17.地平線













「綾城さん」と専ら父に群がるのは美女ではなく、二十代前半程度のきらびやかな若者ばかりだ。
彼らは父が愛妻を亡くして以来女性に興味を失くしたことを知っていて、自分の身体を売り物に半ば確信犯的に近づいて来る。狙いは父の持つ金であったり権力であったりと様々だが、何にせよ彼らは肝心なところで思い違いしていると、傍らに立つ椿は密かに溜め息をつく。
「君たち、チキンが取れないだろう。退いてくれたまえ」
その口調も一見温厚そうな紳士を気取るこの男は、二十を過ぎた男になど興味はない。
厳密な基準は本人にしか知り得ないことではあるが、純朴そうな少年に目がないのはこれまでの経験から明らかだ。椿自身、何度その醜態を眺めさせられたか分かったものではないし、危うくその欲に晒されそうになったことがないわけではないが、二十一になったいま、自身に降り懸かる危機だけは回避したといっても良いはずだった。二十の誕生日を迎える前日ときたら、いつ男が首を絞めに来るかと馬鹿馬鹿しくも恐れおののいたものだった。それほどまでに、”あの忌々しい日”…男の目は強烈な欲望にぎらついていたのだ。
と、そんな過去を振り返りつつも、椿は父の傍を離れ、とある個室にこもっていた。代わる代わる接近してくる女性達から逃れたかったという気持ちもないわけではなかったが、この手の豪勢なパーティには何故か為肉が付き物で、このたび椿はそれを吐き戻す為に個室でのスペースを確保したというわけである。食わずに済むものならそうしたいところだが、立場的にそれも叶わず。…口に入れられるようになっただけでも、馴らされている、のかもしれない。
…胃袋を空にし、会場へ戻った後は目立たぬ隅の方へと移動する。中央に居る父はこちらにまだ気付いていないが、それも時間の問題だろう。
いっそ帰りたい。

「椿さん?」

…そんなに目立つ格好はしていないはずなのにどうしてなのか、と思いつつ椿は顔を上げる。
無視出来ないのは生真面目な性分故で、相手の姿を捉えた彼は見事に硬直した。
「ゆ、え」
「お久し振りです。どうしたんですか、顔色悪いですよ。ああ、さては食事が口に合わなかったんですね」
相変わらず無駄に喋る男は、記憶にある作業着姿とは一転して完全な正装をしていた。それが妙に様になっていて、凝視しかけて慌てて我に返る。どうして柚谷が此処に居る。実業界の面子の集まりだから、居てもおかしいというわけではないが。
椿が柚谷と会ったのは実に三年振りのことであった。あの事件以来、椿が彼を避けていたのもあるし、彼の方からも特に接触はなかったので知るのが遅くなったのだが、風の噂によれば柚谷はしばらく大学の寮に入っていたらしい。つまり、学生をしていたとのことだ。…詳しい事情は、よく知らない。
「何か顔についてます?」
無意味な爽やかさを振りまく柚谷の面。彼の顔を見ていると、嫌でも当時のことが思い出されてならない。自分は酷く取り乱して、対する柚谷は他人のような素気無い態度で。あの胸にひやりとガラスを押し当てたようなおぞましさ、理解し合えぬ絶望感を思い返すだけでも、全身が冷たくなる。もう関わりたくないとさえ思っていたのに、何故この男は突然現れてしまうのか。脅威だ。彼の存在を察知出来なかった自分がとてつもなく嫌になる。
「…椿さん、大丈夫ですか?」
「お願いですから私に近づかないでください」
もっと拒絶の意を剥き出しにしたいのだが、周りに人が多過ぎて迂闊な罵声も浴びせられない。
「あの、椿さん。とりあえず、一旦、ね、出ましょう」
同感だ。しかし、本当に彼は何がしたいのだろう。何が目的で近づいてくるのだろう。

