30.風船





気がつけば視界が反転していて、誰かの腕によって上半身を支えられていた。
「坊ちゃん しっかりしてくださいまし… 」
淑恵?なにを、どうしっかりすればいいんだ。まごまごしていたら、首を挫かれてしまうのに。
「やはり わたくしが間違っていたのです  あのとき坊ちゃんを連れて此処から逃げ出していれば」
なにを…大丈夫だ、どうせ後数ヶ月もすればお前は此処を出て行けるのだから。
「過去を嘆いてなんの意味がある?困窮を恐れ 生活の保障を私に求めた時点でお前は母親失格の女だったのだ」
あの男の、声。





時間は少し巻き戻り、柚谷のところへ椿が逃げ込んだ夜のこと。

風呂上がり、柚谷の服を借りた椿に向かって彼は言った。
「服、少しサイズが大きかったみたいだな…俺も決してガタイが良い方ではないんだけど」
それは椿の軟弱な身体を貶す目的で吐かれた言葉ではなかったが、それでも同年代の男である柚谷に言われたことで、少なからずショックを受けた。とはいえ、着てきた服は既に洗濯に回されていて、そのときの椿に他に選択肢はなかった。
言葉を返す気力もなく黙り込んでいる椿の袖を、彼は直接腕に触れないように気をつけながら捲し上げてくれた。
だが椿がそうされながら考えていたのは、もはや己の嘆かわしい体格そのものについてではなく、その貧弱さ故にあの男の醜い性癖を刺激してしまったという事実だった。仮に椿が図体のやたら大きな男に成長していたならば、いくらあの男でも夜な夜な部屋に忍び込み、ベッドの上で組み敷こうとはしなかったはずである。

