10.約束











小屋に繋がれた子どもの髪には艶やかな天使の輪が浮かぶ。
もはや習慣となってしまった牢の前に佇んで、椿は耳にナンバーの札をぶら下げたその子どもを見遣った。
子どもはケースに入れられた液状の餌をおいしそうに貪っている。頭から突っ込んで食べている為、液体はそこらに飛び散らかっている。そしてその目の前で、弁当を広げる自分たちの図は、傍から見てどう映るのだろう。奇怪な、滑稽な、不可思議な、悪趣味な。衛生概念的に問題はないのかと柚谷に聞いたところ、消毒はちゃんとしているという返事がなされて、今に至る。
否、これでは説明が不十分なのは明らかだ。まず椿はいつものように出掛けようとして淑恵に弁当を持たされ…おそらくユエで何を食べさせられているのかと不安になったに違いない、淑恵は良くも悪くも古風な女性なのだ…その弁当袋を見た柚谷がじゃあ時間も時間だしお昼でも食べようと言い出した。何処で?此処で。食欲なんて湧くわけがない。弁当の中身は淑恵が気を遣ったらしく野菜ばかり詰め込んであるが、それでも食べようという気にはなれない。そもそも人間である椿に、食肉用の人間を前にして何も感じるなというのがどだい無理な話だ。隣で柚谷は栄養補助食品のブロックスティックを平気な顔をして食べているが。
「食べないの、椿」
その後に続く言葉…”繊細な神経の坊ちゃんには酷だったかな”。口にこそ出されないが、彼の眼が雄弁に物語る。
しかし『(どんな言葉で)』反論したところで…、そんなことは思っていない、それこそ自分の方が上だという感覚が身に付いているから思いつく発想に他ならない、どうせ見下しているのだろう、鼻持ちならない嫌な奴だ…など言われるのは分かりきっていて、口を開く気にもなれなかった。少なくとも、これまで出会って来た人間の大半はそうだったし、そして次第に分かり始めて来たのは、彼らにとっては椿が意見すること自体にかちん、とくるものがあるらしいということだった。しかし自分とて好きであの父の息子に生まれたわけではないと言ったところで、生まれてしまったことには変わりはなく、現状を打開するでもなかったので、説得力がないのは椿自身認めてはいた。
というよりも、椿は既に己の環境を受け入れてしまっていて、僅かな反発はあれど、否定するのも馬鹿馬鹿しくなっている、のが本音だった。自分はあんな男の血縁で、そのおかげで財産もいくらかあるようだ。だからどうした、と。
傲慢かもしれない。だがあの男の財産を汚れた金だと言って投げ出す…これまでその金で育ってきたくせにだ…中途半端なことをする意味はない。そんなもの必要なときに適当に使えばいいし、必要なければ置いておけばいい。世間は金のある人間に善人を期待していないが、だからといってわざと偽悪的に振る舞うつもりもなければ、必要以上に卑屈な態度を取るつもりもない。自分が適切だと思える態度を取れれば、周囲の偏見など素知らぬ振りで通してしまえれば、それでいいのだ。反論しても、傷ついても、育った背景は死ぬまで付きまとう。知った瞬間、だからああそうなんだと相手は勝手に合点をしてみせる。環境は性格形成に多大な影響を与える、とはいえ、結果に対して正でも対でもだからああは出来る。ただそれらしい理由を構築して満足する。理解した気になる。
「食べないのならc…そいつにやっちゃっていいよ」
「調整とかしてるんじゃないのか」
「ああ…だいじょうぶ。それに、椿のところはお持ち帰りとかは厳しそうだから」
確かに持ち帰れば淑恵が気にする。隠れて処理する手間を考えれば、柚谷が良いと言っているのだから、あげてしまった方が無駄にならずに済むかもしれない。
「どうしたらいい?」
「牢に突っ込めば勝手に食べるよ」
柚谷はそう言いながら椿の手から淑恵の作った弁当を取り上げて、牢ににゅっと手を伸ばした。…淑恵の性格もあり、それは質素でとてもランチと称せる代物ではない。椿自身が金のある人間が醸し出す雰囲気を嫌っている所為もあるが。
「椿がお前にくれてやるとさ」
対する子どもの目…やたら大きくて、どろりとした水膜に覆われ淀んだ色をしている…がこちらを捉え、椿は息を呑んだ。そして彼の耳は間違いなくその声を聞いた。
『つばき』
「そうだよ、彼が椿だ…どうしたんだ、椿?そんな顔して」
