22.ビスケット














彼の罪はとても軽微なものなのかもしれない。
(あくまで比べてみればのはなし)
けれど彼は逃げて自分の殻に閉じこもった。







「殺した子どもの話」
「それを聞きたいと?」
聞かなかったことにしてほしいと言ったじゃないか…とでも言いたげな綾城の顔。
彼は睦月と出会った当初から妙に疲れた…強迫観念に苛まれているかのような顔をしている。元々神経質な部類なのか、最初の食卓での会話が酷過ぎた所為なのかは定かではない。後者であるとすれば、いま睦月が聞き出そうとしている内容も彼を余計に疲れさせる一因にはなるだろう。膨大な量の書類を義務的に作成している彼の前に一つの椅子を置き、腰掛けた睦月は彼を一方的に観察出来る立場にあった。
「互いに気分を害するだけの話だ」
「綾城さんのお父さんに聞いた方が良いということですか」
なかなか口を開きそうにない綾城とは違って、あの男なら朗々と語り出しそうだ。
すると綾城は少し身を乗り出して、睦月を見下ろした。少し怒ったような表情だ。
「偏った情報を吹き込まれる前に言っておくが、親父の話は鵜呑みにするなよ。…あの人は普通に見えるかもしれないが普通じゃないんだ」
「なら、綾城さんが普通であるということは誰が保証してくれるんですか?」
言葉尻に噛み付いたという意識はなかった。ただ純粋に疑問に思って尋ねてみたのだけなのだが、彼は苦渋を表情に張り付け、それから、ちらりと目線を反らした。逃れようとしたところで、誰も助ける者はないのに。そもそも綾城は深く考え過ぎだ。大した問いかけではないのだから、さっくりと、思ったように答えれば良いだけのことだろうに。不愉快に思ったのならふざけるなと怒鳴りつけるも良し、冗談かと受け流しても一向にかまわないのだから。だのに彼は咀嚼し過ぎて自分の舌を噛んでいることにも気付かなくなっている。変に勘繰ってくれと言わんばかりにだ。

「またお話に伺います。それまでに考えておいてくださいね」

執拗で良心的なセールスマンを演じている気分だった。
執拗になるにはなるだけの理由がある。主観的な重さと客観的な重さは別として。
姉のことを知りたかった。ただそれだけのこと…のように思えることが、何故叶わないのだろう。ルートが悪い、駄目なら他を当たるべきか?ついつい目の前に視えた糸を引いて塊ごと引きずり出したくはなるけれど。
だから瑞樹に電話した。自分の都合で相手に連絡を取るのは、意外に気分の良くないものだ。恋の駆け引き等であればまだ許されても、情報を搾取するためだなんて理由、どう考えても愉快ではない。自分本位だ。今更ではあるけれど。
『はい、橙眞です』
「瑞樹?」彼は携帯電話を放置しておく傾向があるため、固定電話の方が繋がる可能性が高い。
『なんだ睦月か。何の用?』
瑞樹の声は時に棒読みにすら聞こえるくらい低調だけれども、それは電話でも変わらなかった。暗く聞こえがちの電話で、直接会話と同じ調子を保っているのだから、彼なりに多少高くしているのかもしれないけれど。
「ねえ、瑞樹。僕は昔のことを忘れているね。昔というよりは極々最近のことを」
『そうだよ』
「僕の中では最近頓に…その当時のことを思い出したいという願望が顔を出すようになっている。これはおかしなことかな?」
『そうでもないんじゃないの』
「だけど思い出したいと言って容易く思い出せるものじゃない。だから僕は、瑞樹に話を聞きたい」
思い出せないのであれば記憶を造り直し、自分という人間を捏造したい。姉の断片を拾い集めるにはやはりまず自分の手がなければ。感じ取るのに足の裏では曖昧さでむず痒くなるだけだ。
瑞樹が受話器を持ち替えた気配があった。無音に等しい沈黙。
そのことについては、としばらくしてから瑞樹が言った。
『僕ははなしたくないし、僕からきいたところで何の意味もない』

唐突過ぎる拒絶だ。彼らしくもない。
繋がる相手を失った受話器を耳からゆっくり離しながら、親元へ帰してやった。唐突に話を振ったのは(それでも前置きを十分したつもりだった)認めるところだけれど、瑞樹の態度はあまりにらしくないように思えた。とはいえ、淡々とした声色はそのままで、彼が味も素っ気もないのはいまに始まったことではないので、何が?と聞かれると答えるのは難しい。僅かな違和感。だけれど、それは”あまりにもらしくないように”睦月には思えたのだ。
兎角、いまの睦月は次にこう悟ったわけである。大切な話は電話でするものではない、逃げられたら終わりだ。
それから彼は、身支度を早々に済ませ、綾城宅のドアを閉めると、近くのバス停まで小走りで走った。次のバスが来るまで、七分ほど時間があった。急いでいるときほど、この手の乗り物はタイミングが悪いものなのだ。地面とバスの来るであろう方角と、そして腕時計を五回くらい眺めたのち、ようやくバスがやってきた。車内は閑散としていたので、座るところに困ることはなかった。瑞樹は今頃何をしているのだろう。