場所を変え、夜風が頬を撫でる。ここは冷静に話し合いたいところだ。
「何が目的で声を掛けてきた」
「え、椿がいるなあと思って。だって知り合いがいたら椿だって声くらいかけるだろう」
柚谷が正論を言うと無性に苛つくのは何故か。第一、最後に会った日、あんなに嫌みったらしく丁寧語を貫き通した奴が、何を今更ため口なんてものを利いているのか。公私混同はしないとでもいうつもりだろうか。面倒だ、関わりたくない。
「頼むから、俺の半径十メートル以内に近づかないでくれ」
「…椿、まずは落ち着いて深呼吸でもしようか?」
「…っ」
宥めようとでも思ったのか、伸ばされた手を思い切り払いのける。感じが悪過ぎる…人としてまずい反応であることは重々承知していたし、それは柚谷が目を見張ったことからも分かり過ぎるほど分かっていたが。
一瞬ではあったが触れた箇所から感情の断片が伝わってきて、どうしようもなくなる。
「…悪いが俺に触れてくれるな」
「…制御が利かない?」さすがに柚谷は人を飼っているだけあって詳しい。
「ご明察の通りだ。思うように相手の感情を遮断出来ないんだ。だから触れるな」
以前はどうにか制御出来ていたというのに、今は全く以て駄目なのだ。あのとき柚谷の感情を読んだ所為なのか、…あの子どもの…肉を食べたからなのか、理由は分からない。とにかく、通りすがりの人間の感情であればまだしも、柚谷の感情だけは二度と読み取りたくなかった。
「いつから?」
「お前と最後に会った日から」
「それはさすがに責任を感じるな。わかった…接触はしないようにしよう」
だけど、と柚谷はずいっと顔を寄せてきた。その互いの鼻先が触れそうで触れない至近距離から、観察するかのような視線が痛いくらいに突き刺さる。
「うん、大丈夫そうだな」
「何が」耐えきれず一歩距離を取ると、
「またいきなり泣かれても困るから」そんな気恥ずかしい台詞を、弱々しげな微笑とともに言ったのだこの男は。
過去の…無様な自分の姿が脳裏に浮かびかけ、慌てて蓋をする。
それでも血の流れまでは操れず、漏れた感情が頬の赤みとなって結果としては図星に近い表情になった。
この男は羞恥というものを知らないのか。
「…そろそろ戻る。あまり離れていると、親父が煩い」
「そう?残念だな」
口ではそう言いながらも柚谷は引き止めることもせず、
「じゃあ俺は帰るから。椿、今日は逢えて嬉しかった。退屈だったらまた遊びに来てよ」
社交辞令とも本気ともつかぬ言葉を口にする。彼と居ると疑心暗鬼に陥りそうになるのは、自分が人間不信なだけなのだろうか。









堅苦しいスーツをハンガーに預け、薄いブラウスに着替えると千尋はソファに浅く腰掛けた。
窓枠の隙間から忍び入る冷気を暖房の温度を上げて押し返す。今朝方見た天気予報ではところにより雪。ここいらでは滅多に雪は降らないが、凍てつく寒さは身体に堪える。農場の暖房も上げてきた方が良いかな、と彼はコートを羽織り調整室へ向かおうとし、固定電話の音に足止めされた。
内線だ。こんな夜遅くにいったい何の用なのだろうと思いながら彼は受話器を手に取る。
『千尋か?…』父の声。
「そうだよ」
『今日、お前宛に電話があったんだ。遅くなってもかまわないと言っていたから折り返してやると良い」
「まあ待てよ、親父。相手は誰なんだ?」
それにいくら遅くなっても良いと言われたところで、さすがに夜の十一時ともなれば迷惑な時間帯だろう。
千尋は子機を耳に押し挟んだまま、ドアを開けて外に出た。吐く息が白い。
『お前が出た大学の人間らしいぞ。トウマ、と名乗っていたな』
「知らないな。まあいいか、電話番号は?」
『×××‐×××‐××××だ』
「…分かった、明日…折り返すよ」
建物を迂回し、一回り小さい四角い倉庫のドアノブを回す。わざわざこうして足を運ばずとも、気温に応じて自動調節機能が働き農場内は適切な温度が保たれる仕様…になっているはずなのだが、その適温とやらがやや体感温度としては低く感じられるため、毎回こうして直接操作してしまうことも多い。いい加減機械を少しいじった方が良いかとも思う。
しばらくしてから、いつのまにか切れていた子機を手のひらの中に落とし、千尋は来た道を戻り始めた。つい数時間前まで椿と話していたときは何とも思わなかったのに、今では身体の芯まで冷え切っていくように感じられる。
…椿は、以前とあまり変わりないようで、安心した。












研ぐのを怠り、切れ味の悪くなった包丁で具材を引き摺ってしまうかのように、鉈がまな板をずりずりと擦り皮が伸びる。
その皮を肉の表面から綺麗に剥ぎ取ったのち、その手はさてどうしようかと迷いを見せ、やがてそれを流しの三角コーナーに放り込んだ。
その様子をぼんやりと寝そべったフローリングの上から見上げて、起き上がることも出来ずただ足を無意味にじたばたさせてみる。
青いブルーシートならまだ気が利いていて、でも実際は遠足用のレジャーシート。



