27.ダメージ











気がつけばあの少年の姿はなくなっていた。
先に行っていろと告げたのは自分なのだから当然と言えば当然だが、門前にひとりで残されると、いったい我ながら何をしに来たのだろうと思ってしまう。事情はどうであれ、いったん綾城家で預かった以上、あの少年には危険がないように努めなければいけない。それが今回、頼まれて仕方なく同行して来た椿の考えるところではあった。しかし、こうしてあの少年の放つ静かな熱気から解放されて、椿自身もいくらか冷静になってみると、そもそもあの少年は柚谷を介してやって来たのだから、柚谷のところで何か少年の安全を脅かすような事態が発生するとも考え難かった。
いっそ帰ってしまいたかったが、足は先程、ガソリンスタンドまで行って来ても良いだろうかと相談を受けて送り出したばかりだった。
椿はそびえ立つ建物から顔を背け、溜め息をついた。何故か…ということはない、理由は明らかだ…、此処にいると気が滅入る。床や壁に染み込んでいる形の無い感情。大体は言葉を持たず、不明瞭なまま彷徨い留まる。蓄積された意識。決して負が満ち溢れているわけではないし、勿論それもないわけではないが、それよりは単純に数が多過ぎる、と椿は一枚の仕切りを下ろす。柚谷がいたら文句のひとつでも言ってやるのに。
この場所は椿自身を消耗させると同時に、攻撃的な気持ちにさせる。
柚谷と対峙したときも、もう少し落ち着いて話せばいいのにと思うのに、自然と声音や心が尖る。端的に言ってしまえば、いやなおもいでのあるばしょだから、ということになるのかもしれない。
だからといって、自分の家に帰れば安心して眼を閉じることが出来る、というわけでもない。ただ此処よりはほんの少し肩の力を抜けるだけ、だ。だがそれも最近はよくわからなくなってきていて、いったい何処にいれば自分は安全なのだろう、安心することが出来るのだろう、と思う。孤独感が影を踏む。こんなときに、あんなやつ…の顔を思い浮かべる自分はどうかしているのだろうかとも。彼とて面の皮を一枚剥けば、自分を安心させてくれる人間ではないというのに。油断して肩を預ければ、耳朶を引きちぎられるかもしれぬ。ああ、多分今日の自分はどうかしているのだと椿は砂利を踏む。なんだってそんな不吉なことばかり。
そうだ、いまはとにかく睦月に合流しなければ。彼を満足させて、柚谷に一声掛けて、早く帰ろう。

「…綾城さん?」

不意に名前を呼ばれて身体がびくついた。誰もいないと思っていたし、その声は、柚谷とも睦月とも違うものだったからだ。
振り向いた先には、どこか見覚えのある長身の男が立っていた。彼は、丸い瞳を細めて、ポケットに手を入れたまま挨拶した。
「トウマソウジです。以前、鳥越睦月君を連れてそちらにお邪魔した」
「…ああ」
としか言い様がなかった。お愛想で笑顔を浮かべるべきだったのかもしれないが、気付いたときには多少タイミングが遅かった。それに、男も笑顔こそ浮かべていたものの、その内面からは好意というものを微塵も感じ取ることが出来なかった。
(また何故こうも感覚を緩めたのだろう。野放しの感覚を早く制御しなければいけないと脳は言っている)。
あるのはむしろ、
(気を引き締めてそれらを弾く)。
「ちょうどよかった。綾城さん、前々からあなたにお尋ねしたいことがあったんです」
「なんでしょうか…」
「自分は一方的な被害者である、という顔をして生きるのは、いったいどういう気分なんでしょうね?」
敵意以外の何物でもなかった。…感覚を遮断し、現実に合流した直後であるにも関わらず、男の言うことが理解出来ない。突然、何を言い出すのだろう。
「ああ、いきなりで混乱させてしまったのなら申し訳ありません。ただ、回りくどい聞き方は苦手なんです」
「トウマさんは何を、おっしゃりたいのですか」
「橙色に、真実の真の旧字体で橙眞です」
「…」…もやもやする。
…疎通が意図的に妨げられていることに気付く。彼は一方的に何かを告げることを目的としている…その声音に背筋が自然と冷たくなる。
橙眞は不可思議な笑みを浮かべている。
「当時は綾城さんも幼かったでしょう、あたらしく与えられた、母親の旧姓なんて知っているはずがない」
…意味が、上手く捉えられない。冷えが全身に伝染し、末端が硬直する。心臓が縮こまる。
声もないまま彼を見つめる。この男がどうして、彼女のことを持ち出す?(あのときのことは何だかとても思い出したくない)(蠢いていた内臓)

