31.前日






運転手を車内に待機させたまま、二人の青年は向き合っていた。

「僕は姉さんがどのように生きて、どのように息絶えて逝ったのか知らなければならないと思った。何故なら、記憶を失った僕は、以前の自分がそれを知っていると思ったからだ。僕が知っているのに、僕が知らないのはおかしい、筋が通らないと」
「うん」
「ただそれとは別に…僕はあの当時、瑞樹のことをそれほど重大なこととして捉えていなかったように思う。死ねないかもしれないと考えたところで、あのときはそんなこと随分先のように思えていたんだ。つまるところ、若かったんだよ。今でも十分若いけれどね」
「未成年の分際で若くないと言ったらあちこちから顰蹙ものだよ」
「でも僕の与り知らぬところで、月日は過ぎて、僕は何ら変わりない…まあそれでも君の容姿に年齢なんて関係あってないようなものだけど…君を見るとね、何だかそうとも言っていられないような気がしてきたんだ」
「ははあ、それで?」
頬のライン一つとっても造形の美しさが際立つ青年は、大して興味のなさそうな声で話の先を促した。
対し、独白じみた話を続けていた一見病弱とも勘違いされかねない痩躯の青年は、伏し目がちに相手の顔を見下ろした。
とはいえ、この二人に背丈の差はそれほどない。饒舌な青年の方が僅かに頭抜き出る程度である。
「ねえ瑞樹、いま僕は君の話をしているんだよ」
青年は抑揚の欠けた声で反応の薄い相手を咎めた。
昔はもう少し、咎めるにしても戸惑いのようなものが感じられたはずだけど、と聞き手の青年は思いながら、
「そんなことくらい聞いていればわかるさ」
「愚問だけれど、まさか瑞樹は、未だ自分の『躯』に実感がないと言い出すつもりじゃないだろうね?」
「ほんと愚問だ」口先を尖らせ、憤慨する振りをする。
水中に沈められた土は湿り、ねっとりとした泥濘になる。取り出し方は知らない。
「ねえ、どうなの?」
「そんなことはない。ほら、先を続けて。ただでさえ最近の睦月の話は長いんだ」
「なら続けるけど、瑞樹はこの先自分が生き続けるということに不安はないの?」
「ろくに生きもしないで死んでしまうよりずっといい」
薄茶色の瓦が敷き詰められた地面に、薄く色付いた影が揺れる。つい今しがた腰掛けていた、塗装の剥げかかった手すりはところどころ銀色を呈していて、ざらざらと触り心地も悪く、冷えている。
あまり草慈を待たせるのも考えものだな、と先程よりも地平線に近づいた太陽の気配を背中に感じて、彼は視線を上げる。
そして、もはやだいぶ長い付き合いとなったこの青年…の相変わらず生命力の感じられない顔を眺めながら、話の続きを待った。
「それで、何だかそうも言ってられないような気がしてきた?」彼の語り口を繰り返す。別に馬鹿にしているわけではない。
「そう、それで、まず僕は、瑞樹から能力自体を引き剥がせないものかと考えた」
「まず」
「君たちが仲違いしてしまえば何の問題もないからね」
けれど、生まれながらの能力を奪う、というのもなかなか骨が折れる仕事らしい、と天使の輪。
「生まれながらに心臓が悪い子どもに移植手術を施すよりも…何をどうすればという方法がないわけだから」
「提案される前に言っておくけど、拷問される趣味はないのであしからず」
「残念だな、その手の方法が一番手っ取り早いとも思ったんだけど…」
「このろくでなしの人でなし」
憂い、溜め息混じりの青年を一方的に罵る。この部分の遣り取りだけを見聞きしたならば、人でなしと罵った青年の方を人でなしと感じる人もあるかもしれない。だがしかし、友達でいてくれたのは、とか戯れ言を紡いだのと同じ口で拷問を肯定する言葉を吐かれれば、気分も悪くなるというものだ。