「瑞樹?」



大体、毎朝目を覚ますとき何を最初に見たかなんていちいち意識していない。
天井でもフローリングの床に敷かれたカーペットの柄なんでも良いけれど、まず睦月の顔が真ん前にあるのはおかしいということくらいは、寝起きの頭でも分かる。近い、とにかく近い。誰か助けてください白いかばに獣姦される。
「大丈夫?」
「いくら便利だからって大丈夫って言葉に甘え過ぎだと言っておこう。何が大丈夫だって?」
「瑞樹がらしくもなく魘されていたから大丈夫かと聞いているんだけれど」
「ああ、目覚めも夢見も最悪だった」
夢の方は何度か繰り返し見たことがある。何が引き金になっているのかは分からないが、なかなか不愉快な夢だ。生々しさからして新に会いに行ったことと関係がありそうで、そのくせこの夢に新が出てきたことはない。
薄暗い和室から、居間の目映いテレビを見遣る。天気予報。横で片膝を立ててしゃがんでいる睦月が「電車も運転再開したみたいだよ」と和やかな笑みを浮かべる。こうしていると彼はやや控えめながらも優良そうな人間に見えて、改めて彼の人間性が理解し難いものに思えてくる。澄ました顔でやたら淡白で割り切った発言をしたかと思いきや、友人のことを思い遣ってみたり、撃ってみたりする。とはいえ、偽悪的な行動は取ったことはないし、変に捻くれたりしているわけでもないし、精神的には大人といえばそうなのかもしれないがよく分からない。
「いま何時?」
「朝の五時。泊めておいて申し訳ないけど、多分親が朝八時ぐらいには帰って来るから早めに起きてもらったんだ」
「せめてもう一時間寝かせておいて欲しかった」寝てもまだ二時間ある。
「だって朝食食べるだろう、瑞樹も」
何かおかしなことを言ったかなと言わんばかりの顔で、睦月は瑞樹を流し見る。
…追加で、彼の性格上の特性の一つとして、自分の言葉に疑いを持たないことも挙げておくべきだろうか。
それはさておき、お互い向き合って卵かけご飯をかっ込みながら、睦月は刺さるはずもない魚の骨が刺さったかのような顔をしていた。懐かしい友人が目の前で箸を操っているにも関わらず、考えごとか、それとも何か言いたいことでもあるのだろうか。
しかし、と瑞樹は白和えを箸で摘みつつ思うのだ。どうせ聞いたところで言わないパターンだろうなこれは、と。彼は言いたいことがあるときは、それほど躊躇したりはしないし、言おうか言うまいか迷っているときはその迷える余地があるだけ後回しにする又は言わない。だから今回もきっと後回しだ。とはいえ、家は遠く会う機会そのものが激減したとあって、瑞樹としては迷っているくらいならとりあえず言ってみてほしいところだ。
「睦月、僕たち結構長い付き合いだと思うんだよ、うん…別に嬉しくないことにそうなんだ」
「瑞樹が思ったことを大概口に出さずにはいられないのも…今に始まったことじゃないと理解できるくらいにそうだね」
「だからそう、睦月も言いたいことがあるなら言えば?…僕だって察したくはないけど、顔に出てるんだよ」
「別に言いたいことはないんだ」
なら何ならあるというのだろう。結局睦月は何も言わないで、頭に天使の輪を乗っけ直すなどの身支度をして、出掛ける準備を整えた。

「駅まで送って行くよ」

歩道はこんな朝早くから近所の誰が雪掻きしたのか、既に路面が剥き出しになっていた。湿ったコンクリートの深い色。まだ朝陽は水平線に沈んだままで、薄暗い道を睦月とふたり並んで歩いた。電柱からみぞれ混じりの雪が零れ落ちる。
「こんな時間じゃさすがに病院には行けないね」
「そうだね」
「ねえ、瑞樹。僕は君にどれくらい話したんだろう」
何を思ったか、睦月は急に改まったことを言い出した。彼が記憶のない間、瑞樹に告げたこと。どれくらい…姉がESPであったこととアブナい両親であることと、それくらいではなかったか。後はESP関連の豆知識的な。あとそうそう、睦月がお姉さんを食ったということ。…この件に関しては、あまり触れない方が良いような気がしている。聞いたら聞いたで面倒そうだというのもあるけれど、この問題発言をしたときの彼はまさしく問題のある行動をしていたからである。
「瑞樹はさ、上手くは言えないけど、案外真面目だなと思うよ」
「僕もそう思う」
「だから、僕は」
彼は空を仰いでいたが、そこで言葉を止め、こちらを振り向いて困ったように破顔した。
「やっぱりやめた」

また連絡する、と改札前で彼は手も振らず、会釈代わりに緩んだマフラーのかかる首を傾げる。
本当は言いたいことがあるくせに、すぐに黙りを決め込む睦月はなんて面倒なんだろう。何でもかんでも問いただすことが正しいわけでもなく、かといって睦月なら大丈夫だと思い込んでしまうことも危うく思えて、どうすればいいかもわからず彼が不審に思うのもかまわず足を止めていた。
同じことを繰り返すのはごめんで、それを考え過ぎだ気にし過ぎだなんて思う気持ちもあったけれど…手を伸ばして彼のマフラーを整えてあげた。
「瑞樹?」
「何か…些細なことでもいいから、言いたいことが出来たら、連絡するように」
それだけ言って、踵を返す。
駅のホームへと続く階段を下りながら、睦月なんかに優しくし過ぎたかもしれないと思う。だけれどまだ薄暗い空を見上げ、白い息を漏らしながら家へと帰る彼の後ろ姿を思い描いたら、おあいこかな、とも思えた。




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