16.平穏












もはや諦めの境地で己の役割を放棄している傘を握りしめ、道に無数に刻まれた足跡を踏みつぶし歩く。
厚手の生地の上着には真っ白い細雪が降り積もり、凍てつく寒さには体温が蒸気となって頭の頂点から抜け出てしまいそうな錯覚さえ覚える。
「くそう、寒い」
思わず独り言が口を突いて出るほどだ。それでもようやく目的の建物が見えると、瑞樹は肩を縮こまらせたまま、滑らぬ程度に足早にその建物に身を押し込んだ。足を一歩踏み入れるなり吹き付けてきた温風に、強張っていた身体がぎこちなく弛緩する。雪を払い落としていないことには気付いたが、もう外には出たくないので自然に溶けてもらうことにして、瑞樹は記憶にある病室へと足を向けた。靴底は出入り口のカーペットで拭ったものの、廊下の方が水でひたひたしてしまっている。過去に世話になっていた病院は受付前にスリッパに履き替えるスペースがあるような小さな診療所ばかりで、此処に初めて訪れたときには果たして靴のままうろついていいのかと戸惑ったものだったが、今ではすっかり慣れてしまっていた。
病室のドアをノックし、中へ入る。彼は…眠っているのだろうか、ベッドの布団にすっぽりと包まってこちらに背を向けていた。
「…新、寝てるの?」
声だけ掛けて、傍らにあった椅子に腰を下ろす。眠っているのなら、起きるまで待っているつもりだった。新に会う以外にこちらでの用事はないし、どうせ積雪で帰りの電車も怪しいことになっている。ただ一つ問題があるとすれば。
「せっかくプリン持ってきたのにぬるくなっちゃうなあ」
「わあミズキのばか、たべるよ!」
間髪入れず布団が撥ね除けられた。瑞樹はプリンの入った箱を膝の上に抱えたまま、無感動に指摘した。
「いまどう考えても起きてたよね」
「だってミズキが起こそうとしないから。せっかくおどろかそうと思ってたのに…」
新は頬を膨らませてしょげたのち、「そんなことよりプリンだ!」と一転して思い出したように顔を輝かせた。やれやれとプリンを与えれば、満面の笑みで蓋を剥がしてプリンの黄味を頬張る。瑞樹はそんな新をただ眺めていた。
「ミズキはたべないの?」
「僕は大人だから」
「おとなもケーキとかたべるでしょ。それにミズキだってムツキとくらべたらぜんぜん子どもじゃない」
「…睦月、来たんだ?」くらべるなんて新にとって高度なことが出来るのがその証拠だ。
「ついさっき。ムツキはねえ、これ持ってきてくれたんだ」
慌ただしくプリンの容器を横に置いて、代わりに新が手のひらに乗せて差し出したのは、
「どんぐり?…睦月の奴、よくもまあこんな時期に拾って来たね」
「マテバシイだからいって食べたらおいしいよ、って言ってた」
「病院内で火を起こしたらまず問題だけどね」
「でもおれ、食べないよ。せっかくムツキがくれたのに、もったいないもん」
「そうかそうか新はえらいな」
ぐしゃぐしゃと髪を撫でてやれば、彼は嬉しげに眼を細めた。薄暗い感情が胸の内を過るも知らぬ振りをする。
そのとき背後の扉が開く音がして、新が「ムツキ!」と声を弾ませた。瑞樹は怠惰に椅子を回転させて、来訪客に視線を定めた。
「やあ瑞樹、来てたんだね」
「相変わらず笑っても眼が死んでる睦月こそ、帰ったんじゃなかったの」
「引き返してきたんだよ。受付で天使みたいに綺麗な子が来たって話を盗み聞いてね」
いい加減自分が無駄に目立つ存在だって自覚するべきだよ、と睦月は忠告じみたことを述べ、新のベッドに浅く腰掛けた。彼自身は極めて純粋な善意からそれを言っているのかもしれないが、それでどこか煙たく白々しい印象を受けてしまったとしてもこちらに落ち度はあるまい。全ては某白いかばのような胡散臭い雰囲気を持つ彼が悪いのである。口が何処にあるのかも分かったものではない。
「ところで瑞樹はまだしばらく此処に居るつもり?」
「いや、…もう帰るつもり」横から聞こえた、もうかえっちゃうの?という新の抗議は耳を素通りさせる。
「けど、大雪警報が出たとかで、しばらく電車は動かないみたいだよ」
「うむ」
「まあ瑞樹さえよければ、うちに泊まっていってもらうこともできるけど」
