13.失命













彼女は死んだ、けれど。



伏せられた写真立ての下では、当時臨月を迎えた彼女が幼き子どもとともに微笑んでいる。
捨てるのは忍びなくて、しかし見ていると何か忌々しいことを思い出してしまいそうで、積もる埃を時折取り除けてはその面影から目を反らす。
『つばき』
何度も繰り返し呼ばれた名前が、戒めの如き息苦しさを催す。彼女は実に様々な感情を込めてその名を呼んだ。慈悲、慰め、柔らかな怒り。そして自分の腹を痛めずに生まれた子どもに対するもの。もしかしたらそれは、『そうであったに違いない』と自分が思い込んでいるだけのことかもしれない。呼んだ彼女ではない、呼ばれた自分が彼女に対し澱んだ感情を抱いていたがゆえに生じた錯覚。しかしそれが錯覚に過ぎなかったという保証もまた、何処にもなかった。不確かなる幻影。真正面から直視することを恐れた結果。
胸を圧迫する感覚につられるように胃が唸る。呼吸の感覚が徐々に短く引き攣るようなものになる。良くない傾向だ…彼女のことを思い出すと気分が悪くなる。

つばきつばきつばきつばき、つばき、椿、…椿

声が混じってすり替わる。
別の誰か。矢鱈に人の名前を呼んでは無駄口ばかり好む青年の声。
軽薄なくらい爽やかで、嘲るような笑みを零したかと思えば、柔らかく宥め諭すような口調で下手に出る。つかみ所がなく接し難い、両極端な性質を持った男。嫌いではないがどうも苦手だ。どことなく、過剰で演技がかっているような気がするのだ。彼の微笑んでいる表情が脳裏を過る。
……唐突に浮き出る記憶。胃の中のものが逆流しそうな喜劇的な記憶。…あのときの男もまた、柚谷と同じようなことを言っていた。夢か現か、束の間時間を共有した男…幼かった自分には大人と同じように見えたが、おそらく今では少年と称しても差し支えない…は父に粛正されたと聞いているが。あのとき以来、父は自分に対してその話題に触れたことがない。無論、年齢的に彼と柚谷が同一の人間であることは有り得ないが、雰囲気には多少共通したところがあるように思える。…作り物めいた、人畜無害とは言い難いところが。

「坊ちゃん」
ノックとともに聞こえてきた淑恵の声で現実に引き戻される。

胸を押さえ、動悸を落ち着かせるために深呼吸する。胸苦しさを現実の下敷きにし、意識の力で腕を伸ばしドアを引き開ける。
「旦那様がお呼びですよ」
「わかった、すぐ行く」
軟弱だ、どうしようもないくらいに。この歳にもなって幼少時の記憶に翻弄されるだなんて精神が未成熟としか思えない。…それで実際、未成熟なのだから嫌になる。もっと隙のない立ち振る舞いが出来るくらいでないとならないのに、一昨日は柚谷相手に声を荒げてしまったりと子どもじみた行いも目立つ。子どもじみたも何も成人前だと言われればそれまでだが、自分の人間としての小ささには時折うんざりしてしまう。余裕がなさ過ぎる。そもそもこんなことを考えている時点で十分あれだが。
「お呼びですか」
階下に降りて、仁王立ちしている父の前で立ち止まる。一体全体何の用なのだろう。
「こっちに来るんだ」
彼はそう言うなり大股な足取りで厨房へと入って行く。如何せんあまり良い予感はしなかったが…目的が分からない以上、拒否することもままならない。大人しく従い着いて行きはしたものの、厨房に近づくにつれて…何か特有の匂いが鼻腔を刺激した。通常の生活においてまず嗅ぐことのないような匂い。噎せ返ったりする部類ではない、けれど堪え難いようなよくわからない。嗅いでいたくはない。
「!…」
足を踏み入れて、感覚が猛烈な勢いで硬化するのを感じた。一種の防衛本能ともいえるかもしれない。
まな板の上には人間の腕が乗っていた。その横には、まだ繋がっている胴体も。
率直に気分がわるかった。だが、しかし、そうだ、分かってはいた。匂いを嗅いだ瞬間からこうしたものがあることはなんとなくいやだけれど予想がついていた。
「今日はひとつ、お前にこれの捌き方を教えてやろうと思ってな」
何が思ってな、だこのくそ親父と内心罵るけれど口に出すには至らない。己の精神力が脆弱であることはこれ以上述べる必要もないことだが、現状においては全身が強張ってしまっている。動かすことは容易いが、どこか自分の身体でないような感覚とでも言えば良いのだろうか。ただ、おぞましかった。父も目の前の肉も、この場の空気さえも。
「なんのために」発する声音すら他人のもののように聞こえる。
「綺麗なところだけ知っていても商売は続かないからだ」
「…知識として知っているだけでは駄目なのですか」
「彼らの苦労を知った上でこそ本当の取引が出来るとは思わんかね」
きれいごとだそれこそきれいごとだ。彼ら?誰のことだ。柚谷のことか。先日土産と称して持って来られた為肉ギフトを思い出す。柚谷は成育だけでなく屠殺も業務として扱っているのだろう。

