14.冷笑













「だれだおまえ、」
硯に滴る墨汁のように真っ黒い髪。
半袖半ズボンから伸びる手足は、伐採されてそこいらに転がっている木の枝のように細い。
振り向いた顔も普段遊んでいる友達の顔とは随分違っていた。彼らをじゃがいもに例えるならば、この知らぬ顔は既に料理として完成してしまっていたのだ。
「この辺じゃ見な…」い顔だな。
「いや、おまえこそだれだよ」
遮られた。人の話は最後まで聞けってかーちゃんに教わらなかったのか。
「…おれは、…あらた。北浦新だよ」
「じゃあぼくはハルノミズキだ」
じゃあ、って何だよ。ミズキは怠惰そうな微笑を浮かべ、
「なあ、あらた。このへん案内してくれないか、暇なんだ」
手を引いた。

つくつくてんてんぽこぽんぽん。
この日はちょうど夏祭りの催しがあって、しばらく歩くと祭りの喧噪にぶつかった。
規模自体はそれほど大きいものではないが、この町は他にイベントらしきイベントがないので住民たちはぞろぞろと集まる。
「どうしようかな…」
祭りには友達も来ているだろう。そもそも、今日は友達と祭りに行こうという約束をしていたのだ。それをこのミズキにとっ捕まって…見知らぬ土地に一人きりでは心細かろうという気持ちもあって…今に至るわけだが、何だかあまりミズキを彼らの前に晒したくなかった。彼らは自分たちの仲間以外の人間にはまず良い顔をしないどころか、どうにかして貶してやろうと無遠慮に眺め回すのだ。逆に身内にはとても優しく、新自身も良くしてもらっているひとりではあるのだが。よそ者のミズキはまず格好のネタだろう。そしてミズキを連れている自分も後で冷やかされたり、突つかれたりするのだ。けれど断りの電話をかけてもお家の人には既に出て行ったと言われるばかりで、直接言わない限り、約束をほっぽり出したことになってしまう。ああそうだ、結局祭りには参加出来ないのだ、上手く断れてもはちあわせたら居心地が悪いから。
「あらた、どうしたの」愛想はないながらも気遣わしげなミズキの声。
「よおー、新じゃん!」聞き覚えのある友達の声。最悪。
友達は既に全員揃っていて、綿飴を片手に祭りをえんじょいしていた。今日は家の事情で多少遅れるとは言ってあったからそのこと自体は何の問題もないけれど、彼らの視線はすぐ新の横に移った。その顔には束の間劣等感じみた感情が浮かび。ああいやだなと思った。
「だれ?こいつ。新の友達?」
「あんまり新のダチって感じじゃないよな」
好き勝手なことを言い散らかす。仲間意識が強いというべきなのか、よその人間に対してはすぐこうなる。恥ずかしかった。恐る恐るミズキを見ると、彼は醒めた眼と口調で小さく舌打ちしていた。「どいつもこいつも」。え、なにもしかしてさっきのおれのこと?
ミズキはくるりとこちらを向いた。
「こいつら、あらたの知り合いなの?」
ぴしり、と友達の表情にヒビが入る。多分彼らにとっては初対面のよそもの(自分たち以下の存在)にこいつと称されることは堪え難いことだろう。それこそ自分たちのことは棚に上げて。だけれどあまり刺激されると立場がなくなるのでやめてほしい。友達は甲高く笑った。ほら、子どもの声って甲高いから。
「そうそう俺たちは新のご学友ってやつ。アハハ」
「だけど新ってば最近妙に冷たいなあなんて思ってたけど、何だよ新しいお友達が出来たのかよ。妬けちゃうなあ」
目が笑っていない。そうなのだ、少しでも刺激すると勝手に興奮するので手に負えないのだ。なんでそんなにテンション高いんだろう。