「でも瑞樹、僕はもう決めているんだよ」
「何を決めたって?」回りくどい言い方は止せよ。
「君には言わない」
要するに此処に至るまでの会話はこの青年の得意とする長い前置きでしかなかったし、結局言いたくないことは言わないのだ、この男は。


それからというもの、睦月が記憶を取り戻したことで、長いこと放っておくことのできたものが蓋をずり開けてぴたりと背中に張り付いてくるようで、瑞樹は落ち着かなかった。食事をしていても、鉢植えに肥料を埋め込んでいても、眠っていても、何かが彼の意識の裏側を苛んでいた。それはときに、新を抱きかかえたときに見上げた睦月の顔だったり、転がるふたつのからだだったり、欠けている自分のからだであったりした。それらは彼の精神に実に耐え難い揺さぶりをかけてきたが、耐える以外に他に方法はなかったし、耐えられないというほどのものではなかった。実際、瑞樹は睦月と普通に話してもいたし、新のように現実をなくしてしまうということもなかった。例え何かの弾みに気が違っていたとしても、再生能力の備わった彼にその記憶がないだけなのかもしれない、という可能性はあるにせよ。
それらは忘れられるようなことじゃない、と瑞樹は眼を閉じてそれによって脳裏にまざまざと浮かぼうとする映像をも閉め出して、温めたかぼちゃを黙々とつぶした。ただひたすらになめらかになるまで。本に記された作り方に則って、徒にはみ出さないように。
しばらくして、少し離れたところで電話が鳴った。
瑞樹は木べらを一旦ボウルの中に残し、水道の蛇口を捻って軽く手をすすいでから受話器を取った。その間もし電話が鳴り止むようなら別にそれはそれで問題はないように思えた。
「もしもし」
『瑞樹?』
「何の用」
そもそもこいつに電話番号を教えたのはいつだったろうか、と瑞樹は今更考えても仕方のないことを考える。
『最近、新と会った?』
…記憶を取り戻した睦月が、その名前を口にすることに薄ら寒さのようなものを覚えると言ったら、彼は怒るだろうか。
「いや…最後に会ったのはいつだったっけ」
『そんな昔じゃない。でも、新は瑞樹と会いたがってるよ』
「ならわりと最近、僕は新と会ったらしい。で、なんだってそんなこと」
自分探しを一段落させたかと思いきや、今度は新に会いにでも行ったのか。その図を思い描くのは容易だが、もう以前とは含まれる意味合いが全く違う。瑞樹には睦月の真意を到底測りかねた。そもそも彼はいま何を考えて生きているんだ?本来であれば正面切って尋ねようとも思わない、ましてや考えないような疑問がふと顔を出し、瑞樹を不安な気持ちにさせた。
『僕がそれを知っているのは今日彼に会いに行ったからで、新が君に会いたがるのに特に理由というほどのものはなさそうだよ。強いて言うなら、懐いているということだと僕は思うけれど』
「ああそう」無意識のうちに眉が寄っているのに気がついて、指でほぐす。
『驚いたことに、彼は瑞樹に会うために外出許可まで取ったらしい。親御さんの同意もあるとか。でも彼のご両親は何を考えてそんなことを許可したんだろうね』
「ここまで来るには新幹線に乗る必要がある」
『それには僕が同行する予定になってる。僕も新のお見舞い以外にこちらにいる理由はないから』
「キミ自身の親御さんのところには行かなくていいの?」
『その必要があるだろうか?』
なんとなくだけれど、声の調子から彼は微笑んでいるように感じられた。
「僕は新聞でキミのご両親のことを読んだよ。おばさんは自分が夫を刺し殺したと言ったらしいね」
『そうらしい。ねえ、あの後僕には一度だけ母さんと会話する機会があったんだよ。けれど、錯乱していたみたいで、上手く会話が出来なかった』
