12.聖域









損なわれた機能を補おう、修復しようとする働きは、It(それ)が生物である限り至って自然な働きである。
それを意識的に放棄することは出来ない。たとえその働きがいささか過剰なものであっても。

(新の馬鹿め)
袖の上から腕を擦る。忠実に元のかたちを形成した腕には擦り傷ひとつないのに、ちぎられた瞬間の痛みは脳に焼き付いて離れない。新を前にしていたときは痛みよりも憤りが上回っていたが、後から思い起こせばやはりあれは不条理に痛かったと癇癪を起こしそうになる。
「新の馬鹿め」
「あら瑞樹、そんなお友達のことを馬鹿だなんて」
「もうあいつには当分晴野家の門は跨がせんぞ」
「喧嘩でもしたのかしらね」
マチコさんはハンバーグの種を混ぜながらサクタロウさんに話を振る。一方、サクタロウさんは呑気にルーペで昆虫図鑑を眺めながら優しく「どうだろうねえ」と曖昧な返事。役得というか、人畜無害なサクタロウさんはそれでも非難されることはない。
「別に喧嘩なんてしちゃいない」
多分スクールで顔を会わせればまた何事もなかったかのように話すのだろう。いつぞや、彼が瑞樹の家を訪ねてきたときのように。剥き出しにされたはずの凶暴性は、往々にして一過性、若しくはこちらの一方的な錯覚であったと思わせるかの如き落差で。
放っておけるものなら放っておきたい。だけれど彼が万が一本質的な部分から乗っ取られるのを受け入れるようなことがあれば。
その可能性は想像された時点で確率的に低いものではなかった。十分に有り得ることだった。