彼は、目を覚まし記憶がないことを訴える睦月にこう言った。

「ブレーキとアクセルとを踏み間違えた車に追突されたんだよ」

相当打ち所が悪かったみたいだね、と友人が事故にあって心配していたとは思えぬ無感動な瞳で。医師が立ち去った後にそれを指摘すると、
「だってキミは生きているから」
「…そういえば新は来ていないの?」両親が居ないことには安堵していた。
「新もキミと一緒に事故に遭ったんだよ。キミより酷いがいのちに別状はない」
「そうなんだ」
事故で打ったからなのか、頭の中が非常にぐるぐるしていた。


バスの料金口に小銭を流し込み、彼のマンションを眺め下車する。
薄暗い。この時期晴れ間は滅多に見られず、昼間でも街中はどんよりしている。バス停から瑞樹のマンションまでの距離がとても近いことだけが救いだ。先日、居候先が見つかるまでの間、滞在させてもらったので道筋や住居の場所は頭に入っている。記憶通りにエレベーターに乗り込み、見知らぬ人間との同乗にやや警戒心を働かせながら(気にするほどではないけれど、やはり狭い空間に他人と居ると気分は良くない)、目的の階に到達するのを待った。
整然とした通路を進み、インターフォンを鳴らす。
『はい』声は似ているが違う。
「鳥越です。瑞樹君いらっしゃいますか」
ドアが開く。顔を覗かせたのは、瑞樹の保護者である長身の青年だった。
「ごめんね。擦れ違いだったのかな、瑞樹出掛けちゃったんだよ」彼は申し訳なさそうに言う。
「何処に行くとか言ってませんでしたか?」
「ああ…予想はつかないわけじゃないけど。…多分遅くなるから、中で待つ?」
睦月は俯いた。
「少しだけお邪魔出来ますか」

部屋の中は以前来た時と何ら変わっていなかった。冬であるにも関わらず旺盛に成長を続ける植物達の姿も。
彼の手のひらの傷がみるみる塞がっていったときの映像が脳裏を過る。
「此処の草花は冬でも元気ですね」温室でもないのに。
「瑞樹が育てているからね」青年は睦月に背を向けたまま、台所で紅茶を注いでいる。
「瑞樹は…いつからESPなんです?」
確か中学生の頃は至って普通の人間だったはずだ。新と丁々発止の遣り取りを繰り広げている場面に出くわしたことは何度かあったけれど、擦り傷があっという間に無くなるとか、そんな珍妙な能力は芽生えていなかった。
お盆に紅茶とビスケットとを運んできた青年は、「まあ、立ってないで、どうぞ」と、ソファをぱふぱふと手で叩いた。促されるがままに座る。その正面に青年はお盆を抱えたまま腰掛けた。どうやらちゃんと会話をしてくれるらしい。拒絶の連続で傷ついていたわけではないけれど、やはり向かい合ってくれると有り難い。
「ESPというのは先天性だから、生まれたときには既に”そう”だよ」
「でも中等部の頃は…」言いながら、自分の質問が意味がないことに気付いた。
「つい最近になって瑞樹がESPになったと感じるのは、眠っていた能力が何かの刺激で起きただけだと思う」
睦月は考えた。ESPの検査は身体の変化があって初めて陽性になるものなので、後天性のように感じられるだけなのだ。
しかしそれにしては、彼は瑞樹が元より陽性の人間であると知っていたかのような口振りだ。
「むしろ、これまで普通にやってこれたことが不思議なくらいだ」それはどういう意味なのだろう?
彼は実に落ち着き払った態度で、カップの紅茶に口をつける。それからさくりとビスケットを食べた。
「けれど、もう瑞樹はESPになってしまいました。ESPはやめられるものではないんですよね?」
ESPは普通の人間になることができるのだろうか。先天性である以上不可能なのだろうか。
「能力に気に入られてなければやめられるみたいだよ。つまり仲違いした場合」
青年はESPの能力がまるで生き物であるかのように言う。…睦月はカップに口をつけて顔を上げた。
「レモンありますか?」
「砂糖でもミルクでもなく、レモンが良いの?」
「はい」
とろとろに脳味噌を弛緩させるような甘いミルクよりは、酸味のあるものが必要だった。
睦月は紅茶の水面を見つめながら思った。
(もし僕が姉さんの能力を無理矢理にでも引き剥がしていれば、彼女は死なずに済んだのだろうか)。