幻聴ではない証拠に柚谷も噛み合った言葉を返している。”どうしたんだ”?何が、まるで驚いている椿が異常だとでも言いたげではないか。
「その子、が喋ったのか?」
「これはまた…可笑しなことを言うんだな、椿は。人の子なら言葉くらい使ったって何の不思議もあるまいに」
柚谷の声色がねっとりとした響きを帯びている。その口元に浮かぶ不愉快な微笑。嘲られているのだと気付いて、椿は己の頬が微かに紅潮するのを感じた。だが、そう気付いたところで動揺はじわりと胸中に怖気とともに伸び広がるばかりだ。子どもの目はじっと椿を見つめている。
『つばき』
「!…」
『つばき、つばきつばき』
呼ばれるたびに鳥肌さえ立ちそうになる。うるさい、とその呼び声を遮断してしまえればどれだけ良かったろう。(ことばを使っていいのは人間だけのはずだった)。だけれど、その子どもは、椿がそうしようと、少なくとも静かにするように頼もうとした瞬間に、実に嬉しげに微笑んだのだ。道端に咲く小さな野花が密やかに花開くかのように、柔らかく。
「っ柚谷…!」柚谷の襟首を掴む。思考回路が焦げつく音が聞こえた。
「ごめんごめん、俺がやたら『椿』言ってるから覚えちゃったかな」
飄々とした口調で言ってのける彼の襟を鷲掴みにしたまま、椿は唇を引き結んで肩で息を繰り返した。自分が何故こうも動転し、荒ぶっているのかという理由は分かっていた。そしてそうなるよう仕向けた、柚谷の悪意も。
「お前、この子はもうすぐ出荷する予定だって前に言ったな」
「そうだよ、うちはそのための施設だもの」彼はオレンジジュースの紙パックにストローを差した。
「なのに、何だって今更人間みたいな接し方をするんだ。今まで、散々『為』として扱ってきたくせに…」
確かに人の子なら言葉も次第に覚える年齢だろう。だがそれは人として教育を受けてこそ得られ、牢の外に出てこそ必要なもののはずだ。間違っても、肉として捌かれる子に覚えさせるべきものではない。
柚谷はふ、と息を漏らした。
「前にも言ったように、肉の質には環境も大きいんでね。言語コミュニケーションもその環境、他者からの愛情を受ける術の一つだと思うんだけれど」
「詭弁だ。知能も向上したらその分、彼らは人間に近づくんだぞ」
「そんなこと言ってたらこの手の仕事は成り立たない。感情論に則ってしまえば、そもそも彼らを食用として食らう行為自体が殺生、善からぬことになる。それを棚上げにして、その手段に関してのみ感情的にどうのこうのなんて、無責任じゃないのかな」
「論点をずらすな、俺が言いたいのはそんなことじゃない」
「ならなにが言いたいの?」
柚谷は襟首を掴まれたまま、器用に紙パックのジュースを飲み涼しげな顔をしている。こちらは本気で憤っているのに、彼はこの現状を楽しんでいるとしか思えなかった。のらりくらりと論点をすり変えるのも、椿がどういう反応をするか試しているかのようだ。
「ちがう」
返事を待つ柚谷は口を噤んだまま、色素の薄い、水彩で描かれた青空のように澄んだ瞳を瞬かせていたが。
「椿は前々からこれに感情があることは知っていた。なのに言葉を話した瞬間情けを覚えて憤る。元々人間の子どもなのに」
「なに…」
「これだって人間だ。品種改良してあったって、ヒトはヒトだろう。よくコメとかだって改良されるけど、それってもうコメじゃないの?」
…めまいがした。
「椿は見たくないものから目を反らすのが上手だな」
思わず堪え難くなるくらい、心臓が急激に重くなった。確かに、ああ、都合良く排除することができたならと思ってはいるけれど。きっと、柚谷の言うことも的を得てはいるのだろうけれど。ヒトがヒトとして扱われない、そのことには慣れているはずだった…からこそ、情を感じるべきではなかったのだ。ヒトとして実感してしまったときにその感情は重過ぎる。
怠くなった腕で、それでも懸命に柚谷の身体を突き放した。
「だとしても、お前は悪趣味だ。愛情を与えるなら、他の方法だってあった」
「同じ人間だと理解するに至ったら、かわいそうだって?捌かれる際、不平等に嘆いて」
口の端を持ち上げる柚谷の瞳に昏い色が混じる。何故そんなふうな表情をするのかと思うよりも強く、彼の言葉に神経を逆撫でされるを通り越して全身が戦慄いた。
