26.異質







瑞樹は何の為に新に会いに行くのだろう。
睦月は容姿だけはすこぶる良い友人の顔を頭に思い浮かべた。
彼によると自分は新に”うった”という。あんなふうに精神を白紙状態に戻してしまうくらいだから、余程乱暴にしたのだろう…そんなに自分は友人に対して容赦のない人間だったのだろうか、どうして瑞樹はそんな自分と変わらず友人でいてくれるのだろうかと不思議な部分はいくつかあった。けれど、それは交通事故云々よりは納得出来そうな説明でもあった。良いか悪いかは別として、ずっとそれらしくはあった。第一、瑞樹がこんなデタラメを自分に言ったところで何の得があるだろう。よりひどいことがあったのを隠蔽しようとして?もしかしたら事実はもっとひどいのかもしれない…けれど記憶がない以上、ひとまず瑞樹の説明を信じてみる以外に方法はないように思われた。少なくとも、瑞樹がそういうことにしておいてほしいと、つまりは言っているのだから。
そして睦月の思考は冒頭に戻る。何の為に瑞樹は新に会いに行くのだろう?
そもそも自分が新に怪我を負わせたのは…それがいのちに別状がなかった程度なのは、今になれば分かりきっていることではあるけれど…新が狂っていたためらしい。何故そうなってしまったのかまでは瑞樹は言っていなかった。しかしそうなった挙げ句、新は瑞樹の義理のご両親を殺めてしまったとのことだ。確かに正気の沙汰ではない。だからこそ…自分も、新に対して非情になることが出来たのだろう。おそらく。
だが、当時の辻褄合わせをしてみたところで、睦月自身戸惑いがまったくないわけではなかった。瑞樹が嘘をついていなければ、自分は新にこっぴどい怪我をさせたのだ。それは交通事故説と比べれば”ずっとそれらしく”はあったものの、記憶の欠けている睦月にしてみれば謂れ無き中傷を受けているかのようでもあった。まさかそんなことを自分が本当にしたのだろうかと。疑いの芽。瑞樹を信じてみる以外に方法はないと、結論を下した直後に早速芽吹いたそれを眺めながら、睦月は立ちすくんだ。
「新はくるっていたんだよ。」
耳許で瑞樹の声が聞こえたような気がしたけれど、それは気のせいだ。
そしてその言葉が真実であれば、彼は新を恨んでいるはずだった。恨んでいないはずがなくて、彼も、否定はしなかった。なのに彼は新に会いに行くという。おそらく、お土産に新の喜びそうなお菓子でも鞄に詰め込んで。
不可解な行動。彼の言葉が真実であっても、彼の行動がそれを裏切っている。お菓子に毒でも盛るつもりだろうか。考えて、首を振る。瑞樹はそんな回りくどいことはしまい。彼には面倒なことを厭うところがあった。…彼の義理の両親の死が、彼の心に何らかの影を落としていたとしても…行動に移るまでの期間が長過ぎる。(…年月の経過により恨みが膨れ上がるということも、有り得るけれども)。
瑞樹が瞳に宿していた、あざやかな光を思い出す。(『新は』)。正気を損なっているわけではない、憎しみから生ずる尖った危うさとも違う、彼が聞いたら怒るかもしれないけれども…痛々しいくらいに理性的な光だった。だからこそ、睦月も、結局は自分が新を損ねたのだということを信じないわけにもいかなかった。疑いの芽は、吹き出てはすぐにもぎ取られる。彼がもっとしらっと、何もなかったかのような顔をしていたならば、非難することも出来たはずなのに。人を傷害犯呼ばわりしておきながら、更に新をひとごろし扱いしておきながら、本人に向かっては素知らぬ振りして…何がお土産のお菓子かと。
…らしくもなくカリカリしている気がする。そんなに新に怪我を負わせた自分が嫌なのだろうか。ちゃんとした、理由があって、正当防衛なら仕方がないではないか。実際、仕方がなかったのだろう。それとも、自分の与り知らぬところで自分がそんなことをしていたと、自分以外の存在である瑞樹から知らされたことが不快だったのか。多分それもある。だがしかし、この場合瑞樹が別に悪いわけではない。何故か記憶がないという自分が悪い。
そうなのだ。自分の思い通りにならない自分に苛ついている。姉のことも思い出せない、瑞樹と当時の記憶を共有することも出来ない。瑞樹の背を見つめてあれこれ考え、想像や憶測をめぐらすことしかかなわない。なにをかんがえているのか、と直接尋ねてしまえれば簡単なのに、そうしたところで瑞樹はいまの睦月を拒絶する。”勝手に”忘れたがために。自分たちは表面的に友人をやっているに過ぎない。