「瑞樹、帰ってきませんね」
小一時間ほどそうしていただろうか、あまり興味のない読書を中断し、睦月はシャツにアイロンをかけている青年の後ろ姿に声を掛けた。
「大丈夫、そろそろ帰って来るよ」台所では鍋がことこと音をたてている。
「たまにあるんですか、こうしてふらっと出掛けてしまうこと」
「たまにね」
睦月はソファから腰を浮かせて、小さく頭を下げた。
「お邪魔しました。そろそろ、行きます」
「もし会えたら、トマトスープ作って待ってるよ、って伝えておいてくれるかな」
「わかりました」
温かく微笑する青年に別れを告げて、玄関の外へ踏み出す。綾城宅を出た頃よりも格段に冷たくなった外気が身体にぴたりと張り付く。エレベーター。季節を境に落葉し、それ以来皮膚を剥き出しにしている樹木。分厚い雲の隙間から、夕焼けの赤さが透けて見える。人気のない公園のブランコが、いなくなった誰かを名残惜しむように揺れている。
睦月は、傷みかけている木のベンチに腰掛けた。時折木々がざわめくだけで、とても静かだった。ふと、きこえる話し声や物音も皆、無関係にそしてあっという間に消えてなくなった。息を吐く。

手袋をしていない指先が、温もりを求めていた。

頬に、誰かの手の甲が触れた。
目を開けたら、瑞樹が立っていた。
「こんなところで寝てたら凍死するよ」
「瑞樹、」どこ行ってたの。
「ほら、寒いんだから、早く立ってよ」
彼の手はマフラーを引く。引っ張られるままに立ち上がり、その彼の手首を取った。コートの中に何枚か着込んでいるようだ。
「何処行ってたの」
「睦月には関係ないよ」
「なにをそんなに意固地になってるの」
彼は顔色一つ変えないまま、淡々とした声色で「意固地?」と繰り返した。別にそんなことはないとでも言うように。
「睦月は少し考え過ぎだよ」
「…今までが考えなさ過ぎたように思っているんだよ、僕はね」
「記憶のこと?」
瑞樹はやんわりと睦月の手をほどいた。
「そのことなら、僕からきいたところで何の意味もないと言ったろう」
「はなしたくないとも言われたね」
「その通り。キミが勝手に忘れたんだ、僕に何を言えと?」
”キミが勝手に忘れた”。その言い方には刺があって、彼はいささかこの遣り取りに感情的になり始めているようだった。どうしてだろうか。
「むしろさっさと思い出してほしいのは僕の方だ」口調とは裏腹に、眼差しは醒め切っている。
「まるで僕が、大事なことを忘れているとでも言いたげだね」
失ったのが”ただの記憶”なら、瑞樹はまず動じないだろう。なら、その大事なこととはいったい何なのだ。
「別に大したことじゃない。キミは新を撃っただけだ」
「何故」
「新が狂っていたから」
…瑞樹はマフラーを口元に押し当てたまま喋っていたが、声がくぐもったりすることはなかった。翠色の双眸が煌煌と鮮明な光を放ちながら、静かにこちらを見つめていた。
「狂っていた?」阿呆みたいに彼の言葉を繰り返す。
「新はマチコさんとサクタロウさんを殺した」



退院前、彼とこんな会話をした。
「この間引っ越したんだよ。これ新しい住所」
「ご両親と暮らすのはやめたの?」
「いつまでも迷惑かけていられないでしょ、だから従兄弟と同居することにした」
「それって大した違いはないような…」
「良いんだよ、もう決まったことなんだから」



「どうして言わなかったの」
記憶を失くした人間には何を言っても仕方がないと思ったのか。すると瑞樹は瞳の中の光を薄く翳らせ、抑揚のない声色で言った。
「僕がそれを口にしたくなかったからに決まってる」
…当時のことを覚えていない睦月は、彼の感情のうち何分の一も理解出来てはいないのだろう。それでも、推し量ることの出来ることがひとつだけあった。
「君は新を恨んでいるんだね」
対し、瑞樹は眼を伏せやや考えるような素振りを見せたのち、再び視線を持ち上げた。
「僕としては出来ればそんなふうには思いたくないし、睦月にもそう思ってほしくはないんだよ」
だけど、と彼は続ける。
「新がすべてを思い出さない限り、僕が彼を赦すことは、まずない」





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