20.半熟












夜中に雨が降ったのか、窓の外に見える草木は露に濡れている。

…椿は溜め息を押し殺して向き直り、その遣り取りを眺めた。
はじめまして、と青年がそれと分かる…しかしよくできた想笑いを浮かべ、小さな包みを父に手渡す。
「賄賂の部類かね」と父が揶揄すと、青年は作り物めいた笑顔のまま「ちょっとした土産物ですよ。大したものじゃありませんがね」と賄賂を預けて腕を引っ込めた。そこまでの遣り取りを眺めて、この青年は父のことを嫌っているのではないかと思えた。そして父も、それを既に知っていながら楽しんでいるように思えた。初対面だというのに。
青年の後ろには自分たちよりも若いと思われる、少年、が立っている。
「椿、お前も挨拶くらいしておきなさい」父に呼ばれて仕方なく前に進み出る。父の交友関係にはあまり関わりたくない、特に私的なものには。そう思いながら顔を上げれば、少年と視線が合った。
…心臓が、何者かの手によって締め潰されんばかりに動悸を鈍くした。
「トリゴエムツキくんだ。今日からこの家に住んでもらうことになった」
部屋なら有り余っているからな、と父は笑い。いや、そんなことはどうでもよかった。ただただ目の前に立つ少年が、(いやそんなばかなことが)、非常に明らかに愕然とするくらい、あの子どもににていることにくらべれば
「椿、どうした」
父はにやにやと精悍で白い歯列を剥き出しにしながらうれしそうに笑っている。父は息子の反応を見ては喜ぶという子どもじみた部分があった…人の感情を観察するのが好きなのか、為肉業の携わるものはそうした共通の性格があるのか、…彼もそうだった。彼のことを考えると、怒りが感情に混じってきて理性や思考といったものが少しずつ正常に戻ってくるような気がした。どうせ今回のこともあいつが仕組んだことなのではないかと、けれどだとしたら彼は直接この場に来てもおかしくはなかったろうに
「あやしろ、つばきです」よろしくおねがいします。
それでもやはり少年…トリゴエムツキの顔を見ると思考が歪みそうになった。どうして。(思い出したくないあの子どものことはなかったことにしたいのだ。)トリゴエムツキが何か言っている。そっくりな顔で何か言っている。
「綾城さん。椿さんは調子が体調が優れないのでは?顔色が悪いですよ」
青年の声はいやに耳に入る。お前が…そうなる元凶を連れて来たんだろう。柚谷と通じて。…最低な人間になっている自覚はあった。言い掛かりも良いところだ。いくら実際に声に出していないとはいえ、考えていいことでもない。
青年はその瞳に何の感情も映さずに、こちらを見ていた。…言葉とは裏腹に気遣いは全く感じられない。
「こいつはデリケートな奴でな。この袋の中をみたら卒倒しかねん」
「そうですか」
「なあに、心配はいらんさ。私とてそのくらいの気は配る。トリゴエくんのこともしっかりお預かりさせてもらうよ」
父はこの少年を気に入ったのだろうか…気に入らないわけもなかった。同じことをするつもりだろうか…しかしトリゴエムツキは為ではない。
トリゴエムツキは、いやに冷静な眼で目の前に佇む二人を眺めていた。否、三人か。まるで戸惑っても仕方がない、開き直るより道はないと言わんばかりに。