明日はきっとたくさんの弁明が求められるだろう。そう思うと気が重くて、近所の神社の石の上に座り込んで溜め息をついていた。
大きな鈴をからんからん鳴らし満足げなミズキは振り返り様、ふんと鼻を鳴らした。
「あらた、あんなのと付き合ってて疲れないの?」
「え?」
「だってあらた、あんなにはっちゃけてないでしょ」
「…はっちゃけてないって…」
反射的に笑おうして、そういえば笑う理由なんてないことに気がついた。翡翠色の眼差しがこちらをじっと見つめている。初対面のくせに、なんでそんな知ったような口を利くんだよ。痛いところを突かれて胸に空洞が出来る。そこからさらさらとした苦みが零れ落ちていく。
「まあ、ぼくには関係のないことだけど」
「ミズキ」
「あらたは、あらたの好きなようにしたらいい」
人の感情抉っておいて、素知らぬ顔で突き放すミズキが少し恨めしい。所詮他人事だと思って好き勝手言いやがって。好きなようにしたらと言われてもどうしたらいいのかなんて分からない。人と付き合っていくには多少の我慢が必要で、それは誰でも多かれ少なかれ実践していることではないのか。そうして周囲に合わせることを放棄した奴がひとりで浮くのだ。その姿はとても寂しく可哀想に見えて、そんなふうにはなりたくなくて、新は多少の我慢をして彼らと一緒にいる。これはミズキの言う”好きなようにしている”とはまた違うのだろうか。


そんな彼らとも中等部への繰り上げを機に接点がなくなった。
たまにすれ違っても彼らは新の存在など目に入らぬかのように笑い通り過ぎて行く。特に自分は輪の中心に居たわけでもないので、それほど不思議ではなかったけれど、何だか寂しく思えた。ひとりでいると寂しいから誰かと一緒にいたのに、結局は第三者の目にどう映るかの違いだけで、心理的には何ら大差なかったのだ。それでも、ひとりでいるクラスメートを見るとやはり可笑しな、コミュニケーションも満足にとれぬ何処か欠陥のある人間のように思えてしまって、適当に誰彼かまわず声を掛けた。そしたら社交的な人間のように思われた。悪い気分ではなかった。特定のグループに所属しなくとも常に誰かとともに居られた。班分けなどがあっても、みな温かく迎え入れてくれる。だけれど学年が上がり、彼が転入してきて状況は変わった。
彼とはそう、ハルノミズキだ。
名前を聞かずとも顔を一目見ただけで分かった。だけれども、彼はこちらを一瞥しただけで何も言わなかった。何気なく落とした生徒手帳を拾ってみる。晴野瑞樹。「ああ、どうも」。彼は新を覚えていなかった。
確かに、一夏の出会いと言われればそれまでだけれども、とんでもなく苛ついた。なんでだろう。
そして彼はその綺麗な忘れ方にふさわしく、ひとりだった。転入生のくせに進んで友達を作ろうとするわけでもない。ひとりを満喫するかのように気侭にのんびり過ごしていた。あの夏、新に声を掛けて来たのが奇跡とも思えるくらいの一匹狼っぷりであった。とてもではないが、理解出来なかった。彼は異質な存在だった。どうして平気でいられる?周囲の好奇や…羨望の視線も、彼は気にしてはいないようだった。
覚えられていないことに加えて、その事実が胸に鋭い痛みを刺した。笑って曖昧にしていた細い針が心臓を突つき回るような痛みとはまた違う、強烈な重いひと突き。”誰かに認められなければ生きている価値がないと思っていた”。…途端に瑞樹が妬ましくなった。そして、”どうせ瑞樹は自己中心的でお高く止まっていることが好きなんだ”と思い込もうとした。ひとりで有ることは間違っていて、誰かと繋がっていることが唯一にして必ず正しいことなのだと信じたかった。
だからこそ、自由に生きている彼が許せなくて、声を掛けた。そしたら過去の自分が嫌悪していたような偏見に塗れた人間が其処にいて、自分が随分と矮小な人間に成り果てていたことに気付かされた。










