9.黄信号







綺麗な名前だな、と言って何気なくその顔を覗き込んだ。
そしたら彼は驚いたように眼を見張って、それから、「あたまおかしい」と実に失礼極まりない、名誉毀損で訴えられても仕方がないと思われる暴言を吐いた。何故、名前を褒めて正気を疑われなくてはならないのか。思わず笑いそうになった千尋に彼は背を向けて横たわったまま、特に表情という表情を浮かべず答えた。
「まともな常識を振りかざす奴は、まず忌み嫌う。花が散る様から首が落ちるのを連想するらしい」
「未練たらしく咲き崩れるより良いじゃないか。潔くて、毅然としていて」
嘘ではない。ぐずぐずに汚されて、ちぎれてもなお咲き続けるよりは見事な最期と言える。少なくとも、千尋は”その方”が好きだった。
「それに、椿の花は立派だよ。悪趣味なくらいに、」妬ましくなるくらいに。
「ー…」
「だから、よく似合ってる」
面差しに影が過る。
千尋はそれに気付かぬ振りをして、彼が横たわるベッドに浅く腰掛けた。ぎしりと軋んだ音が鳴る。手を伸ばせば触れられる距離にはあったけれど、彼が背を向けているように、千尋も敢えて彼に背を向けていた。薄暗い灰色の沈黙。尖っていた心は、彼の静かな口調に引きずられたかのように、なだらかな斜面を描き融けていく。摩耗し研ぎ澄まされた声色。








睦月が仄めかすようなことを言っておきながら結局口を噤んだのは、直面している現実を己の友人に突きつけるという役回りから逃れたかったからに過ぎない。
言ってしまえばそれが現実に変わってしまいそうな予感がしていたし、彼も一応まともな人間をこなしているわけであるから、自分がその発言をすることで友人に冷血な輩であるように思われるのが嫌だったというのもある。
事実、彼の友人である瑞樹はそのことにまだ気がついていないようだった。こればかりは睦月と瑞樹の育って来た環境の違いによるもので、やむを得まい。姉がESPであった睦月と、おそらく親類にそんなものはいなかった瑞樹との間ではESPの捉え方一つ取っても異なる。詰まるところ、ESPになったばかりの瑞樹は己の存在についての見方を改めていない。相変わらずただの人間のつもりでいる。危機感がない。あれば、睦月の仄めかしたことを理解することも容易かったろうに。
だがそれもまた当然だった。ESPになったところで自意識に変革を要求するほど、瑞樹は欲深い人間ではないし、まず他人に興味がない。他人からどう見られているか、見られるようになるかだなどと考えることもしないのだろう。むしろその容貌の所為で考えることをすっかりやめてしまったのかもしれない。それをいきなり考えろだなどと、求めること自体酷なことかもしれない。そもそも彼は人肉を愛好する人間がいることすら知らないのではないか。先日の交流会でその手の文化があるとは知っていても、自分と結びつけて考えてはいまい。今のところ人間が食物連鎖のピラミッドの頂点に君臨しているわけで、その視野の偏りも頷けなくはないけれど。仮に偏りがなくともこの現状に気付いたかどうか。そのくらい、彼は北浦新という少年のことを信用している。睦月が新を己の友人と見定めているように、彼も新を友人として認めている。だからこその盲目。愚直なまでに。自分も同じ側に居たかった。だのに。
「新、怪我増えてるけど。さては…とうとう刺されたか」と、瑞樹。
「神妙そうな顔して、なに俺が刺されて当然みたいなこと言ってんだ!」と、新。
そんな彼の三角巾で吊るされた腕とは反対の腕には、真新しい包帯。薄く滲む血痕。
「過去の行動を振り返ってみたまえよ。あんなことこんなことしておいて、自分が誰にも恨まれてないとでも思ってるのか。この脳内お花畑め」
「その言葉そっくりそのままお前に返してえよ俺は」
やたら芝居がかった尊大な態度を取る瑞樹。棒読みな口調はともかくとして、腕を組む行動は外見の所為でさまになっている。
ただその横顔には彼らしからぬ感情の揺れを感じる。彼の顔色を読み取ることに関しては、睦月には多少の自信というよりは自負がある。傲慢な自負。仮に、友人に対して独占欲は強い方ですか?と聞かれるようなことがあればYESと真顔で答えるだろう。
兎に角、怯えている。誰が。瑞樹が。変わっていくことを恐れている。
「最近弁当を持参する人が増えてるね」
「教室内の人口密度が高い」
むっつりとした声で言いながら瑞樹は頬杖をつく。
彼の言う通り、狭い教室内は生徒でひしめき合っている。授業中の秩序が安定している状況ならまだしも、昼休みはざわめきおしゃべり小突き合う。混沌としている。以前まではもう少し出入りの出が多くて、比較的教室内も静かなものだったのだが。
「新も弁当にしたんだね」
水筒があって中身までは見えないけどね、と心の中で付け足す。考えれば考えるほど自分が嫌な人間に思えてくる。しかし、だけれど。此処最近弁当を持参するようになった人たちの中身ときたらどうなのだろう。彩りも栄養バランスも考慮されていない。入っているのは肉ばかり。邪推するなと言われても、しないではいられない。それもこれも、昨日母が「検査、申し込んでおいたからね」と嬉しげに言うから。それで万が一にも陽性だったら、姉のように此処からは見えないところに行かなければならない。

