23.バターと血液










「おかえり」
「ただいま」
「あれ、鳥越くんは?」
「帰ったよ」今日は随分とお邪魔していたからと辞退されたよ。
「なんだ、せっかく多めに作ったのに」
草慈は唇を尖らせる。いい大人が子どもじみた仕草をするんじゃないと注意すれば、まだ大人になったばかりだからね、と微笑む。可愛げのある子どもはまずしない笑い方でだ。
「鳥越くんに、ESPのこと話したんだな」
「不可抗力だ」
「彼は瑞樹のこと理解したがっているように見えたけどな」
「僕は時々あいつのことを理解出来ないと感じるよ」
あのときのこともそうだけれど、まず睦月はシスターコンプレックスなのだ。おいそれと踏み込みたくはない領域に片足どころか両足突っ込んでいる。
「理解と共感はちがうよ」
感覚に馴染まず、思考停止又は放棄に至るのはよくある話だけれど、と草慈氏。器に盛られたトマトスープは色鮮やかだ。確かに客観的に分析すれば理解自体は難しいことではないのか?いやしかし、ある程度相手の感情を追い掛けないと、理解そのものが甘い解釈で終わってしまうかもしれないではないか。
「鳥越くんのこと、瑞樹はそういう意味で理解したいと思うんだ?」
人間ひとりぶんの感情をまるまる抱え込むという意味で。自分が相手に成り代わるくらいのつもりで。
したくはない。けれどしたいとかしたくないの問題ではない。そうしなければいけないとも感じる。以前、ないがしろにしたばかりに。
「瑞樹は変なところで誠実で傲慢だからな」
草慈は千切ったフランスパンをスープにつけて口の中に放り込んで、もぐもぐしている。
たぶん、自分はどうにかして睦月だけでも自分の側に繋ぎ止めておきたいと思っているのだ。ともすると、何だか彼が彼自身を喪失する(ある意味彼自身以外の何者でもなくなる)ことを前提にしているようで可笑しなはなしだ。自分が何もしなくても、彼は彼の形をしているだろうとは思うのだけれど、わからない、たぶん怯えているのは自分だ。どうしようもなく苦痛で、けれど忘れてはいけないことがあるから。おかげで一部の感情はおかしな方向性を示し(他者をどうにかしなければならないと思い)つつある。できなかったからああなった。無茶苦茶言っていると理性ではわかっているのに感情が先行している。












午後六時頃、呑気な顔して草慈が事務所にやってきた。くすんだ緑のモッズコートに雪柄のマフラーの防寒使用で、何故か白い花柄の鍋を抱えている。
車は駐車場があったから適当に停めてきたとのことだ。中に通せば、彼はそれを机の上に置いた。
今日はもう完全にオフのつもりでいた千尋は、素気無い口調で聞いた。
「それは?」
「お土産。昨日の夕食だったんだけど、作り過ぎて余ったんだ」
だから寝食適当そうな柚谷に分けてしまえばいいかと思った、と草慈。否定はしないが、相当偏見に塗れた目で見られているような気がする。
「それとも、もう夕飯食べた?」
「いいや。君の予想に違わず、今日はもう食べなくてもいいかと思ってたところだ」
「ならちょうど良いから消費してくれ」
台所はと言えば一目瞭然の狭さであるため、草慈は勝手に鍋をガス台に置いて着火した。私生活において、時代の流れに追い付く気はあまりないので、コンロはまだガスを利用している。
さて……、訪問が突然であることに関しては別にかまいはしないのだが、手料理を持参されたのは初めてのケースだ。(腹に溜まった感情を持参されることはおかげさまでよくある)。いったいどういうことなのだろう。先日の件で、同い年の人間から近づくのを拒まれる、憐れな人間として認識されてしまったのだろうか。まさか、そんなことはないと思いたいところだが。
そんな不安はさておいて、素直に彼の押し売り親切は受けておくことにしよう。栄養を摂取しておいて何ら損は無い。
鍋が温まるまでの間、千尋は冷蔵庫の中に入れておいたミネラルウォーターで喉を潤した。
鍋を温めるのに火を使ったことで、冷えていた室内の温度が少し上昇する。
…そうだ、夕食をとるつもりなら、暖房をつけないといけないのか。そもそも彼は一応客人であるわけで、室内が冷えていては歓迎の姿勢としてはなっていない。如何せん、今日はもう誰とも会話する予定ではなかったので、頭の切り替えが出来ていないようだ。
「今日はもう仕事は終わったのか?」
草慈は黒の七分袖姿の千尋を見て言った。「そうだよ」と適当に返事をし、暖房をつける。夜に仕事をすることもよくあるので、実際のところ、今日みたいにこの時間で完全に切り上げて来ることはあまりない。