…それは、瑞樹が新のところを訪問している図とよく似ているように思えた。
「…ああ」
すとんと答えが何もない天井から落ちて来たような心地だった。
直前の、醒め切っていた彼の眼差し。
「瑞樹は僕たちが思い出すのを待っているのか」
けれどそれは、途方もなく遠く、また限りなく可能性の低いことのように思われた。(彼はそれまでに新の子どもじみた笑い声を何度きくことになるだろう)。
せめて自分だけでも当時を共有してあげられたならば…瑞樹のためにもねえさんのためにも。
「鳥越君、そろそろ…」
ドアが開き、綾城が顔を出した。もうそんな時間なのか、と睦月は思った。
今日は彼に為の養育場に連れて行ってもらうことになっている。渋る綾城に無理矢理約束を取り付けたのだ、あまり遅れるわけにもいかない。
車内で運転手に行き先を指定しながらも、綾城は「本当に行くのか」と言わんばかりの顔をしていた。彼は子どもを殺した件でもそうだったが、とてもまともだ。為の養育場とて知り合いのところであっても本当は行きたくはないのだろう。知り合いどころか取引先か。
睦月としても決して好き好んで為など、そんなものが見たいわけではない。肉など両親らが貪り食っているのを毎日見て飽き飽きしている。
…睦月はふと、久しぶりに両親の姿を脳裏に思い描いた。きっと今も彼らは記憶にあるままの姿で肉に齧りついているに違いない。しかしそんな一種醜悪に微笑ましい光景もたちまち消え失せ、脳はいとおしい姉の姿を映し出していた。そう、彼女が死を迎えた場所をこの目で見ないわけにはいかない。もしかしたら、彼女の何か…衣類でも骨でも、最悪結婚指輪でもいい、残されているかもしれないのだから。その姉への想いを訴えて、綾城には折れてもらったのだ。

「僕と姉さんは…見た目もよく似ていて、まるで双子の姉弟のようでした」
「僕は姉をこの上なく慕っていましたし、彼女も僕を本当に可愛がってくれました」
「それはもう、毎日のように遊んでいたんです、いま思えば本当に…飽きもせず。ええ、あの日がくるまでは」
「両親は彼女を検査に連れて行くと言い出しました」
「僕はてっきり健康診断くらいに思って気楽に送り出したんですが…」
「仮病でも何でも使って引き止めておけばよかったと後悔していますよ。でも、僕も年がら年中仮病になっているわけにもいきませんからね、いつかは連れてかれてしまっていたでしょう…」
「子どもで、両親にどう逆らったらいいのかもわからなかった」
「そして両親は嬉々として…彼女はまるで人形のようになって帰ってきました。彼女はESPとして陽性だと診断されたんです」
「僕はどうしてあげたらよかったんでしょう。彼女はそう遠くはない未来、肉として食われると決定づけられてしまったんです」
「彼女は泣きも笑いもしなくなりました。ただソファに座り、何も言葉を発さず視線は虚空をさまよったまま。食事も口にただ押し込まれるものを咀嚼するだけ。悲惨でした。彼女は、壊れてしまった」
「信頼していた両親に裏切られた、ショックもあったかとは思うんです…」
「勿論、実際は彼女がどう考えていたかなんて分かりません、もしかしたら何の役にも立たない、助けてもくれなかった僕のことを恨んでいたかもしれません」
中略
「結婚した直後、彼女は肉となるべく連れて行かれ」
「僕はおそらくまたしても何の手も打てぬまま…ええ、おそらくなんです、ここらへんはもうすべてが憶測です」
「僕が見た姉の最後の姿は、まだうら若くそれでいて人形のようになってしまった彼女なんです」
「僕は結婚式を挙げたという彼女の姿さえ、見てはいない。僕の眼には映っていたはずだけれど、その記憶を見失っている」

そういえば綾城に記憶の欠落があることを告げたのは初めてだと、そのとき気付いた。
その理由を聞かれて、交通事故だと答えたとき、全く状況は異なるにも関わらず、瑞樹の気持ちが少しわかったような気がした。僕は友人を銃で発砲してしまったようです、その結果何らかの過程を経て記憶をなくしてしまいました。…間違いなく綾城は閉口する。それが交通事故が理由であれば、深くは聞かれないだろう。
