8.赤頭巾




朧げに覚えている女性の笑顔。
「もうすぐあなたの弟が出来るのよ」
彼女は大きなお腹を抱え、何処へ行くにもひょこひょことそのお腹を庇うように歩いた。
街中の横断歩道。青葉の美しい公園。人々で賑わうスーパーマーケット。すれ違う人々の声掛けに生真面目に受け答えする彼女は、世の中の幸せの中心にいるかのようにきらきらと輝いていた。そんな彼女に手を引かれながら見る風景もまた、宝石箱の中を覗き込んだかの如き目映さを放っていた。

だのに、その幸せはあっという間に流れて行った。幸福の象徴ともいえたお腹はぺしゃんこにつぶれた。

夕飯の匂いに誘われて、ひとりまたひとりと、みな自分の家に帰って行った。遊んでいたともだちも帰らなきゃと言い出して、手を振ってまた明日ねと別れて、急いで彼女のもとへ戻ろうとした。
けれどいつものベンチに辿り着いたら、知らない男が、彼女の膨らんだお腹を金属バッドで何度も何度も殴打していた。股間から漏れる体液に男は舌なめずりし、無我夢中でしゃぶりついている。意味の成さない悲鳴。呆然と立ちすくんでいたら、男と目が合った。彼はこちらに向かってきた。

夕日に沿って伸びる影は黒々としていた。

無骨な手指。不意に腕を掴まれて、ちぎれそうな痛みが走った。ころされるかもしれない。急激に膨れ上がる恐怖心がぱんぱんになって内側から破裂してしまいそうな気持ちになる。すると男はこちらの表情を見て何か思うところでもあったのか、指の力を弱めた。
そして大人しく引かれるままに連れて行かれたのは、ありふれたアパートの一室だった。部屋は薄汚くて、雑多な生活感に溢れていた。
男は格別暴力を振るうでもなく、…風呂だの洗濯だの普段の生活に戻るでもなく、隣に腰を下ろした。なにか、なにか言わなければ。
「…赤ちゃん死んじゃったよ、きっと」
けれど頭が上手く働かない。糾弾したいのに感覚がついていかない。男が金属バッドを振り下ろした一発目のときは、とんでもなく大きな怒りが体内に荒れ狂っていたのに、何度も何度も繰り返す動きを見ているうちに、変な液を出す彼女を見ているうちに、これが現実かどうなのかもよくわからなくなっていた。
「お前、自分のかーちゃんの腹が大きくない頃見たことあるか?」
「あるよ」
「だろう。それが自然な姿なんだ。お腹が大きいのは不自然なんだよ、だから兄ちゃんは自然な形に戻してやったんだ」
男は汚らしい身なりをしていたけれど、よくよく見ればまだ若い少年のようだった。彼の言っていることはよくわからなかったけれど、彼女の苦悶の表情はくっきりと瞼に焼き付いていた。
蛍光灯の明かりで膨らんだ男の影が、ゆらゆら揺れている。ゆらゆらゆらゆら。真っ白な恐怖心が再び内側を這い回り始める。
「でもお母さん苦しそうだったよ、それにやっぱり、赤ちゃんが」喉が窮屈だ。
「赤ちゃんが生まれてたら、きっとお前は捨てられてたよ」
「なんで」
「子どもは二人もいらないから。それに小さい子の方が可愛いんだよ親にとっては」
「……お母さんは、そんなこと、…しないよ」
懸命に彼の言葉を否定しながらも、どうしようもない心細さが湧き上がる。わあわあ喚きたくて仕方がないのに、縮こまった喉や身体が言うことを利かず。彼の手が音もなく伸びてくる。にゅう。髪に触れる。撫でられた。普段は安心する行為も、全然慰めにならない。
「お前、名前は?」
…答えたら、彼はいいなまえだな、といって微笑んだ。
何処が良いのだろう。お父さんは男の子の首を絞めるのが好きなのだけれど、本当はすっぱり落としてみたいのだと言っていた。それが自分の子どもだったらと想像するだけで興奮する、といって