そんな苛立ちを抱えたままぐうすか眠りについた翌朝。
目覚ましよりも早く意識を得た瑞樹は、昨晩余分に作られたハンバーグをいそいそと弁当に詰め込み、寝癖の跳ねる髪を押さえつけ、家を出た。ちなみに朝食はバナナを一本と牛乳一杯、納豆一パックである。彼はスクールへ一目散に向かわんとした。
…のだが。
「やあ。予定より一時間早いね」
門から一歩外へ踏み出すと同時に、細い人影が視野に映り。
自他ともに非ESPであると認める睦月が何食わぬ顔でそこに居た。彼は瑞樹に気付くなり、最低限に微笑してこちらに向き直った。
「もう静養は済んだの?」
「点滴なら昨日の朝には取れたよ。まあほかにも擦った揉んだはあったんだけど」
冷涼な空気を肩で切りながら、車がぎりぎり通れるほどの道を並んで歩く。これが一時間後の場合、空気は日差しに暖められて暑いとも寒いとも思わない程度になる。ただし夏になれば布団から抜け出すまでもなく汗が噴き出る。
「睦月は今日こそ新を病院に連れて行くつもりなの?」
「ああうん、今日授業が始まる前に捕まえるつもり」
「僕の家の前に居たように、新の家の前で待ち伏せしてればよかったろうに」
「そうも思ったんだけど、彼の家は学校さぼったりすることに関してうるさいみたいだから、ばれないようにしようと思ってね」
万が一見咎められて、病院に連れて行くんですと説明したところで、自分の子どもは病気じゃないとか主張されそうだし、と彼はごちる。あの獣じみた人格が親の前で出ていなければ、それは当然予想されうる主張、光景ではある。ましてや病気であることが事実だとしても、親の自分が気付いていないのに、よその人間が気付いたなんてこと、まず認めたくないに決まっている。瑞樹は肩を竦めた。
「めんどくさ」
「だけど自分の子どもは何処の親だって大事だろう。しょうがない」
「…」
…それを、言うのに睦月ほどふさわしくない人間もそうそういないのではないか、と瑞樹は思ったが口には出さないでおいた。
彼の横顔はその言葉の持つしらじらしさを十分承知した上で言っているように見えたからだ。
「そうそう、君のお義母さんは元気?」
「最近はエアロビクスにはまっているようだよ」
「何処か通ってるんだ?」
「いや、マチコさんはあれで変なところ出不精だから、家でビデオ観ながら」
喋りながらも、こんなしょうもない話をしていていいのだろうかと自問する。だけれど互いに漠然とした不安を抱えているのは、それから少しでも目を反らしていたいという気持ちがあるのは分かっていたので、会話を遮ることにも抵抗があった。
しかし不自然に穏やかな会話を繰り広げ続けるのも限界がある。その限界をどちらかともなく受け入れて、教室に着く頃には瑞樹は彼とまたしても向かい合っていた。
「いい加減不毛な話に終始するのはやめよう」
「まさか瑞樹からそんな建設的な提案を受けるとは思わなかったよ。彼はまだ来ていないみたいだね」
しかし世間話を不毛だと切り捨てるのはいかがなものかと思うよ…と睦月は清潔感溢るるワイシャツの襟を整えた。きっとネクタイをしていたならばそちらを優先していたであろう、適当な手付き。だって別に乱れてない。
「病院に連れて行ってどうにかなるものなの?」主語を削ったのはまたしても名無しに騒がれたら面倒だったからだ。
「それは僕にも甚だ疑問だが…何も手を打たないというわけにもいかないから」
「僕はアイツに病人のレッテルを貼りたくない」
…と、言ってから「え?」と思い口ごもる。いやいや語弊があるぞこれは。だけれど上手い言い方が思いつかない。
「ちがう、そうじゃなくて」
「うん」
「一度病人の判を押したら、全部あきらめてしまいそうで、あのばかが」
自分はそういう人間なんだと認めてしまいそうでいやなのだと、新は単細胞でやたら突っかかってくるくせに、変なところで弱気だから。人へのラブレター握りつぶしたくせに、ズル休みするのはいやだなんて思わず笑えてしまえるくらいアンバランスだ。本当に、極端なくせに意気地なしで短絡的でどうしようもない、
「そんな奴に人食いなんて出来るはずがない」
「瑞樹、まさかとは思うけど」
「なに」
「また会ったの?」
誰に。大事なところを省くんじゃないと内心彼の発言を突つきながら、瑞樹はさらりと肯定した。「会った」、と一言。
「あのばかは人の腕を容赦なく食いちぎらんとしたよ。ちょういたかった」
己の言葉に矛盾を感じる。あらたにひとくいなんてできるはずない、だからそう、あれは新ではないのだ。別の何かなのだ。あんな行為をすることが新の意思であるはずがない。…そう思わないとやってられない。だけれど、現実、新は容易にあれに乗っ取られる。新はあれの行為を止められない。止める意思がないのか、認識すらしていないのか。(ふざけるな)。本質的に変わらなければ良いだなんて前言撤回だ。せめて主導権くらい握っとけ、ばかたれ。昨日の潔いまでの変貌ぶりを見れば否応無しに思い知らされる。このままでは新は確実に、
「瑞樹、僕は今日はもう帰るよ」
睦月は相変わらずの醒めた声色で、しかし表情には三滴ほど焦燥を滲ませて教室の出入り口である引き戸の取っ手に指をかけた。
「新のところに行くなら僕も行く」
「…駄目だよ、瑞樹はただでさえ最近出席率怪しいんだから」
「棚からぼた餅…じゃなかった、自分のことを棚にあげて何を言うか」
「とにかく、」
身体ごと向き直った睦月は、厳しい眼差しで瑞樹を捉えた。その隙のない眼差しは、圧倒的な正論風を吹かせ、相手に有無を言わなくさせる常套手段である。専らアニメや漫画などでは足手まといになるにも関わらず、縋り付く女子に用いられることが多い。
「瑞樹は来なくていいから」
そしてこの駄目押しである。まさかの足手まとい宣言だが、睦月は食われたら再生しない分余計危ないのではないのか。そこまで咄嗟に考えて、これまで意図的に目を背けてきた空虚さが急激に膨れ上がる。…なんだってあのばかを”危険”と看做さなければならないのだろう?危険という呼称は排除すべき対象のためにあるのではなかったのか。新は排除すべき、抹消すべき有害な人間なのか。放ってはおけないほど危うい、(そうだけど、ちがう)
「睦月、待て…」
「晴野君、だね?」
廊下を駆けていく睦月を追おうとして不意に腕を掴まれた。振り向けば見知らぬ大人。この忙しいときに。
「君の親御さんが来ているよ、着いてきてくれるかな」
…よくよくその胸元の札を見れば此処の職員だ。しかし親御さん…マチコさんがいったい何をしに。今朝は弁当もちゃんと自分で詰めて忘れ物もしていないと思ったのだけれど。
さすがに保護者が来ていると言われた手前、逃亡するわけにもいかない。兎角手短に話を済ませることにしようと瑞樹は素直に大人の後を着いて行ったのだが。
彼を待っていたのはマチコさんではなかった。
病んだ匂いを漂わす痩身の女性。