「そんな綾城さんはきっと、妊娠していた彼女の腹を叩き潰したことも覚えていないんでしょう」

指先が肘の関節が肺が、身体のあらゆる部位が強張った。何か言葉を吐き出そうとして喉が詰まり、強張ったままの肺が呼吸を失敗する。
なにをいえばいいんだ?
なにをとっぴょうしもないことをいっているんだと、いいかえせばいいのか?

「言、い掛かりだ…」
その声を発したのが自分だと気付いたのは言ってしばらくしてからだ。口の中は砂でも飲み込んだ後のように渇き切っている。
強烈な悪寒。脳内を目まぐるしくにゅうにゅうしたものが駆け回る。きもちわるさに吐きそうになる。
にんしんしていたかのじょのはらをたたきつぶしたこともおぼえていないんでしょう。と、男は言った。橙色に真実の真の旧字体である橙眞は言った。
「彼女は、見知らぬ男に暴行されたんだ、」
それは『誰もが認めていたことだ』。何故それを今更覆そうとするのか。この突如目の前に現れた、あのときにはいなかった人間が、何を知っているというのか。
肺が激しく上下する。冷や汗で背が濡れている。
橙眞はそんな椿を落ち着いた表情で見下ろしていた。そして、しばし間を空けてから(おそらく椿がこれ以上何も言わないだろうと判断出来る程度の時間ではあった)、何事もなかったかのように再び話し出した。
「事実としてはそうなのかもしれない。けれど彼女は綾城さんも”そうした”のだと思っているんですよ」
「…彼女が、生きている?」
「彼女は再生能力に優れたESPなんです。仮死状態になることはあっても、死ぬことはそうそうありません」
この男の言うことを、どこまで信じていいのだろう?過去、淑恵も父も、彼女は己の腹を裂き死んだと言っていたのである。(そしてその腹の中に)。
「信じられないのなら、直接話しますか?彼女と」
橙眞は懐から携帯電話を取り出してみせる。声だけならいくらでも誤摩化せる、のだろうか。しかし彼女の声を聞いたが最後、わからないわけがないとも思った。
椿は橙眞の持つ電話を押し戻した。彼女と繋がったところで、何を言えと言うのだろう。俺は貴女に危害など加えていない、仮死状態になっていたのなら、そのときに記憶が混乱したのだ、と突っ返せば良いのだろうか。…そう…だ、きっと錯乱していたのだろう、彼女は。そうでなければどうして一緒になって暴行を加えたなどと言い出すだろう。被害妄想が拡大しているのだ。……自分も劣らず彼女を貶していることは気がついている。
携帯電話を押し返された橙眞は、やや不快そうな顔でそれを上着の中にしまい込んだ。いくらか申し訳ない気分にはなったものの、この得体の知れない男ともこれ以上あまり関わり合いにはなりたくなかった。
「綾城さん。残念ながら彼女は正気です。面倒なときは混乱しているんだと相手にしないこともありますが、彼女は意外に現実的な人なんです」
「…」
「しかし勘違いしないでほしいのは、彼女はとても寛容な女性だということです。彼女自身は、綾城さんを責めようとも思っていない」
「それは」果たして、有り難いことなのだろうか。
「とはいえ、それで綾城さんの行為がなかったことになるわけではない。そうは思いませんか?」
「…それが実際にあったことなら、ですが」声が地を這ってかすれる。砂を吐くように言葉を紡ぐ。
…結局のところ、そうなのかもしれないと中立を装っておきながら、この男は彼女の言葉が真実であることを疑っていない。被害者である彼女が嘘をつくはずがないと思考停止に陥っているのか、こちらを悪人に仕立て上げた方がこの男にとって何か都合が良いのか。
「綾城さんも往生際が悪いですね。素直に認めてしまえばいいのに」
「やってもいないことを認めることは出来ません。橙眞さんは、いたずらに私を糾弾したがっているように思えます」
あまりに勝手な言い草に、怒りで取り乱しそうになるのを堪えて言い返す。
すると、橙眞は執拗に次の言葉を重ねた。
「自分の仕出かしたことさえ満足に覚えていない人間に好意を抱けるほど、私も人間出来てないんですよ、綾城さん」
…聞いた瞬間、頭に血が昇った。もともとそんなに沸点は低くない。
「っ、だから俺はやってないと言ってるでしょう!…何度言ったら分かるんです」
思わず怒鳴ってから、はっと我に返った。噴き出した怒りに身体がついていかず、胸が激しく上下する。しかしてその一瞬の隙をつくように、橙眞に強く襟首を掴まれた。昏い光を放つ瞳が至近距離で笑う。
「ならこちらもはっきり言います。この際、あなたがやったかやってないかなんて、どうだっていいんです」
「……どういうことですか?」
「その可能性を作ったあなたの存在そのものが、もはや害でしかない」
「……っ」
接触により無理矢理捩じ込まれた感情に、胸がつかえて噎せ返りそうになる。明確な敵意とはまた違う、濁った汚水のようなそれ。
この感情は受け入れたくないと脳が喚く。襟首を掴む腕を無我夢中で振りほどき、情けなく縺れる足で後退する。
やはり此処に来るとろくなことがない。柚谷の奴も、いつもは勝手に現れるくせに、どうしてこういうときに限って姿を見せないのか。らしくなくたっていいから、(どうしてあんな奴に期待するんだ!)
「気に入らないなら視界にも入れないでください。…行動も言動も貴方は乱暴過ぎる」
乱れた息を整えるのに必死で、去勢を張ってもまったく様にならないときた。これでは突然の暴力に怯えているようにしか見えないし、実際…”それ”に怯えていた。内面を侵蝕されるかのような感覚。