そして今日。

自宅へ戻るなり、血相を変えた淑恵が出迎えた。その横を通り抜けると、彼女の声が背に追い縋ってきた。
「お帰りなさいませ…!今朝は何処へ行かれて…坊ちゃん、そのお洋服は…」
「柚谷に借りた」
「柚谷様に!どうなさって…お怪我でもなされたのですか?それとも、まさか…」
朝帰りをしたのは今日が初めての経験だった。それで淑恵も動転して、椿が帰ってくるまでに様々な想像を働かせていたのだろう。しかし彼女の邪推は椿を苛つかせた。立ち止まり、振り返る。
「柚谷はそんな奴じゃない」
「ぼ、坊ちゃん。わたくしめは何も…」
彼女は…例えば彼が何処の馬の骨とも知れぬ女とホテルで過ごして、その後柚谷に迷惑をかけたとは考えない。
「淑恵。親父はもう起きてるのか?」
「はい、旦那様は今朝は早く目が覚めたとおっしゃっていて…いまは中庭に」
坊ちゃん?と呼びかける淑恵の声を無視して、厨房のドアを開ける。更に膝の高さにある小さな扉を開ければ、中には何本かの果物ナイフがしまい込まれている。これは必要なことなのだ、と自分に言い聞かせて、椿はその小さな扉の内側にしまい込まれていた果物ナイフのうち一つを選び取った。手は震えていたが、淑恵のためにも…否、自分自身のために脅威は取り除かれなければならなかった。
厨房を出ると淑恵はまだ廊下に佇んでいた。
彼女は椿の持っている果物ナイフを見るなり、おどろおどろしいものでも見てしまったかのように目を見開き、唇を戦慄かせ、それを覆い隠すように慌てて両手で顔を覆った。しかしすぐにショックを受けている場合ではないと気付いたのか、懸命に自制心を働かせた彼女がその果物ナイフを奪い取ろうとして揉み合いになった。
「おやめください、坊ちゃん!そんなことをしてはなりません!」
「放してくれないか」
「いいえ!坊ちゃんのお気持ちもわかりますッ、けれどこれまでどうにか耐えてきたのですよ…!もう少しの辛抱を…っ」
「駄目だ、もう手遅れだ」昨日までなら淑恵の説得に椿も応じたであろう。しかし、昨夜の出来事は最後まで到達こそしなかったものの、それでも彼の堪えられる限界を超えていた。
女性である淑恵を押し退けるのは、椿の腕の力でもそれほど難しいことではなかった。
伸ばされた腕をかわし、廊下を突っ切り中庭までの距離を駆け抜ける。薄雲に遮られた光の筋が頼りなげに土の上に差し込む。ベンチに腰掛けるあの男の背中が見えた。
ベッドで感じたあの男の生温い息や、ぬめぬめとした性器の感覚が突如鮮明に蘇る。膨れ上がる嫌悪感に圧迫されて、脳味噌の中身が飛び散ってしまうのではないかとも思えた。涙腺がぶつぶつとちぎれる音が聞こえて、椿は目頭を押さえた。涙を流したところで意味があるのか。奴は同情して土下座でもしてくれるのか。
後先のことを考えれば、こんなことをするべきではなかった。あの男のために人としての道を踏み外すなんて馬鹿げている。あってはならないことだ。だが、それ以上にあってはならないことが現実に為されてしまった以上、その出来事の象徴である男はいなくならなければならない。
男の息の根を止めない限り、あのおぞましい現実が再び彼の身に襲いかかる可能性は否定し難いものがあった。
「椿か?…」
男は振り返らぬまま、しかし自分が間違えるはずがないと言わんばかりの悠然とした声色で問うた。
「…そうです」
「用があるのなら、もう少し近くに寄ったらどうだ。話がし難くてかなわん」
「近くに寄るのはかまいませんが、そのまま、こちらを見ないでいただけませんか」
「それは昨晩のことを気にしてか?」
不思議と男の声色に高圧的な響きは感じられなかった。椿は眉をひそめ、その問いに沈黙で答えた。この男に、反省は有り得ない。それを思い知らされるのに、これまでの年月は十分過ぎるほどの長さだった。
しかし、そうして目の前の男を頑に否定すればするほどに、彼の中には今すぐにも喚きだしてしまいそうな不安定な感情が顔を出した。それはとても苦痛だったし、昨夜の行為ほどではなかったにしろ、彼の精神を脅かした。
男は言った。
「処女の小娘でもあるまいに。あれはただ身体と身体を繋げる行為に過ぎん」出来の悪い子どもに言い聞かせるかのような声色で。
「今回の問題はそれを何故、わたしと、父上がしなければならなかったのか、ということです」
…どうしてこんな問題提起をしなければならない?
「愚問だな。何年私の息子をしている?」
「愚問?」ベンチに寄りかかるその背中は、物心ついたときから見続けてきたものだった。
「私はそのためだけに、お前をここまで育ててきたのだ」
…そんなこと、と喉まで声が出かかった。
地面が揺れる。不鮮明な感情が胸の中に影を作り、青褪めた風が膜を重ねた。
彼は思った。この対話は、無意味だと。
「私を手にかけるつもりか?」
「そうしなければ、私が…俺が貴方に首をへし折られる日が来る」
剥き出しの頸部に、刃先を押し付ける。果物ナイフで斬り落とすのは無理があるので、断つには勢いづけて先端を突き立て直す必要がある。ぶるり…と、背中に悪寒が広がった。この刃先を埋め込んでしまいさえすれば、おぞましい記憶は残れども、男は意思を持たぬただの肉塊になるのだ。
人の体は脆い。
「えらく真面目でつまらん人間に成り果てたかと思ったが、所詮同じ穴の狢というわけだ、私もお前も」
「貴方のは、ただの嗜虐行為でしかない」
「それと、何かと理由付けて暴力行為を選択することにどれだけの違いがある?」
年齢を刻んだ肌に赤い線が滲んだ。張りつめた粒がふるえる。
「一度目は同情を得られる、二度目は疑惑が混じる。三度目は」
「…こんなことを何度も繰り返すわけがない」今回だけだ、一度だけだ。呪いのような言葉に意味はない。
「お前は既に二度目だ。幼かったが故に覚えておらんようだがな」
ぎち、と頭が吐き気をともなう鈍い痛みを訴えた。にどめ…?と舌を動かした直後、穴が空いて中身が抜け落ちたかのように脳裏が白く点滅した。
「うそだ」またしても舌だけが動いた。思考は空白にしがみつかれている。何も考えられない。そこにはなにもない。
(人殺し人殺し人殺し)
やがて赤い幕が下りた。


手のひらは体液に濡れていた。


彼女は其処にいて、隣を向けば見知らぬ少年に腕を強い力で…それはもう皮膚や筋肉がちぎれてしまいそうなくらいの力で…掴まれた。
唐突に膨れ上がる恐怖心に身体の内側から破裂しそうになる。
いっそ破裂してしまえたらどれだけよかったろう。塵一つ残さずに(けれど人間は容易く破裂なんてできない)。
彼女の腹が風船のように破裂したときだって、そうとう、む