見知らぬ青年は去り、朝食となった。
厨房係は予め知らされていたのだろう、朝食はきっちり人数分作られていた。



この屋敷の主である男が快活に喋り散らすのを生返事で聞き流しながら、睦月は正面に座る青年を見つめていた。
食欲がないのかフォークが先程から一向に進んでいない。傍から見ていて分かりやす過ぎるほどに上の空だ。いったい何を考えているのだろう。主人がフランスパンを切ってきてやろうと一旦席を外したのを機に…いちいち尊大で態度の大袈裟な男だが気まぐれな親切心は持ち合わせているらしい…、話しかけてみた。
「どうかしたんですか」
「え?」
「先程から全く食べていないようなので」
青年…綾城は睦月に話しかけられてどう対処すべきか決めかねているように視線を泳がせ、「いや」と言葉を濁した。…敵意こそ感じないが積極的に交わろうという意思も微塵も感じられない。無論歓迎されるような立場でもないことは承知していたが、普通に接してくれればいいだけで何をそんなに戸惑うことがあるのだろう。人見知りなのだろうか。やたら根掘り葉掘り聞き出そうとする人間よりは好ましいけれど。
「無口な奴だろう」にょきっと横から主人である男の顔が生える。もう戻って来たらしい。
沈黙も肯定もしないでいたら、彼はスライスされたフランスパンの乗った皿をテーブルの中央に置いて、指定席らしい椅子へと戻った。大きな口。
「椿は君の顔を見て、以前私が殺した子どものことを思い出しているのだよ」
弾かれたように綾城が父親の顔を見た。『以前私が殺した子ども』?疑問が顔に出たのだろう、綾城父は満足げに笑んだ。
「君の顔をもう少し幼くすれば区別もつくまいよ」
果たして…この男の発言を他人の空似、と切り捨ててしまっていいものだろうか。自分には欠けている記憶がある。その間に何か…この男の発言の意味するところに繋がることがあったとしたら…脳内をまさぐる。しかし、思い出せない。引き出しの中には何も入っていない。二重底の仕掛けになっているのか、自分は鍵を持っていない。在処を忘れてしまった。
「もうやめてください」綾城が堪えかねたかのように口を開いた。
「これからが良いところなんだがな、どうだね睦月君、君も聞きたくはないかね」鳥越君が睦月君になっている。この数分の間に何が変わったのだろう。
「殺した子どもに似ているなんて言われて、気分が良いわけないでしょう。やめてください」
綾城は声に非難の色を滲ませながら、険しく張り詰めた視線を父親に向けた。場に緊張が走り、呼吸をするのも躊躇われ。だがしかし、彼は今にも泣き出しそうにも思えた。睦月に分かったのだから、当然父親である男にも分かったろう。「面白みのない奴だ」。
一方睦月はというと、久し振りに人間らしい人間に出会ったと思った。記憶を欠陥を抱えてからというものの、自分の周りにはまともな人間が少な過ぎた。瑞樹はまともと言えばまともだが何だか以前にも増して何を考えているのか分かり難い印象を受けるし、瑞樹の保護者もまともそうに見えて、何をとは説明出来ないが妙な不自然さを感じる。両親はもはや話にならない。

綾城が退席し、睦月は後を追いかけた。とてもあの男と二人きりで食事をする気にはなれなかった。男は教養はあっても品性に欠けていた。
「待ってください」彼は振り返った。青ざめた、とても複雑な表情で。
「なにか」
「先程の、子どもを殺したというのは本当の話ですか」
ブラックジョーク。ブラックにも程があるわけだが…初対面である自分を驚かそうとしただけの悪趣味な冗談ではないのか。いつからこの国は殺人が合法になったのだ。すると綾城は顔を背けて、(彼の横顔は整ったラインを描いていた)、押し殺した声色で言った。
「あれは…聞かなかったことにしてほしい」
それでも通るのだから時と場合によっては損な声質だ。睦月は綾城の作り出した硬質な静寂にぼんやりと浸りながら、彼の後ろ姿を見送った。
…子どもを殺した話は多分本当のことなのだろう。その子どもに自分がよく似ているということも。その手の冗談であれば他にいくらでもあるし、物的な証拠をお披露目されたわけではないけれど、感覚としてなんとなく分かってしまうこともある。しかし、
「確かめたいな」
気がつけば声に出していた。
父親の方でない、息子の方に。彼がこの件に関し、何を見てどう感じたのか…色眼鏡を通さずに。無神経には違いない。
だが睦月は”姉の辿った末路をどうしても知りたかったのだ”。
そして、此処に来れば何か分かるかもしれないと、思っていた。
…記憶を失う前の自分は彼女がどうなったのか果たして知っていたのだろうか。知っていたとして、どうしてそれを忘れてしまえたのか。愚かな自分に苛立ちばかりが募る。打ち所が悪かったにしても、何故そんな肝心なところを。すべてを忘れるよりは良かった?一部でも欠けているくらいなら、全部失っていた方がどれだけ良かったことだろう。新のように?

