21.薄曇る








椿の潔癖なまでの生真面目さは、裏を返せば既存の概念に対する異様な執着と穢れたものへの耐性のなさを露呈している。
尚、後者に関しては嫌悪、と言い換えても差し支えはない。千尋はそんな椿の執着には苛立ちを、脆さには興味深い憐れみさえ覚えていた。彼が束の間の平穏に穏やかな表情をしていれば慈しみの気持ちが芽生え、さて次に彼が悲劇に見舞われるのはいつになるだろうと近い未来を予測しようとした。彼はあの日もそうだったが…こちらが予測のつかないようなことまで嘆き悲しむ。良かれと思ってしたことが、彼のナイーブな精神を傷つけてしまうのだから驚かされるし、悲しくなるし、彼が可哀想になる。真っすぐ過ぎるが故に傷だらけになる。
そう、本当に彼の涙を見たときは、心底驚いたし、自分がとんでもない悪者になったかのように思えた。事実そうなのだが、あれが最良の結果でなかったら何なのだろう。…初めから多少押しつけがましかったのは否定しないが。(そういえば何故、彼にあの為に会いに来るよう言ったんだっけか?…そうだ、為が彼を一目で気に入ったからだった)なら尚更、他の結果はなかったはずだ。
しかしそれですっかり嫌われてしまったのだから、損な役回りと言うべきか。(損、なのだろうか)
千尋は去って行った彼の後ろ姿を見つめたのち、視線を足下の水たまりに落とした。らしくもない顔をしていた。彼に拒絶されることは慣れているはずなのに、どうしたことだろう。
「柚谷」
じゃり、と砂を踏みしめる靴音。…彼とよく似た声色。振り返れば、門のところに高い人影…橙眞が立っていた。
呼び捨てなのは、そうしろと言ったからだ。電話で連絡を受けた際に、椿と他人行儀だった頃を思い出して嫌だなと思ったのだ。
「なんだ、忘れ物か?」道理で机の上に知らないものがあったわけだ。
「好きなんだ?彼のこと」
橙眞は、かれ、と無機質に発音した。彼って誰のことだ…と聞き返そうとして、ああ椿のことかと思った。
「好きって、俺が、椿のことを?」言いながらも、何故かそれが可笑しいことのように思えて口元が緩んだ。
突然彼は何を言い出すのだろう。好きかと聞かれれば、嫌いではないが。
「君の言わんとする意味は分からなくないけど、…そう見えたのかな?」
「遠目には、拒絶されてひどい泣きそうな顔してたように見えた」
「…ひどい顔だったのは認めるけど、あまり人から指摘されたくなかったな」
橙眞は真面目な顔をしている。どうにも居心地が悪くなって、千尋は顔を背けた。
だって、触るなと言われたときは正当な理由があったんだ。…近づくな、はさすがに俺でも傷つく。
…それはいま、口に出して言うべきことではない。
「それで、忘れ物だっけ?」
無理矢理気持ちを切り替える。橙眞は用事があって来たのだ。なんとなく此処に現れたわけではない。
千尋は彼を連れて、事務所へと戻った。椿に説明した通り、此処は最低限の生活空間しかない。
机にぽとんと置いてある名無しのノートを手に取り、「これだろ?」と彼に手渡した。
「レポートも挟まってるし、忘れて行ったのが此処で良かったね。橙眞…ええと、何君だっけ?」
「トウマソウジです」
「ああそうそう、橙眞草慈君。嘘だよ、ちゃんと覚えてたよ。最初に聞いたじゃないか」
本当はひどい顔と言われたので嫌みのひとつも言いたかったのだが、思いつかなかっただけだ。








スカーフを羽織った背中。
淑恵の後ろ姿は裏庭のベンチにひっそりと沈んでいた。
緊張し速まる心臓の鼓動を宥めんと深呼吸し、一歩踏み出す。
「淑恵、そんなところにいたら風邪ひく…」
「坊ちゃんは幼い頃、此処がお気に入りでしたね」
反らされたままの横顔。椿は、その喉元に浮かぶ青白い血管を見つめながら、「ああ」と小さく頷いた。後妻であった”彼女”がいまの淑恵と同じ場所に腰を下ろし、花を摘む椿を見守っていたのは、未だ彼の中に煤けた記憶となって残っている。”彼女”が亡き後は淑恵が”彼女”の代わりに自分の傍にいてくれた。
「本当に坊ちゃんは大きくなられました」
「…」
当時に比べればそうだろう。だが、身体だけ大きくなって、心が追い付いていないことに何の意味があるのだろう。
老いた淑恵に八つ当たりし、労ることも出来ぬような馬鹿な人間に、自分はなってしまっている。
「坊ちゃんは以前、わたくしにどうして此処で働こうと思うのかとお尋ねになりましたね」
「…ああ」
はっきりとは答えてもらえなかったが。淑恵はつと眼を伏せて、シンプルな無地のスカートに包まれた膝を見た。
「あのときは申しませんでしたが…坊ちゃんが大人になられた今、もうわたくしが此処にいる理由はないのかもしれません」
「淑恵?…」瞼の裏を赤色が走る。意味を咀嚼し、理解せぬまま怯える自分がいる。虚構の無はいとも容易く崩壊する。保たない。
淑恵が静かに立ち上がり、こちらを見据える。

