11.旋回








朝陽が世界を薄弱に染める。千尋は俯く子どもの頬を軽く撫でた。
「何だ、今日は来てないのか」
なあ、   と、記号じみた名前を囁く。あの神経質な坊ちゃんの前では口にしない名前。だって間違いなく嫌そうな顔をするだろう。為肉販売業者の息子のくせにそんなことに目くじら立てて、これからやっていけるのか?いない彼に問いかける。もし直接聞けば、彼はあの端正な顔を不愉快げに歪めてみせるのだろう。困った坊ちゃんだ。しかし今日来てないのは…まあ昨日あんな遣り取りをした後だ、仕方がないとも言える。最低だとも言われてしまったし。
「けど、つまらないな」
今日は特に他に観光客の予約も入っていないんだ…時期も時期だし。手元の予定表を捲りつつ、子ども相手にぶつくさ呟く。いつも彼がこの子どもに会いに来る所為で、此処で一旦足を止める習慣が出来てしまっている。待ち人が来なければ来ない、いなければいないで別の作業等いくらでもあるのに、やはり誰とも話さないでは頭が退屈だと宣う。
…と、電話だ。別棟にいる父からだった。ここしばらく顔を会わさない日々が続いていた。
『おはよう、千尋。お前に頼みたいことがあるんだ。入り口で待ってるぞ…』
…切れた。言いたいことだけ言って人の返事を聞くことはない。仮に父が自分に意見を求めることはあっても、それは決して千尋自身の意見を知りたいがためではない。意見を聞いたのちに、己の主義主張の正しさを確認し、結論として相手に押し付けるための段階を追っているに過ぎないのだ。…そんな父の影響だろうか、千尋自身、己の意見を他者に押し付ける傾向があるのは自覚している。そのためあまり父を非難することは出来ない。
エレベーターを利用して一階へ足を運ぶ。一歩外に出ると、父が煙草の煙を燻らせながら待っていた。
「何か用なのか?」
「これを綾城さんちに届けてきてくれ」
この間渡すはずだったんだが忘れてしまってな。父は生暖かい微笑とともにその『為肉詰め合わせ贈答用』を押し付けてきた。宅配便で届ければいいものを、わざわざ手渡しを選ぶ父は人と人との古くさい繋がりを妙に大切にする男だ。母を食ったのもそんな父ならではかもしれない。
「本当は私が行っても良いんだがな、たまには息子のお前の株もあげてやらんとな」

