24.飴玉













すれ違うたび、あの中性的な少年の視線を背中に感じる。
教えてほしい、と彼は控えめな物腰で真実を請いながら、あのESPの子どものことを思い出すよう強要しているのだ。
純粋な好奇心で聞いてくるのであれば、無神経だと撥ね除ければいい。非難する振りをして、降り注ぐ火の粉から逃れればいい。
しかし彼の視線には何か好奇心とは違う、静謐の裏に焦がれるような切羽詰まった感情があって、完全に突き放すことが出来ない。…自分自身に後ろめたさがあるが故に。殺したのは父だ。しかし、肉を飲み込んだのは自分だ。
…目を反らしていればよかったのに、どうして目を合わせてしまったのだろう。乾いた眼球。そしたら気付かずに済んだのに、ああこれはただの知らないこどもなんだなと納得していればよかった。なのに。からだを見ただけでは気付かなかったのだ、頻繁に会っていたのに、中途半端な正義感で柚谷を非難したくせに本当はどうでもよかったのだろうちがうそんなことはなかった。真面目に見据えてしまえば堪え難かったのだ、何故ならばあの子は人間だった、服を着ていなくて教養がなくてでも、それでもどこからどうみてもヒトだったのだ。だから見ない振りしてあれは為なんだ、ESPで自分とは別の生き物なんだと言い聞かせ。
為って何なんだ、と此処にはいない柚谷の襟首と今すぐにでも引っ掴み怒鳴り散らしてしまいたい。お前はどうしてそんな普通でいられるんだ、人を飼っている時点で普通であるはずがないのに。わからない、理解出来ないのだ。どうしたって、虚しく嘆かわしいくらいに。
挙げ句、淑恵まで此処を去るという。
そうだ此処に居ない方が彼女のためだ。あの男は普通ではない。彼女は素晴らしい女性だ、もっと早く此処を出て幸せになるべきだったのだ。自分はあのとき笑って祝福しなければいけなかった、誉め讃えなければならなかったのだ、彼女の決断を。だのにまるで母離れ出来ぬ自我の幼い子どものように喚いてしまって…きっと彼女も失望したろう。
数多のことを思い出せば思い出すほど、自分が情けなく醜い人間になっていく。
…あのこどもの薄い脂肪のにおいがする。幻臭だとわかっていても精神は摩耗する。

「綾城さん」
いつのまにか少年が一メートルほど離れた位置に立っていた。
「ああ、帰ってたのか」
確か彼は友人に会いに行くと言っていたのだ。だがそれは昨日のことだったかもしれない。少年もそう思ったようでその顔には苦笑が浮かんだ。
「今日の朝食のときに綾城さんも僕もいたんですが、…覚えてないんですか?」
「…すまない、ちょっと考え事してたんだ」
「綾城さんはいつも憂鬱そうな顔をしていますね」
首を傾げた少年の髪がさらりと揺れる。髪先、頭部、転がっていた、見開かれていた瞳。目と目が合った。
「綾城さん?」
胃が軋む。吐き気が込み上げる。咄嗟に口元を押さえた。舌が彼の脂肪の味を記憶している。
冷たい汗が背中に噴き出す。吐くわけにもいかなくて、飲み込もうとすれば生理的な涙が滲んで喉がごりごりと唸った。
「大丈夫ですか?…しっかりしてください」
少年が背中を擦る。感覚が拡大する…閉塞的な感情がどろりと溶け出す気配に、さりげなく彼の手を払いのける。消える。まさか君の顔を見て吐き気がしたんだとは言えずに黙り込んだまま、大丈夫だという意思表示のつもりで頷いた。そうだ、あの子どもはこんなふうに人間らしい行動は出来なかったろう…いくら似ているとはいえ、彼は…鳥越睦月はあの子どもとは全く別の存在なのだ。失礼にもほどがある。
「一度病院でも行った方が良いんじゃないんですか。いつも…顔色悪いなと思ってはいましたけど」
「…いや…大丈夫だ」行ったら確実に精神科に回されて病人扱いされることになるだろう。それにESPだと知られる恐れもある。
すると、睦月は不意に綾城さん…と濡れたような声色で椿の名前を呼んだ。その声色はこれまでの事務的なものとは明らかに違っていて、本能的にぎくりとするような響きを帯びていた。
静謐が微笑する。
「あまり良い気分じゃないんでしょうね、人の感情を読むのは」

