29.発熱









ただいま、と囁いた声は木漏れ日差す廊下に滑らかに溶けてきえた。
靴を脱いで、靴下を履いたつま先をそっと木目の不揃いな床に下ろして、体重をかけないように一歩一歩慎重に、けれど慣れた足取りで進んで行く。
ドアの取っ手を開けるまでに、不純物は綺麗に払い落としていかなくてはならない。満たされた水面に浮いてしまいたくなければ。
「おかえりなさい」
そこには儚げに微笑む彼女がいる。(ああ今日は珍しく起きている。)
勿論、目醒めているのは彼女であって、隣のゆりかごの中にいる生き物ではないのだけれど。






「頭が致命的におかしくなったとか思わないでほしいんだけど」
駅前から逃走後、瑞樹の友人を送り届けて自宅へと戻った。瑞樹は洗面所で手を洗いながら話し始めた。
「うん…よく酔っぱらいは…自分は酔ってないと言うけど、たぶん、瑞樹はおかしくなってないと思うよ」
「でも、どうして自分があの場に居なければならなかったのかと疑問に思っている」
「あの場とは?」
「睦月がご両親を仕留めるところに。いや、勿論僕が奴を呼び出したからだということは判るけれど」
そして彼はみかん色のタオルで手を拭くと、リビングへと戻ってきて座るでもなく突っ立っていた。
「瑞樹は疲れてるんだよ」
そんな分かりきっている答えを敢えて誰かに聞きたがるのだから。(居なければそれが起こりえなかったであろうということを。)
「そうだろうか」彼は自分を見る男の目が、正気でない人間を見るものでないかどうか、さりげなく視線を寄越して確かめた。
「自身の立ち位置を疑問に思うのはそういうときだ」
もしかしたら今回の局面は避けられたかもしれないと考え、既に起きてしまったことを、なかったことにしたいと考えている。
それほどまでに、くたびれている。
血の飛び散る光景は、このきれいな子どもの精神を極端に疲弊させるようだった。
「少し休みなさい。ご所望なら子守唄でもうたうけど?」…それとも絵本の方が良いだろうか。
「いらないよ」瑞樹は素っ気なく答え、自室へと足を向けた。






「さわがしくしてはだめよ。起こしてはだめ」
彼女は彼女特有の甘さのある声音で囁く。ゆりかごの中にいる生き物を起こすまいとするように。
そう、ベッドで生活する彼女の隣には常にゆりかごが置いてある。中には自分とさほど変わらぬ大きさの生き物が横たわっている。それは眼を開くことも喋ることもせず、常に身体の何処かが欠けている。今日は右肩から先がない。
彼女はその生き物をおこしてはいけないと言う。だが、息をしているだけのこれが、ちょっと煩くしたくらいで動き出すだなんて、どうして信じられようか。(よくできた人形が人の手を借りずに動き出す。なんて恐怖だろう。)
いつだったか彼女にそれをきいてみたことがあった。これはまともに動いていたことがない。なのに、と。すると彼女はまるで常識的に有り触れた事象を説明するかのような口振りで、
「ねむりながらめざめているの。」
からだがねむっていては、なにもできないもの。
と、言って、生き物の髪をいとおしげに撫でた。自分がそうされたことはなかったけれど、うらやましい、とは思わなかった。元々そういう立ち位置ではないのだ。ただただ自然な成り行きでいつのまにかそうなっていた。成り行きというほどの過程もなかったわけだけれど。
「かあさん、今日スクールから給食費のお知らせがきてたんだ。だから、少し持って行くからね?」
「ええ、それもまた、必要なのね」
「そうだよ、だって食べ物は無料じゃないもの」
そして彼女は、常世のことにはあまり関心がないようだった。無知でそれがどうあるべきか分からない、というわけではなく、ひとごとなのだ。人間は社会的な生き物であるというけれど、彼女は夢見がちで閉鎖的なひとだった。ただ、強いていえば、この家の中でだけ彼女は絶対的なちからを持っていたので、そこに小さな社会が見出せないこともなかった。
「ねえ、今日もまた夢を見たのよ」
「どんな夢?」薄らと、厭な気分になる。またか、と。
「あの子が出て来る夢なの。とても、かわいそうなで憐れな子…」
ないているの、あの子は目一杯潰しながらないているの。なにがそんなにさみしくて、悲しかったのかしら。
「それはかわいそうなの?」これまでに何度も繰り返された遣り取り。多少聞き方が投げ遣りになってしまっても目をつぶってほしい。
遣り取りのそのひとつひとつをいちいち覚えてはいないけれど、答え方はいくらか工夫して変えていたように思う。一度目は「かあさんはその子のことが好きなの?」と返したのだったか。
いつからだったか…いつもそんな彼女の姿を見ていた。