テーブルにトマトスープと海藻サラダ、シンプルなパンと緑やらジャガイモやらが混じったオムレツの皿が乗っている。
「グラタンにしようと思ったら、哀しいぐらい材料がなかった」
勝手に人の家の冷蔵庫を覗いておいてそれはない。牛乳はたまたま切らしていただけなのだ。
…そして、ふたりの人間が向き合ってソファに腰掛け、奇妙な食事が始まった。
千尋は、何故自分の家で、この青年と一緒に食事を取らなければならないのかよく分からず内心首を傾げたが、とりあえず勧められるがままにフォークを動かした。インターンのお礼と考えられなくもないが、まだ始まったばかりだ。草慈はグラスに持参したらしい赤ワインを注ぎながら、不思議そうな顔をした。
「柚谷、もしかして菜食主義者なのか?」
「?…いや、特に食事に主義主張は持ち合わせてないけど?」
卵も食べているし。そう言ってから、残り半分もないトマトスープの具材にウインナーの比率が高いことに気付いた。
…これでスープも飲み干して、ウインナーだけ残していたらまるで小さな子どもみたいだな、と思いながら、千尋は意識的にそれをスプーンで拾い上げた。
「あまり食事中にする話ではないかもしれないけど」
「うん」
「昔、親父がお袋の肉を食べるのを眺めたことがあった。それからかな、あまり肉は食べない」
食べられないわけではないから、出されたら食べるけど、と言ってそれを口に運ぶ。
せっかく作った料理に対し、こんなことを言われたら大概の人間は気分を害するだろうが、聞いてきたのは彼の方だ。一般の客人でもない草慈に当たり障りのない嘘をつくのも億劫だった。
「どうして親父さんはそんなことをしたんだ?」彼は極めて冷静な反応をした。
「切っ掛けは分からない。ただ、親父はお袋を溺愛していた。取り入れることで、自分の一部にしたいと考えたのかもしれない」
後日改めてわけを尋ねたりはしなかった。実際の理由はどうであれ、現実が変わるわけではない。
「愛する人間の身体を自分の一部にする。エロティックな夢物語だよ」
「その夢物語を柚谷はどう思ってるんだ?」草慈はパンにバターを塗ったくった。
「通常、二人の人間が一つになることは有り得ないから、それだけ人を愛することが出来れば、気持ち良いだろうな」
「柚谷は…意外とロマンティストなんだな」
「どうだろうな、これをロマンと称して良いならそうかもしれないけど」
少しワインで酔いが回ってきたのか、気分が良い。ただ、あまり飲むと明日に響くので、程々にしておかなければ。
「柚谷はお袋さんが食われて、悲しくはなかったのか?」
「さあね。…それよりは生活が困窮していたから、お袋はこれで楽になれるんだなと思ったのはよく覚えてるけど…」
あのときは、悲しいとか悲しくないとか、そういう問題ではなかったのだ。