「溺愛する息子が凶行に及べば、誰だって多少はどうあれおかしかなるさ」
『親を殺めてしまった場合、正当防衛だと主張しても罪は重くなるんだろうか?まあそれはともかく、僕が今日瑞樹に連絡したのは、新が明日そちらに遊びに行くことになるということを知らせようと思ったからなんだ」
「明日」
「ついでに一泊二日の予定になっている。瑞樹のところが駄目なら、多分僕が滞在させてもらっている綾城さんの家に泊まることになると思う」
睦月からの電話はそれで終わった。
瑞樹は冷めかけているかぼちゃに生クリームとバターと卵黄、そしてシナモンを混ぜ込んでから一旦ボウルにラップをかけて、再び流し台で手を洗った。
彼は従兄弟に泊まり客が来ることを連絡しなくてはならなかったし、冷蔵庫の中の足りないものを補うために買い出しにも行かなくてはならなかった。











『椿のことが好きなんだ』。椿は彼の告げた言葉を反芻しながら、既に乾き切った目尻を指でなぞった。
『信じられないかもしれないが』。彼はそうも言った。しかし彼の発言は、冗談や嘘ではないようだった。本当に、おそらくあのとき触れて感じたような…純粋な気持ちで彼はそう言ったのだろうと椿には思えた。改めて触れて確認しなくても分かる…それはそうしたかたちでにそこに存在していた。言動や行動からではなく、椿にはその感情自体を感じ取ることが出来るようになっていた。彼は愚直で生真面目で神経質ですらある綾城椿という人間を好意的に受け止めている。それは椿が過去に義母を死に至らしめていたと告白しても変わらないようだった。彼が好意を抱いた綾城椿という人間など、もう何処にもいないにも関わらず。
彼は…つくづく物好きな男だ。当時は全く気にしていなかったものの、彼が椿に逢うときに見せていた笑顔が今頃になって思い出されて、なんともやるせない、行き場のない気持ちになる。それに彼は、椿のことを好きだと言ったが力づくで椿をどうこうしようとしたことは一度もなかった。むしろ、接触することで感情が伝わるのを嫌がる椿の気持ちを慮って、軽く触れることにさえいちいち気遣いを見せていたくらいだ。
いつからそんなふうに、彼は変わってしまったのだろう。
少し会わない間におとなになったか。それもあるのかもしれない。しかし、彼は、あれでよかったのだ、忌々しいままでよかったのだ。それなのに、知らない間に随分まともになった。やたら冷ややかで刺々しかった態度は影を潜め、『優しくなった』。
……自身の土壌とでもいうべきものが崩れて、確かなものがなくなっていくのに、そうして彼までもが、違うものになっていくことに、椿は苦痛を覚えていた。
彼には自分とともに最低なままでいてほしかった。彼が最低な人間であれば、不信感だけを抱いていられる。だが、彼は彼のままではいてくれなかった。だから、余計な感情が混じる。少し高いところにいる彼を引き摺り下ろしたくなる。かかわりたくないのに、彼の言葉の中にだけ存在する安寧を見出そうとして。
彼ならいまの自分を受け入れてくれるだろう、という卑怯で醜い期待をする。
椿は浅く息を吐いた。
結局は…自身が過去に仕出かしたことの重さに耐えかねて、それらしい理由を付け加え、意味合いをすり替えることで救済されたがっているだけなのだろう。あれは必要だった、しょうがなかったと。しかしそんなこと出来るはずがないのだ。自分が彼女にした仕打ちは致命的に捩じ曲がっていた。それに、どんなに取り繕うとも、”彼女の死”という事実がそこにはある。
死ななかった彼女の死。自分の中にある卑劣な感情。
…どうして、柚谷はこんな自分の存在を否定しないのか。無様だと笑い、吐き捨ててくれないのか。昔みたいに。