身支度を整えて再び天使の輪を乗せ直した瑞樹の友人を、車で仮住まいまで送り届けたとき。
瑞樹を車の中へ残し、屋敷の前で彼と向き合った。本当は瑞樹が彼を見送るべきなのだが、瑞樹は何も話したくないという顔をしていたため、やむを得まい。保護者は時に子どもの代理となるものだ。
彼は曇天に晒された湖の水面を思わせる眼差しをこちらに向けて、
「橙眞さんはどう思っているんですか?瑞樹のこと」
「どう、とは?」
「彼は今後、おそらく…とてつもなく永い、それこそ永遠にも等しい時間を生きることになるでしょう。家族として、それをどう受け止めているのかということです」
至って真面目に難しいことを聞いてきた。
「それは経済的に?」一応補助金は瑞樹が死なない限り、出してもらえることにはなっているのだが。
「かわいそうだ、又はとても億劫だとは思わないんですか?」
「又は永い人生、酸いも甘いも噛み分けるほどに、全うできれば幸せだろうという考えもある」
そうして如何にも余裕のある大人の振りをしながら、しかし実際はそんなふうに達観したり、ある意味とても親身に偽善的に心を痛め気怠くしたりしているわけではなく、彼が呼吸をしてうごいている、ということにも未だ慣れずにいるのだった。(目の前にいるのがその彼の友人であるということもまた、同じくどこか現実味に欠けた現実ではあった)。
「皆が死ねば彼は孤独になります」
「仮に瑞樹が誰かとの間に子を成しても、先に子が死んでしまうかもしれないものな」能力が衰える時期など分かる由もない。
生きていれば、死を取り上げられた彼の理解者もいつか現れるよ…と無責任な慰めを口にしてみたところで、逆に口先だけの、あまり親身になって考えていない家族の姿が浮き彫りになるばかりだろう。とはいえ決して無関心というわけではなく、家族として身の回りの世話はするし、かわいそうだと言われてみればかわいそうだとも思う。だが、そこに血の通った、心温まる交流があるかと聞かれるとそれも違うのだ、残念ながら。
「僕は友達として、瑞樹を助けてあげたいんです」と、彼の友人。
「一度目醒めた能力はなかなか寝付こうとはしないものだ」
「ええ。ですから、僕はいつか瑞樹を殺すでしょう」
極めて淡白に告げられた予告…というよりは宣言は、ある種の奇妙さを持ちながら至極スムーズに頭の中に入り込んできた。またそれを受けて、自分の中に漠然とした驚き(あの子どもにそれほどまでに入れ込んでいる人間がいたのかという、考えてみれば別に不思議でも何でもないことだったわけだが)が生じたことは認めざるを得なかった。そして彼の発言は…今後、”いつか”、為されるであろう行動は、自分には許されていなかったことのように思えた。必要もなかったし、考えもしなかったということもあるけれども。
「君は昔からそんなふうなのかな?」今日もご両親を地べたで泣かせていたようだった。すると青年は首を僅かに傾けて、こう言った。
「僕は平穏な日常を送りたいだけです」