「…ユミさん」








『やあ、元気かね』
綾城は重みのあるといえば響きが良いが、概してねちっこい喋り方をする。電話越しでもそれは同じだ。
「おかげさまで。今日はどうかなさいましたか」
『どうというほどのことでもないんだがね。この間は客人であった君にろくに相手が出来ずにすまなかったね』
「とんでもない、あのときは僕が勝手に押し掛けたわけですから」
本当はわたし、と言いたいところを堪えて僕と称する。以前他人行儀だと指摘されてからそうしているのだが、どう考えても自分達は他人だ。
『ところで今日は君にお願いがあるのだよ』
「なんでしょうか」
受話器の向こうで僅かな笑みをこぼす気配があって、あまり良い予感はしないなと思った。うら若き少年の調達をご希望であれば彼はこんな改まったりはしない。何せ日常茶飯事なのだから。
『椿のことなんだが、あいつは十八にもなって変に潔癖でな。私の仕事にあまり理解を示さん』
それはそうだろう。あの性格だ。なまじ親が反面教師になっているのだから、簡単には変わるまい。
『しかし私も親として、教えることは教えてやらなければならん。それでまず、あいつに捌きを教えてやろうと思う』
…この親も、酷なことをあの息子に要求するものだ、と考える。だが必要なことでもある。
「硬いと初心者には難しいですよ。柔らかいのをご所望ですか」
『おお、君は本当に話が早い。どうだね、ちょうどいいのがあるかね』
頭の中のリストを捲り、それからああ考えるまでもなかった、と微笑する。
「彼にうってつけの素材がありますよ」









憤懣遣る方ないという顔をしていた瑞樹を置いてきたのは、新が彼の血肉を一度啜ってしまったからだ。
睦月とて為肉についてそれほど詳しいわけではない。ESPの肉にしても通常のものより高値がつくということぐらいしか知らない。だが飢えた新がESPである瑞樹の肉を食らってしまったことは、どう考えても好ましくはなかった。それは、もしかしたら怯え、葛藤する最中にあった彼の背を、押してしまうくらいの意味はあったかもしれないのだ。そんな彼の元へ瑞樹を連れていくことは、到底睦月には出来ない相談だった。瑞樹自身の自覚はどうであれ、危険過ぎた。
ネガティブな考えが思考を延々と繰り返す。新の家へ向かおうとしていた睦月の足は、瑞樹の家の前で止まった。

門が半端に開いている。瑞樹は朝きちんと閉めていたのに。

別になんということはない。彼の親御さんや宅急便などの第三者が閉め忘れたのだ。それらしい理屈を弄して睦月は再度歩き出そうとするが、彼の感覚がそれを拒む。躊躇。逡巡。恐る恐る手をインターフォンに伸ばし鳴らしてから、ああこれは意味がないと悟る。この家には人の気配がない。
一歩踏み込み、玄関のドアの取っ手を握る。開いた。
「あ、」
中から生える腕。引き摺られ、ドアが乱暴な音をたてて閉まる。