その夜、気が滅入っていたために早めに床についた椿は、奇妙な気配で目を覚ました。
自分以外の誰もいないはずの部屋に誰かいるような…最初はてっきりまた廊下等で立ち話をしている使用人らの感情が泳いできたのかとも思ったのだが、その気配は明らかに部屋の内側にあった。ドアの前。これではこっそり逃げようにも逃げられない。しかし逃げる必要があるのかも分からない。気配はじっと動かない。椿が起きていることに気付けば、何らかの行動を起こすのだろうか。そもそも誰だ、淑恵か、あの男か、それとも睦月か。確信を得たければ起きればいい。ああしかし、淑恵以外のふたりだったらぞっとする。そんなところで何をしているんだ。
自分が寝惚けている可能性もあるのだ、と椿は自分に言い聞かせる。其処には誰もいなくて、夢混じりの想像だけが膨らんでいるのだと。
そして椿は身を起こした。
途端にドアが閉まる音がした…それさえも幻聴でなければだ。

「昨晩俺の部屋に入らなかったか?」
朝、椿は花壇の霞草に水をやっている淑恵に声を掛けた。いいえ、どうかなさったのですか?と心配そうな顔をされた。
「昨晩俺の部屋に入らなかったか?」
朝、椿は写真立ての写真を見つめていた睦月に声を掛けた。いや、入ってないですよ。といつもどおりの淡白な態度。
「昨晩…」
朝、椿は新聞を広げて優雅な朝食を取っていた父に声を掛けるか迷った。この男に声を掛けるくらいなら、気のせいだったで済ました方がどれだけ楽か。
「どうした、そんなところに立って」
座るか去るかしろ、と彼は目で促す。椿が距離を取って着席すると、彼は新聞を無造作にたたんだ。
「無口な奴だ。私の子どもなのに、お前は実に退屈な人間に育ったものだ」
…あの事件以来、父とは仕事の話以外したことがない。仕事のことにしても、最低限の会話だ。
「少しは大胆なこともしてみろ。自分が広がるぞ」
「…」この快楽主義の男の話をどこまで真面目に聞いたものか、椿には判断出来ない。…だが。
「いっそ淑恵と寝てみたらどうだ。少しは女も知ってみるといい」
「な…」
発言の意味が脳に行き着くまでに間があった。理解が到達すると同時に、椿は拳を机に思い切り叩き付けた。
「……にを馬鹿なことを!」
「テーブルを揺らすな、珈琲が零れるだろう」
「あなたは…ご自分がいま何をおっしゃったのか、分かっているんですか?」
「己の言っていることを理解出来ぬ程盲目してはいないつもりだぞ。淑恵とてまだ女の悦びを忘れるような年齢ではなかろう」
「…っ、…気分が優れないので失礼させていただきます」
あまりにも酷過ぎる発言に、椿は振り返ることなくドアも後ろ手に退出した。
昨晩誰が部屋に入ったかなどという疑問は、この時点で既にきれいに吹き飛んでいた。











ほんをよんであげる、と柔らかい女性の声がきこえた。
目を開けて声のした方を見ると、その女性はユミさんによく似ていた。
この歳にもなって、小さい子どもでもないのだから…と手を伸ばしたら、どうしたことか、手首から先がきれいにない。
ほら、よめないでしょう、とものわかりの悪い子どもを諭すように彼女は優しく微笑した。