「お暇をいただきたいのです、坊ちゃん」

おいとまをいただきたいのですぼっちゃん。おいとま。おいと
「駄目だ、そんなのは」…なにを言っているんだ。
「勝手ながら随分前から考えていたことなんです。もし先程のことを気になさっているのであれば…」
「…さっきのことは謝るし、勝手だと分かっているなら撤回するんだ。よりによって暇をくれだなんて…!」取り乱した。
無論、淑恵の幸せを考えるなら、こんな頭のおかしな男のいる家からは出て行かせた方が良いに決まっている。
だが、彼女の発言があまりに突然過ぎた所為だろうか、感情の整理が追い付かなかった。
いったい誰が大人だって?こんな、感情的になって喚き散らす人間の何処が。淑恵も…素直に頷くと思っていたのだろうか。
頭では分かっている。違う、感情面でも分かっている。しかし彼女が出て行ってしまったらこの家からまともな人間がいなくなってしまうではないか。
止めたい。肩を揺さぶって考え直してくれと言いたいのに、身体は完全に竦んでいた。仮に読んだとしても…淑恵は柚谷とは違う。他者を突き放すような人間性はない。だのに、どうしても身体が動かない。拳は緩まず硬く握りしめられたまま。
声だけを絞り出す。
「やめないでくれとは言わない、せめて、もう少し待ってくれ」
「それは命令でしょうか?」
「っ」
「わたくしは坊ちゃんが大人になったらと決めていました。その機会を奪うおつもりなら、今度は坊ちゃんがきちんと期日を決めてください」
…今日ほど淑恵を冷酷に感じたことはない。
「…半年だ」
「本当にその期間で良いのですね?」
「ああ…半年経ったら、やめてくれてかまわない」
口の中が異様に渇いている。
淑恵は身体を折り曲げ、深く一礼した。








こたつに入り、みかんの皮を剥きながら、通信教材のページを開く。
此処に猫でもいれば文句ないのだけれど、動物はセンセイから禁止されている。
だから植物ばかり室内で育てている。冬なのにすくすく育つ彼らはとてもいいこだ。お金にもなる。
「睦月の阿呆はちゃんとやってるかな」
そろそろ引っ越しの荷物を片付け終えた頃だろうか。何だかんだで上手くやるとは思うけれど、そのうち電話でもしてやろう。









綾城椿のことが好きかどうか?
モッズコート姿の草慈が帰ったのを見届けてから、千尋は普段着に着替え、その上に黒のPコートを着込んだ。先程こっぴどく近づくなと拒絶されたばかりなのに、会いに行こうだなどと馬鹿げたことを考えている時点でそうなのかもしれない。嫌がらせ…というよりは、自分がただただ彼の顔を見たいがために行動しているのだが、多分結果としては嫌がらせになる。(またしても、というべきだろうか?)相手のためを思うのが愛だとテレビではよく言っているけれど、だとしたらこれはやっぱり愛じゃないのかなあと千尋は自転車を走らせる。自家用車はあるが、それほどの距離ではない。