しかし、橙眞は反論する椿の様子をちらりと見遣っただけで、もう興味はないと言わんばかりに背を向けて中へと歩き去った。


なんなんだ、あいつは。
なんなんだ、あいつは。
なんなんだあいつは。

ぐらぐらと揺れる感情を抱いたまま、帰りの車の中でぐらぐら揺れる。
「綾城さん、シートベルト忘れてますよ」
妊娠していた彼女の腹を叩き潰したことも覚えていないんでしょう。覚えていないんでしょう。覚えていないんでしょう、妊娠していた彼女の腹を。
橙眞の言葉が頭の中を延々と回る。覚えているも何も端からそんな事実は存在しない。膨らんでいた彼女の腹は見知らぬ男の手によって流された。この手を汚してなどいない。いくら彼女が後妻…義母であったとしても何故自分がそんなことをしなくてはならないのか。
おそらく子どもの流れた瞬間から、彼女は冷静な判断力を失っていたのだろう。そうでなければ、あんなことはできないし、橙眞…あの言い方から彼女の親類もしかしたら息子かもしれない…におかしなことを吹き込んだりもしなかったはずだ。息子?あんなことがあった後に、どうやって彼女は子どもを作ったのだろう。『再生能力に優れたESPなんです』。腹を裂かれようが潰されようが死なない身体なら子どもを作るくらい容易いとでもいうのか。逆を言えば、ESPでなければ彼女はあのとき死んでいたかもしれない。妊婦が腹に強打を何度も浴びせられる、そうなったとしてもまったくおかしくはなかった。つまり”彼女は死んでいてもおかしくはなかった”。橙眞の言うように自分が彼女への暴行に加担していたとするならば、自分は彼女を残虐な方法で死に至らしめたということになる。
椿は頭を振った。繰り返し振った。睦月が隣でこちらを眺めているのは視線でわかった。
彼女を暴行した人間の位置に自分を当てはめてみるだなどと、橙眞に翻弄され過ぎだ。そんなことはしていないのだから、仮定して考える必要もないのだ。自分が彼女を…殺しただなんて、想像するだけで気分が悪くなる。しかも彼女はESPの能力であろうと何だろうと生きているのだ、それを。
なんだって彼女はそんな奇妙な現実をでっち上げてしまったのだろう。橙眞も橙眞で鵜呑みにしないで(『やったかやってないかなんて、』と彼は言っていたが)、現実を冷静に見てほしい。
椿は項垂れた。
橙眞の感覚や彼女の頭が多少どうかしているのだと貶す自分が、もしかしたら一番まともではないかもしれないという不安が思考の底には横たわっている。