そして瑞樹は、当時のことについては何も言わない。











はっくしゅん!
「どうした、風邪か?」
「いや…多分こしょうを」
目玉焼きにかけすぎだだけだ、と瑞樹はこしょうを定位置に戻した。正面の席では草慈が黄味をフォークで突ついている。彼は塩だけだ。
「ねえ、最近ユミさんと連絡取ってるの?」
「ああ、ちゃんと手紙出してるよ。瑞樹も一枚書いてみるか?」
「特に言いたいことなんてないよ」
「変に畏まらなくても、最近こんなことがありました、あんなことがありましたとかで良いんだよ」
「近況報告?」何を考えたのか、今日のサンドウィッチの生地にはバナナが練り込んである。バナーナ。草慈はどうも面倒なことを好む傾向にある。
「そうそう。中身なんかより出すことが大事なんだ。瑞樹が出せば多分いつもの二倍の文量で帰ってくる」
二倍はわりと二人分だと考えれば普通なんじゃないのかなと瑞樹は思ったわけだが、生真面目な顔をしている草慈を思い遣り何も言わないでおいた。それから彼は朝食中(朝食の時間としては相当遅い)にも関わらず鞄の中を探り出し、便箋セットを取り出した。
「さては手紙、講義中に書いてんの?」
「俺はそんな不真面目なことしないよ。合間を縫ってだよ」不真面目ではない?まだ午前中だからか彼は寝ぼけているらしい。
白いレースの描かれた微妙に乙女テイストな便箋を受け取り、瑞樹はそれを横に置いた。多分ユミさんの趣味に合わせてチョイスされた便箋なのだろう。
「心配しなくても、中身を読んだりしないよ。安心して書きなさい」
「そんな見られてまずい文面を期待されてもね…」
別に草慈にもユミさんにも含むところなどないのだけれど。瑞樹は目玉焼きの中心にざくりとフォークを切り込ませた。草慈が作る目玉焼きは専ら固焼きだ。
「あ」鞄を探っていた草慈が声を上げた。貰い物の傷んだケーキでも出てきたのだろうか。
「なあに」
「いや、ノート忘れてきた。今日の講義に使うのに…」
それから彼はそそくさと食べかけの朝食にラップをかけると、鞄を手に「ちょっと早いけど、行って来る」と出掛けて行ってしまった。