去り行く瑞樹の背中を見送る。
彼の家は最もスクールに近いので、必然的に残りの岐路を踏みしめる足は四本になる。
半端な丈から覗く無駄な肉のついていない足が二本。細身のジーンズの足が二本。
「この間さ、母さんにESP検査を受けろって言われたんだよ」
新に話を振る。視線を束の間彼の横顔に走らせる…決して性格が良くないのは自覚している。友人だとか宣うくせに、自分の言葉の有効性を試してみたがるのは。そして彼が少しでも顔色を変えればと、変えなければと、思っている。不安…だったら、何をしてもいいかと聞かれればそんなことはないと否定出来るけれど。
「へえ、またなんで」
「実は姉さんがESP検査に陽性だったものだから、母さんは弟の僕までそうなんじゃないかと心配してるんだよ」
「そういえばお前、姉貴が一人いるって話だったもんな。それで?」
「うん?」
「検査、まだ受けてないのかよ?」
もしも陽性だったと答えたならば、彼はどんな反応を示すのだろう。睦月とて己の姉が何故連れて行かれてしまったのか、知らないわけではない。ESPは…ESPに感染した者は、一部の人間にとってもはや人間とは看做されない。そしてESPとなった姉は。
「新は…」
「ん?」
「もし僕がESPだったら、どうする」
「どうするって」
「ともだちやめる?」
「…なにいってんだよ、そんなわけないだろ」
憤る新。憤怒かあまりに刹那的な問答に対する羞恥か、僅かに頬が赤い。彼はきっと心の底からそう言ってくれている。
「あ、痛」
余所見をして歩いていた所為だろう。横から突き出ていた枝で目許を引っ掻いてしまった。いつもならこれは新か瑞樹の役割だろうに、何をやっているのだろう。
擦ったであろう部分に指で触れると、傷が出来ているようでざらりとした感触があった。深くはないけれど少し血が滲んでいる。ハンカチを出すのも億劫で、血の付いた指先を擦り合わせたのち、手のひらを握りしめた。ふと、咎めるような新の視線を横っ面に感じ、睦月は振り向いた。彼の手が肩に触れた。
何事かと理解する間もなく、瞼の傷に細い痛みが走った。目を開けている方の情景がぶれる。生温い息。傷を這う彼の舌の血管が音もなく脈打ち、皮膚が焼けるように熱い。錯覚には違いない。けれど、獣の匂いが鼻を掠めた。
「新、どうしたの」
されるがままに尋ねる。すると彼は我に返ったかのようにびくりと震えた。熱が引いていく。彼の眼は、飼い主に叱責された子犬のように怯えの色を浮かべていた。
「いま、自分がしてたこと、覚えてる?」
「え、あ、…いや…」
「覚えてない?」
「いや、その」
「そうか、覚えてないのか」
自分でも嫌気が差すほど淡々とした話し方だと思った。聞き様によっては、特に新のような人間にとっては冷たく聞こえる部類の。別にそんなつもりはないのだけれど。案の定、彼は泣きそうな顔をしている。慰める?…後でも出来るか。
「睦月、俺、その…最近おかしいんだよ」
感情を押し殺しているかのような湿った声色。それもそうだろう。彼も子どもではないのだから、友人に泣きつこうにも自尊心というものがある。
