15.吐息
べったりと血塗れた平べったい胸と薄っぺらいTシャツ。
なんて有様だ。平凡を絵に描いたような野郎だったのに、目の前の彼ときたら素朴な日常、己を何処かに投げ捨ててきてしまったかのよう。彼の内心の葛藤なんて知る由もないけれど、さすがに今回ばかりは見なかった振りも出来やしない。
「失望させるなって言ったろ」それも相当、一方的にではあるけれど。聞かなかった?ふざけるなと言ってやりたい。
見下ろした腕の中には気味が悪くなるくらい大人しい睦月。余計な忠告ばかり喋り散らすくらいが丁度良いのに勝手に黙ってくれるなよ。身体は何ら怪我をしたり汚れたりはしていないのに、顔半分だけが血液を浴びている。やたらさらさらな髪を指で梳かして撫で上げてやればそれもそうか左耳がちぎれている。新が先程口をもごもごさせていたのはそういうわけらしい。彼はすっかり片付いたらしい口内をちらちらと覗かせながら、ちっとも可笑しくなさそうに笑んだ。
「ああ…何の冗談かと思ったぐらいだ」
「…結構本気で言ったつもりだったんだけどな」らしくもなく。
「だったら頭の回線でも違ったのか?好きにしたらいいと言ったのは…、そもそもお前が俺に何の期待をしてたって?」
……こうして、新に言葉の刃を突きつけられたのは随分と久しいことのように思えた。
最近の彼はひどく大人しくて…そういつからだったか彼は大人しかった…戯れ合いの甘噛み程度のことはしても、牙を剥いて敵意を剥き出しにするという態度はしなくなっていた。その所為だろう、彼の自暴自棄な言葉に不意を突かれたような気分になったのは。
「なんの期待って、」
そして目の前の彼は別の何かではない、新という人間として其処に居た。彼は彼の意思で食っていた。口の端についた食べこぼしも顔色ひとつ変えずに拭い取る。それを…違う、既に別人格に乗っ取られてしまった後だからなのだと、これまでのように切り捨てられないのは、人を食らった新も新であることには変わりはないということに気付かされてしまったからだろうか。
でなければ何故、新以外の誰に…先程のような言葉が吐けたろう。過去において、瑞樹は彼にその内容の一部を告げた覚えがあった。周囲に併合することで、自分を守ろうする子どもであった彼に。深い意味があったわけではない。ただ息苦しそうな生き方だと思っただけのことで。
「どうせお前は俺のことなんて眼中になかったろう。それが、自分に迷惑がかかる段階になって、見てみぬ振りも出来なくなって。失望させるな?勝手だよなあ、お前はいつだって」
押し殺した呼吸を吐き出すような、それでいて絡むような声音に潜む憤り。日常という惰性を前に、じりじりと燻っては足裏で踏み消されてきたであろう昏い炎が、火の粉となって降り注ぐかのような。その胸をぐずぐずと焼かれんばかりの感覚に、しばし瑞樹は唖然とした。かれはなにをいっているのか。…やがて理解と感情が追いつく。
「お前こそ何を勝手なことをべらべらと」
煽られて昂る感情とは裏腹に…”新”とこうして真面目に向き合ったことがかつてあったかと自問する声もあった。
「無駄に喋り散らすんだって?確かにこんなこと、くだらないことかもしれない。くだらなさ過ぎて、俺自身…うんざりしているくらいだ」
「…あらた、」答えは、否だった。
彼の臆病さに気付きながらも、自分たちのしょうもない間柄を楽観視し、彼に悩み憂うことが有るだなんて想像すらしなかった。何故なら彼は瑞樹にとって、好奇や害しか吐き出さぬ他の連中とは異なる、唯一妙な色のついていない普通の存在だったからである。それ故安心しきっていて、興味もなかった。『眼中になかった』?彼の言葉に焼けるような痛みを覚えるのは、それが本当のこと、だからなのか。
