、その事実の通過を拒んでいる。
椿が荷物を受け取り、そのついでのように目許を細めて千尋を見た。
締め上げられる呼吸。冷たい水飛沫。
「柚谷…」
「椿、外に出ていくつもりなら、少しはお愛想も覚えなきゃいけないよ。椿はいつも仏頂面なんだ」
言ってから思う。此処は果たして、内側でしかなかったのだろうか?彼を閉じ込めておく為の。
「…お前は逆にへらへらしすぎだ」
硬い表情をほんの少しだけ緩める椿。その表情を見て、罪を思い出しても、彼は…生きていけるのだと思った。彼は彼なりに、生きる為に購うすべを見つけるのだろう。
千尋は溜め息をついた…全く、柄にもないことを考えていると自分でも思ったのだ。
しかし、そんなふうに綺麗にまとめでもしない限り、喚きだしそうな自分自身を宥められそうになく。
ソファ一つ分挟んだ距離が、いやに遠い。

なあ、

「つばき、」

お願いがあるんだ。
名前を呼べば、こちらをじっと見る、彼の昏くも澄んだ眼差し。
それは、喉まで込み上げてきていたけれど。
いやだな、口にしたら息ができなくなりそうで。無様に、溺れるはずもない浅いところで。
(いまだけで良いから、笑ってよ だなんて)




だが唐突に、女性が口を開いた。
「ぼっちゃん」
「淑恵、焦る気持ちも分かるが…ほんの少し待ってくれ」
「ちがうんです、ぼっちゃん、ちがうんです」
振り向きもせず返事をした椿を責めるように、彼女は同じ言葉を繰り返した。

そしてようやく彼女を顧みた椿と千尋の目の前で、丸い腹部が血を噴いた。

異常が起きたのは、誰の目にも明らかだった。本来、人間の腹は突然血を噴くようにはできていない。
視野の端、硬直する椿の横顔。千尋は咄嗟に彼の視界を左手で覆い隠したが、網膜に焼き付くのに一瞬もいらない。

「淑恵……!」

耳をつんざくような椿の悲鳴。取り乱し、暴れる彼の身体を押さえつけながら、千尋は崩壊していく女性の下半身と”そうさせる”男の顔を見た。
「綾城さん…」
「千尋君。今日はとうとう家庭内の騒動を君の家にまで持ち込んでしまったようだ。謝罪のしようもないな」
「僕も今日ばかりは適当な言葉が思い浮かびません」
玄関の床に零れ落ちていく贓物。椿は父親のことなど眼中にないようで、狂ったように、ただひたすらに女性の名を叫び続けている。
興奮状態に陥っている彼は力加減を見失っていて、その抵抗には押さえ込んでいる千尋の身体が痛みを訴えるほどだった。けれど、駆け寄りたい女性の身体が半分以上損壊していると知ったら、今度こそ彼が致命的に損なわれてしまいそうで、千尋は彼を押さえ続けるしかなかった。
「…ただですね、綾城さん。滅茶苦茶ですよ、もう」
指摘。千尋は目の前の男を非難すべきなのだとは思う。なんてことをしてくれたんだ、と。掴み掛かっても誰に責められることもないだろう。
しかし男は片手に彼女の身体を持っていたし、もはやなんてことをしてくれたんだという次元ではなかった。何を言っても言葉が空振りをするような、取り返しがつかないを通り越した、停滞の最中に放り込まれた。腕の中、止めどなく伝い落ちる椿の涙だけが熱い。

そこで気がつく。いつのまにか、涙を流しながらも彼が静かになっていたことに。

「椿?」心配になって、声を掛ける。
「…淑恵は、呼吸するのをやめたみたいだな」その声は、先程まで泣き叫んでいた人間と同一のものとは思えぬほど落ち着いていた。



返事をする間もなかった。その瞬間、千尋の意識は強制的に断ち切られていた。
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