玄関を開けると睦月は今日の礼を言い、あてがわれた自室へと戻って行った。
椿は思考の大半を占める憂鬱を隅の方へと無理矢理押し込みながら、淑恵に珈琲でもいれてもらおうと厨房に顔を覗かせた。午後三時過ぎ。いつもなら彼女は父のおやつを拵えている時間帯であった。だが厨房はしんとしていて、人気はなかった。
…買い出しにでも行ったのだろうか。それとも洗濯物でも取り込んでいるのか。
仕方なく自分で珈琲をいれて…味は彼女のものよりだいぶ落ちる…廊下を戻ろうとして、何処からか誰かの声が聞こえてきた。近い。耳をすます。…あの男の部屋だ。いつものように、見知らぬ子どもがいたぶられているのなら放っておいてもいいのだが(もう何人目だとかいちいちかぞえていない)、声は女性のもので…中にいるのは淑恵のようだった。対する低く沈むような声は言わずもがな、あの男のものだ。内容までは聞き取れずとも、口調の激しさから、何か言い争っているようにも聞こえる。
頭の中で男の声が弾ける。『いっそ淑恵と』
まさか淑恵にまであんな下品な話を持ちかけているのではないだろうな。可能性としては十分に有り得た。まだそうと決まったわけではないが、そうだとしたらつくづく畜生以下の男だ。いやしかし、もっとまともな話をしているのかもしれないではないか。自分同様、あの男も辞意を表明してる淑恵を引き留めているのかもしれない。そんなような気がしてきた…が、所詮想像したところで何の確信にも至らない。兎にも角にも、話をしているのはあのふたりであって、自分には関係ないのだから、早くこの場を立ち去るべきではないか。この場合、壁越しで第三者にもなっていない自分があれこれ邪推するのは良い趣味とは言えない。
しかしそのときドアが開いた。話し合いが終結したのか決裂したのかは定かではない。確かなのは、飛び出して来た淑恵と自分が鉢合わせしてしまったというこの現実だけだ。ついでに、部屋の奥にいたあの男とも眼が合った。なあそうだろうと同意を求めるかのような嫌な笑い。例え口論がどんな内容であったにしろ、この男に同意することだけはまずない。
「淑、」
名前を呼ぼうとして、手を掴まれた。
淑恵は薄気味悪くソファにくつろぐ男を遮断するように扉を叩き付け、俯いたまま強く両手を握りしめてきた。
「淑恵?」
汗が噴き出しそうになるのをぐっと堪えながら、大人しくされるがままになる。淑恵は、錘のようにずしりと重たかった。
「坊ちゃん。わたくしが此処から出て行くとき、坊ちゃんも一緒に来てはいただけないでしょうか」
「え?…」
「坊ちゃんは此処にいてはいけないんです。どうか、わたくしとともに来てくださいまし」
淑恵、と多分名前を呼んだのだと思う。彼女は顔を上げ、思い詰めたような表情でこちらをじっと見つめたのち、手を緩めた。


どういうことなのだろう。問いただしたならば、淑恵は答えてくれていたのだろうか?


ベッドに横たわり眼を閉じると、決して思い出そうとしているわけでもないのに埋もれていた記憶が舞い上がってくる。
橙眞のろくでもない話。殺してなどいない。彼女は生きている。胸の中に澱んだ感情が流れ込む。地上に居ながらに水没しそうになる。
柚谷とは今日は会わなかった。彼にも忙しいときがあるのかもしれないが、落ち着かなかった。
淑恵の突然のことば。淑恵は何をあの男と言い争っていたのだろう。あの男が人としてあるまじき性格なのは昔からだ。その昔からいる…男の下劣さには比較的慣れているはずの淑恵がむきになるのだから、相当な暴言や問題行動があったに違いない。
淑恵とともに家を出る?
わからなかった。あの男の息子である自分が、あの男と関係のない世界で生きることが出来るのか?けがらわしい行為を続けるであろう男の息子として、それは無責任なことなのではないか。
…いっそあの男の行為をやめさせることができれば。だが、そんなことが果たして可能なのだろうか。