『椿のことが好きなんだ』。本当にどうしてそんなことを言ったのか。彼の中の、ひとかけらの純粋すら憎らしい。


いくら優しくされたところで、可能性というものは、既に断たれた後だった。


椿は今後の身の振り方を考えなくてはならない段階にきていた。
いまは、あの男のもとへこうして戻ってきている。あの刃物を振りかざす一悶着があってからというもの、あの男は薄気味悪いくらいに大人しくしている。だがそれがいつまで保つのか…つまりは、食うに困るということはないにせよ、身の安全というものは全く保証されていない状況なのだ。
…不思議にも、まだ死のうとは思わなかった。頭の中も、霧ががったかのようにはっきりしない。
それでも、ずっと頭の真ん中を占めているのは、自分が彼女を殺めたのだということ。
いったい、これまでの自分の存在はなんだったのだろう。あんなに、必死で何かに反発していた自分は。
諦めの感情もあった。だが、何を諦めているというのだろう。それすらも分からない。
そんなことを考えていると部屋のドアがノックされた。女性的な叩き方である。淑恵だろう。
「坊ちゃん、お食事です」
あれ以来、食卓を家族で囲むということもない。無論、椿が一方的に避けていると言われればそれまでだが、いったいどうしてあんな出来事があった後に同じテーブルにつくことができるだろう。
「すまないな」
淑恵は中腰の態勢で、作られた食事を一皿ずつ並べていく。こうしてそれを眺めていると、まるで椿には自分自身が覇気のない病人のように感じられた。
別に椿自身はどこも病んでいるつもりがなくとも、淑恵が彼を壊れ物のような目で見てくるのだから尚更だ。
…このままではいけない、と思う。こんなふうにしていても、自分はどこにもいけない。
椿は戻ろうとする淑恵を呼び止めた。










「怖い顔」
「言うに事欠いて、帰ってきた息子の顔見るなりそれですか?」
「子どもの体調を気にするのは母親の役目だっていうでしょう?だから見てみたら、あなたはそんな顔だもの」
半ば呆れ聞き流しながら、草慈は自分と彼女のために厨房に立って紅茶をいれた。家政婦の女性は買い物に出掛けているらしく、エプロンも椅子にかけたままになっている。
「瑞樹は元気にしているの?」
「彼は彼で色々と大変なようです」
「他人事みたいな言い方しないの。家族でしょう」
頬を膨らませる仕草は少女のようだが、あなたいったいいくつでしたっけね。
「別に蔑ろにしているわけじゃないよ。ちゃんと食事は作ってるし、足が必要だと言われれば運転もするし」
「でも貴方が男の人みたいな顔をしているのは、それが理由じゃないでしょう?」
「俺は生まれたときから男ですよ」
「知っているわ、貴方は私から産まれたのだもの。ねえ、誰かを好きになったのね?」
彼女は華奢な肩を揺らし、可憐な唇をほころばせた。
「そんなんじゃないよ」
「隠さなくてもいいのよ?」
「じゃあそうなんじゃないんですか」この際、どちらでも同じことだ。
言われずとも、自分が彼に深入りしているとは感じる。彼の存在は当初、【大学のOBで綾城椿の友人】でしかなかったはずだが。
…どうも彼の人間性は、草慈の中の薄暗い部分を刺激する。ご飯を作ってあげて嬉しそうな顔をされれば微笑ましいし、仕事をしているときに見せる沈着冷静な横顔も嫌いではない。それでも彼という人間の…彼自身の感情を認めない臆病さや、愛情とは綺麗なものであるべきという不健全なまでに健全的な考えは、草慈を彼らしからぬ荒んだ気持ちにさせるのだ。
(…穢れのない愛情に固執するのは、柚谷自身がそれを求めているからだ。だが、そんなものが何処にある?)