『椿は見たくないものから目を反らすのが上手だな』

別の意味で吐かれた言葉が突如として頭の中に降ってくる。続けざま、為を捌かんとする柚谷の後ろ姿が目に浮かび、彼の存在が急激に遠ざっていくかの如き喪失感に見舞われる。別に元々近くに居たわけでもそれほど親しかったわけでもないけれど。一昨日なんて迷惑にもこちらの縄張りに入ろうとまでしていたけれど。実のところ全く以て互いを知らぬ他人のままで。如実に膨らむ不安感。
視野に映る包丁。この途方もない距離感を受け入れたくなければこれを手に取れと目の前の男は言っているのか?
…確かに為肉を商売にしているなら、このくらいの経験はしておくべきなのだろう。
頭は突きつけられた現実を冷静に懸命に処理しようとしている。生命の尊さを直視することなく売買するだなんてまず冒涜に値する。目を反らしていると言われても仕方がないだろう。ならば。断ってしまいさえすれば、物と同じだ。物として看做せば既に目を背けているも同然と言われてもこれ以上の妥協は。父の声が耳に入る。
「これは見本として私が調理してやろう」
何を言っているのか理解するのもおざなりだ。まな板の上に乗っていた腕を父がいじっているのが見える。取り除かれた骨。油が痛い。揚げているのか。差し出された。食べろとでもいうのか。拒否したが、親としてここだけは譲れぬとでも言うつもりか口の中に捩じ込まれた。
「む、ぐっ」
口を手で塞がれて呼吸が苦しい。目の前で捌かれた人肉なんて飲み込めると思っているのだろうかこの男は。しかし飲み込まなければこの機に生じて首をへし折られそうな恐怖を感じるのは杞憂ではあるまい。男は爛々と輝く目をしている。最悪手を突っ込まれて無理矢理喉を通過させられるかもしれない。…そうして結局は自分の意思で、ごりごりと喉が悲鳴を上げるのを聞きながら人肉…為肉…食用の肉…を胃袋に落とし込んだ。今すぐ吐きもどしたい。胃が、蠢いて拒絶している。だけれど目の前に立つ男の眼差しが吐きもどすにあたって通過するであろう喉を萎縮させる。
…こんなにもこの男の狂気じみた欲望を身近に感じたことがかつてあっただろうか。それほどまでに、日頃接する機会は限られていたし、現状は異常だった。
「飲み込んだな」
強烈な嫌悪感に胃が逆流しそうになるも、うなずいた。
「ならば次はこちら側の腕を私がしたように捌いてみるといい」
ぶつりと落とされた腕がまな板に置かれる。なんて馬鹿なことを。臭う。肉なのか何なのか分からないがにおう。そしてなんて貧弱な腕だろう。身体も小さい。子どもの為か?こども…。頭部がなくてわからない。だれだこれはだれだ。
「…こ、の為の頭は?…]
「頭部は最後にと思ってとってある。見たいのか」
見たくはない。だが見ないととても落ち着かない。だってこれはこどもの為だ。こどもの。
父はのっそり腰を浮かせ、頭部をずるりと引き寄せる。重たげに父の手にぶら下がったそれは、髪の毛が湿って額があらわになっている。
開けられたままの目と目が合った。