知らぬ間に微睡んでいたのか、窓から覗く空の闇は一段と深まっていた。
時計…は何処にいったのだろう。手を伸ばしてもそれらしい形はない。寝惚けて床にでも転がしたか。どうせまだ夜なのだ、焦ってベッドから抜け出すこともない。眼を閉じる。…?”自分のものとは違う息遣い”を感じる。家の中にいる誰かの意識を拾ってしまった?違和感を捉えたのは聴覚だ、そんなことはなかった。衣擦れの音。太腿に加わる圧力。生暖かい息が、腹部に触れた。おぞましさに鳥肌が立った。
だれかが上にのしかかっている。
「だ、れだ…!」
声が震える。蹴り飛ばしてやりたいと思うのに、押さえつけられた下半身は怯えて縮こまっている。ファスナーの、音。闇の中でぶるんとしなる異物。それが何なのかを認識した瞬間、悪寒で心臓が凍り付いた。
「やめ、やめろ…っ放せ…!」
「少しの間、静かにしていることだ」
「放っ、ッ…、ぐ……!」
首を絞められ呼吸がままならない。骨がへし折れそうだ。月明かりに照らされ浮かぶ男の顔。ああやはりこの男は普通ではなかったのだ、そんなこととうの昔に知っていたはずだろうに何をいっているのだろう。おとなしくなったと判断されたのか、手指の力が少し緩んで酸素がながれてきた。脳味噌は発熱している。ファスナーがあいている。異物がファスナーのあいた股を擦っている。それは次第に硬くなり、ねっとりしはじめる。濡れた男の息が間の短いものへと変わっていく。異様な興奮。それを間近で受けて止めているうちに、背中がぞわりとさむくなる。感覚がクリアになる。ぬめぬめと擦れ合っている。しっかりしろこれは現実なんだぞと、頭が叫んだ。まだ首をへし折られたわけじゃない。

窓ガラスががしゃんと鋭い音をたてた。見れば、石でも飛んで来たかのようにひび割れていた。男がのそりと様子を見ようと立ち上がった。そしてその隙をついて逃げ出した。ドアを抜けるとき、振り返る男の顔は見えそうで見えなかった。
いつ男が追い付いて来るだろうと、そして追い付かれたならば街のど真ん中で内臓を掻き出されるかのような予感がして、走りながらも足はぶるぶると震えていた。それが恐怖心の生んだ過激な妄想だと笑い飛ばしてしまえればどれだけいいか、けれどあの男の箍はもはや外れてしまっていたのだった。
この真夜中、都合よくタクシーなんてものも走っていない。靴下のまま冷えた道路を踏みしめた。近くを通る車のエンジン音が鳴り響くたび、きょろきょろとその車体を確認し、柱の影に身を隠す。警戒だけは過剰なくらいに、無我夢中に家から遠ざろうとしていた。
見慣れた建物が見えたとき、あんなに厭っていたのに急に肩の力が抜けたようだった。
「…」
なんだって此処に逃げてきてしまったのか…あの男にも簡単に予想出来てしまうだろう。だが走り出したときから、行き先は此処だと決まっていたように思えた。
しんと静まり返った敷地内、彼はまだ起きているのか、事務所からは煌煌と光が漏れている。
もし先にあの男が来ていたら、と考える。その可能性もないわけではなく。しかしこんなときばかり能力に頼って感覚を研ぎ澄ましてみれば、その可能性はあっけなく潰えた。感じる気配にあの男のものは混じっていなかった。
ドア横にあるベルを鳴らす。彼は自分を見て、どう思うのだろうか。異様な格好に、閉口するのだろうか。帰ってくれと、言われるのだろうか。そうなったらそうなったで仕方がないな、と自嘲する心構えも出来ていた。
ドアはまもなく開いた。
「あれ、椿…」
彼は朗らかな笑みと口調で出迎えると、すぐにこちらの様子、格好がおかしなことに気付いたのだろう。訝しげな顔をした。それから、招き入れてドアを閉め、腕を組んだ。相変わらず仕草が妙に演技がかった奴だ。
「…悪いけど、ちょっと触るよ」
彼はそう言って、しばし間を空けてから、ぴた、と手のひらを額に乗せた。戸惑いと心配の入り混じったそれ。
眼を伏せる。
「俺は、正気だ」
…つぶやきながら、なきそうになっていた。
「…それは、知ってるよ」
此処まで来てくれたわけだから、と彼はゆっくりと手を放した。
夜の静けさに溶け込むような沈黙が落ちる。
やがて、彼はその静謐から抜け出すように…真夜中であるにも関わらず、昼と変わらぬ饒舌さでこう言った。