「睦月の家に?…」
瑞樹は訝しげな表情で睦月の顔を見上げた。彼は顔色ひとつ変えず答える。
「大丈夫、今日は親は二人ともいないから」
対する瑞樹が思うのは、ああ、睦月の親は昔から危なかったんだなあということである。
何故なら、睦月には”スクールの高等部に在籍していた間の記憶はなく”、彼が瑞樹に「来てほしくなかった」と言った過去もなかったことになっているからである。図太い彼にとっても、あの当時の出来事は衝撃が強かったらしいことが窺える。
「じゃあそうさせてもらおうかな。間違っても寝首を……寝込み襲わないでよね」
「随分と女性的な冗談だけど、もしかして僕達はそうしないといけない関係になっていたのかな?」
「それこそ気色の悪い冗談を言うんじゃない。…ちょっと家に電話してくるから」
冗談の通じない睦月を置いて病室を出ると、やたら折り返し続く階段を下り、一階の公衆電話の前で足を止めた。
ダイヤルボタンをプッシュしかけて、まちがえた、とひとり呟く。携帯電話は使用してはいけない…となると、アドレス帳も開けないわけか。仕方なく鞄から手帳を取り出してぱらぱらとページを捲り、該当する番号を押し直す。
呼び出し音。応答有り。
「ああ、ボクボク。大雪で電車泊まっちゃったんで、今日は睦月の家に泊まることにしたから。今夜は帰らないよ」
受話器の向こうからは、もう瑞樹の分もビーフシチュー作ったのにと嘆く声が聞こえたが、
「ビーフシチューなら明日でも食べられるでしょ。明日には帰れると思うから、多分。よろしく」
一方的に告げて切った。


「お待たせしました」
「保護者の人、OKだって?」机の上に転がる木片。睦月は新の積み木遊びに付き合っていたようだ。
「うん」
「じゃあ帰ろうか。ごめんね、新。続きはまた今度ね」
新は眉を八の字にし、ごねたそう…まだ遊びたそうな顔をしていたが、頷いた。
「またきてくれる?」
「もちろん。何なら指切りげんまんしてもいいよ」
「ううん。ムツキはやくそくやぶらないから。はりせんぼん飲まさないよ」
「そう、ありがとう。じゃあまたね」
当然の如く、睦月はにこりともせずこれらの会話を行なっている。
それでも新は不満一つ漏らさないのだから、子どもに対しあからさまな作り笑顔は必要ないのかもしれない。と、無責任なまとめ方をしつつ、瑞樹は手を振って睦月とともに病室から退出した。要は心の底からの笑顔に勝るものはないということだ。そういうことにしておきたい。
そして外へ。またしても無駄だと悟りながら傘を空へ向かって突き出し、雪に背を打たれながら睦月のおうちへと歩みを進め始める。
「確か僕はお手紙で睦月くんが車の免許を取ったと聞いた」
「雪の日に運転なんてしたらスリップするよ」
「このど素人め」
「まだ初心者マークついてるからね」
ニットの白いマフラーに白い雪を積もらせつつ、睦月は白い息を吐く。くどいくらい白いが、残念なことにコートは黒だ。
「あのさ、そこのスーパーに寄って行きたいのだけど」
「食材の買い出し?」
「そう、瑞樹の分まで今日は考えてなかったから。一人で適当に済ませばいいやと思ってたし」
別にこちらとしてもカップラーメンでも何でも良かったのだが。途中、暖を取る意味でも瑞樹は了承した。滑らぬよう一歩一歩足を踏ん張らせながら、直線から緩いカーブを描く。ウインドウが開いた瞬間、温風がもわんと顔にぶつかる。だがしかし、先程の病院ほど室内温度は高めに設定されてはいないようだった。
「なに買うの」
「ああ…うどん玉?」
「味噌煮込み?」
「残念、僕は醤油派だ」
睦月は手始めにほうとうを手に取ると、それから長ネギ、ごぼう、人参と次々に買い物かごへと放り込んでいった。ほか、料理に使用する材料全てを調達する勢いでかごはみるみる膨れ上がり、瑞樹は彼の家の冷蔵庫事情がふと心配になった。普通、大根の切れ端や豆腐一パックくらいあるものではないのか。ちょうど全部の野菜を使い切ったのだと言われれば、それまでだけれど。
「失礼なことを聞くようだけど、睦月の親御さんって、料理する?」
「するよ。基本家に居てしない日はないくらいだ」
「ならいいんだけど」