どのくらいの間、彼と居たのかは分からない。ただ明くる日、突然家に帰ることが許された。
出迎えた彼女の、大切なものが抜け落ち、痩せ細ってしまった身体はひどく痛々しかった。だけれど抱きしめられた際には…何処にそんな力があったのだろう…誇張でなく本当に押し潰されてしまいそうなくらいの物凄い力で圧迫された。実際、悪寒が全身を駆け抜けたほどで、けれどそれを口にしたらいけない雰囲気のようなものもあって、黙っていた。黙って抱きしめられていた。周りが感動の涙を流しているのに、当事者がぶちこわしてはいけない。
「もう何処にもいかないで。私にはあなたしかいないの」
生温い涙が上からぽたぽたと途切れることなく落ちてくる。彼女にはもう幸せの影すら見つけられなかった。やつれ果てた姿は、あの少年に通じるものすらあった。普通に目を見て話すことも呼吸することも出来るのに、何処か平常を逸脱している。…力加減一つとっても、もう感極まってではもはや意味が追いつかない。誤摩化せない。
彼女は後妻で、だからこそこれまで異様なまでに気遣き気遣われるような関係を保ってきた。けれど、今回のことで彼女の人間性は大きな損傷を受けてしまったのではないか。そう思わずにはいられないほどに、彼女の内側に透けて見える輝きは昏くそれでいて純粋だった。多分それを昏いと感じてしまうのは、自分が彼女よりも純粋ではないからなのだろう。彼女よりも自分の方が子どものはずなのに、彼女の方がより原始に近づいてしまった。建前だとか現実だとかにがんじがらめにされていた理性が解放されて、いっそ晴れ晴れしいくらいだ…といったら多分常識的な大人には怒られる。
ある日彼女は庭園…庭師の手によって整えられ見事な調和を生み出している…にてこう言った。
「あなたは私のたったひとりの子だわ」
真意は分からないけれど頷く。あの事件があってから、彼女は自分を以前の形式じみた愛情ではなく、心の底からいとおしんでいると感じるようになっていた。特に何が変わったわけではないけれど、眼差しからして違う。本当の我が子に対するような慈しみを込めて見つめられる。多分それまでお腹の中の子に向けていた感情を、持て余した結果なのだろうとは思う。
「赤ずきんの話は知ってる?」
唐突に何を言い出すのだろう。しかし彼女の発言に脈絡がないのは今にはじまったことではないので、また頷いた。赤ずきんは、病気のおばあさんのお見舞いにいった赤ずきんがオオカミに食べられそうになって猟師に助けられるはなしだ。
「お母さん、前はあの話はきらいだったの。でも、いまは好きよ」
どうして?
「オオカミのお腹はふくれていたわね」
頷いて…もしかしたら頷いてはいけなかったのかもしれないと不意に後悔が走る。希薄な彼女の気配がゆらゆら揺れて揺れて何かを剥き出しにしようとしている。予感めいたもの。だめだ、それを露にしたらもうこちら側には戻れない。
そして彼女は着ていたワンピース…よくよく見てみればこれはマタニティではないのか…前に見た覚えがある…をめくり上げた。










ぱっくりと裂けた腹。発色する内蔵が激しく蠢いている。
「おかあさ、」
頭を鷲掴みにされてぬぶぬぶしずみこむ。ぬぶぬぶぬぶぬぶぬぶぬぶ。
粘膜の味が口いっぱいにひろがってきどうまでおかあさんでいっぱいで











激しく咽せて眼が覚めた。
薄明るい天井が映る。途端に気道に冷たい空気が入り込んできて、胃が痙攣した。苦みばしった味が咽喉にまで迫り上げる。咄嗟に手のひらで口を覆っても、引いていかない。脂汗がぼたぼた落ちる。彼女の顔はおもいだせない。(彼女はこちら側を捨てたがっていたんだ)。迸った胃液が指の隙間から伝い落ちる。昨日の朝から何も食べていないことを思い出す。悪寒がひどい。ひゅうひゅう聞こえる音がうるさい。まるで普通じゃない、自分の喉が出すおとではないか。指先の感覚が脈拍とともに正常な状態に戻ってくる。
「坊ちゃん、朝食のお時間ですよ」
ドアの向こうから淑恵の声。思考が漸く現実に追いつく。ぼんやりしている場合ではない、早くこの惨状を片付けなければ。朝食…とても食べようと思える気分ではなかったが、昨日の朝いらないと言ったので二日連続はさすがにまずい。
汚れてしまった寝具を片付け、身支度を整えてから朝食の席に着く。淑恵の嬉しそうな顔。目玉焼き。粗挽きソーセージ…etc。いつもなら食べられるものも今日に限っては吐き気がする。だけれどそう顔に出せば、淑恵がまたあのときのゆめをみたのですねと心配そうに顔を歪めるのは目に見えていた。彼女には昔から心配ばかりかけている。
弾力のあるソーセージにフォークの刃をたてる。皮がぷつりと破けて身が弾む。立ち上る湯気。溢れる肉汁。(発色。)息が僅かに乱れる。堪えてそれを口に運ぶ。肉の味だ。肉の味だ。肉の。咀嚼して喉に押し込む。胃が喚く。うるさい、勘違いするなこれは(かのじょのないぞう)なんかじゃない。フォークを置きたい。いますぐに。淑恵さえいなければゴミ箱にでも捨ててやるのに。だめだそんなことをするくらいなら、下げてくれと告げた方が余程良い。とやかく考えずに食うべきだ。義務的に食事を全うする。
淑恵が食器を片付ける。トイレにゆっくりと駆け込んでもどした。自室のドアを閉め切り、ソファにもたれこむ。張りつめていた琴線が緩んだのを見計らって、ざわざわと外の廊下から厨房から隣室から誰かの感情がひたひたと押し寄せる。煩わしい。うるさいだまれ。人間の感情は重い。
自然と気持ちはユエへ向く。あそこで飼われている彼らの感情はここまで重たくない。否、重たいけれど汚れていない。同じ人間であるはずなのに。