せっかく来てくれて申し訳ないんだけど、うちはそれほど暖房器具が充実している方じゃなくてね、いつもエアコンくらいしかつけてないものだから、凍えている椿にうってつけといえるものがないんだよ。どうしたものか、ああそうだ、確か全然使ってないハロゲンヒーターがあったんだった、ちょっと出して来るから待っていて。

そして、そのまま入れ替わりのように外へ出て行こうとしたものだから、思わずその腕を掴んだ。
「いいから、」
「…椿、」
「そんなことはいいから。…お前は、此処に、いればいい」
俯いたまま、顔を上げられない。いまの柚谷がどんな顔をしているのか、確かめるのが怖かった。もしもあのときのように、冷淡な態度を取られでもしたら。
(不安とともに体内に誰のものともしれぬ感情が滲み出す)
「わかったよ、椿」
…彼の指先が目縁を撫でた。ほんの一瞬、触れるか触れないか程度に。
「だから…泣くなよ」
優しい声色に、身体がふるえた。…彼が突き放さずに受け入れてくれたことが、どうしようもなく嬉しくて、触れられた目縁が熱く火照る。
締め付けるような歓喜が、此処に逃げ込んだ現実の虚しさと綯い交ぜになる。
「つばき、…」
彼がかがみ込んで、覗き込むように顔を寄せる。
…おかしことに、彼の方が辛そうな顔をしていた。
「…どうしてお前がそんな顔をするんだ」
「椿が泣いてるから?」
「答えになってないだろう…それに、あんなことをしておいてよく言う…」
忘れたわけではないのに、泣きそうな顔で笑っている彼を見ると胸が苦しかった。(この彼の言葉に裏がないとは限らないのに)。
「わかってる。俺はいつだって、椿に対してはひどいことしかしていないから」
「…だ」れもそこまでは言っていない、と言おうとして彼はすっと離れた。
「ごめん」
「柚谷…」
「お風呂沸かして来るよ、このままじゃ風邪引く」
奥へと消える背中。
果たしていまのは…どちらの意味の『ごめん』だったのだろうか。
(あのときの彼に、悪意はなかったということは知っていて)

大人ひとり入れる大きさの湯船に浸かりながら、つまり、とドア越しに立つ彼に説明した。
「一晩だけ匿ってほしい」
「それはかまわないけど、一晩でいいのか?」
「ああ、明日には家に戻る」
こんなところに長居したくはないからな、と冗談混じりに付け加えれば、「そうだろうとも」と妙に沈んだ声が返ってきた。それでも、昼に比べれば、夜であるいまは施設内の感情の雑音も落ち着いていて静かなものだ…と言ってやる気はなかった。どうにも、柚谷には情けないところばかり見せてしまっていて、こうして冷静になった際には気恥ずかしさばかりが残るのだ。
会話が途切れ、彼の影が遠ざかる。替わりにそれは近づいてくる。ぼやけた澱が生じて視界が濁る。感覚が錯覚を起こし湯が水になっては湯に戻るを繰り返す。

戻ってどうする?

昨晩は何もなかったという顔で帰ったところで何の解決にもならない。
あの男は再び同じことを仕出かすだろうか。部屋に鍵をつけるか?否、あの男のことだ合鍵ぐらい平気で作りかねない。一つ屋根の下、万事休すか。家を出れば…だめだ、まだあの家には淑恵がいるのだ。まだいてほしいと彼女に頼んだのは誰だ。彼女は帰郷などでこの約二十年間休みを取ったことがない。子どもの頃の記憶なんて曖昧なものだが…少なくともこの十年は確実に。したがって彼女にとって実家は存在しないに等しいものである可能性がある。第一、家を出ても、本当にそれであの男から逃れられるのだろうか。
名付けられた瞬間から、あの男に殺されるのは既に決められていたことなのではないか?(願望は叶えるためにあるのだ、あの男にとっては)
あの男に触れられるくらいなら死んでしまいたい。
湯船に深く沈む込む。
子どもの生首がこっちを見ている。
いっそ、あいつの息の根を止めてしまえば、不幸になる人間も少なくなるのだろうか?


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