「何処が、どうおかしいの」
「こんなことを言ったら、頭おかしいって思われるかもしれないけど」
「思わないよ」思うわけない。
「…ときどきさ」
「うん」
「自分が何してんのか分からないときがある。気付いたら怪我してる。後から話だけ聞かされて、わけが分かんなくなる」
「記憶が飛んでる?」
「ああ…」
重症だ、と心の中でつぶやく。既に彼の意識の大半は、彼のコントロール下にないのだ。欲に忠実な獣性が、人間性を打ち消しつつある。何故なのだろう。為肉はただの飼われた人の肉ではないのか。同族の肉を食らうことで、何かがいかれるのか?これでは薬中患者と変わりあるまい。何故規制されない。この国…専ら東部だけれど…では、為肉は煙草と同様嗜好品と見なされている。人の身体に与える害の大きさが違う?確かに新は、…母は、父は、一見して普通の生活を送っているけれど。幻覚も幻聴もない。知能もおそらく低下はしていないのだろうが。
「睦月!」
名前を呼ばれてはっとする。彼は縋り付かんばかりに睦月を見つめている。自分を失っていくことに、彼は怯えているのだ。勢い任せに腕を掴まれたかと思えば…彼の目は正気の色を保っている…彼の三角巾に包まれた、包帯の巻かれている腕を握らされた。息が止まりそうになった。けれど…予想していないわけではなかった。
「新、このうで」
「どう考えたってさ、…階段から落ちたとか転けたとかで、説明…出来るもんじゃないだろ」
彼の腕の内側には、ついているはずの肉がなかった。
「…この腕のこと、ご両親は知ってるの?」
「…包帯は自分で巻くようにしてるから」知らないらしい。
「新、君はきっと多重人格の気があるんだよ。病院に行った方が良い。僕も一緒に行くから」
「そう、なのかな」
行ったところで打つ手があるかどうかは分からないけれど。ただ、今の彼の状態で何の対処もしないというのはあまりに危険であるし、睦月とて相談を受けた以上何かしらアクションを起こしてやりたかった。起こさなくてはならなかった。
「今日はもう遅いし、明日学校を休んで行こう。場合によってはご両親に知らせることになるかもしれないけれど、良い?」
「ああ、うん…でも、明日学校が終わってからじゃ駄目なのか?…睦月まで休ませるわけにもいかないし」
「いいや、なるべく病院に行くのは早いに越したことはないし、僕の親はそこまでうるさくない」
口を出すのは専ら検査に関することくらいである。ひとまず、明日の朝迎えに行く約束を取り付け、睦月は新と別れた。
だが、薄暗い帰路を辿りながらも、睦月はむず痒く冷えた胸騒ぎのようなものを感じていた。本当に明日で良かったのか、病院に行ってどうにかなるとは限らない。他の手立ても考えるべきではなかったのか。結局自分は現状を楽観視し、本気で彼をどうにかしようだなんて思ってないのではないか。いや、それどころか。
「おかえり、睦月ちゃん」
びく、と肩が跳ねた。いつのまにか目前に現れていた我が家の前に、母が立っていた。






