25.鉛










(なかったことにしてしまえば、それは一方的な裏切りにも等しい)







交配の末、失敗作として生み出された生き物たちを囲む鉄の檻を指でなぞる。
特に変わったところはないかと目を走らせながら、言われたことを記入する草慈の容貌にふと視線を止めた。
短めのしかしやや跳ねかかっている黒髪。端正と表現するに値する横顔の造りは決して彼と酷似しているわけではないが、遺伝子レベルでの繋がりは感じられる。だが目許に関して言えば、切れ長で鋭い印象の強い彼とは打って変わって、黒目がちで丸くやや柔和な印象を与える。
…潔癖な彼と、変異種を前に平気な顔をしてペンを動かすこの男と。
「何見てるんです?」
「君の顔だよ」
「そんな冷静に観察するような目を向けられても困るな」
人間扱いされてないみたいだ、と彼は目を笑うように細めて千尋と視線を合わせた。
別に人間扱いしていないわけではない、それほど大した違いがないだけだ。彼がESPでない以上(おそらく)、商品に成り得ないということだけは確かだが。牛肉でも豚肉でも為肉でも、適齢期を過ぎた肉が好きです、という顧客はそうそういない。
「これらは味の方は?」IT。見た目が人間という枠組みを超えてしまっているのは認めよう。
「試してみたければ捌いてあげようか、尻尾の一本くらいならかまわない」
「遠慮しておくよ。未知なる食物アレルギーが出るかもしれない」
「まあ、出荷する際には毒性のある部分は取り除いているから、試食するなら商品化されたものをお勧めするね」
意外に売れるんだよこれが、特殊な層に。だから味はそれほど悪くないらしい。親父もそう言っていたよ。
すると、草慈ははた、と思い出したように言った。
「この間、柚谷の親父さんにご挨拶する機会があったんだよ」
「へえ?珍しくこっちに来てたのか」いつもは別棟に引きこもっている。
「食料の買い出しに行く途中だったみたいだ。それでさ、親父さんがお袋さんを食べたとき、千尋の奴はちびってたんだぞという話をした」
一瞬息が止まった。自然と眉が寄る。「ちょっと待った、親父の奴…いやしかしどうしてそういう話に?」
すると草慈はそういう話、そういう結論に至るまでの過程を、つらつらと話し出した。
「最初は普通に最近よく出入りしているそうじゃないか、お友達か、と聞かれたんで、そうです、お父さんのことは千尋さんから伺っていますと……呼び方はちょっと迷ったんだけど、さすがにおじさんだと失礼だと思ったからさ…」
それと、もしかして千尋君の方が良かったかな?と草慈。それもそうだが、誰と誰が友達だって?
「それで、もしかして昔のことも聞いたか、と振られたので、とりあえず素直に肯定してみたら、親父さんはこう言ったわけだ。
『私はあのときのことを今でも思い出すし、甘美なる記憶に黄昏れこそすれど微塵も後悔はしていない』
 …そして先程のような話が出たと」
…放心していた千尋の着替えさせてやったんだと宣う、父の健全で大らかな笑顔が目に浮かぶようだ。そしてその父の話し振りに、草慈の中では自分は父の行為にびびって漏らしたように認識されたと。あのときはまだ幼い子どもではあったし、状況そのものも客観的に見れば地獄絵図。…だからそう考えられたところで…無理はない…が…。
「それは誤解だ」千尋は落ち着き払った声を出そうと努めた。その認識は間違っている、その間違いは大きい、と伝える必要があった。
「親父さんは嬉々として話していたけどなあ」息子の失敗を。
「とにかく、誤解だ」
「ああ、そう…いくら柚谷でも、そんなことがあったと思われるのはいやなのか」どういう意味だろうか。
…彼は声に笑いを滲ませながら、冷静なそれこそ観察するかのような眼差しで千尋の身体の下半分を見た。衣服の上からでもあまり注目されたい部位ではない。
「あまり…人の身体をじろじろ眺め回さないでくれないか」
「いまの会話の流れじゃ誰だってみるよ」
「だとしても、もう良いだろう?そろそろちゃんと顔を見て会話してくれ」
そもそも…実際にあった出来事と彼の認識との間には大きな隔たりがあった所為でこんな会話になってしまったのだ。そしてそれは修正されなければならなかったのだ。千尋は口に手を当てて考えた。妙だ。何が妙なのかと聞かれると答えに困ってしまうのだが、今回に関しては…これ(”あのとき”)は絶対的にこうであって、間違った反論すらされたくなかった。物事の見方には違いがあって然るべきだが、これは。誤解をされることを猛烈に恥じているわけではない、けれど。
まるで当時の記憶をけがされたかのような、(上手く言葉にできない)
「柚谷?」彼の声だ。…どうやら、自身が憤りを感じているらしいことに千尋は思い当たった。










