18.青い鳥












電車が地元駅に到着し、惰眠を貪っていた瑞樹ははっと…それは電車で通勤通学している者であれば自然と身に付けている”はっ”とである…目を覚まし、ホームへと降りた。朝のラッシュの時間を過ぎている駅は閑散としていて、エスカレーターの正面に誰かの尻を構えることもない。飲み込まれていく…もう戻ることのない切符との別れを難なく乗り越え、改札を通り抜けた瑞樹を待っていたのは、従兄弟であり現在の同居人である草慈の姿であった。長身ですっきりとした短髪の、名前と外見だけはマイナスイオンを放出していそうな男である。
「おかえり、瑞樹」
「ただいま」
「疲れたろう、荷物持つよ。車、下に止めてあるからさ」
彼はまるで数年振りに再会したと言わんばかりの笑顔で瑞樹の手荷物を預かると、颯爽と先を歩き出した。別に荷物の一つくらい持てるよ、と言ったところでまず聞く耳を持たない。かなしきかな、あの性格に難ありのユミさんを親に持つだけあって、人の世話を焼いていないと落ち着かない人間に成長してしまったというわけだ。瑞樹にしてみれば至れり尽くせりされると逆に落ち着かず、睦月にも漏らしたように草慈の態度も「煙たい」ものと化してしまうのだけれども。
慣れた様子でハンドルを握る草慈の横で、シートベルトをしゅるしゅる留める。
「鳥越くんは、元気そうだった?」
「たぶん」あれで元気と言い切ってしまうには抵抗がある。またしても彼は言いたいことも言えないこんな世の中をエンジョイしているようだった。確かに彼の家庭環境とやらを考慮すると陰鬱な毒気にも当てられるだろう。とはいえ、あまり互いの家族のことなんて話し合ったりしないから、彼の家族に関しては人のお肉を食する嗜好があること以外よく知らない。
「朝ご飯食べてきたのか?」
「食べた」
「じゃあ鍋にシチュー残ってるから、お昼はそれでよろしく」
一日振りに再会出来てはしゃいでいるのかどうか知らないが、草慈は機嫌が良さそうだ。顔立ちは瑞樹の血縁なだけあって同じく整っているが、性格面はかなり違う。
「出掛けるの?デート?」シートに凭れ掛かりながら欠伸を噛み殺す。
「いいや。俺はしがない学生でしかないから…もう逢わないと決めたんだ、彼女とは」
草慈はしっとりと憂いを帯びた横顔を作りそれらしいことを言っているが、そもそも彼に彼女はいない。どうしたものかと思うが、本人が楽しそうなので放っておくとする。多分こんな性格でもないとユミさんの息子はやってられないのだ。
「ああ、そうそう、何処か寄りたいところあるか?うさぎカフェ?」そして切り替えが早い。
「男二人でカフェとか。それに僕は兎より猫の方が好きなんだけど」
「俺はうさぎを猫可愛がりたいんだ」うさぎは寂しいと死んじゃうからな。
「そうですか」
やがて車は見慣れたマンションを右目に駐車場への進入を果たし、指定された白い枠内で事切れた。エントランス。上昇するエレベーター。光と影が縞模様を描きながら足下へと落ちていく。
瑞樹はふと、斜め左に立つ草慈の横顔を見遣った。なるべくしてなった、その過程は経験したことであるし知っている。だけれど、どうして自分は目の前の男と一緒にいるのだろうと…ただ純粋に、疑問に思った。得てして人と人との出会いなんてそのようなものだとは思うけれど。彼とは従兄弟同士で、それでも会った回数自体は多いわけでもなくむしろ世間的には少ない方だったろう。だから余計、彼と普通に喋っていることが時折変に思える。
エレベーターは七階で止まった。地上からは随分浮き上がったのに、足の裏は此処を地べただと信じている。繋がってさえいれば何処へ行っても良いのだと。
草慈が玄関の鍵を回す。オートロックなので、閉まらないように手で押さえながら後へ続く。男の一人…二人住まいにしては整理整頓が行き届いている方だとは思う。瑞樹もそれほどだらしない方ではないし、そもそも草慈は家事が趣味のような男だ。
彼は暖房のスイッチを入れた。
「お昼はさっき言ったように鍋にビーフシチューが残ってるから」
「了解」
「それと、洗濯物は暗くなる前に入れる」
「うん」
「それじゃあ、行ってきます」
「いってら」
草慈を送り出し、瑞樹は部屋の至る所に置いてある植木鉢にジョウロで水をあげた。蛍光灯の光を浴びて、それらはつややかに光る。