地図を頼りに綾城家に到着する。
ご立派な豪邸にはうんざりと溜め息が出るばかりだったが、いつまでも門前に止まっているわけにもいかず、来訪をお知らせするべく横っちょにあったベルを鳴らした。別にユエとて金がないわけではないが、あの父に金を浪費する趣味はないようだった。昔が極端に困窮していた所為なのかどうかは知らないが、使うよりは溜め込むタイプなのである。世間の成金は貧乏の反動で金遣いが荒くなりがちだとは聞いたことがあっても、父はそれには当てはまらなかった。
出迎えたのは使用人ではなく綾城当人だった。とはいえ息子の方ではない、父親の方だ。アポイントもなしに訪ねたにも関わらず、彼はにこやかに微笑んでいる。
「やあ、千尋君。今日はわざわざご苦労だったね。良かったら上がって行きたまえ。良いお茶が入ったんだ」
とても子どもを嬲る趣味がある人間とは思えない大らかな対応である。とりあえず手土産もあり、来てすぐ帰るのも億劫であったためお言葉に甘えることにする。しかし一歩踏み入れた瞬間、視野に広がった空間には気が滅入りそうになった。二階の渡り廊下へ続く螺旋階段が左右から伸びていたり、見た目はともかく造りに無駄が多過ぎる。これが家だと思うからいけないのかもしれないし、たまにお邪魔する程度には気分転換になって良いかもしれないが、兎角酔狂だ。
召使いらしき人間が茶をいれる。上等な香りはしたが…生憎そこまで舌は肥えていない。緩やかに上げた視線が衝突するも、格別驚きはなかった。この綾城という男は、初めて会った時から不躾ともいえる視線の持ち主だった。息子の方もそうだが、視線という刃で貫くことが好きな人間はたまにいる。
「最近息子がよくそちらに遊びに行っているようだね。お仕事の邪魔をして申し訳ないと親の私は思っているんだが」
「邪魔だなんてとんでもない。息子さんが来てくださって為の子どもも喜んでいますし、僕も仕事に張りが出ますよ」
「そうかね。真面目だけが取り柄の息子だから、君にはいくらか物足りないんじゃないのかな」
間。ゆっくりと視線を合わせたのち、茶を一口喉に流し込んだ。どういうことですか?と返すだけ、気力を浪費をするだけだ。
「それとも君はいたぶられる方が好きかね?」
「ご冗談を」
ハハ、と適当に微笑む。生憎、中年相手に盛る性癖はない。
そんなことを考えながらふと視線を上げると、二階に長身の人影が見えた。しまったと言わんばかりの顔に、自然と唇の端がつり上がる。これ以上この人間の相手をする気も失せてしまった。
「すみません、この後も仕事があるので今日はこれで失礼します。息子さんにもよろしくお伝えください」
「それは残念だ。また来てくれたまえ。息子は…いま居るはずだから、どれ一声かけてきてやろう」
綾城父は腰掛けていたソファからのっそりと立ち上がると、階段の手すりに腕を乗せ、「椿!千尋君が来ているぞ…!顔くらい見せてやれ」。もしかしたら彼は裏口から逃げ出したかもしれませんよ、先程そんな顔をしていましたから。…と言うつもりはない。
「困った奴だ…」綾城父は意外に心が広いのか、それほど困った顔はしていなかった。それどころか何処か愉しげに見えた。まさかこの親父とて実の息子に手をだすほど落ちぶれちゃいないだろうとは思うが、少々心配になる。自分が彼の心配をするなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがあるが。
それから、綾城父は誰からか電話がかかってきたようで、息子の部屋は二階の右から二番目だと告げ、慌ただしそうに出て行った。とりあえず、ご親切に教えていただいた通りにこれまた無駄に長い階段を上り、右から二番目のドアをノックする。
「椿さん、いるんでしょう。無視するだなんてお父上が可哀想じゃないですか」
「…今更気色の悪い敬語を使うなよ」
ドア越しに彼の硬質な声が聞こえて、小さく微笑する。本当に関わりたくないのならそれこそ無視すればいいのに、お優しい。
「そうもいきません。誰かに聞かれたら私が非難されかねませんので」
「別に…声の聞こえる範囲には誰もいない。淑恵もいまは買い出しに出掛けているはずだ」
「なら入れてよ」
「いやだ」
即答である。全く、随分嫌われたものだ。ドアに寄りかかりつつ、聞こえぬ程度に溜め息をつく。
「…為が知能を獲得する可能性を知りながら、そのきっかけを…言語を教えたのは悪かったよ」
「急にしおらしくしても気持ち悪いだけだぞ」
「しおらしくなんかしてない。ただ、見学した際に分かってくれているだろうが、うちは子どもの為だけを育てているわけじゃない。成人だって必要があれば請け負うし、必ずしも純粋な為だけを取り扱っているわけじゃない。俺自身、…あまり子どもとそれ以外とを区別して考えたことはない」
いずれも所詮商品でしかない。
「優しさと情は別物だ。…椿にとっては、そこはとても引っ掛かるところだとは思うけれど…こればかりは割り切ってほしいな」
しかし割り切るにしても…豚や牛等でも全く葛藤がないわけではあるまいに、為となれば食用とはいえ同じ人間である。簡単なことではないということは分かりきっていた。分かっていながら敢えて割り切れと言っているのだ。お互いそれを商売にするのだから…椿は父親の敷いたレールをそのまま歩けばの話だけれど。駄目だと思えば転がり落ちる。
「…柚谷はどうして父親の仕事を手伝おうと思ったんだ」
「さあ…元々母親の内職を手伝ってたくらいだし…学生生活が性に合わなかっただけだよ」
「他の仕事は考えなかったのか」
「考えなかった」
父が母を食らって、その父が食用の人間を飼っているというのだから、母を食われた身としては違和感のない自然な流れだと思ったが。
「椿、まだ怒ってるのか」
「……怒ってるよ」
「これでも椿に言われて、多少反省したところもあるんだけどね。本当だよ、何だったら心を読んでくれても良い」
「…そんな悪趣味なことはしない」
呻くような言い方。しないだけでやろうと思えば出来る。捻くれた受け止め方をするだけで傲慢に聞こえる言葉。しかし、能力があっても使う使わないは本人の自由だ。他人である自分が強制するものではない…彼が”正常の域”に留まりたがっているのならば、尚更。
心を読んでもいいと言ったのは、あくまでも彼への心証を考慮したからである。どうも自分は彼に対して諂い、下手に出る行為そのものを楽しんでいるらしかった。いつから?
「椿は可愛いな」だからこう言ったとしても、決して深い意味があるわけではなかった。
「…なにか言ったか?」
「お土産を渡しそびれたと言ったんだ。それが目的で今日は来たのに」
「土産?…」
椿の声が低くなる。その率直過ぎる反応に千尋は思わず唇を三日月形に歪めた。
「親父に頼まれてね。面倒だったけど、行けば椿にも逢えるだろうと思って」
諂うにしても堪えきれず、語尾が笑ってしまった。さすがに反省したから逢いたかったのくだりは白々し過ぎるだろうかとは思ったのだが、言わなければ勿体ないような、愉快な気持ちになっていたのもまた事実だった。
「……口先だけは無駄に回る」
「お父上もお電話で出て行かれちゃったんで、ほら、置いて帰るのも傷んじゃいそうだろう今の時期」
「そうだろうな」
土産の中身に想像がつくのか(当たり前だが)、彼の声には取りつく島がない。ああでももう少し、もう一声彼をからかって帰りたかった。
「それで、いまは俺の顔を見るのは嫌なようだから、土産の入った紙袋はここのドアノブに吊るしておくからね」
「え」
「言わなくても分かってるとは思うけど、中身は椿の予想通りの生ものだから」
しばしの沈黙。ドアの向こうにいる彼の顔色は目に浮かぶようだったが。
間もなくして、期待通りに罵声が飛んだ。
「とっととかえれ!」