…それに、事故に遭って記憶を失っているという背景を拵えれば、綾城に要求を通しやすくなるかもしれない。それほど要求したいことがあるわけではないため、何かあれば、の話ではあるが。今回に関しては、何も無理という無理は言っていない。
車中は静寂に包まれている。
綾城は基本的に無口であるし、睦月自身も多弁な方ではない。
土手の木々が、林が駆ける。暗緑が視野の端をなぞる。快晴とはほど遠い、雲が空から項垂れている。
「綾城さん」
彼は振り返り、こちらを見た。その何気ない眼差しに透ける色。…人の感情に敏感な能力を持っている所為か、はたまた睦月の人間性か、彼は言動、行動に常に微量の緊張を滲ませている。そのことに本人は果たして気付いているのだろうか。
「この間来ていたのは、お友達ですか?」
先日、資料室から出てくる綾城と知らぬ人間を見掛けた。
すると彼は少し困ったような顔をして、硬く引き結んでいた口元を緩めた。
「…いいや」
対し、睦月は訝しげな顔をした…てっきりまた、強張った表情で否定されるものとばかり思っていたので。(彼は睦月との遣り取りにとても気をつかっているのである)。
「そんないいものじゃない」
ほら、着いたぞ、と彼はそこで話を切り上げて、窓の外に映る病棟のように白い建物を示した。

「椿さん」と綾城は車から降り立つと同時に、運転手から声を掛けられた。
彼はいったん睦月に顔を向け、先方に話はしてあるから、迷子にならない程度に見学してきたらいい、と言ったのち、ふたたび背を向けた。睦月は言われたままに緩慢な歩みを進めながら、ちらりと彼らの方を振り返った。耳に届く会話自体は大した内容…少なくとも睦月の興味を惹くものではなかったが、ひとり先に見知らぬ場所に立ち入り侵入することに、いささか怯む気持ちがないわけではなかった。瑞樹や綾城にどう見られ、思われているのかは知らないが、睦月は自身に関して、姉への思慕はあれど度胸や発想は人並みであると認識している。ずば抜けて怖いもの知らずだとかそういうわけではない。
白く四角い造りの建物は、それぞれの階に窓はあるものの、外からは何の施設か判断することは難しい。
その隣…少し離れたところにやや背丈の低い建物が見えた。窓の内側を覆うパステルカラーのカーテンにやや人間的な雰囲気を感じる。
だがしかし、睦月は白い建物へと足を踏み入れた。入り口は開放されていた…来客用でもあるのか、入り口の横にはアルコールスプレーがひっそりと置かれていた。睦月はそれを手に取り、擦り塗った。視野の、遥か遠くまで並んだ牢は数え切れそうになかった。そして、その中に入っているのは、当然の如く人間だった。
衣服も何も身に付けていない、剥き出しの生物。
姉はこの中の何処かに入れられていたのだろうか、とふと思う。年頃の娘になり、成熟していたであろう姉の肢体を思い浮かべて、頭が一瞬白く染まる。どこぞの馬の骨と結婚式を挙げた、と聞いたときとは比べ物にならない。身体の感覚は正常を保ちながらも、頭の内側、脳の一部を炙り焼かれるかのような、まやかしの苦痛を感じた。あられもない姿を周知の目に晒した姉が、憐れに、そして憎たらしく思えた。
「お客様、怪我をなさったようですね」
唐突に見知らぬ声の指摘…コンクリートの壁に知らず知らずのうちに叩き付けていたらしい、拳の皮膚が僅かに切れていた。
配慮された力加減で手を引かれて睦月は顔を上げた。淡い髪色をした青年…瞳が薄い青色をしている…はにこやかに微笑して、携帯用の消毒液を睦月の手の傷に細く垂らした。液は重力に従うがままに指を滴り、硬い地面に吸い込まれていった。
「薬が勿体ないですよ」睦月は指摘し返した。
「痛くはないですか」
「染みて痛いです」
「テレビで観たんですが、最近は、擦り傷等も消毒液をつけず水洗いするのが正しい方法らしいですね」
そして乾かすのではなくラップで覆ったりやガーゼ機能のついた絆創膏をしておくとか。青年はそう言いながら至って普通の絆創膏を睦月の手に貼り付けた。
「どうもありがとうございます」
「いえ。ところで、今日は綾城さんもご一緒とのことでしたが…」