積み重なる食器には食べかすひとつ残らない。
空腹を感じた子どもが食べ終えた皿を舐め回すように、目の前の彼らも舌をべたりと張り付けて、もったいないもったいないと貪欲に求める。もはや見慣れた両親の繰り広げる美しくはない風景。手元にあるコーンスープの味も普通に感じられる。いつもと何ら変わりのない、記憶を半年なくした程度では何も変わらない。永久的だ。彼らが死ぬまで。ぴっちゃぴっちゃぺっちゃぺっちゃ静かに食事の出来ない父と母。無我夢中。食べ足りぬとその目は訴える。おかわりがなければ諦める程度には利口な父と母が、最近は唾を飲み込み舌舐めずりする。一部でも欠損したらもう人間ではない、完全ではない肉の断片だとでも思っているのだろうか彼らは。ナイフで切り分けたハンバーグの断面から…肉汁が溢れ湯気が上がる図をグルメ番組が好むように、彼らの目にもまた、耳のちぎれたそこはただの肉の断面にしか見えていないのだろうか。好物の断面。
「ねえ、睦月ちゃん…」
「なに、母さん」
「記憶はまだ戻らない?」
うんうんいいのよべつに責めてるわけじゃないのよ。と、彼女はにたにたする。
下手に小賢しいより、足らないものを慈しむ彼女は素晴らしく心が大きく性根から腐っているとしか思えない。足らなければ足らないほど、彼女の知覚するヒトからは遠ざかっていくのだから、さぞかし息子のこの有様は嬉しいだろう。
捻くれた見方をしていることは自覚している…だが例えこれが子どもからの一方的な決めつけであろうがなかろうが、姉を追い詰めたことを思えば彼女が常軌を逸していることは明らかだった。とはいえ、自分も母や父を非難出来るほどまともな人間かと聞かれると、そうでもない。自分を卑下するだなんて面倒なことをするつもりはないけれど、必要以上に擁護するつもりもなく。これは”程度”の問題なのだ。

「でもね、そんな睦月ちゃんに伝えておかなくちゃいけないことがあるのよ」

「睦月は長閑が好きだったからなあ」と父。
…姉の、名前が出た途端ぞわりと鳥肌が立った。どうしていま姉の名前を出すのだろうこのおとこは。姉とは幼い頃に別れて以来顔を見ることはおろか、声を聞くこともままならなかったはずなのに。
母が目を潤ませる。そんなものを分泌するより早く先を言ってほしいと思いかけ、自分がいつになく苛ついていることに気付く。戸惑い、だけど姉さんのことだから、と頭の隅で囁く声がする。そして、そうか姉さんのことで僕が苛つくのは当然のことなのか…と納得する。(何故なら僕はずっと姉に飢えていたのだから。)この数年、ずっと、
「長閑ちゃんはね、私たちのもとへ戻ってきてくれたの」
「…それは、いつ」
「三年ぐらい前のことよ。睦月ちゃんの記憶がちょうど抜け落ちている頃…そしていまはもういないの、旅立ったの」
ずっとずっと言おうと思っていたんだけど、睦月ちゃんがショックを受けると思って言えなかったの。と、母。でも、と彼女は当時の興奮を思い出したかのように口早にまくしたてた。喜色満面。涙の粒も感激のあまり無数に散る。

「これは悲しいことなんかじゃないのよ、とても素晴らしいことなの。ねえ、睦月ちゃんも覚えているでしょう?あの子はESPという優れた存在だった!選ばれた子だったの。みんなを幸せにしてくれる、幸福の青い鳥だったの!」

「父さんもあの子の親であることを誇りに思う」
頬を紅潮させる母。うんうんと頷いてみせる父。そうなんだ、と微笑む自分。ああ、頭が痛い。そうなのか、姉は帰ってきてくれたのか。もうこの家族に嫌気が差して二度と姿を見せてくれないものとばかり思っていた。だのに自分は何故彼女の、大人になった彼女の姿を覚えていないのだろう。ずっと忘れようとして気にしないようにして待ち焦がれていたのに。戻ってきた彼女は旅立って、つまりは死んで(”超能力者はね、おいしいの”)肉になって。今度こそもう二度とその姿を見ることは。

ごちそうさま

数年振りに彼女の部屋のドアを開けた。両親らも、何故なのか此処には立ち入らない。知りたくもない。
一度彼女が帰ってきて使用されたはずの部屋は、三年という年月に押し流されて再び埃を積もらせていた。
触れてみたところで椅子やベッドにぬくもりなど残っているはずもなく、冷たさと分厚い埃の綿だけが手のひらにしっとり張り付いた。指先で擦り落としてしまえば何も残らない。彼女はホテルか何処か別の場所に泊まったのだろうか?それとも部屋に入ることもなく”旅立って”しまったのか。分からなかった。だが、此処がかつて彼女の部屋であったということは事実であった。彼女は此処にいた、確かに此処にいたのだ。埃の被った布団を押しのける。数年洗濯されることのなかったシーツ。突っ伏して顔を寄せた。