強烈な悪寒が全身を駆け巡った。


もはや意識などあってないようなもので、壁にもたれ掛かるようにやがては這い蹲るように裏庭へと逃れた。ただ父にあの場に連れ戻されたならば頭がいかれると意思でない本能じみたものが働いて、裏庭から更に家の外へと身体を動かした。胃が震えて喉を迫り上げる苦みばしった胃液と固形物と。喉がひゅぅひゅぅと正常の域を逸した呼吸音を繰り返す。うずくまって頭を抱えているとようやく意識らしいものが戻ってきて、叫び出しそうになる。ひどい悪寒が全身に充満したまま、抜けていかない。
「うぅ、ぁあ」
声にならない呻きを漏らし、塀に手をつく。いつまでも此処にいるだけでは何も、どうにもならない。取り留めのない思考を懸命にかき集めて通りすがりのタクシーを止める。衣服に吐瀉物…がついていなくてよかった、逃げられてはたまったものではない。顔色の悪さはこの際見逃してもらうしかない。
「お客さんどちらまで?」
「ユエっていう牧場みたいなところ分かります?」第三者を前に習慣という名の無意識が日常を繕う。
「ああ、分かりますよ。そこまで行けばいいんですね?」
うなずく。硬い座席に寄りかかり、押し殺した息を吐く。何もかんがえたくない。だが兎角柚谷のところには行かなくては。せめてそれまで休めればと、目を閉じる。束の間の安息。これが夢なら、ただの悪夢ならどれだけよかったことか。袖で汚れているであろう口を拭う。あっという間に見えてきたユエを前にし嫌な現実が再びにじり寄る。なんだってこんなに近いんだ。せめて二十分くらい休ませてほしい。だけれど本当に完全なる逃避行動がしたければ自分は此処には来なかったろう。弱った精神を更に痛めつけるだけのことが待っていることを考慮したところで、考慮できてしまえるだけまだ余力があるということなのか。違う、これは”ついで”だろう。どちらかと言えば毒を食らわばの心理だ。しかし心の奥底では柚谷が父とは異なり正常な人間であることを期待していた。あの子どもを選んだのは父であって柚谷ではない。不可抗力だった、と。
慣れた通路を行き、階段を上る。殺風景な景色。呼ぶ声はない。そこには空の牢があるだけだった。分かってはいても、心臓は鈍く軋み。其処に居た人物に話しかける声音も掠れていた。
「柚谷…」
一昨日会ったはずなのに、久しく感じるのは何故か。顔を上げた彼は、やたら青空のように澄んだ眼差しに不鮮明な輝きをたたえている。
「柚谷、お前、あの子どもは、」
「あの子どものことでしたら、あなたのお父上がご存知かと思いますよ」
「お前の口からの説明が聞きたい」
作業服姿の柚谷は…妙に白さの目につく壁を背に手にはホースのような見慣れぬ機器を握りしめていた。話が手短に済みそうにないと感じ取ったのか、コックを閉めつつ。
「一昨日の夜、椿さんの父上様からお電話がありましてね。聞けば捌くのに適材の為をお探しとのことでしたので」
「適材、と言ったのか、父は」
「ほぼ同義のことをおっしゃっていました。私はc06885なら問題はないと判断したんですがね。あなたも可愛がっていたことだし」
「どうして、」
相も変わらず柚谷は椿の話す倍以上の言葉を話した。だがその声音は聞き取りやすいながらもとても淡々としていて、彼のどんな感情も…無感動という状態を除いては…読み取ることは出来なかった。先日会話した際の胡散臭いほどに朗らかな話し振りが嘘であったかのように。
何故だ。いつものように嘲るような、又はやたら高揚した様子でいたならば、もっと声を荒げて怒ることも容易かったろうに。何故そんな無関心そうな顔をするのだろう。何故あの子どもをそんな記号めいた名称で呼ぶのだろう。何故、
「事前にひとこと言わなかったんだ、…」
出荷するとは聞いていたのだから、それ自体は仕方のないことだと受け入れられていたのに。そうして目の届かないところへ行くならまだしも、突然目の前に転がされて、挙げ句。…中途半端な残留感がこびり付く喉に、えぐい苦みを押し戻す。この中にあの子どもの体液がまだ混ざっているかもしれないと思うと。
「…俺があの肉と化した子どもを前に、情けなく取り乱せばいいとでも思ってたのか?」
「考え過ぎですよ。それでは私が椿さんに対し悪意を持っているかのように聞こえる」
「なら今回のことは善意からしたことだとでも言うつもりか?…それと、その話し方はやめろって前にも言ったろう」
自分たちの間にある隔たりを強調するかのようで、ただでさえ悪い気分がもっと悪くなる。
「善意と、そして好意からだと言ったら、さぞかし嫌な顔をなされるんでしょうね」
しかし柚谷はこちらの要望など聞かなかったかのように…そんな馴れ合いの記憶なんてもの、世間知らずの坊ちゃんが一方的に抱いているに過ぎないとでも言いたげに…肩を竦めてみせた。いつものように戯けているだけと楽観視出来るほどの確信も持てず…彼の妙に演技がかった態度はそういうことだったのかと…冷静に受け止めようとして、思わず顔が歪む。
…意外に、ショックが大きい。この男のことを信用していたわけでもないにも関わらず。
「…嘘だと思うなら読めばいい、ほら」
直接的に触れた方がという彼なりの配慮なのか、手首を掴まれた。以前のように、遮るドアも何もない。呆然としていた所為か反応が遅れた。

「う」

思考にざわざわざわざわと異物が流れ込み混濁する。ほかのにんげんにさばかせるよりはかれじしんのてにまかせたほうがいいだろう。”悪意の欠片もない純粋過ぎる”感情が脳細胞に染み込む。彼は、本気で今回の選択が正しかったと信じているのだ。己の正しさを疑わぬ、子どものような真っすぐさで。
「はな、せ」
振り切るように制御するも、ちぎれて残った感情がメリーゴーランドのように回転する。強烈な目眩に足下が歪む。
…これならまだ、悪意の方が良かった、のに、


「つばき?」


分かってしまったのは、自分は彼と理解し合いたかったのだ、ということだった。
そしてそれが、とてもむずかしい、ということも。
(自分たちは言葉に共通の意味を持たせられるのに、考え方が違い過ぎる)。
…きらいな人間ならば、どれほど理解出来ずとも悲しくなることはないけれど。


雫が頬を伝う感覚に、目を閉じすべてを遮断したかった。








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