「うんざりなんだよ、もうお前に振り回されるのは」
…乱暴な言葉とは裏腹の顔と放り出すような口調。何か言わなくてはいけないと分かっているのに、言葉が見つからない。
ぶつりと唐突な静寂が落ちる。
俯いた彼の髪には乾いた血が絵の具のように張り付いている。
ふと、どうして自分と新がこんな似つかわしくない場所に居るのだろうと思ってしまえる程度の冷えた沈黙が広がった。
いい加減、帰ろうよとこの際抱きかかえたままの睦月でも良い揺さぶりたくなって、点々と見慣れた床板に染み込んだ血の色にしまったここが僕の家だったと我に返って、正直らしくなく泣きそうになったりして、それからああ膨れ上がる感情があった。
唇が音を作る。
「…勝手に…人の気持ち決めつけんな、このくそやろう」
吐き出してしまえばそれは何とも分かりやすい反発の、怒りの感情だった。滑稽なまでに悲痛で嘆かわしい現状と新に対する。
「眼中になかったわけじゃない。僕は新が好きなようにしているならそれでいいと思っていたんだ」
…そういえばこいつはあの”あらた”か?と気付いたのは教室で喧嘩を売られてからしばらく経った祭りの日のことで、とすると何だか印象が違うけれど、やたら周囲に合わせていたあの頃よりはずっと良いかと安堵した。毒気の足りなかった彼が多少毒気を得ても、彼なりに好きにしているのならと。
初めて出くわした日には、余所者である自分に何だかんだで付き合ったり。再会後、荒れて突っかかって来るにしても、他の連中とは違ってちゃんとひとりで来たり、それで瑞樹としてもなんとなくこいつはまともな奴だなあと思ったりして。
だからこそ、
「大丈夫だろうと、思ってた」
人としての、最低限の良心くらい持ち合わせていると。信じていたのだ、今思えば馬鹿みたいな単純さで。
言い切ってしまえば、膨れ上がっていたはずの感情がしゅううと腑抜けた音をたてて萎んだ。なんだこれ、なんだこれと思考だけが喚いている。思ってた、って過去形じゃないか、大丈夫だって断言してやりたいのに。どうしてこんな言い方をしないといけないんだ。新の馬鹿。ちくしょう。
「新、まだ戻れる。戻ろう、新」
睦月の身体をゆっくりと壁に寄りかからせてから、手を差し伸べる。まだお互い、話すことで分かり合おうする意思があるのだ。それに今回のことで誤解は解けた、きっと、これからはもっと率直な関係を築くことが出来るだろう。だから、頼むから、この手を取れ。
…三百六十度、どこを見回しても視界に映る血の海。…それでも、もう無理だなんて認めたくはなかった。
「…なあ、瑞樹」
…差し出された手はそのままに、新は憑き物が落ちたかのような薄い声で瑞樹の名を呼んだ。喉が震えて、吐息混じりに聞き返す。
「…なに?…」
「俺はお前みたいになりたかったんだ。周囲に流されない強さを持った奴に。
だけどなれなかった…俺はお前に必要とされたかったんだよ」
必要とされたいと思った時点で、もうお前の存在に依存してるんだもんな、本末転倒だよ。
新は微笑し、柔らかく瑞樹の手を押さえ、下ろさせた。その右手は血に塗れてはおらず、見慣れた彼の手そのものだった。
「だけどお前は俺がいなくても多分平気で、ならせめて俺はお前を脅かせるくらいにどうしようもない存在になろうとして」
「…僕がいつ、新がいなくても平気だと言ったよ…」…いてくれて有難うとも、言ったことはないけれど。
「衝動を受け入れた」指に力がこもる。
「…新?」
気付けば、鼻と鼻とがぶつかりそうな距離に彼の微笑む顔があった。彼は右手で瑞樹の手を押さえたまま、
「俺は少しは…お前の特別になれたのかな」