「最低だ…」










「睦月が休み?」
瑞樹は相変わらず無駄に整っている顔を、訝しげに顰めてみせた。それすら崩れに含まれないのであるから、世とは不平等なものだ。
対する新は年相応の幼さを残したままの面立ちに、隠しきれぬ不安の色を浮かべていた。瑞樹の手前、いくらか無理して口を尖らせたりもしてはいるようだけれど、まるで睦月の奴が死の病にでも取り憑かれたかの如き様相である。
「ああ…出席確認の際、担任がそう言ってたから」
「季節の変わり目で風邪でもひいたかな」
「多分。軽い口調で今日鳥越は休みだなって」ならその顔色はどうした。
窓の外に広がる空はくすんだねずみ色を呈している。瑞樹は己のうっとおしいくせ髪を手で撫で付けながら、前方の空席に視線を飛ばした。ちなみに彼が昼休みとなった今頃になって新に朝方の事情を確認しているのは、寝坊した挙げ句家で怠けていて遅刻した所為である。
「…じゃあ、帰る」
「ええ?」
「僕は昼休み、此処にいなかった。スクールにも来ていない。センセーによろしく」
意外に真面目な新の困惑を他所に瑞樹は鞄を肩に引っ掛け、颯爽と教室を抜け出した。目立ち過ぎる容貌のため、どう考えても生徒の目には留まっているのだが、そんなことを気にする瑞樹ではない。人の視線等あってないようなものだ。隠密行動には全く向かないタイプと言っても良い。
昼食を買いに出る生徒達に溶け込み、正門から堂々とUターンした瑞樹は、己の帰路を辿りつつも睦月の家はどの辺だったかな、と周囲に立ち並ぶ家々を仰ぎ見た。睦月の家は瑞樹の家の更にその先で、余程の用事でもない限り立ち寄ることはない。仮に立ち寄ったとしても、玄関で立ち話をする程度で中に上げてもらったことはなく、今回も訪問したところでもしかしたら門前で会話を繰り広げることになるのかもしれない。そもそも、瑞樹がスクールを欠席してまで彼の家を訪ねようと思ったのは、何も彼が居ないと学校がつまらないだとかそんな気持ちの悪い理由からではない。単純に新がろくでもない顔色をしていたので、それがちょっとばかり気になっただけなのだ。
ええと、睦月の家は此処だったかな。
瑞樹は表札に鳥越と書かれていることを確認し、ぴんぽーんと鳴らした。居留守か本当に居ないのか誰も出て来る気配はない。瑞樹はふうむともう一度インターフォンを鳴らした。今度はすぐにがたんという音が聞こえてきた。
『はい』機械越しに睦月の掠れた声。瑞樹は顔を寄せた。「ぼく」。一瞬の間があり、「すぐ出る」という答えが返ってきた。
ドアの内側でロックを解除する音。そのドアが開いて姿を現した睦月は、薄いカーディガンを羽織っており、その顔色はまるで病人のようだった。
「元気?」ではないだろうが。挨拶代わりに聞いてみただけである。
「瑞樹、学校は?」
「僕は体調不良で欠席してるんだ」
新は授業のノートが取れなくて困ってるだろうけれど、それはこの際一蓮托生ということで仕方がない。瑞樹は取って付けたようにそう言った。
すると睦月は力なく笑って、
「そうか、それで来てくれたんだ…」
と、乾いた声で呟いた。
「新は睦月のことをとても心配していたようだったよ」
「ああ、うん。僕は、彼と約束をしていたから」
「約束?」
睦月はくるりと背を向けた。
「立ち話も何だから、上がりなよ」
「けど」
「だいじょうぶ、今は誰もいないから」
外を見れば、持ち堪えていた雲が蕩け始めていた。傘を持たずに来てしまったことに気付き、瑞樹は素直にお邪魔することにした。本当は、他所様の家というのは居心地が悪くてあまり好きではないのだけれど。萎縮してそわそわするほどではないが、進んで長居したいとは思わない。
「睦月、それどうしたの」
…先に廊下を歩く睦月の腕には、一本の管のようなものがぶら下がっている。
「ああ、邪魔だったらごめん」
「いや、邪魔というか」
「栄養剤入りの点滴だよ。昨晩ESP検査を受けさせられて、今朝目が覚めたら刺さっていたんだよ」
以前、検査を受けさせられたときにはそんなものなかったから驚いたよ。そう話す睦月の声色は普段と何ら変わりなく聞こえた。彼の部屋まで案内されたのち、瑞樹は転がっていたクッションを勝手に尻の下に敷いた。
「結果は」