電話の音で目が覚める。
こんな朝早くから迷惑な奴だ誰だ、とベッドから離れた位置にある電話の受話器に手を伸ばしたら、どうもこうもない、手首から先はちゃんとあった。安心して耳に受話器を押し付けると、鳥越睦月とかいう人間の声がきこえてきた。
『もしもし…』
「僕は何も知らんぞ」
『まだ何も言ってないよ』
言わなくても分かる。記憶がどうたら、姉がどうこうの話だろう。すると睦月は、相変わらずのさっぱりとした例えるなら流し素麺のような声で、
『この間あんな話をした後だし、心配になって電話しただけだよ』
と、言った。こいつ頭でも打ったんじゃないのかと逆に心配になる。けれども思い起こしてみると、睦月には昔からこうした気遣いをするところがあった。瑞樹がESPだと分かったときも、誰にも言ってはいけないと彼は強く瑞樹の身を案じていた。
「別に何も変わりないです」
『そう』
「でも、そろそろ新のいる病院に顔を出そうかなと思ってる」
最近顔見てなかったし、と付け足す。睦月は今度はしばし間を空けてから、『そう』と返事をした。

睦月の電話が切れてから、すぐまた電話がかかってきた。
どうしてこうも皆さん朝から活動的なのかと溜め息をつきながら、戻したばかりの電話の受話器を再び手に取った。
「もしもし、」生命保険も宗教的なお誘いも間に合ってます。新聞もいりません。
『もしもし…』ほんをよんであげる、とその声は囁いた。夢の中で。
「何の用?」
『ベーキングパウダーの代わりに重曹で味が変わったりしないかしら?』
「電話番号をお間違えのようだ、改めておかけ直しください」
『もう、貴方に聞いているのよ。どうしてみんな解っているくせに、とぼけようとするのかしら』
面倒事にかかずらうことを厭っているだけだろう、みんな。ユミさんは続けた。『ところで今週末あたりにどうかしら?』何がだ。
『あら、あの子ったら伝えてないのね。私たち、たまにはお茶でもしましょうということになっているのよ』
「貴女が希望すれば大概のことはそうなるだろうね」だだ捏ねそうだもの。
『でも勘違いしないでほしいのは、私たち、というのは本当に私と貴方だけのことを指しているのよ』
「うん?」
『今回は草慈にはお留守番してもらって、私と貴方とでお話が出来たらと思っているの』
素敵でしょう、と彼女は鈴の音のような笑い声を漏らす。誰かを除け者にするのはあまり素敵ではないけれど、たぶん彼女が言いたいのはそういうことではない。
「電話では出来ないの?」そのお話とやらは。
『貴方の声は電話向きではないの』
「そんなこと言われたことないけど」ショックだ。次の電話までにどうやって出るか考えておこう。
『それにやっぱり顔を見ないと解らないこともあるものよ。時間はいつでも良いから、私の家の場所…は覚えてなければあの子にでも聞いて』
「うん」
電話は唐突に彼女の意思によって切られた。こちらも静かに受話器を下ろして、それからだ、ベーキングパウダーと重曹の質問に答えていないことに気付いたのは。けれどそんなこと分からないので、どちらにせよ同じことだった。