前のめりにゆらめいた。
咄嗟に何が起きたのか分からず、とにかく崩れ落ちる新の身体を支えようとして腕を伸ばして、しかし支えきれず抱きかかえて膝をついた。なんで新一人くらい受け止めきれないんだと力の抜けた腕を見たら、撃ち抜かれたかのように穴が開き鮮血が噴き出していた…新の脇腹に開いているのと同じ穴。
「っ………!」
視認と同時に激痛がやってきて、だがしかし顔を顰めるよりも、いつのまにか背後に立っていた友人がたったいま仕出かした行為に眼を剥いた。
「むつ…!」
「新はこれでも十分持ち堪えた方だと思うよ。いい加減解放してあげるべきだ」
持ち堪えた?解放?なんで撃った……突如として湧き上がる疑問や疑念から生ずる混乱…戸惑い…憤りに、衣服へと染み込む新の血の感覚が拍車をかける。煙を上げる銃口と青白い顔の睦月と。ぶるぶるぶるぶると魚が瑞樹の感情に共鳴するように震えながら肌の下をすり抜ける。なんで。
いっそ睦月を殴ってしまいたかった。けれど瑞樹はまだ新を抱きかかえたままだった。
「あらた?…」
彼はずるりと動いた。瑞樹の腕にしがみつき、這い上がるようにして顔を上げる。
そして何の躊躇もなく、銃弾の貫通した腕に喰らいついた。さける。
心臓が鳴った。
「死にかけても自分を取り戻せないほど、彼は君の血肉に焦がれているんだよ」
睦月の声。彼は微塵の動揺も窺わせぬ冷静さで、自分たちを見下ろしている。泰然自若としている…といえば聞こえはいいが、人間的な情緒が欠落しているようにも見えて、多分周囲の人間は日頃自分を同じように感じているのだろうと思った。…得体の知れぬ、いやなものだった。もしかしたら、新も自分をそんなふうに見ていたのかもしれない。強さ?そんな、上等な生き物などではないのに。
「……かつて、姉さんを食らった僕のように」
筋の切れる音を聞きながら、彼を見上げた。彼は銃…サクタロウさんが棚に飾っていた猟銃だ…を下ろし、ぬるりと腰を下ろした。床を滑らせる血がもはや誰のものなのかも分からない。思い返したくもなかった。いつのまにか身動きひとつしなくなった新の身体を抱きかかえたまま、やり場のない感情をせめて睦月にぶつけようとした。
「睦月」
「…」
「返事くらいしろばか、死んでるのかと思うだろ…」
「左耳がないからきこえない」
残った右耳できけ、ばかたれ。そうだ、救急車を呼ばないと。しかし誰の為に。もう誰が呼吸をしているのかもわからないのに。
…右手で彼の肩を揺する。
「睦月」
「…」
「僕は腕が使い物にならないんだ、睦月が電話してよ」
「…」
「……睦月?」
大人しい彼は気味が悪い。
「ねえ、眞智子の家に寄っていきたいわ。せっかく、すぐ近くまで来ているんですもの」
「いきなり訪ねても迷惑…」
「大丈夫よ。私たちほど仲の良い姉妹なんてそうそういないし、その証拠に私も朔太朗さんのこと好きだわ」
すらりとした長身の青年は車椅子の押し手を握ったまま、溜め息をついた。
「…分かりましたよ、まったく…言い出したら聞かないんだからなこの人は」
「お母さんに向かってこの人なんて言わないの」
この人ことつい先程瑞樹に素気無い態度を取られたユミさんは、軽やかな春風の如き笑い声を漏らしながら青年の頬を軽く摘むと。
「眞智子いまごろ何しているのかしら。多分とてもすばらしいことよ」
「洗濯とか?」
「もう、そんなの全然楽しくないわ。ほら、彼女の家から懐かしい匂いがしてくるでしょう」
ーーでも覚えてないかしらね、あなたを産み落としたときと同じような匂いだもの。
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