19.天体観測









「こんにちは、橙眞さん。大学から話は聞いてますよ」
しんなりとしたソファに腰掛け、作業服の青年は微笑した。


青年は典型的な甘いフェイスに不必要なまでの爽やかさを張り付けてこう言った。
「為肉は適法で、現在の東部では何の疑問もなく受け入れられています。いつの時代も同じですよ、人々は己の盲目を受け入れる」
自然発生してきたヒトと、品種改良されてきたヒトと。本来嫌悪感を持って然るべきなのに、食文化として根付いてしまっているものだから人々の眼に後者はヒトによく似た生物としか映らないようです。そんなことはないと思いますか?だけれど此処に見学に来た人々は為を見て「わあ、人間みたいですね!」と感嘆するんです。一応元はヒトなんですけれど、食用に改良されて飼われている時点で彼らはヒトではないんです。まがいもの。だから人身売買でもない。
一気にそこまで喋り終えて、青年は一息つくように言葉遣いを崩した。こちらが年下だということもあるだろう。
「でも君の持ってきてくれたこれは法に抵触する恐れがある。生だしね」
とはいえ、せっかくの土産物だ。いただいておくよ。出荷?いや、捌き方が基準と違うとうるさいんだいろいろと。でも欲しがりそうな人間に心当たりはあるんだ。きっと喜ぶよ。ESPの肉なんてそうそう手に入らないからな。え?ああ、見れば分かるよ。一応それが商売ではあるから。
ところで、これ君が捌いたんだろ。そのひとどうしたんだ?生きてるの?
「ええ」
「へえ、随分上手く剥いだんだな。それともESPの能力的なものなのかな?」
青年は感心するように皿に載せた肉を眺め、眼を細めた。まるで肉の質を見ればESPの固有の能力さえ分かると言わんばかりにだ。
だがやがて、それを冷蔵庫に入れると、彼はああ、と声を漏らした。何かに気がついたようだ。
「ごめんごめん、せめてお茶の一杯くらい出すべきだな。客人なんだから」
滅多に此処に客人なんて上げないからさ、うっかりしてたよ。見学のお客さんなら別なんだけどね。青年は紅茶を注ぎながらも饒舌に喋り続けた。頭に浮かんだことをそのまま口にしているのではないかと思えるくらいだ。少し言葉を咀嚼しても何ら悪いことは起こらないというのに、彼は実におしゃべりだった。
華奢なティーカップの内側で紅茶が揺れる。向かい側の席に腰掛けた青年は、「ご自由に」とシュガーとミルクがいくつも入った小さな器をテーブル中央に置いた。そこでようやく沈黙。明るく青みがかった瞳を緩ませた。
「ここまでで何か質問は?」
為肉業と其処で働く人に幻滅しましたとかでもかまわないよ、と彼は先程までよりはいささか冷静な声音で言った。俺は仕事として今更何も感じないけど、普通はそうだよ、と。ふつう、と言ったときの彼は何か別のことを考えているようにも見えた。
「インターンはいつからですか」
「好きにして良いよ。書類が必要なら後で書いとくから置いてって」
いえ、と答えた。単位に必要とかではなく、個人的な興味から紹介してもらっただけなのだ。すると彼は物好きだなあ、と変なものを見るような目でこちらを眺めた。それから、指先でテーブルを軽く叩いた。
「君さ、俺の知り合いに似てるんだよ。中身は知らないけど、顔の造形とかが」
「そうですか」
「そうそう。家族だと言われて納得出来るくらいにはね」
そういうのって本人らは似ていると思われたくないみたいだけど、と彼は紅茶のカップに口をつけた。喋り倒しているときはやや躁じみた青年だと思ったが、落ち着いた声色で話しているときは至って普通に見えた。やがて互いのカップが空になったときを見計らって、彼はにこやかに笑んだ。
「じゃあまた明日来てくれよ、今日はもう解散」
「何もしなくていいんですか」
「一日目は挨拶止まりぐらいがちょうどいいだろう?俺も今日は、君の顔を見ることくらいしか考えてなかったし」
先程までとは打って変わって、彼の物言いには全く他意は含まれていないようだった。