窓から差し込む朝陽が眩しい。此処は…背中が軋んでる…ああそうかベッドの上か。
近くで見下ろす影…誰だ…草慈?
「起きた?…ごめん、勝手に暖房つけたから」
…いつのまに寝てしまったのだろう。昨晩、飲み過ぎないよう注意していたはずなのに…ベッドに寝そべった記憶はおろか、食事を終えた記憶すらなかった。
「…おかしいな…昨日飲み過ぎたみたいだ…記憶がない……変なこと口走ったりとかしてない…よな?」
「特に言動はいつも通りだったと思うけど」
「けど、なんだ?言動はともかく、行動がおかしかったとか…言うんじゃないだろうな?」
「どうかな」
どうしてそこで言葉を濁すのか。かなり気になったが、もう仕出かしてしまったことはどうにもならない。
「ところで昨日、帰らなかったんだな?」
「飲酒運転するのもどうかと思って、勝手にソファを借りました」
「うん、多分…それは正しい」
…どうも寝起きは頭が働かないし、口の回りも悪い。血圧が低いわけではないと思うが、あまり真面目に測ったことがないので分からない。
草慈はというと、もうベッドから離れて、早速冷蔵庫を物色している。
「いや、本当に中身のない冷蔵庫だなあ」感心するような口振りと態度。
「それは昨日見て分かってたはずだろう」
「うん…ちょっと言いたかっただけ。…今朝はパンケーキで良いか」
食パンも米も牛乳もないけど、小麦粉とベーキングパウダーはあるし、と草慈は言った。

「草慈は料理に慣れてるんだな。このパンケーキも美味しいし。昨日の朝がゆで卵二つだったから、尚更そう感じるよ」メープルシロップを切らしていたのは残念だったけど、生地がしっとりとろけて、バターだけでも十分いけるよ。
…食べ始めてしばらくすると、だいぶ口が回るようになってきた。昨日飲み過ぎたわりには二日酔いもしていないし、調子は悪くない。
「母が料理に関してはセンスのない人だったんだ」
でもお菓子作りはわりと好きな人だったよ、と彼は背後の朝陽に溶け込むような穏やかな表情で語る。
「草慈はお袋さんのこと、好きなんだな」
「どうして?」
「眼が優しいから」
”彼”は父親のことを話すとき、もっと軽蔑したような、怯えたような眼をしているよ。

草慈を門まで見送りに出る。
内から外へ一歩足を踏み出せば日常的に見慣れた景色が広がり、今朝までの出来事が、すべて夢現つの中で起きたまがいものであるかのように思えてくるから不思議だった。楽しい時間の終わりはいつも刹那的だ。そして終わった後は案外何事もなかったかのように日常に戻って行く。悲しいことだ。
「いや、久しぶりに楽しい時間だったよ」
千尋の言葉に、草慈は微笑んだ。「なら、よかった。来た時はかなり迷惑そうな顔をしていたからな」それは認める。
しかし千尋は、嘘偽りのない本心からそう言ったつもりだった。特に最近は椿に拒絶されてばかりいたので、純粋に、嘆かわしく思うこともなく穏やかな気持ちで時を過ごすことが出来たというのは、とても久しぶりなような気がしていた。大袈裟かもしれないが、まだ人間をやっていても良いと許されたような気持ちとでも言うべきか。椿から見れば、自分なんて人間失格の烙印を押されても仕方がないようだし。
……どうやら思っていた以上に、自分がショックを受けていたことに…千尋は気がついた。
「おかしいな、そんなに好きなつもりじゃなかったのに」
むしろ自分は心の奥底では彼のことを、嫌っているのではないかと思っていた。「あ、いや、草慈のことじゃないから」と、はっと顔を上げて否定してから、多分この青年には勘付かれているのだろうなと思った。そもそもこの感情を指摘したのは彼なのだから。
「困ったな。この間、君に言われたことは、意外にも的を得ていたようだよ」
そして、肩を竦めてみせる…特に意識してやろうとしたわけではない、動揺していただけだ。
すると草慈は『肉の話』をしたときと同じ冷静な表情で口を開いた。
「彼のことが好き?」
「信じ難いが、そうみたいだ、友人として…かもしれないが」
「そうか…」その唇はゆっくり微笑んだ。
しかし何故、草慈はそんなことを聞くのだろう?椿のことが、気になるのだろうか。…小耳に挟んだ情報や書類だけでは、分からないこともある。
「草慈は…彼と面識があるのか?」
「いいや、ないよ。ただ、あの場に居合わせたから、ちょっと気になって」
「ああ、そうなんだ?…」…椿のように分かりやすい反応はしてくれないらしい、が…。
朝の澄んだ寒気に身体が竦む。見送るだけのつもりだったので、コートを着て来なかったのだ。
「じゃあまた、…大体いつ来てもいいけど、たまにいないときもあるから気をつけてくれ」
それこそ綾城家にお邪魔しているときなどは留守にしている。草慈が分かった、と頷いたので、千尋は彼に背を向けた。
今日はこのまま農場に向かうつもりなのだが、さて。
こんなところに好き好んで来るような人間が、ただの善人なお人好しであるはずがないのだが、彼はどうだろうか?感性にやや問題のあるただの学生なのだろうか?逆に…為肉が一般家庭にも浸透している今となっては、そんなことで感性に問題があるとも言えないのか。いやしかし…彼の場合は、