「ねえ、マチコさん」
「なあに、瑞樹」
実は最近になって、某むうみん氏から不老不死だと宣告されてしまったんだ。だからもしかすると、僕は一生おとなになれないかもしれないんだよ。
「明日はお弁当作らなくていいよ」
…まだ睦月が言っているだけで何の確証もないことだ。言えるわけがない、というか、仮にも瑞樹の保護者である彼女にそれを告げるのはあまりにも酷というものだろう。何の為にここまで育てて来たのと嘆かれては、いくら瑞樹とて心が痛むというものだ。
「じゃあお昼はどうする気だい」
「パンでも買ってたべるよ」しかし、いつかは言わなければならないことだろうに。
「この成長期にパンじゃ身長伸びないわよ。しっかり栄養取らなきゃ」
成長…そうだいくらESPになって、再生能力が驚異的なものになったとはいえ、成長が止まるわけではあるまい。どういうことだ。
不死は百歩譲って有り得るとして…物凄く嫌だし何らかの方法でいつか死んでやる…不老はちと腑に落ちない。細胞が日々死滅しているのは授業かなにかで聞いたことがあるけれど、現在の自分の身体は細胞が死ななくなっているのだろうか。それとも死んで、あっという間に次が生産されるのか。どちらにせよ成長自体はするはずじゃないのか、と瑞樹は首を傾げた。身長だってまだ伸びるはずだ。そりゃあ、一七〇は超えているから止まっても恥ずかしくはないけれど。とにかく、身長のことはマチコさんの言い掛かりだ。別に悲観するほど小さくはない。
ということは、自分は一応おとなの階段を上れるシンデレラ状態にはあるわけか。そして成人して成長ホルモンの分泌が止まれば年齢固定と。しかしホルモンだの身体の仕組みはそう簡単なものではないだろう。
「てんでわからない」
「あらどうしたの、瑞樹?宿題で解けない問題でもあったの?」
「今後のコース選択は文系を選ぶことにする」
仮に科学で綺麗に説明できても、ESPという不確定要素が介在してしまっては、専門家でもなんでもない瑞樹には理解しようがない。結局のところ、彼の中ではよくわからんという結論に落ち着いた。どうやら、それくらい自分は得体のしれない生き物になってしまったらしいことだけは分かった。だとしたらもっと慌てふためくべきなのだろうが、どうも…実感が湧かない。もしかしたら自分は感受性が人一倍鈍いのだろうか。自分は自分なりに感情の起伏があると言っても、それは単なる言い訳に過ぎないのだろうか。参った。…けれど。

不愉快なのだ、実際は。平凡なる人生を歩むはずだったのに、突如妙ちくりんな能力を押し付けられて。

だのに、その不愉快と名目される感覚を、他の人はもっと別の方法を以てして体現してみせる。そしてそんなふうに感情を率直に出せる、出し方を知っている者こそが人間らしいとされる。なので、人間味と感情の起伏とをイコールとするならば、やはり瑞樹は人間失格である。誠に遺憾であった。
人によってはそれこそ瑞樹のような人間を感情表現が下手なのだと言う。だから表現が上手になればもっと人間くさくなれると。だが瑞樹にとってはこれが普通で、これ以上のリアクションなんて今朝方新に対してした態度ではないけれど違和感があり過ぎているのだ。別に感情を出す方法が分からなくて抑えているわけではなくて、適当なのだ現状が。だから感情を発露する術をと試行錯誤する前に、まず感情をもっと生産しないとおはなしにならない。ではもっと生産能率を上げたいかと聞かれたら。何だかんだで、足りているよ、と答えるに違いない。振り出しに戻って、自分は自分なりに感情の波はあるのだから、と。
「じゃあ瑞樹、明日もお弁当でいいのね?」
「うん。…ありがとう、マチコさん」






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