これの親の調子が悪いんだ、と柚谷は為の乳児に哺乳瓶でミルクをくれてやりながら、こちらを見遣った。
それから思い出したように、しかしどこか確信犯的な声色で、
「そうそう…昨日の夜、椿が来たんだよ」と、付け足した。
ほんの数秒にも満たぬ間、彼は自分のもたらした情報が相手に与えた影響を探るような目をして、更に言葉を続けた。
「彼は酷く怯えていて…全く、頼る相手を間違えているんじゃないかとも思ったんだけど…だってそうだろう。俺のところに来たって、それこそ何されるか分かったものじゃないだろう、彼にとっては」
偽悪的な口調。しかし語る内容はすべて他人事だと言わんばかりに浮かべられた微笑の裏には、ひしひしとした歓喜が見え隠れしているようだった。
「でも柚谷は、…彼の、信頼に応えたわけだろう。何もしなかったのなら」
「何もしなかったさ。だって俺は彼を好いているんだからね、何をするわけにもいかない」
自分自身に言い聞かせるように彼はほぼ同じ意味合いの言葉を繰り返し、哺乳瓶を乳児の口から引き抜いた。瓶の中はもう空っぽだ。ハンカチーフで乳児の唇の周りを軽く拭ってやる姿は若い父親のようにも映る。しかし口調の端々に滲むのは。
彼は綾城椿に優しく接する自身の姿を肯定的に受け止めつつも、どこか割り切れぬ感情を持て余しているらしかった。
「柚谷はやさしいな」かれを脅かさないよう懸命に努めている。
「…俺が椿の話をしたのは、君が彼を疎ましく思っているのではないかと思ったからだ」
「そうかもしれない」柚谷は、この返答が気に入らなかったらしい。眼の動きで分かる。
「そうかもしれない?」
…しかし何故柚谷はそんなふうに思ったのだろう。あの遣り取りを眺めていたわけでもあるまい。あまり積極的に隠そうと思っていたわけでもないので、それが少ない言葉の中に透けて見えたのだろうか。…どうだっていいことだが、そんなことは。
要するに柚谷は、自分はやさしくなんてないと言いたかったのだろう。わざと相手の神経を逆撫でするような言葉を投げかけるのは、確かに良い趣味とは言えない。彼にはそういうところがある。全く子どもじみているが。
「なら言葉を変えようか。柚谷は、臆病な狐みたいだ」
「俺が臆病だって?」
強気で不快そうな声色とは裏腹に、眉の顰められた…弱気と不安の透けて見える表情。つと考えるように伏し目がちになったところを見ると、以前別の誰かに指摘されたことがあるのかもしれない。
「よくわからないな。なんだってそんなこと…、俺が彼に優しくするのは、嫌われるのを恐れているからだとでも言いたいのか?そんなに入れ込んでいるように見えると?」
彼の眼差しは敢えて醒めた色を上っ面に乗せているように思えて、そういうところが臆病なのだと内心呟く。彼は決して無自覚な人間ではない。素知らぬ、気付かぬ振りをする横顔に、
「面倒だな、柚谷は…」思ったことがそのまま口に出た。
「あの鳥のつく子の方が余程面倒そうな印象だったけど」迂闊に触れると傷つけられるよ、と困ったような顔の柚谷。
「面倒くさいのタイプが違う」あの子どもは、自身の感情にとても正直に生きている。
「…君たちの血筋はさ、多分カルシウムが足りてないんだよ。ほら、牛乳あるよ?ちょっとまずいけどね」
彼は膝を崩し座ったまま、傍らに置いてあった二本目の哺乳瓶を取り出してみせた。切り替えの早さは褒めるべきなのか、極めてにこやかに、先程見せた動揺はおくびにも出さない。
…黙ったままそれを受け取り、柚谷の視線を感じながら、先端のキャップを指で弾いた。
「お、飲むの?」物好きだなと言わんばかりの声を無視して中身を少量口に含む。そして吐き出さないよう気をつけながら、事の成り行きを見守っている柚谷に覆いかぶさるように口付けた。する直前、何をされるか気付いたようではあったが、勢いで捩じ伏せた。
「…うっ……!」
冷たい床に縫い付けるように彼の右手首を強引に押さえつけながら唇を舐ると、空いている左手で押し返そうとして来るので一旦素直に引いてみた。そうして彼が反射的に身を起こしたところに瓶に余っていた牛乳を零した。
「あ…!」
「悪い、手が滑った」
当然の如く、彼の作業着は牛乳まみれになる。彼の顔には、どうしてこんなことをされなくてはならないのか、という不愉快さの入り混じった困惑の色が浮かぶ。しかし…次に彼は、意外にも我慢強く寛容な態度を示した。
「全く…仕方ないな…、いいよ、適当に着替えて来るから」
…もしかしたら、彼の中には自分の方が年上だという意識も、少なからずあるのかもしれない。
彼は上着の裾を持ち上げて、牛乳が布の表面を流れていくのを見遣った。眉をひそめて指を放し、下の位置から億劫そうに抜け出そうとする。…余裕があるのか、現状を認めたくないのか、どちらだろう。なり振り構わず逃げ出したところで結果は同じだが。
「着替えるのなんて後で良いだろう」
そんな彼の肩を床の上に押し戻して、顔を覗き込む。抜きん出た華やかさはないが、甘く涼やかな顔立ちをしているとは思う。彼は視線が合った瞬間、淡い水色の眼の中に緊張を走らせ、ふいと顔を背けた。(以前、”同性にキスしたのは初めてだ”と彼に言った。あれは本当のことだ)。だから、そんなつもりはなくとも、耳許で喋ることになる。
「柚谷」
彼はぴくりと身体を揺らして、眼を伏せた。…睫が微かに震えている。…ああ、
……『彼』に似たこの声に反応したのか、と思えば、慣れているとはいえ、少し気分が悪くなる。…いや、こんなことをしている時点で、とっくに悪くなってはいたのか。本当に…面倒な青年だと思う。彼が黙って何も言わなければ、自分も何もしないだろうに。
「”椿”のしないような…やらしいこと、してあげようか」
「……いくらなんでも、怒るぞ」
「なら、そんな顔するなよ」息だけで笑って、首筋に唇を落とす。