彼らが機械を見つめている間、瑞樹は自分の中で呑気に泳ぎ回る魚を見つめている。
「安定しないね」
と、センセイが言えば、そうですか、と何の感慨もなくつぶやく。彼らの眼にはこの魚は見えていないのだろうか、こんなにも自由に穏やかに泳いでいるというのに。それともこの魚がぴくりとも動かなければ安定しているということになるのか。彼らの言葉はよくわからない。
「最近荒らされた?」
猥談をするでもあるまいに、言葉を端折るのはやめてください。言葉足らずでも同じ人間同士なら分かり合えるとでも思っているんですか。だとしたら大きな間違いだ。僕たちは互いにとても宇宙人じみているというか別ないきものなんですというか、そんなこと、今更説明するまでもないかと瑞樹は黙って眼を閉じた。でなければ自分は此処にいなかった。
「瑞樹君、何かあったのなら相談してくれてもいいんだよ。そのためにボクらはいるんだからね」
「何にもありませんよ」強いて言うなら昔の友達と会ったくらいです。
「鳥越睦月くんと北浦新くんに会いに行ったそうだね」
どうせ観察していて知っているのなら何故聞く必要があったのだろう。答え方によって観察対象の内面を推し量ろうとしたとかならすごい面倒なことをしている。波長とやら何らかが荒れていたとして、それで精神の方も深く傷つくようなことがあったのだろう、けれど頑に心を閉ざしているから本当のことを言わないだけなのだろうとか拡大解釈されると何だかとても気怠い気分になる。こちらとしてはあったことをただ普通に話しているだけなのに、彼らは二言目にはESPはデリケートだからと言い出す。ESPでもそうでなくても精神構造なんて人それぞれだろうに。一応専門的な人間が言うことならば、その手の傾向は実際データとして出ているのかもしれないけれど、すべてがそうだと考えているのなら幻想も甚だしい。生憎この性格は妙な能力が開花する前から…生まれたときから大きな変化は認められません。つまり元より繊細なんです僕は。

『瑞樹は僕から姉さんのことを聞いている?』

家に帰るなり睦月から電話があった。第一声は無難に挨拶から始まったものの、彼は極めて単刀直入に本題に切り込んだ。昔から密かに思ってはいたのだが…情緒の欠片もない輩だ。瑞樹は受話器のコードをくるくると指先に巻き付けながら、苦い記憶を掻き回した。
「ESPだったということはきいた」
『ほかには』
「睦月が、」
食らったということも。だが、言うべきだろうか。あのときの彼は錯乱していた可能性も考えられるし、そもそもどういうことだとこちらが聞きたいくらいなのだ。ああでも面倒くさそうだからやっぱり聞きたくない。言葉を濁す。すると受話器の向こうで睦月は「そう」と一言湿った声でつぶやいた。
『ところで瑞樹、ちょっとお願いしたいことがあるんだ。聞いてくれるかな』
「僕はその手の頼まれごとは内容を聞いてから受けるかどうか決めることにしている」
『賢明だね。実は頼み事というのは、瑞樹の家に転がり込ませてくれないかということなんだ』
彼の言葉から真っ先に想像されたのは彼の両親のことだった。それから家出という単語だ。瑞樹は柳眉を顰めた。
「とうとう発狂でもしたのか。それはそれで、そればっかりは僕の一存じゃ決められないよ」それそれ。
『従兄弟のお兄さんと同居しているんだっけね』親のことだ、せめて上っ面だけでもフォローの一言でも入れておいた方が株は上がると思うのだけれど。ただ事実ならフォローの入れようもないわけだ。誰にとっての事実かはこの際関係ない。
『瑞樹、僕らももうじき成人だね』
「いえす」なんだいきなり。思春期のセンチメンタリズムか。
『肉としての価値はね、大人になるとがくっと落ちるんだよ』
たまには真面目にセンチメンタルしてみたらどうだと言いたくもなる話題だ。生臭過ぎる。
しかしつまり、睦月はもうじき大人になってしまうので両親に食われそうになっているということか。これまでの経緯を知っていれば嫌でも想像がついてしまう。
「ええと、とりあえず保護者には聞いてみるよ。それまでご自宅に居たくなかったら漫喫かカラオケにでも行っててくれる?」
『わかったよ、苦手なラップの練習でもしてるよ』
「練習しててもちゃんと電話には出るんだぞ」
電話を切り、草慈の携帯電話の番号をプッシュするも出ない。いったい何をしているのやら。…肌の裏側を擦り抜ける魚が何か言いたげにこちらを見ていた。舞い上がる泡沫。
五時を過ぎた頃、保護者が帰宅した。
「ただいまあ、瑞樹、どうだった、大丈夫だったか」
彼は買い物袋を片手に瑞樹の肩に腕を回し、こちらを見下ろした。彼は今日が定期検診の日であったことを知っている。
「相談事があったら言っていいんだよと言われた」
「それで?」
「特になかったから言わなかったけど」
草慈はそうか、と微笑して腕を放した。ふわんと香ばしい匂いがして、その顔を見遣れば、彼は買い物袋の中を広げてみせて、「どれがいい?」と尋ねた。中には焼きたてのくるみパンや豆パン、ベーコンエピなどが入っていた。
「今日は色々あって疲れたろうから、晩ご飯までに好きなのお食べなさい」
「ありがとう」
「でもクリームパンは俺のだからな」
「いつも渋好みのくせに珍しいこともあるもんだ」彼が一番好きなのはうぐいすぱんだ。
袋からがさごそと取り出したくるみパンにぱくついてから、瑞樹ははっとした。
もうひとつの買い物袋から、人参を冷蔵庫の野菜室へ詰め込んでいる草慈の背中に声を投げる。
「そうじゃないよ」つい食に釣られたが。
「え、なにが?きなこツイストの方が良かったって?」
「いやそうじゃなくて、ついさっき睦月から電話があって」
同じ屋根の下で暮らしたいとの申し出があったのだと瑞樹は説明した。
彼はぱたむ、と冷蔵庫の扉を閉じて、パンの袋に手を伸ばした。
「俺はかまわないけど、此処で三人暮らしはちょっとばかし狭いな。他の…知り合いに当たってみることはできるけど」
最悪母さんのところが空いてるし、と微苦笑。彼の母というのはユミさんのことだが、彼女は現在自宅で家政婦とともに暮らしている。入院していたころ頻繁に病院を抜け出していた彼女は自宅に戻っても尚、どこか少女めいた奇抜な言動で家政婦の女性を困らせているらしい。
「それはちょっと。これ以上睦月に余計な毒が付いても困る」
「じゃあ少しだけ時間をくれないか。聞いてみるから」
そう言って電話の受話器を耳に押し当てる草慈に感謝の言葉を告げて、瑞樹はリビングのソファに深く腰掛けた。検診に行った所為だろうか、睡魔が瞼を重くした。