喉元過ぎれば暑さ忘れるではないけれど、瑞樹は殊更…新と距離を置くつもりはなかった。
その変貌には驚き身の危険を感じはしたものの、その後の彼は普段と何ら変わりない様子であり、本質的な部分はまともなままなのだろうと思われたためである。言うなれば多重人格的な。そんな危うい彼だからこそ傍にいてあげたい、などという気色の悪いことは微塵も考えてはいないが、わざわざ意識的に避けようとするのも億劫だというのがこの冒頭の一文に関する理由の大部分である。しかしそれはあまりにも危機感が薄いのでは、という指摘が仮にあったとしたところで、新にどうこうされてやる気は全くないのだと瑞樹は述べることにしている。その指摘をする人間の候補とて、精々睦月というシスコン疑惑の輩しかいないわけだが。女兄妹のいない瑞樹にはその手の感情はいまいち理解しがたかった。まあ勝手にやってくれという感じだ。そんな睦月は本日も欠席している。意外に衰弱がひどかったらしい。見るからに貧血を起こしそうな外見はしているので、それほどの動揺はないけれど。
「瑞樹、昨日あいつどうだった?」
「完全なる病人の顔をしていたよ。だから僕が励ましてやった」
「そっか、…早く良くなるといいんだけどな」
…それにしても、昨日といい今日といい、否、今に始まったことではないというべきか。新は睦月のこととなるとやわらかい人格になるのである。それを、随分態度が違うじゃないかと怒るべきなのか瑞樹には分からない。以前突撃訪問を食らったときといい、彼がやわらかいと瑞樹は落ち着かないのである。変に子どもじみた突っかかり方をしてこその新なのに、ひとりで勝手に成長途中みたいな顔するな。勝手に変わってくれるなよ、と思うばかりだ。けれど逆にそんな新の一面を好ましく思う自分もいて、内心はなめらか砂漠である。
そんな矢先、地べたにぽつりと水滴。次第に数が増えてきて、瑞樹は呟いた。
「雨が降ってきたじゃないか、完全に新のせいじゃないか」
茶色い土の上で散り散りになるクラスメートたちを遠目に眺めながら、無表情に空を仰ぐ。見学者である瑞樹と新は屋根の下にいるため特に慌てることはない。見学の理由は新は言うまでもなく、瑞樹はただの自称体調不良である。昨日欠席したのでそのついでというやつだ。
「新」
「…なんだよ」
「睦月はキミのことを心配していたよ。約束を守れなんだと嘆いていた」
「そんな嘆くほど重要な約束じゃねえよ」
「ねえ」
三角巾の内側、包帯の巻かれた腕を握りしめる。好奇心猫をも殺すというけれど。これは好奇心というよりは、

「キミは誰だ?」

健康そうな横顔はぴくりともしない。
ただその皮膚の裏側でぐにゃぐにゃと目には見えない何かが蠢いているように思えた。魚が異常な速度で体内を旋回する。びちびちうるさい。
彼の腕を掴む手を、彼の逆の手が握る。そちらの腕にも包帯は巻かれていて、その隙間からは幾筋もの血が細く垂れ落ちていく。ぎり、と掴まれた手首が鳴る。
「いいにおいがする」
「人を食いもんみたいに言わないでほしいね」この気違い人格、喋れたのか。新は何をしてるんだ。
「良いだろ、別に減りはしない」
そのための再生能力だろう。彼はそう言って嗤う。嗤う。嗤う。楽しそうだ、と思う。自分相手に妙に気を遣ったり遠慮したりする彼より余程。もしかして自分たちは無理矢理仲良くしてたんじゃないか。そんなこと誰が強要したよ。不安が脳裏を過る。だけれどやはりこうして人の腕の肉を食いちぎろうとする彼は彼じゃないと瑞樹の中の記憶が偉そうに宣うのだ。念のため確かめてはみたけれど、この彼は彼の本質とは相容れぬものだ。
手刀を彼の喉へ突き込む。
人の腕の肉の味に酔いしれ油断していた彼は、簡単に口を放した。みるみる再生する自分の左腕を見下ろし、本当に化け物じみていると思いながら、瑞樹は彼の襟首を掴み上げた。
「あんまり失望させるなよ」
こんなくだらない人食いに自我を渡すな。侵蝕されてくれるな。
…誰が優しい言葉なんてかけてやるものか。
「先に教室に戻ってる」
気付けば雨水は激しさを増し。いっそ濡れ鼠にでもなってやるかと瑞樹は教室までの道のりを歩き出した。





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