こうも攻撃的な感情に駆り立てられるのは、彼が綾城椿に関係した人間だからなのだろうかと草慈は思う。少なくとも興味を持った切っ掛けは、そうなのだ。だがそれにしては、自分は彼のことを綾城椿のことよりも考えている。考え過ぎている。無論、綾城のことは脳裏に思い描くだけでも不愉快になるので考えまいとしている面もあるが、それにしてもだ。まるで、彼女の言うように彼を『好きになった』みたいだった。無我夢中に。実際はどうだろうか。誤摩化しているのだとしたら、あまりひと(柚谷)のことを言えない。たぶん自分と彼とは似ている部分がある。同族嫌悪。しかし似ていない部分も多い。例えばどこか。彼は綾城椿に好意を抱いている。最悪に趣味が悪い。そして無駄口が多い。
彼の挑発的な言動や諸々は、本来の目的から外れ、もはや他者からの攻撃を煽るためのものとしか思えない。ただし本人に自覚があるかどうかは、疑問である。
しかしいま問題なのは、彼の人間性よりも、次に自分と彼と顔を会わせる時のことだ。果たして自分は彼に何もしないでいられるだろうか?(この間だって、彼があんな顔をするとは思わなかった)。口付けたときから、いずれはそうするだろう、と考えていなかったわけではないのだが。しない方が自分の生活は平和に保たれるだろう。自分と彼は大して深い仲でもない。…ああ、だからこそ、かもしれない。
これまで周囲の人間なんて紙切れや人形のように思えていたのに、(ちゃんと同じように生きているのだとは頭では分かっていたが)、傍らに立つ、彼の鼓動と熱を想像するだけで、獰猛な感覚が頭を擡げる。他の人間にこの話をしたら、きっと何を言っているのかと笑われるだろう。遅過ぎる初恋と勘違いされるかもしれない。…初恋にしては、少々凶暴な感情ではないかとも思うのだが。
冷静な思考で考えてみても、おそらく何の意味もない。それに、自分が思っているほど自分は冷静ではないだろう。
草慈は椅子に座り、腕を組んだ。
正面には淡く微笑む女性。未だうら若い乙女と見紛うほどに透明感溢れるこの女性は、現実とはかなりかけ離れたところにいるようにも感じられる。あの子どもも今でこそ常世に馴染んでいるが、かつては同じような非現実的な感覚を草慈に与えていた。
「電話みたい」
そうして紅茶に口もつけずつらつらと考えごとに耽っていた草慈の耳に、耳障りな呼び出し音と鈴の音のような声色が入り込む。
「出ないんですか」
「出て、草慈」
「ご近所の人からのローカルな情報提供だったらどうするつもりなんだか。……もしもし?」
子機を耳に押し付け、愛想の良いとされる声を出す。これで家政婦の女性からだったならば、平和な日常は維持されていたろう、今日のところは。
しかしこのときに限って言えば、草慈は相手が名乗った瞬間に電話を叩き切りたい衝動に駆られた。穏やかなる彼の精神は、特定の事柄や人物が絡むと途端に荒波が立つ。その後、その波は緩やかに収束へ向かい、新たに鋭く尖った氷柱が砕け散るかのような冷たさが胸の内には広がる。
「何か御用ですか?」
『…橙眞由美さんに代わってもらえますか』
「それは思い出していただけた、ということでしょうか」
受話器の向こうで彼が逡巡するかのような呼吸、沈黙。電話を繋げておいて、今更何を戸惑う?
『そのことに関しては、非常に申し訳ないことをしたと、彼女には言うつもりです、が』
「綾城さんは己の仕出かしたことを、謝れば済むことだと思っているのでしょうか?」自然と口調も冷めたものになる。
『…私が、他に彼女に出来ることは何もありませんので…』
それは、
「御尤も、おっしゃるとおりだ。むしろ彼女がその言葉を聞いたら、貴方をお茶に招くぐらいはするかもしれない」
『お茶…?』
「そのぐらい彼女は心の広い女性だということです。電話を寄越したのが貴方だと知れば、彼女は感激して逢いたがるでしょうね」
彼女はそれぐらい貴方の話ばかりしていたのだ、と言いそうになり、草慈は口を噤んだ。
…結局のところ、この男を疎んでいるのは彼女ではなく自分自身なのだ。そんなこと昔から知っているし、分かっている。自分の言っていることが、いまこうしてかかえている感情自体が、愚かしい第三者のものでしかないことも。そして、本人たちがそれでかまわないと感じているならそれでいいではないか、と綺麗に割り切るのが賢明で理性的な判断であろうことにも、気がついてはいる。別に、彼女の愛情が欲しかったとかそういうわけでもないのだし。(無論、それも全くなかったとは言わないが)。それよりも草慈からしてみれば、この男の存在やその行為が許されてしまえば、自分の中の大事な何かが踏み荒らされる、損なわれる気がしてならなかったのである。