「ミズキ、なにこれ?」
「袋に書いてあるでしょ。かりんとうまんじゅうだよ」
僕が初めて人から与えられたかりんとうは、歪な円筒形のだったけどね、と瑞樹はスルメイカを食いちぎった。
「だからそれは僕なりの新くんに対する思いやりなわけだ」まんじゅうの方が上等であろう心無し気持ちが。
「ありがとう。…でもプリンは?…」あからさまにしょげかえった顔をする青年。
「プリンばかり食べてたら体内にプリン体が増えるよ」
「ぷりんたい?たいってなに?」
「それが増えるとからだの中が全部プリンみたいに黄色くとろっとろになっちゃうんだよ」
瞳が潤む。他愛もないジョークも疑心を捨て去った彼は簡単に信じる。
「おれ、プリンになりたくないよ」
「食べ過ぎなければ、新は新のままだよ」
何気なく返した言葉に胸が苦くなるような心地がした。行き過ぎたシリアスは得意でないというのに。新のことなんて、どうだっていい、本当は。こんなろくでなし、知ったこっちゃないのだ。一生子どもでいたければいればいい。ただ、分裂しかけていた人格を抹消するどころか受け入れてしまったのは新自身の決めたことだ。そうさせた、要因が瑞樹自身にも多かれ少なかれ(多かれ、だ)あったとしても。
そんな瑞樹の葛藤をあざ笑うかのように魚が気泡を吐き出してみせる。いやな居候。こいつも一生住み着いているつもりなのだろうか。
以前睦月に言われた言葉が脳裏を過る。(『瑞樹は死ねるのかな』)あの白いカバは実は妖精らしいが余計なお世話だ。
「ねえ、ミズキ」
「うん」
「このあいだね、きたんだよ」
「何が?」
「おかあさん」
「ほう」
「おかあさんね、かなしいのかな。ここにくると、いつもないてるの」
彼は枕元にあった絵本を開いて、うさぎのキャラクターが自転車から転んでしまったページを指し示した。「このことおんなじ」。
黒い線で描かれたなみだを指でなぞる。それさえも、拙い。瑞樹は緩慢に口を開いた。
「多分、おかあさんはおうちで悲しいことがあったんだよ、」
「どうしたらいいのかな」
「新がかなしいときにしてもらいたいことを、してあげればいいんだよ」
「そしたら、おかあさんわらってくれる?」
「気持ちは伝わる…かもしれないとだけ言っておこう」
少なくともおかあさんが来られたときに僕がいたら、この病室内は修羅場に発展してしまうかもね。
瑞樹は食べかけのスルメイカの袋を手に取った。留め具がなかったので、ぎちりと袋そのものを結い締めようとして、するりと抜けてしまった。