ぶつん
力を入れ過ぎだ。
案の定それはちぎれてしまった。





‥‥‥




太陽が感傷的になり始めた頃、千尋は綾城家を訪れた。
本人が帰ると言うので帰したものの、意中の青年がその後どうしたか気がかりだったのである。
出迎えた使用人の女性は千尋の顔を見ていくらか逡巡したものの、どこかしらへ一往復したのち椿の部屋の前まで案内してくれた。
そして一礼した彼女が速やかに退散するとほぼ入れ替わりに、屋敷の主人が姿を現した。
「千尋君。今日は愚息に何か御用がお有りかな」尊大な口調は常態だ。
「ええちょっと、ご子息が以前うちに忘れ物をされたので…それを届けに」
洗濯した衣類が、片手に持つ紙袋の中には収まっている。
だが、白々しい遣り取りに早々に飽きたらしい綾城氏は、自ら旬の話題を提供してくださった。
「昨晩のことは、もう知っているんだろう」
「いいえ、詳しいことは何も」
ところでその頚の傷はどうしたんです、随分と生っぽいですね。まるで、ついさっきつけられたばかりみたいですよ。と、続けざまに千尋は少々突っかかるような言い方をした。この癖のある人物を前に口数を増やすのは賢明ではないが、彼が椿にしたであろう行為には幾分の腹立たしさを感じないでもなかった。(かの青年はひどくおびえていたので)。
すると綾城という大人は、如何にも嬉しげに頬の筋肉を緩ませた。
「これはちと彼奴にしてやられたのだよ。君は…ひとりでいささか淫らな時間を過ごしていたようだな」
「…、僕も男ですから、そういうこともあるかもしれませんね」
鼻筋の妙に綺麗に通った男は、身を屈めた。すんすん、と匂いを嗅ぐような素振り。
「涼しい顔をしているが、図星だろう。…別の雄の匂いがする。触られて、いやらしい気分にでもなったのかね」
「匂いだなんて、僕が友人の服を偶々借りているだけということも有り得るのでは?」あなたのご子息のように。
「ふふ、この場で確かめたいところだが、今回はそういうことにしておこう。私にも仕事があるのでね」
綾城父も退散し、ようやく千尋は肩の力を抜いた。そして、自分の肩口の匂いを嗅いでから、首を傾げ、ドアをノックした。いまの会話は椿に聞こえていただろうか、そうでなければいいのだが。つまらぬことで彼の気分を害したくはなかった。
「椿、俺だよ」大きめの声で呼びかける。
「…入れよ」返事は即座に返ってきた。硬質で静寂を呼び寄せるような声色。…彼が無事正気かどうか、声だけでは、なんともいえない。
鍵のかかっていないドアを開け、一歩踏み込んでベッドに腰掛けている彼を見つける。妙に薄暗い。既に日が暮れかかっているというのに、部屋の中は電気がつけられていなかった。
近づいて、俯いている彼の頭部を見下ろした。
「綾城さんにまた何か嫌なことをされたのか?」
「されてはない」
「なら何を言われたんだ?」
昨晩あんなふうに匿ってほしいと言われて、その後彼が平穏に一日無事過ごせていた…とは千尋にはとても思えなかったので聞いてみたところ、椿の返事は予想通り芳しくなかった。憂鬱な気配に塗れているところか、声に感情の起伏が感じられない。
「これで二度目だと」
「なにが」
「俺が暴力で事を解決しようとしたことが」
情報が断片的だが、彼が己の父親に手をかけようとしたことは『あの頚の傷』から容易に想像がついた。もしかしたら、殺そうとさえしたのかもしれない…。
極めて常識的な、ともすれば潔癖過ぎる感性を持つ彼が、そんなことを考えついてしまえるほど追い詰められていたのかと千尋は眉を歪めた。まったく…せっかく自分が大事に手折らぬように接しているというのに、第三者が彼の繊細な精神に傷をつけてしまう。可哀想で居たたまれなくなってくるぐらいだ…!そんな憤りと悲しみが、椿の傍らに立つ彼の胸をたまらなく締め付けた。彼自身、自分の中の何処にそんな感情があったのだろうと驚いてしまうくらいにそれは激しいものだった。
椿は俯いたまま顔を上げようとしない。思わずその肩に手を伸ばしかけて、千尋は我に返った。触れたら、椿は嫌がるだろう…彼は手を引っ込め、いつも通り冷静になろうと努めた。冷静に、保護するように、傷つけないように。それが椿の信頼を得る一番の方法であるし、相手のことを考えて行動することが好意の最も優れた形であるはずだった。触れたいだとか、そんなことは欲望の一方的な押しつけでしかない。
そんなふうにあれこれ考えて、彼は妙に泣きたくなった。何も理屈は間違ってないはずなのに。
「それで、一度目のことはおぼえているのか?」いつも通りの声を出せただろうかと不安になりながら、彼はじっと椿の反応を待った。切り替えなければ…まったく、いつからこんな感傷的な人間になったのだろう。たかだか、こんなことで、悲しくなったりするだなんて。
椿が答えた。
「ああ、さっき…忘れていたのに思い出して」
俺は彼女を殺してしまっていたんだ、と。そのときに彼は顔を上げ、何度も繰り返し考えたことをようやく口に出せたかのような表情を浮かべた。目尻に涙の痕はない。
「俺は彼女の腹の中にいる子どもが疎ましくてならなかった。後妻である彼女が、彼女自身の子どもを産んだ瞬間、俺はいらなくなるんじゃないかと思ったんだ」
ありがちだろう、と彼は千尋を見上げた。千尋はその視線を受けて、見上げるのは手間だろうと彼の横に腰掛けた。
「それで、偶然彼女を襲った少年と一緒に、彼女を流産させた。多分彼女はそのとき死んだんだ。だが、ESPだった彼女は生きながらえて、後日自分の腹を裂いて再び死んだ」
なあ、可笑しいだろう、と椿。
「そんなことを仕出かしておいて、すべて忘れた上に、俺は親父の性癖を軽蔑しながら生きてきたんだ。醜悪だ、どうかしていると。なのに、どう考えても俺の方がどうかしてるじゃないか」
「椿、」そんなふうに自分を責める言葉を口にするものじゃない、と言おうとしたが、彼は話すのをやめようとしなかった。
「別に励ましてほしいだなんて思っているわけじゃない。
 