何故こんなことをするのか。以前彼にキスをしたときにそう聞かれた。明確な理由というほどのものがあるわけではない。してほしそうな顔をしていたからだ、と言ったら彼は怒るだろうか。
…彼が自分に向ける視線には、ほんの僅かに焦がれるような色が混じることがある。無意識かもしれないが、綾城椿のことを思い出してのことなのだろう。それが、どれだけ他人の胸をざわつかせるかも知らないで。
濡れた作業服の肩口を床に擦り付けるように握りしめながら、なにげなくその胸に顔を寄せる。間近に感じられる、彼の心臓の拍動。生々しく無防備な、生命そのものの動き。彼の、

突如として湧き上がった、自分の中の余裕が急激に消え失せていくような感覚に、息を詰める。

指先に力が入る。余韻は引かない、それどころか真っただ中にある。
自分の下にある肢体が、体温を持って輪郭を鮮明にする。彼は、生きている。そんな当たり前のことにおかしなくらい動揺した。
自身のそれは尋常でない硬さを帯びて、彼の中に入りたいと訴えていた。そうすることが必要なのだと、意識を持って行かれそうなくらいの強烈な欲求となって。この薄っぺらい布の向こうに、その入れるスペースがある。しかし残された理性は否と唱えた。前触れもなく込み上げた、あからさまな劣情に戸惑っている。

「……柚谷」

自分でも驚いてしまうくらい、声は欲に掠れていた。
入れられないのならせめてと、彼の膝を割り広げて欲望を押し当てると、初めて彼の頬に朱が走った。直後、それすら堪え難いと言わんばかりに噛み締められた唇。もう一度、キスしようか、と迷う。彼にそうするのは嫌いじゃない。けれど、しない。布越しに柔らかい皮膚の感触。如何わしい熱が頭の中を迸る。いっそ……だが、込み上げて来た衝動はあまりにも唐突過ぎていた。余裕も何も感じられないほどに切羽詰まっていた。それが逆に、自身を理性の鎖にしがみつかせた。
身体を離すと、彼は勢いよく身体を起こした。紅潮した頬を隠すように右手を顔に押し付けながら、しかし少しでも距離を取るように、這って、壁に凭れ掛かるようにして座り込む。
静寂。手をついた…コンクリートの床が冷たい。
少し離れたところにある…水色の瞳は伏せられ、日頃饒舌な唇も今ばかりは何も語ろうとはしない。気温は決して高くないはずなのに、白い首筋には汗が浮かんでいて、やがて重力にしたがうがままに伝い落ちていった。





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