クッキーが牛乳にひたされてふやける。ふやけたクッキーはいったい何になったのだろう。
「何を考えているの?」
「このクッキーは誰が焼いたのかな、と思っていただけだよ」
「もう、私だってクッキーくらい作れるのよ。それとも、あの子のクッキーの方が口に合う?」
「ユミさんのクッキーも素朴な感じで悪くはない」
この人の息子の方ときたらバニラエッセンスとかアーモンドパウダーとか、まずお菓子作り以外には必要ないであろう食材も用いてくる。料理で例えるなら豆板醤とかバルサミコ酢的な。
しかしクッキーとなるとユミさんのように家に常備されているものでも十分に作ることが出来る。瑞樹自身舌が肥えているということもないので、余程壊滅的な味でない限りはどちらが口に合う合わないもない。素朴が必ずしも正統派に劣るかと言われるとそんなことはないと瑞樹は思っている。というかこんな真面目に考えるべきことでもない。
不味くなければ良いではないか。
「あの子とは最近どう?」
「あの子というのは貴女の息子さんのことでいいんだろうか」念のため。
「もちろんよ。でも、貴方に特別な子がいたら話は別だけれど」
「いたらどうするの」
「気になるけど聞かないでおくのよ。寛容な大人の振りをするの」
瑞樹は溜め息をついた。
「…とにかく、息子さんとは問題なくやってるよ。それでいいですか」
対するユミさんは目をぱちぱちさせた。
「一緒に暮らしていると話し方まで似てくるのね。今の突き放すような言い方、あの子とそっくり」
「それは貴女が纏わりつくような話し方をするからだと思うけど」
「私は常に、目の前にいる人を愛そうとしているだけよ。すると不思議と、本当に、その人のことがいとおしくなってくるの」
過去には例外になってしまった人もいるけれど、と彼女は口先を尖らせながらクッキーを指で砕いた。粉が散る。
「食べ物を粗末にしたら駄目だよ」
「私はその人のことが大嫌いになったわ、けれどいとおしくもあるの、その人がもし小人大の大きさになったら指先で弾いてあげたいと思うくらいには」
「ちょっと何を言っているか分からないな」
「貴方はこれを私が後悔しているが故の言い訳だと感じるのかしら?本当は憎たらしいのに未だ愛している振りをしている…」
「そんなことはない」
「貴方はどう思ってもいいのよ、これは”両方とも私の本当の気持ち”なのだもの。私は私さえ肯定してくれれば他はどうだっていいの」
瑞樹はそれで、と先を促そうと口を開きかけ、声を出さないまま再び口を噤んだ。紅茶のカップの中のミルクが掻き回されて緩い雲を描く。
「…でもそれは、絶対じゃないよ」喉に詰まった何かがある。
「それというのは誰かをいとおしく思うこと?

 ならどうして貴方は、それを後悔していると言えないの?」
眉を顰めて、彼女を見る。
息を押し吐くように言葉を紡いだ。
「後悔していないことを、後悔しているだなんて言わない」
「本当に、少しも?」
「……僕は、彼らとの時間をなかったことにしたいとは思わない」
視線が落ちる。自分自身、クッキーを摘んだままであったことに気付く。僅かなひび割れ。砕け散る前に口の中に押し込んだ。ぱさついていて、水分が足りない。紅茶を少量口に含んで、軟化したそれごと喉に流し込んだ。
ユミさんの少女のように幼い瞳は憂いを帯びて、紅茶と同じ色をしている。
「ねえ、瑞樹」
彼女を見つめたまま、次の言葉を待った。時間に換算してもしなくても大した間ではなかったけれど、ふと頭に過ったのは。
…ユミさんは、ちっとも似ていない。
「貴方、いまの自分をどう思っているの?」
「…いささか、手に余る」雁字搦めに、片腕だけ縛られている気分だ。腕が足りない。
別段、何もかも見失うほど、すべてを背負い込むほど自虐的にも感傷的にもなっているわけではなくて、あのとき何があったとかも、ちゃんと解っている。
ただ、ゆずれないことがあるだけで。それだけで、舵取りに手こずっている。

今日の彼女と話していると、喉の奥にある鉛のような何かの存在を強く感じる。

食べ終えた食器を片付けようと、瑞樹は椅子を引いた。もともと話すこともなかったが、彼女の話もそろそろ一段落ついただろうと思った。自分達にしてはよく話していた方だ。
「また、お墓参りに行ったんですってね」
だけれどまだ話は終わっていなかったようで、…食器を手に持ったまま、立ち止まる。
「そうだよ」
「次に行くときは、パンプキンパイを持って行ってあげて。あの娘が子どもの頃好きだったの」
「腐るんじゃないかな」
「ホールじゃなくていいのよ。寒いから虫は来ないだろうし、きっと、鳥が食べてくれるでしょうから」
「そうかな」
「そうよ、お願いね。とびっきり甘いのがいいわ。貴方が作るのよ、お店のじゃだめよ」
わかった?ねえ瑞樹、きいているの、…弾むような彼女の声を背に台所の流しに立つ。
水道の蛇口を捻ると、お湯が皿を滑り僅かに水飛沫が飛んだ。手の甲を差し伸べて、少しばかりお湯が熱過ぎるようだ、と思った。



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