 …いや、むしろ笑うか、お前のことだからな…。
 綺麗ごとばかり抜かしておいて、実際は父親以上にどうしようもない息子じゃないかって」

…そしてある意味では穏やかに、訥々と吐き出されていた言葉から、突如剥き出しの不信感が滴り落ちた。
千尋は内側から滲む悪寒に身体が震えるのを感じた。椿の言うように、笑いそうにすらなった。
(…他人の言葉が、こんなに堪えるものか)自業自得だろうと自分に言い聞かせながらも、青褪める。
「そんなことは…」己が告げようとした言葉の説得力のなさに吐き気がした。

駄目だ、動揺しては、いま、動揺しているのは椿の方なのだから。

…抜け殻のような声色から判断するに、おそらく、彼にいま自分を批判する心づもりはないのだろう。内容が内容だっただけに、自分が過剰に反応したのだ。
しかし、いまの彼は、日頃の激高しやすいたちの椿とはあまりにかけ離れ過ぎている。彼の過去が、彼自身を追い詰めているのは間違いない。…幼さ故の残虐さで義母を殺す。千尋ならともかく、椿には到底受け入れられるものでないはずだ。
自分で自分を受け入れられないとき、人は何を考えるか?

…彼の細く折れそうな喉を見る。

(…俺は何を言えばいいんだ?…椿に…)
…分からない、何の言葉も出て来ない。
無駄口を叩くのは得意なくせに、肝心なときに黙りとは。なんて役に立たない男だろう。
「何を遠慮してるんだ?…お前は、その方がずっとお前らしいのに」
「…椿だって、全然らしくないじゃないか」今日の椿はとても饒舌で…箍が少し緩んでしまっているように思える。
「そうだな」
どうして、否定しないのだ。これまでの彼がそもそも『元々の彼』らしくなかったかもしれないと言及することすら、彼の中ではもはや必要のないことなのか。確かに話したところで言葉遊びにしかならないのかもしれないが。
「それで、やっぱり何も言う気はないのか?…」と、椿。彼は何を求めているんだ?
分からないまま、俯いて、彼の肩に顔を寄せた。僅かな距離。
「信じられないかもしれないが、俺は椿のことが好きなんだ」
「…それを俺はお前らしい嘘だと思うし、本当でも、やっぱりお前はひどい奴だと思う」
彼はそう言って、嗚咽も零さないままに、泣いた。

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