お願いがあるんだと彼(彼女)はまるで騎士のように片膝をついた。(騎士のようならそれは彼なのか)。
頷けば彼(彼女)は横に置いてあったらしい鉈をゆっくりと持ち上げかけて、ふと思い出したように棚の上の鞄に手を伸ばし、それを床に下ろして押し開いた。動物の皮を剥ぐための専用のナイフがあるとこのあいだテレビでみたのだと彼(彼女)は言う。物事には順序というものがある。いままではその手順を守らなかったから出来が悪かったのだ。だから今日はもっときれいにさけるよ、と。

めくれた皮膚の裏でさかなが閉じぬ瞼を見開いて、その光景を見ていた。




びくり、と身体が跳ね返るように覚醒する。
指先を伸ばし、ベッドのシーツを握りしめる。肺で呼吸を繰り返し、意識と身体とが馴染むのを待った。時計の針は二時を指し示している。薄い思考が白いシーツに溶けそうになり、粘ついて糸を引く。
「そうだ、睦月を迎えに行かなけりゃ……」
体内がどろどろしている。昼寝なんてするもんじゃない。
あのあと、草慈の知り合いに何とか話がついたとのことで、今日睦月を迎えに行く段取りになっていたのだ。迎えの時間が夕方だったものだから、変に時間が余ってしまってついうとうとしてみたら、身体が重い。
「瑞樹、そろそろ時間だぞ」
ドアから草慈が顔を覗かせて、床にへばりついている瑞樹を見下ろした。わかってる、と返せば、車出しておくから、と彼はドアを閉めてしまった。身支度はあとコートを羽織る程度だったので、台所でコップ一杯の水を飲んで後へと続いた。
すうーっとエレベーターが降下する。
駅まで車で十五分間。その後、瑞樹は新幹線で睦月の暮らす西部へと向かうことになっていた。往復する手間を考えれば馬鹿馬鹿しいのだけれども、睦月がこちらの地理に詳しくないことと…あまり良い予感がしなかったことから瑞樹が言い出したのだった。
「じゃあ、帰ってきたら電話してくれ。今日はもう家にいるから」
車のドアを開けた瞬間、冷気が服と肌の隙間を埋めた。帰宅する人々の波に混じって階段を上りながら、コートの襟と襟とを手繰り寄せる。寝起きの怠さもとうに凍てついたものと化していた。駅のホーム内も暖かくなかったが、風が直接吹き付けないだけよかったと言える。
新幹線内の生温い座席に腰掛ける。
十分に昼寝はしただろうに、すぐに睡魔が襲ってきて項垂れた。あっという間に到着した。
改札で待ち合わせとのことだったが、睦月の姿はまだなかった。携帯電話の方に連絡してみる。お留守番サービスに繋がってしまった。向かっている最中なのだろうか…と瑞樹は表面的に考えたものの、その裏側にある不安が彼を落ち着かなくさせた。何かから逃げようとして、すんなり逃げられると逆に不安になるというか…そんな世の中の物事は上手くいくものなのか、もしかしたらまだ何か悪いことが待っているのではないか、その何かに追い付かれるのではないかという強迫観念じみた恐れに駆られたのだ。どうにもこうにもらしくないし、考え過ぎなのは分かっているが、寝過ぎたのかまだ頭が夢を見ているらしい。
けれど足は睦月の家へと向かっていた。
「あいつめ…おしるこの一本でも買わせてやるからな」
コートのポケットに手を突っ込んで、ずんずんとぐずついた雪の残る歩道を歩く。彼が肉まんを買いにコンビニに立ち寄るなり迂回路でも使えば話は別だが、ここいらは不便だからバスの一便も出ていない、すれ違うとは考え難かった。実際すれ違わないまま、彼のおうちに着いた。
雪道で足を滑らせぬようにしながら玄関のベルを鳴らそうとしたのと、睦月がドアを開けて出てきたのとは同時だった。
「あれ、瑞樹。迎えに来てくれたんだね」
「ちゃんと六時に駅に迎えに行くって言ったろ」もう六時二十分だぞこのカバ小僧。