瑞樹の心配を他所に買い物は無事終了し、再び傘が弾ける。

手伝いを申し込むも包丁が一本しかないよという理由からお断りされた瑞樹は、ソファにひっくり返りながら台所に立つ睦月の後ろ姿を随分と長いこと眺めていた。男児が厨房に入ることに何ら抵抗はないが、せめてエプロンくらい付けたらどうなのだろう。
「出来たよ」
「どうもありがとう」
「どういたしまして。ほら、寝てないで起きて」
さすがにお礼を言う姿勢としてなってなかったか、と身を起こす。テーブルの斜め奥に佇んだまま触れられる気配のないテレビは、すっかり黙りを決め込んでいて、しん、と静まった部屋の中には麺を啜る音だけが響き渡る…と思いきや、睦月が早々に口を開く。
「瑞樹、東部での暮らしはどう?」内容自体は雑談以外の何物でもなかった。
「悪くない」
「従兄弟のお兄さんとの暮らしで困ったこととかない?」
どうでもいいことだけれども、以前、子どもとの会話では、子どもが「うん」と「いいえ」以外の返事が出来るような質問の仕方を親は心掛けるべきであると新聞か何かに書いてあったような気がする。
「若干煙たいかな」
「瑞樹が無口だから向こうも四苦八苦してるのかもね」
自分から話を振っておきながら、睦月の返答は実に淡白である。彼のことだ、心から今の瑞樹の暮らしを心配してというよりは、とりあえずまあ近況報告くらい聞いておくかな程度の気持ちで聞いたに違いない。つくづく善意と無関心の境界線が曖昧な輩である。
うどんをつるりと咀嚼する。
「睦月は?」
「何が?」
「耳なし慣れた?」
睦月にはあのとき以来左耳がない。
「未だにあんまり気分はよくないけど、慣れたよ」
ふとしたときに触ると髪とごわついた肌の感触があるんだもの、と彼は言う。
ちなみに高等部での約半年分の記憶を失っている彼には、耳のことは交通事故で、と説明してある。一体全体、どうしたら交通事故で器用に耳が削げるのか甚だ疑問だけれど、当時は睦月もぼんやりしていたのか、そうなんだ、の一言で片付いた。多分事故の起こし方によっては記憶と耳が吹っ飛ぶこともあるのだ。サイドミラーが砕けて散らばったとか。
ただ、彼はそのとき特に激しく取り乱したりはせず、瑞樹にしてみればそれがやや気にかかる点ではあるのだけれど。瑞樹が感情をあまり表に出さないことで他人から人間味がないと言われるように、睦月も内心では彼なりに動揺していたのだろうか。
「ごちそうさまでした」
「おかわりいる?」
「明日伸び切ったのをいただくから良い。睦月は将来良い主夫になれそうだね」
「台所に入られるのを嫌がる女性も多いけど、貰い手あるかな」
「少なくとも僕はいらないけどね。まあ同居人としてなら考えなくもない」
偉そうな軽口を聞いてふんぞり返ってみせると、睦月は今日も平和だなあと言わんばかりに背を向けて食器を運び始める。飲み残されたけんちん汁の、平穏な匂い。出来ることならもう二度と、真面目な顔が必要な場面には立ち会いたくない。誰も彼も疲れるだけで何も良いことはなかった。
「瑞樹、お風呂沸かしてあるから入ってきていいよ」頭上から声が振る。
「皿洗いくらい、手伝うよ」
「良いから。着替えは僕ので良ければ出しておくから」
…もしかして睦月は台所に入られたくないのでは、ということに薄々気付かないでもなかったので、瑞樹は大人しく洗面所を目指した。到着するなり使えと言わんばかりに置いてあった箱入りの歯ブラシをお借りし、それが終わると潔くパーカーを脱ぎ捨てた。当然だが、腕には傷一つない。あのときのことは、瑞樹には記憶しか残されていない。二人が見事に記憶を投げ捨てたにも関わらず、自分だけは覚えている。
「瑞樹、まだいる?」扉越しに睦月の声。
「いるけど、女の子じゃないんだから別に開けていいよ」
「ああごめん。いきなり友人が真っ裸でいても心臓に悪いなあと思ってね」
「まあね」
「洗濯機の上のかごの中にさ、多分未使用のタオルがあると思うんだ。身体洗う時はそれつかってよ」
「わかった」
…それが、どうした、というわけでもないけれど。



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