「こんにちは」


柚谷は、ビニール素材でできた使用済み手袋を詰めた袋を片手に上の階から降りてきた。何らかの作業後らしい。
「どうしたんだ?そんな険しい顔して」
「別に」
「気分が悪いのならまた休んでいってもいいけど?」
無駄に爽やかな微笑とは似つかず、上の階からはストレスを与えられた者特有の感情が漏れ出している。
彼はそのまま下に降りて行ってしまいそうな気配があったので、尋ねてみた。
「何をしていたんだ」
「去勢作業」
オーダーメイド受け付けます。







淑恵は椿がきれいに片付けて行った食器を前に立ち尽くしていた。
米粒一つ残されていないのはいつものこととして、今日は目玉焼きの卵の黄身の欠片…粉さえ見つからない。神経質な食べ方をしている。
乳母であり教育係でもある淑恵にとって、彼の心身のコンディションは何よりも優先される重要事項である。もう十も後半の歳に突入しているとはいえ、彼はまだ未成年なのだ。優しい子供ではあるものの、精神的にやや潔癖なところもある。また、彼の父親であり…雇い主でもある男のことを悪く言うのは気が引けるが、あの男は父親としての適性に欠けている。その分、わたしが親代わりとしてしっかりしなければならないと淑恵は自分の胸に誓っていた。
ところで彼は最近ユエに出入りしている。淑恵も彼が新しい興味を見つけたのだろうと微笑ましく見守っていたのだが、父親と同行してひとりで帰って来た昨日、彼は明らかに焦燥しているように見えた。為肉養育施設だと噂では耳にしているから、初めて訪問する際には昔のことを思い出しはしないかと不安だったのだが、その予感が的中してしまったのだろうか。それとも、また新たに父親の嫌な面でも見てしまったのか。
後妻…奥様の死亡後、ただでさえおかしかったあの男はよりいっそう頭がおかしくなったように思える。
妊婦だった彼女を暴行した少年を探し当てた挙げ句、「直々に粛正する」と赤裸々な私刑を加えていた。その後、少年がどうなったのかは知らない。ただその少年にも家族があったろうに、と思うと複雑な気持ちにならずにはいられない。勿論、奥様に乱暴した少年も鬼畜な人間だったのだろうけれど。
「淑恵」
「は、はい!」
考えるのに夢中になっていたあまり、後ろに近づいていたあの男の気配に気付けなかった。
「椿はまたユエのところか」
「…いえ、坊ちゃんは行き先は言わずに出掛けられました」
「ということはユエなのだろう。お前に心配をかけまいとする奴だからな」
何がそんなに愉しいのか彼は心底愉しそうに笑う。そして淑恵を見下ろすと口の中を捻るような低い笑い声を漏らした。
「淑恵、お前は近頃丸くなってきたな」
「!…」なんてデリカシーのない男だろうか。…いくら雇い主とはいえ、腹立たしかった。
「今ならあのガキが由美の腹を叩き潰した気持ちが理解出来るかもしれん」
由美は奥様のことだ…、淑恵は彼の発言の意味するところを理解するや否や、真っ青になった。ぶるぶると全身が震える。
それから彼が高笑いしながら部屋を出て行くまで、その震えは止まらなかった。恐怖よりも、怒りが上回っていた。瞳孔が乾くほどの間、瞬き一つ出来ず。





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