お気をつけて、という淑恵の言葉もろくに耳に入らず。
運転手に行き先だけを告げて、椿は悶々としていた。ふとしたとき、思考の片隅に過去が根を伸ばしてきて、それを振り払うことは何度かあった。しかし今日ほどそれを強く感じたのは久しくないことだった。いくら振り払っても振り払っても、根が執拗に絡み付いて離れない。
「柚谷!」
何も考えずに声を掛けてから、ざらりと胸の内を去来するものがあった。(またあんな他人みたいな顔をされるのは嫌だ)。彼が振り向くまでが異様に遅く感じられる。彼は…椿の姿を認めると、親しい知人のように眼を細めた。(感情が最低だと喚いている)。
「どういうことなんだ」
「いきなりご挨拶過ぎて俺にもちょっと分からないな」
「あの…子どもに瓜二つの少年のことだ!お前が仕向けたんだろう」
決めつけて話すのは好きではないが、この男は例外だ。彼は満更でもないような笑みを浮かべながら、
「椿が自分からあのときのことを話そうとするだなんてね」
と、まるでこの数年の椿の心の動きを知っているかのような口振りである。胃がぐるりと一回転しそうになる。
「俺はただ、頼まれただけだよ。けど此処だと最低限の生活空間しかないからね。それでお父上にお願いしてみたら快諾してくれたわけだよ」
「本当に無関係な…偶然だと言うつもりか?」
「信用出来ないなら聞かないでほしいな。それに、知り合いの子なので食うなよとは言ってあるよ」
柚谷は嬉々とした表情で腕を組みこちらの様子を窺っている。どうしてそんな嬉しそうな顔をするのだろう。やはり彼は、過去のことに何も感じていないのだろうか。未だにあれが正しかったと信じているのだろうか。
…柚谷のことが、わからない。
「それとも椿は、俺が彼を人工的にわざわざ作ったとでも思ってるのか?」
確かに親父はそういうの好きだけどね、彼に関しては白だと言っていいよ。俺の保証なんて椿には黒としか聞こえないだろうけど。
柚谷は首を傾げながら椿の返答を待っている。どうして。こうも、平気な顔が出来るのか。知っている、彼に悪気はなかったからだ。だが椿にとっては無神経なことに変わりはなかった。悪気がなければ何をしてもいいのかとはこういうときに感じるものなのだ。無自覚ほど罪深いものはない。
「椿?」訝しげな声。
彼は以前の約束を覚えていたのか、あくまでも触れない程度にこちらに顔を近づけた。それでもああ、瞬間、彼の存在そのものに我慢出来なくなった。
「近づくな!」
言ってしまってから、飛び出した言葉のひどさに堪えきれず俯く。最低なのは自分の方だ。彼と居るとどんどん自分がひどい人間になっていく。どうして上手くいかないのだ。彼も自分も多分間違っている。ただ、自分が何を間違えているのか分からないのだ。何をどうしたらいいのかも。
「すまない、帰る」
彼の顔を見れなかった。
来るときは焦れったく思えた距離が帰りは瞬く間に過ぎて行き、椿は身を硬くして縮こまっていた。父と、そしてあの少年の顔が思い浮かび、自分の家もにも安らぎはないような気がした。何処へ行っても過去が自分に付きまとう。いっそ何処か遠くへ行きたかった。だが過去は記憶に住み着いているのだ、逃れることなどできはしない。
家へ着いても誰とも顔を会わせたくなかった。だが彼の帰りを待っていた者が居た。
「お帰りなさいませ、坊ちゃん」
「淑恵、」
部屋には誰も入れないでくれ、そう頼んでも良かった。しかしそう言えば、彼女は椿のことを心配するだろう。
「何処か体調が悪いのですか」と、…こんなふうに。真横にある鏡を見る。そうだ、こんな顔色をして気付かれぬはずはなかった。
彼女は小走りに近づいて来て、椿の額に手を伸ばそうとした。彼女は何も知らないのだ。それでも身を引かせる余裕はなく、その手を払いのけてしまう。物理的な痛み。視野に飛び込んで来た失意の表情。
「すまない、何でもないんだ」
何でもなくてこんな乱暴な真似をするものか。椿は自分自身に憤った。淑恵は、払いのけられた手をおずおずと引っ込めると、
「わたくしこそ、使用人如きが馴れ馴れしく…申し訳ございません」
「淑…」
「失礼致しました」
ぱたぱたと走り去って行ってしまった。違う、淑恵、そうじゃないんだ。声なき声が思考を駆けるも足は動かない。いまの状態で追えば、またろくでもないことを言ってしまいそうだと完全に竦んでしまっているのだ。
「なんでこうなるんだ…」
「淑恵に手をあげるとは、お前もやるようになったな」
頭上から父の声。びくりとして上を見上げれば、二階から父が悠然と微笑みながらこちらを見下ろしていた。
「手をあげてなど…」
「払いのけただけ、か?だが淑恵には同じことだ。私にとっても、救いを求めて来た子どもの手を払いのけるのは、暴力と何ら変わりない快楽だ」
何を言うのだこの男は、この手のひらの痛みが快楽だなんてとんでもないことだ。だが、しかし。

椿は一言も二言も多い父との会話を放棄し、既に姿の見えなくなった淑恵の姿を追いかけた。










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