「来るなら来るって前もって言ってくれないとさ、部屋の中だってこんなにきたないし」
抑揚のない瑞樹の声。一歩踏み出すごとに、彼の靴下が床に散在する赤色を吸い上げていく。
「退屈だったろ?…サクタロウさんは寝転がったまま動かないし、マチコさんときたら首がなくてまともに歩けやしないんだから」
その視線は一階の廊下を彷徨い、階段を伝い上り、足下を掠め…腕の先を捉える。
天使の輪は血で穢れている。意識のない人間は重たいと言うけれど、動いていたときと大した差はない。
瑞樹は綺麗に唇を歪めた。感情の起伏の少ない彼らしからぬ表情だと思った。
「でも睦月が来たからそんなこともなかった?」
彼は脅威するに値しない。ESPとはいえ、超人の如き攻撃力を持っているわけではない。再生能力が過剰なただのヒトだ。肉体的な数値が極端に劣っているわけではない。だのにその声色に身体は身震いした。弱い自己が怯えている。彼に見損なわれたくない、厭われたくないと縮こまっている。もう必要のない感情。
「寄越せよ」
一寸の迷いもなく伸ばされた指先は、ともだちだった睦月の襟首を乱暴に掴んだ。そして引き摺るように手繰り寄せ。











あの日の記憶をまざまざと呼び起こす祭り囃子がきこえる。
人々の熱気が溢れ返る雑踏。服の袖から生える剥き出しの腕がぶつかり合うたびに残される、赤の他人の温もり。人肌。気分が悪くなる。神経質過ぎる、と俯きかけて、誰かの視線が眼と眼の間、額の辺りを突き刺した。つられるように顔を上げれば、不躾な眼差しが其処にはあった。遠慮というものを知らぬ、硬質な視線。彼は、じろじろ眺め回すかのように視線の先を動かすでもなく、じっとその一点を、新の顔を見つめていた。やがて口を開いて、
「祭りはやさぐれた少年が来るところじゃないよ」
「喧嘩売ってんのか?」
「売られる心当たりでもあるんだ?へええ、…知らなかったなあ」
白々しいことこの上ない口調と能面のような…それは意図せずとも整い過ぎている…面持ちで、彼は新と対峙した。何故か。彼が其処にいるというだけで、それまで広がっていた風景が、全てが、彼中心に回り出すような錯覚に囚われる。妬みにも似た苛立ちが顔を出しかける。だけれど、ぽんぽこぽんぽこ鳴り響く太鼓と笛の音を背に、ひそやかに浮き立つ心もあった。彼が覚えていなかろうと自分たちは再び此処で顔を会わせ、…彼の減らず口もあのときから変わらず。ひとりでいる彼が、自分を見つけた。
「なににやにやしてんの、気持ち悪いな」
「うるせえな、一発殴られたいのか」
「不良はすぐに暴力に訴えるんだよなあ」
以前人の脛を蹴飛ばした人間が澄ました顔をして言えた義理か。そう言い返そうとして、彼の視線がふらりと移った。
「あ、りんご飴」
なんだって?
「おい、にやにや顔は見なかったことにしてやるから奢ってよ」
「はあ?…じ、自分の金で買えば良いだろ」
吃ってしまったことで彼の勢いに一時的にとはいえ負けてしまったように思えて、耳が熱くなった。彼は自分を脅かす。価値観を揺るがす、踏みにじろうとする。憐れむべきひとりぼっちの彼の方が強いのか、集団にすがる自分が弱いのか。ただただそんな彼が疎ましくて妬ましくて仕方がなくて、自分が正しいと証明したくて声を掛けてへし折ろうとして、ならばどうして妬ましいのかと問う自分に知らぬ振りをしようとして出来なかった。
「そう?…新のくせに生意気だな」
僅かに瑞樹は口の端をつりあげて、屋台でりんご飴を一つ買った。誰を気にするでもない自分のための行動。













そう、自分は彼のようになりたかったのだ(そしてなれないと分かっていたからこそ)。














「どうして変わった?」
瑞樹の問いは愚問だ。だって好きにしたらいいと言ったのはお前だろう。
それに変わっただって?変われなかったんだよ、だからこうしたんだよ。
気を遣うのは疲れたんだ。だからせめて、










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