教師である大人の目が時折こちらを気にするのを感じながら、瑞樹は口を開いた。
「また抜け出してきたの?みんな心配するでしょ」
「ちゃんと書き置きはしてきたのよ。それに瑞樹ったら全然逢いにきてくれないのだもの」
「そんなことはないよ」
「また私が覚えてないだけって言うのね」
「ねえユミさん。僕は今とても急いでいるんだ。帰ってもらえないだろうか」
嫌なら僕が帰るけど。ユミさんは「あら」とふんわり微笑した。
「そうなの。私たちとてもタイミングが悪いのね」
「その通りだ」
「でも貴方はいまから授業を受けるものだとばかり思っていたけれど…やっぱり私に似て不真面目ね」
くす、と彼女は小さく笑みを零す。瑞樹はそれを見下ろし、彼女の車椅子の押し手に触れた。
「貴女はまた混乱しているんだよ。…あまり僕を困らせないで」
「本当のことよ?」
「…はいはい、門まで送るよ。その先は頑張って自分で帰ってね」
此処まで来れたんだから帰れるでしょ。愛想の欠片もない声音で呟いて、車椅子を転がした。視線が背中に張り付く。振り返る。

「センセイ、…母を門まで送ってきますので授業には遅れます」

教師は温かい顔をする。くるりと背を向け、歩いて歩いて歩いて門まで辿り着く。だいぶ睦月に遅れを取ってしまった。
「じゃあね」
手を放し、振り返りもせず駆け出す。駆け出すなんて柄ではないのに駆け出す。彼女の姿が見えなくなるまで。それから立ち止まり、「はは」と口の中で音を転がした。重曹入れ過ぎたお菓子を食べさせられた気分だ。
「…また門開けっ放しか」
新の家に向かう途中。だらしのない我が家の有様に、瑞樹は肩を下ろした。マチコさんは忘れてすぐ開けっ放しにするのだ。だから瑞樹がその分気を遣っているわけだが…泥棒が入りやすくなったらどうするつもりなのだろう。内心そんなことをぶつぶつ愚痴りながら、門に触れる。…途端に、ざわりと体内の魚が震えた。
「どうして」
どうして此処で騒ぐ?門を掴んだ指に思わず力が入り、瑞樹はそのままの体勢で立ちすくんだ。頬を伝った汗が冷たく、重力に従うがまま首元に落ちる。強張った指先を意識の力で無理矢理解いて、玄関の取っ手を握りしめる。開いた。
鍵は閉めなきゃ駄目だっていつも言ってるじゃないかマチコさん。この際サクタロウさんでも良い、気がついたときは閉めておいて、
「サクタロウさん?」
そんな床なんかで寝てどうしたの。拭き掃除でもしてたの?何だか床がとてもねっとりしているような。
「マチコさん?」
マチコさんは何処へ行ったのだろう。ふと顔を上げれば、二階へ続く階段に洗濯物が散乱している。いくらなんでも落とし過ぎだ。ひとつひとつ拾い上げて辿って行くと洗濯籠が最上段に置いてあった。マチコさんが中を確かめるように籠に頭から首まで突っ込んでいる。それだと逆に見えないでしょと起こして上げればそれはマチコさんではなかった。多分よく出来たマネキンだ、だって首がない。
悪趣味だなあ。マネキンだと再生も出来ないんだろうなあ。

「おかえり、瑞樹」

ぴちぴちぴちぴち魚の踊りは美しい鳥のさえずりのよう。
若い声。この家にマチコさんやサクタロウさんの他におかえりなんて言う人はいなかったと思うのだけど。
マネキンの温かい身体をゆっくりと床に寝かせ、声の聞こえた方へ振り返る。
彼は睦月をその左手に引き摺り、何かを咀嚼しながらこちらを見ていた。


「…ただいま、新」












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