綾城家に到着し、玄関のベルを鳴らすと、使用人らしき女性が顔を出した。以前にも見掛けた覚えのある、ふっくらとした体型の中年女性だ。歳のほどは四十程度だろうか、黒髪に白髪がちらほら混じり始めている。苦労しているのか、やや白髪は多めだ。この屋敷では無理もないかもしれない。椿坊ちゃんをお呼びするので、客間のソファで待つように言われた。そして何故か、椿よりも先に父親の方がやってくる。
「やあ、千尋君。直接顔を会わせるのは久し振りだが…元気かね」
「ご無沙汰しています。おかげさまで家業の方も順調ですよ。鳥越君のことは…」
「睦月君のことなら心配いらんよ。私が責任を持って預かるからな」
綾城父は低い声で笑うと、それはそうと、と千尋の隣に腰掛けた。内緒話でもするように声をひそめる。
「最近いい子は入ったかね」この数年、君が留守にしている間我慢に我慢を重ねて大変だったのだよ。綾城父は言う。
「その節は申し訳ありませんでした。父に勧められて学問にふしていたものですから」
「そうらしいね」
「もしご所望でしたらすぐにでも準備しますよ。条件に変わりはありませんか」
以前は顔さえ綺麗であれば文句は言わなかったが…綾城父は少し考える素振りを見せた。
「君からのお詫びの意味も含めて、君自身でも私はかまわないのだがね」
「僕はもう成人していますよ。ご子息と同様に」…仄めかす程度だったのが直接言ってくるようになるとは、どういう心境の変化だろうか。
「ふふ、冗談だ。君は私の仕事上のパートナーだからね。だが、君さえ良ければ私はいつでも大歓迎だと言っておこう」
全く冗談が過ぎる。綾城父が立ち去るのと入れ替わりに、ご子息が嫌そうな顔でやってきた。
「父が妙な話をしてすまない」聞こえていたらしい。
「いや、あれは綾城さんなりの冗談だろうから」
勘繰っても疲弊するだけだ。
すると椿は沈黙し、「それで用件は?」と言った。三年前に父の使いで来たときは贈答用の為肉を持参して彼に嫌がられたものだったが、今日は生憎手ぶらだ。そもそも椿が何を好きなのか知らない。好きなものがあったとしても、教えてくれたりはしないだろうし、差し入れてみたところでそれこそ妙な勘繰りを受けそうだ。ムキになっている椿はそれはそれで面白いし微笑ましいからかまいはしないが、少しは人を信用してほしい…と言ったところで無理なのだろう。多分椿の常識から考えれば、こちらは非常識の塊なのだ。ああ苛々する。彼がモラルに固執する姿は実に滑稽で美しい。だから草慈の言葉を借りれば自分は椿が好きなのだろう。出来るものなら抱きしめてそうなのかどうか確かめてみたいが、彼の過剰反応から見てそれは相当難しそうだった。
それで用件は?
「逢いたかっただけ」
「…さっき会ったばかりだと思ったが」
「でもすぐ帰ったろ、あんなんじゃ足りないよ」
何故か、椿の顔が赤くなってきた。彼は何か言いたげに立ち上がり机に拳を振り上げかけ、自制したように再びソファに腰掛けた。
「…さっきは俺が悪かった。だから、そういう言い方はよせ」
「そういう言い方?」
「…お前の言い方は…なんというか、誤解を招く」
椿も妙なことを言う。響きがどうであれ、伝えなければならないことはあるし、伝わなければ会話は進まない。
「いやでも、俺としては、せっかく椿から来てくれたんだから、もう少し話をしていたかったなという気持ちもあるし」
どういうつもりだ近づくなだけではさすがに…味はあっても素っ気はない。
椿は赤面したまま大きな溜め息をついた。膝の上に置かれた手を握ったり広げたりと落ち着きがない。それから不機嫌そうな眼差しでこちらを見上げた。
「それで、何の話がしたいんだ」
「為肉の話」
「帰れ」
「嘘だよ、冗談。椿はさ、ESPの能力のことで困っていることはないのかな?」
「それは研究対象としてか?」
「友達として?」知人としてだと響きが冷たかろう。
「友達として?」そんな疑うような顔をしないでほしいな。悲しくなる。
「まあ、椿が俺の存在を迷惑に思っているであろうことは分かってるけど、そういうことにしておいてくれないか」
椿の顔が困惑に揺れる。彼は常識的な清く正しく美しくに固執しているから、自身の品位を貶めるような発言はまずしないだろうとは思った。(例えば、へりくだった相手を更に罵るような)。
「それは、」
「それは?…」
「お前と俺の価値観が、違い過ぎるから」
掠れた声。否定しないところは、らしいといえばらしい。彼は一呼吸して、喉から振り絞るように言い切った。
「そんなの、俺だってどうしたら良いのか分からない」
「…その価値観の違いは致命的なんだ?」
唇を噛み締める椿は可哀想でもどかしかった。上手い反論も思いつかず、沈黙は肯定の証とも受け取られかねない。それとももう、彼は認めてしまっているのだろうか、そのことを。
「その価値観っていうのは、為肉のことに関して?」
「…」
「俺が為肉のことを話さなければそれでいいの?」
椿の視線は完全に地面のカーペットに落ちていた。踏み込み過ぎただろうか。しかし彼の言うところの価値観がいったい何を意味しているのか、明確にしなければ情報に誤りが生じる。
「違うんだ」彼は頭(かぶり)を振る。浅く息を吐くような溜め息。諦念の気配。
「俺が感じているのは、もう決定的に終わってしまったことなんだ」
…彼の言いたいことは、”あのときの”表情を見ていれば察することは難しくなかったが。なら彼はやはり、知らぬ間に全てが終わっていることを望んでいたのだろうか。
「そうなのかもしれない。…なあ、柚谷。この話はもうやめよう」
彼は疲れた様子で席を立ち、窓のカーテンを開いた。灰色の空を飛行船が飛んで行った。






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