「うんそれが、部屋の時計が遅れちゃってて…」
彼は少し大きめの鞄を肩に下げていた。それでも随分少なかったが、「そんなに必要なものがあるわけでもないからね」と彼は玄関の階段を下りた。
「じゃあ行こうか」
さらりと睦月の髪が風に吹かれて揺れた。ちょっと遊びに行くだけという顔で、荷物の量もそれほどでもないのに、瑞樹は無性に不安になった。(はねた)。その途端、
ばたん  
と、ドアが開いた。
睦月の母親らしき、ふくよかで人畜無害そうな女性が立っていた。
「睦月ちゃん、何処へ行くの?」
「昨日、言ったろう。大学のサークルの皆と天体観測するんだって」
そういう設定だったのか、と彼の鞄を改めて見遣る。望遠鏡が入っているならさぞかし重いことだろう。
「何時頃帰るの?」
「十二時までには帰るよ」
「集まりには女の子はいるの?」
「…九人中二人だけだよ」
「勘違いされるような態度を取ったら駄目よ。睦月ちゃんが汚れるようなことをしては」道路横に掻き寄せられた雪も結構汚れている。
「母さん、時間が押してるからもう行くよ」
この延々と続きそうな遣り取りにも慣れているのか、睦月は無表情のまま受け答えし、瑞樹の背を押した。「いこう」。その瞬間、彼女は初めて瑞樹が視界に映ったと言わんばかりの反応を示した。
「あなたは?」
「ムツキクンと同じ大学の晴野です」
「睦月ちゃんを何処へ連れて行くつもりなの?」
「母さん…」
出来るだけ彼女を刺激しないようにしているのか、睦月が諌める…というよりは宥めるような声を出した。だが効果は薄かったらしく。

「あなた睦月ちゃんを連れて行くつもりなのね」

だからそうだとさっきから、と返す間もなく彼女は家の中へ駆け戻り、包丁を片手に飛び出して来た。その眼はぎらぎらと太陽光を反射した硝子の如く輝いている。
「睦月ちゃんはわたしたちの子どもよ。誰にも渡さない、わたしたちの鳥なの」
「母さん、僕はもうESPの検査では陰性と…」
「まだ睦月ちゃんは子どもなの…まだチャンスはあるの」
瑞樹にとて一応良心というものがある。しかしこのときばかりは、睦月の母親は頭のねじが何本か抜けているのではないかと考えずにはいられなかった。
そして何処にも行かせないと喚きながら睦月に包丁を向ける彼女を見て、半狂乱になっている彼女を見て…とても頭が痛くなった。関わるべきでない、ろくなことがない。息子を肉としか見ていないだなんて、もうこんなの母親ではない。(懐柔なんかしたって)。
横から睦月を突き飛ばし、振り下ろされた包丁の刃を握りしめる。
「みず…」
「睦月、ごめん」
なのに謝ってしまったのはどうしてだろうか。彼の母である女、を奪い取った包丁の柄で殴り倒し、それを投げ捨てて、彼の手を引いた。
街灯が夜になりかけた薄い闇を照らす。雪道のなんて走り難いことか。彼の手首を引く手のひらがぬるりとして熱く痛んだ。
「瑞樹、手…!」
「大丈夫」
「大丈夫って、血が出てるよ」
血ならあのとき散々流したろう。
薬局に寄ろうと睦月の足取りが鈍る。大したことではない。苛立つことでもない。振り返り、彼の顔を見た。

「ESPだから、平気だ」

背景が静止する。黒目の大きい瞳がゆらゆら揺れた。
この言葉に彼にとってどれだけの重みがあるかなど知れない。けれど、あのときの彼が受け入れたように、今の彼もおそらく受け入れるのだろうと思った。(彼は既にあるものを信じないでいられる人間ではなかった)。

けれど…それでも、出来るなら伝えたくはなかったと思うのは、間違っているのだろうか。











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