「…母さんの様子に覇気がなかったから、陰性だったんだろうね」
「それはよかった」
瑞樹は適当な相づちを打っただけだったのだが、振り返った睦月の眼は何か言いたげだった。
「何か言いたいことがあるなら言えば?」こういうときの彼は焦れったい。
「…瑞樹は、僕の両親が何度も僕に検査を受けさせているのは何故だと思う?」
…こいつ話を誤摩化したな、と瑞樹はあからさまに眉を寄せた。でなければ、躊躇した挙げ句結局言わないことの多い睦月がこんなスムーズに切り返すはずがない。
「自分の子どもがESPだったら嫌だなあとでも考えてるんじゃないの」
「答えとしてはその逆だ。僕の両親は為肉…人肉に魅入られた人たちなんだよ。新も…だから僕は今日彼を病院に連れて行こうとしたんだ。…彼の症状が手遅れになる前に止められたらと」
「…ESPと人肉がどう関係あるわけ」
「ESPの肉はランクが高いんだよ。僕の親はどこぞの業者にESPの人間と為肉を交換してもらっているんだ。直接捌いてしまわないのは、手間もあるけどまだ質より量だと考えているからだ。ESPの見返りの肉は人間三人分はあると聞かされてる…」
睦月は瑞樹の前に置いたティーカップに紅茶を注ぎ終えると、腕の管に無理な力が掛からぬよう押さえながら腰を下ろした。管は二重にも三十にもとぐろを巻いていて、家の中で生活するに当たっては足りる長さにはなっているらしい。何にせよ、邪魔くさいことには変わりない。
「だから今日も出来れば、瑞樹には来てほしくなかった。危ないから」
「僕も交換に出されるって?」
「すぐにとは限らない。僕の姉さんの場合は納入期間までいくらか猶予があったから、ケースバイケースだろうね」
…随分とあっさり言ってくれるが、彼の姉がESPだったということも瑞樹には初耳だ。それに今日になっていきなりこんな大量の情報を発信されても、こちらとしても処理しきれんぞ、と瑞樹はぐびっと紅茶を飲み干した。聞き流すだけで良いのなら聞き流しておくが、交換に出されるだなんてあまり穏やかでない。ましてや話を聞いている限り、睦月自身もESP検査に引っ掛かっていたら今頃此処にはいなかったわけだ。陰性だったとはいえ、人のことを心配している場合か。とことんろくでもない親なら、ESPでもない息子なんて交換するまでもなく自分たちの手で食いかねないだろう。想像するだけで吐き気がする。反吐だ反吐。
そんなふうに瑞樹が考えることは想定内なのか、睦月は冷めた微笑を浮かべた。
「今、生かされているわけだし、一応息子としての情はあると信じたいね」
窓に打ち付ける雫の音が重くなる。
「でも…その検査を受けてから、…検査そのものの記憶は消されても…姉さんの心は少しずつ壊れていってしまった」
「記憶を消すだけでは受けた苦痛をなくすことはできなかった?」
「多分。だけど姉さんの場合は自分が肉と交換されてしまう、ということに対するショックもあったんだろう。口を利かなくなった彼女が実際に何を考えていたのかは分からないけれど」
瑞樹はふと、睦月の『ねえさん』という声の響きに何か…性的なものを感じたような気がした。しかし特にいま、彼の姉への思惑だとかは自分には関係のないことだ。瑞樹は素知らぬ振りして彼を見つめ返し、何気なくその前髪に触れた。指先で無駄にさらりとした髪を弄ぶ。くそ、羨ましい。
「それで睦月は、僕もそうなるんじゃないかって思ってるんだ?」
ずばり切り込めば、彼はやや動揺したかのように眼を見開いた。いま思い返してみても、保健室で瑞樹がESPだと知ったときの彼の反応は、恐れ以外の何物でもなかった。おそらく彼は瑞樹の能力に己の姉の姿を重ね見たのだろう。
睦月は一瞬怯んだものの、すぐに冷静さを取り戻した。
「…君がESPだと知れば、周囲は必ず見方を変える。危害を加えたり、人間扱いすらしない輩も出て来るだろう…僕の親のような」

己の親のことを突き放した目線で語る彼は…どういう気持ちなのだろう。
だが、そうした脅威を秘めているのは彼の両親だけではない。……幼さを残した『彼』の横顔が脳裏を過る。
瑞樹は眼を閉じた。

「だとしても心配はいらない。…僕は壊れたりしないよ」





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