「柚谷」
「…!」

歩き出していたのに、突然背後から首に何かが巻き付いた。そのまま、引っ張られる。見れば雪柄のマフラーだ。
「いったい、なん」なんだ、子どもじゃあるまいに、とよろめきながら振り返って文句を言おうとしたら、マフラーで頭部を引きつけられた。彼の方が背が高いので、踵が僅かに浮く。勢いでしがみついた。
彼の体温を、唇に感じた。
「…!」
眼を見開く。何か言おうとしたが、漏れたのは不明瞭な呻き声だけだった。
…時間にして数秒も経ってはいなかったろう。マフラーが緩んで、彼の左腕が背中を支えた。柔らかい感触が、離れる。藍色を帯びた瞳。
「なに…」
一歩後退して、地面を踏んだ。状況把握が追い付いていない。何が起きたのか確認するかのように、手の甲で唇に触れる。生まれてこのかた同性にキスされた経験はない。
草慈は何事もなかったかのように、余裕の笑みを浮かべながら、こんなことを言った。
「初めてだよ、同性にキスしたの」
「…それは俺の台詞だよ」
同性同士の行為に差別的な感情を持っているわけではないが。
「何故、君は俺にそんなことをしたのか?一応、理由を聞こう」
「どうしてだろうな」
不真面目な返答とともに、彼の手が伸びて頬に触れた。顔が近い。
視線を合わせると、つい先程の感覚を思い出しそうなので、俯いていた。指が、優しく耳朶をなぞる。
「…逃げないのか?…また、同じことされるかもしれないのに」…こいつ。
「二回も同じことして、何の意味が?」
「…」視線を痛い程感じる。言い返しはしたものの、身体は緊張で強張っていた。(なんてことだ)

…やがて彼の気配が離れた。
先程までの如何わしい雰囲気は何処へやら、彼は善人のような顔をして、千尋の首に垂れていたマフラーを巻き直した。
「さてと、そろそろ帰らないと。家の洗濯物干さなきゃいけないし」
「…このマフラーは?」
「今度返してくれればいい」
そして彼が立ち去ってから、千尋は台所に忘れ物があることに気がついた。









「おかえり」
「ただいま」
「まったく朝帰りとは、これだから大人は…」
針の先を血が滴る。瑞樹は献血作業をしている。ESPになった彼の血は、ただの人間のものとは違う。
「不潔?」
「不規則で落ち着きがない、電話の一本くらいしなされ」
「瑞樹のまともな発言を聞くたび、俺は安心するよ」
世の中にはいかれていない人間もちゃんといるんだなと思うのだ。
これもあの叔母夫婦が、惜しみない愛情を適切な方法で与えた結果だろうか。
「あ」
「なに?」
「鍋を洗ったまま忘れてきた」どうりで手ぶらなわけだ。
「…つまり?」
「しばらくカレーや肉じゃがは作れない」
「ノートもそうだけど、やっぱり落ち着きがない」
瑞樹の発言に遠慮はない。それに落ち着きがないのは、事実だ。
(自分の考えていることが、とても大人げのないものだという自覚もあったけれど)














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