帳簿をつける手が止まる。
思い出すのはあの身勝手な青年の顔だ。カスタードクリームのような髪色の、勿忘草色の瞳という北部の特性を見事に兼ね揃えた容姿の輩である。冷ややかな態度を取ったかと思いきや、逢えて嬉しいなどと寝ぼけたことをのたまう。彼本人に対しては勿論のこと、彼の気まぐれな一言に翻弄されている自分にも腹が立っていた。彼のことなど気にしなければいいものを、以前彼の心を見透かしてしまった所為で、ただの面倒で演技がかった人でなしでは片付けられなくなっていた。
…彼は心の底から、自分があの子どもを食べればよいと考えていた。多少偽悪的な気持ちはあっても、結局はこれが最良の選択であると。”最も愛情を注いでいた者が食べるのは至極当然のことである”、と。そこには疑いを挟む余地など微塵も存在しない、思わず身震いしてしまいそうな…”純粋”だけがあった。狂信的ですらあった。理解出来なかった。
彼に触れればまた同じような苦痛に苛まれることになる(彼はあれを隠そうとしていない、触れるのは容易だった)。関わらなければ不具合を忘れていられる。だが彼は帰ってきてしまったし、自分も全く以て否定的というわけでもなかった…残念なことに彼は知人でまた友人、と言えなくもなかったからだ。そう、だからこそ、余計に苦痛なのだ。
憂鬱ついでに休憩がてら外へ出た。同じ場所でじっとしているからあんな輩のことを考えてしまうのだろう。
薄曇りの空の下へ一歩踏み出せば、怯むような寒さが身体を痛く突き抜けた。
「坊ちゃん、お出掛けですか?」
淑恵、と反射的に名前を呼ぶ。乳母の淑恵は当たり前だが…自分が物心ついた頃には既にこの屋敷に居た。元々ここの家政婦だったのか、詳しい事情はよく知らない。聞こうとしても、”坊ちゃんは召使いのことなど気にしてはいけない”と言うばかりなのだ。分別というのかプロ意識なのか、彼女なりに拘りがあるらしいということだけは分かった。
「いや、特にそういうわけじゃ」
「この時期はとても冷えますからね、あまり薄着で外へ出られるとお風邪を召してしまいます。必要なものがあれば私が買って参りますから」
少しくらいは良いかと思ったのだが、案外手厳しい。自分が調子を崩せば、世話をする淑恵の責任が問われるということもある。
大人しく玄関まで後退しながら、ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。
「淑恵はどうして此処で働こうだなんて思えるんだ?同じような仕事なら、他の家でも出来るだろうに」
よりによってあんな歪んだ性癖を持つ男の下を選ばずとも。給与は確かに悪くはないようだが。
淑恵はしばしばと瞬きをした。彼女は意外と睫毛が長いのだ。
「…坊ちゃんは、旦那様のことはお嫌いですか?」
「…質問を質問で返さないでくれ」
特に顔を顰めたわけではなかったが、それでも淑恵はやはり、という顔をした。知っていたことだった、とも。
「申し訳ございません。確かに、此処でなくてもいいのです。ですが、此処でなくてはいけないのです」
「淑恵…」そういう禅問答は得意ではないのだが。彼女はそのことを理解した上で、敢えてしているのだろう。何故?
悲しげな、それでいて曖昧に誤摩化すような笑顔で淑恵は顔を滲ませた。
「坊ちゃんは、普通になりたいと考えたことがありますか」
 「普通に?」返事がワンテンポ遅れた。
「坊ちゃんも大人になられましたから、」
不意に、彼女は言葉を不自然に途切れさせた。それから、急用を思い出してしまったとぱたぱたと家の中へ。
気の抜けるような安堵とせっかく真面目に話をしていたのにという残念な気持ちとが入り混じり、内側に降り積もる。
けれど言葉の続きを想像することはそう難しいことではなかった。彼女は必ずしも、自分が父の跡を継ぐことはないと言おうとしていたのだ。だが何処へ行こうとも、自分の背中には父の薄汚い性癖、薄汚い罪がへばりついているようで。それどころか、


「人殺し」と、


誰かが囁いた。すれ違い様に囁いた。
ぶわりと鳥肌が全身を覆う感覚とともに、振り返る。そこには誰もいなかった。






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