「椿さんならこの後すぐ来られるかと思います、道中は一緒でしたので」
「そうでしたか」
青年は腕を組んで何か考えているような顔をした。数秒の間があったのち、その口元に笑みが戻った。
「いま、ちょうど下で搾乳中なんですよ、よろしければご覧になりますか?」
「搾乳?」この施設でノーマルな乳搾りをしているとは考えられなかった。
「ご案内しますよ、こちらです」
青年は颯爽と先を歩き出した。青年は、睦月がついて来ないわけがないと思っている。それくらいはその足取りから分かる。実際に、睦月も特に逆らう素振りは見せず、青年の後を追っていた。階段を一定のペースを保ちつつ下りて行く。下りて下りて下りて、奥まった扉を開き、更に通路を突き進み、左手にあるドアの取っ手に手を掛ける。
機械が大きな音をたててうなっていた。
「いまは機械がいろんなことをやってくれる。便利な時代になったものです」
そう思いませんか?と青年は微笑を消さぬまま、睦月の反応をうかがった。
…決して、目の前の生物らに興奮しているわけではないけれど。
喉にへばりつくような渇きを覚えて、唾を飲み込んだ。
「此処を、椿さんは見たことがあるんですか」
「まさか。彼がこれを見たら卒倒しかねない」
「なら僕に見せようと思ったのは何故ですか」
彼の唇は綺麗な弧を描き、空に似た色の瞳はてらてら、きらきらしていた。
「貴方を見たら、貴方のお姉さんを思い出しましてね」
「やはり姉は此処に来ていたと」口内で舌をぬるりと動かす。
「お姉さんは身籠っていましたので、出産まで面倒を見ていたんですよ。その後のことは、貴方のご想像通りです」
「姉は『此処』にも来ていたと?」
彼は答えない。ああそうだつまり、と睦月はこめかみを指でほぐした。姉は飼われていただけではなく、家畜のように乳を搾られ、挙げ句肉となったと。
ぐぐぐ、と込み上げる憎たらしさが頭の内側を熱くする。彷徨わせた視線の隅に入り込んだ、窓枠の向こうに見える空を辿り仰いだ。乾いた空気。下半身は膨れていた。
「あまり怒らないんですね?」
「僕が、あなたに、ですか?」冴えない空から視線を青年に下げ戻す。
「此処まで来たのなら、多少なりともお姉さんを想う気持ちはあったわけでしょう。なのに貴方はとてもしずかだ」
「…僕が感情を揺さぶられるとしたら、それはあなたに対してではなく、姉に対してです」
「つまり、何らかの感情を抱くとしたら、それは貴方のお姉さんをどうにかした男に対してではなく、どうにかされたお姉さんに対してだと?」
「僕は姉の無力さを残念に思います」
彼女は諦めてすべてを受け入れていたのか、必死に抵抗していたのか、そんなことは関係なく。
「貴方の愛情は随分と支配的…否、ドライで粘着質なんですね?」
首を傾げながらの質問は、ともすれば挑発のようにもきこえた。(おそらく、彼自身そうしようとしているように思われた。)
睦月は問い返した。
「もっと愛は盲目的に相手を肯定するものだ、と貴方はお考えなのですか?」
この青年と綾城が資料室で話していたのはまだ記憶に新しい。…別に覗いたわけではない、庭から見えたのだ。
青年に自覚があるのかないのかは知らないが、あのときの彼は実に嬉しそうな顔をしていた。表情豊かに、対する綾城も、心無し緊張の緩んだような顔をしていて。
日頃生活をともにしていれば分かることだが、綾城は、ESPの能力の所為もあるのだろう、直接的な接触も好まない。
そのため、青年が愛を盲目的なものであると考えているならば、そういった神経質なところも引っ括めて、ということになるのだろう。睦月は目の前の青年の、ある意味では健気な一面に心を打たれないこともなかった。
口を開く。しかし、だ。
「それはご自身が相手の方に嫌われるのを恐れているだけでは?」
青年は驚いたように眼を見張った。これまで、その澄んだ眼の端にひそやかに浮かべられていた冷笑的な色が、この瞬間消え失せたように思えた。
「仮に姉が生きていて、彼女が実は僕を嫌っていた…としても僕は平気です」
睦月は、自分の声に薄暗い熱が入るのを感じた。
「僕は姉さんを愛していますから」




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