考えてもみればいい、と彼は何度も繰り返し、他に問う者もいなかったので自分自身に問いかけてきた。
彼女は特殊な身体だったからこそ、死ななかったに過ぎない。結果、能力があって死ななかったのなら、そこには何の問題も責任も発生してはいない、そう捉えるべきなのか?そんな容易に片付けられるような出来事だったか?彼は彼女が死なないと予め知っていたか?単純な事実だけを付け加えるとしたら、綾城が乱暴を振るったばかりに流れ出た子どもも数年の眠りを強いられたのだ。腹を潰せば外側だけでなく内側の存在にも害が及ぶ。
第三者の自分が何を思っていようと関係はないのだろう。だがやはり、この青年を認めることはできないと、草慈は思う。
『彼女は、私を責めようとはしていない…』
「それは以前も言った通りです。ちなみに招いておいて毒を盛るほど、彼女は悪趣味でもない」残念なことに彼女は浮世離れしている。
『それでも、私が過去にした行為が、許されるものではないということはわかっています。直接、伺って謝罪することも…』
「そうしたければそうしてください。住所はお伝えしますが、その後のことまで私は関知しません」
これ以上話をしているのも不愉快だ。もうこの青年が何をすれば自分の気が済むのかも分からなかったが、第三者である以上そこまでのケアは望むべくもない。
『橙眞さん』
「まだ何かお話が?」
彼は一瞬、躊躇するかのように黙った。だがすぐに、口を開いた。
『私は綾城の家を出ます。ここからは遠いところで、暮らすつもりです。なので今後、貴方に会うことはなくなるかと思います』
わたしはあやしろのいえをでます。やけに一言一言が明確に区切られた、青年の言葉を頭の中で繰り返す。
…この男は、ここからいなくなろうとしている。すべてを一新して、やり直そうとしているのだ。
草慈にはそれが、憤るべきことであるように思えたし、また歓迎すべきことでもあるように思えた。が、
「それは柚谷にはもう?」
『…彼にはまだ…荷造りなどの準備が一通り落ち着いたら、告げるつもりです』
僅かに声が掠れる。『ただ、できれば、』と受話器の向こう側の青年は適当な言葉を選びかねているのだろうか、受話器にふたたび沈黙をあてがった。
そのいささか…慎重過ぎるように思える態度は草慈に対するものというより、それ自体を口にするということに対するためらい、若しくは彼自身の中の…相反する気持ちからきているようにも見受けられた。
『勿論、柚谷にはちゃんと挨拶をしていかなければならないし、私自身、彼に見送ってもらいたいと思う気持ちはあります』
「それは、親しくしていた者としては当然ですよね」本音か建前かは知らないが。
『ええ、私としても…彼との別れは惜しいですから』
そして、最後に此処の住所だけ教え、青年との通話を終えた。切られた後の無音がいやに耳につく。
私自身、彼に見送ってもらいたいと思う気持ちはあります。またしても青年の言葉に何か引っ掛かるものを感じ、今度はそれが明らかな不快感だということに気付く。つい先程まで電話をしていた相手は、既に”彼”の気持ちを知っているのではないか、という…、青年の中に柚谷は自分のことが好きなのだ、という前提が既に成り立っているように思えて、草慈は酷く気分を害した。胸の中に親しみのある冷たさが留まり、胸苦しささえ覚える。
「草慈」
はっと、彼女に呼びかけられるまで自分がその場で立ち尽くしていたことにも気付かなかった。
子機を置き、彼女の待つテーブルまで戻って椅子に腰を下ろす。
「ちょっと電話が長引いて、」いまは彼女と話しているのだから、頭を切り替えなくてはならないと彼は思う。
「ねえ、あの子からなんでしょう?」
「…」
「あの子、私に逢いにきてくれるのね?」
淑やかでありながら、少女のような無邪気さを称えた微笑みがその顔には広がる。その笑みに、あの淡い空色の瞳を持った彼……彼もまた、先程の青年の話をする際、表情に隠しきれぬ嬉しさを滲ませる……のことが連なるように思い出されて、草慈は下を向いた。
そしてそのまま、ぱらぱらと色んなものが零れ落ちていくような…今となっては慣れ親しんだ感覚が、通り過ぎていくのをただ待っていた。
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