「寝てる?」
と、声が上から振って来たのは、椿が資料室に閉じこもり机に突っ伏していたときのことだった。
驚いて顔を上げると、見覚えのある男がにこやかにこちらを見下ろしていた。上にムートンの暖かそうなライダースジャケットを着て、細身のパンツを履いている。
「柚谷…」
「どうしたんだ?いつもは顔を見るなり怒鳴り散らすのに」
「…そんなことはない」
そもそもそれはお前が、とまで言いかけて、彼の透けるように澄んだ瞳を見た瞬間、突っ張らかっていた感情がふやけた。安堵したのだ…この男も最低な部類の輩であることには変わりないのに。
それが顔に出ていたのだろう、彼はしゃがみこんで、労りを込めた視線で椿を見た。
「…どうしたの、本当にそんならしくない顔して」
「お前だって、」らしくないだろう、こんなの。…あのときは見知らぬ他人みたいな顔して突き放したくせに、なんだって今頃になってこんなに。
「俺が、何?」
「…なんでもない…」
どうせまた、気が変われば簡単に背を向けるのだろう。それともこの態度でさえも、ESPのデータを取る為の、いや人の感情を弄ぶためだけの戯れに過ぎないのか。触れてしまえば解る。…たぶん、ちがう。だからこそ、触れたくない。まだ自分は彼を許したいと思っていない。滅茶苦茶だ。彼と関わるのはこれだから嫌なのだ。余計なことを考え過ぎる。彼のことを考えると、疲れる。
なのに安堵した…いま此処に居るのが柚谷であれば大丈夫だと…どうして思ってしまえたのだろう。彼とて平気な顔で人を傷つける言葉を吐く。故意的に、無自覚に。しかし、けれど、最近は本当に。この屋敷にいると息が詰まりそうになる。誰と話していても常に自分が責め苛まれているような気がしてならない。どうしていなくなるんだ、どうして思い出すことを強要するんだ。「どうして」…、
「あの男はあんなクズみたいなことを言うんだ…」
これまでも散々あの男には失望させられてきた。妻を亡くすなり異常な性癖が目立ち始め…顔立ちの端正な少年を性的にそして暴力的に嬲るようになった。傷心故の行動だとしてもそれは粗野で人道的な観点からも決して受け入れられるものではなかった。同様の行為を唆されるたび、薄い嫌悪の層のようなものが積み重なっていったが知らぬ振りをしていた。そうしてさえいれば、目の前の空間は平穏そのもののように思えた。ESPの子どもが転がっている、肉片のこびり付いた包丁が視野に入り込んでしまったときも、胃の中身を全部掻き回されるような思いをしたが、敢えてそれ以降は何もなかったような顔をした。責めるために蒸し返すことすら苦痛だったからだ。
むしろ、似たような失望を繰り返しながら、未だ自分が何を期待しているのかもわからなかった。あの男がクズなのは昔からではないか。わかっていたことだった。そんな奴に人間性を求める方が間違っている。
「椿は親父さんがクズみたいなのが嫌なんだな」
「当たり前だろう…ましてや、あいつは今日、淑恵と…寝てみろとまで言ったんだぞ…」
身体の裏側から引き剥がれていくようなあいいろの虚しさに、燻るようなしろい怒りがない混じる。
柚谷は椿の発言に一瞬意外そうに目を見張り、それから舌の上で飴玉を転がすように言葉を転がした。
「綾城さんは刺激的な発言をするところがあるから」
「ただ下品なだけだ」
言葉を吐き出しながらも、膨らみ過ぎた感情が内側で弾けては萎んで毒素をまき散らす。そして思ったことを口にすればするほど感情が鮮明になって、その毒素はよく染みた。だが黙っているのも堪え難く。…せっかく柚谷が来ているのだ…日頃の恨みもある、いっそ今日くらい汚い言葉の捌け口にでもなればいいのだ。…迷惑は承知で、理由すらも後付けで、しかしこうでもしないとやっていられないような気持ちになっていた。
「…お前からしてみれば、俺はどうでもいいことで苛ついているように見えるんだろうな」…溜め息。
柚谷ならば、あの男の発言も面白がることが出来るのだろう。あの男も柚谷も思考回路が自分とはだいぶ異なる。
彼は膝を抱えながら、こう言った。
「他人の俺にとってどうであれ、”椿にとっては”悩ましい問題なんだろう」
「…その通りだ」考えることすら投げ出したい、何も感じなくなりたいと思うような問題だ。
「だったら別に怒ろうと愚痴ろうと好きなようにしたらいい。というよりも、椿が綾城さんの発言を素直に受け入れるようになったら逆に心配するね」
…心配する、はこっちの台詞だ、と椿は思う。
同じ科白でも、もっと…冷ややかに嘲るような口調で言えばいいのに。何故そんならしくない顔で、声色で接するのだろう。疑心を通り越して悪いものでも食べたのかと思えてくる。心臓がやたら動いて落ち着かない。敵性の人間のはずなのに、最近はこんなふうにらしくない態度ばかりとるから、だから先程もうっかり安堵してしまったのだ、そうに違いない。
……また、思考がこの男のせいでこんがらがっている。
「…余計なお世話だ」
これ以上の混乱は避けたくて突っぱねる。すると柚谷は小さく、ふ、と笑い、
「やっぱり椿はそうでないと」
…ややからかうような口振りでそう言った。途端に、何だかこちらとしても忽然と(ああ、これだ)と、そこに見知った彼らしさを見つけられたような気がして、混乱は静かに終息を迎えた。


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