7.まぼろし









流れ落ちる汗でシャツが肌と溶け合いたがる夏の暮れ。
蜃気楼に全ての景色が霞んで見えた。茹だれた不快感が馴れ馴れしく擦り寄ってきては瑞樹の気力を奪っていく。
「しんどそうなツラ」
何処からともなく誰かの声が飛ぶ。それが自分に向けられているものだと気付いたのはしばらく経ってからのことだ。瑞樹は机に横向きに突っ伏したまま、声の主を見上げて、知らないかおだ、と思った。このスクール内では見知った顔もいないのだから、当たり前だけれど。
「…だれ?」
「さすが麗しのお方は、下々の輩の名前なんて覚えてないって?」
「少なくともキミの顔に見覚えはないね」
人から…容姿だけを見てとやかく言われることには慣れていた。とはいえ、こうも真正面から絡まれると瑞樹もあまり愉快ではない。というより不愉快極まりなかった。整った容姿は大人びた印象を与えることもあるけれど、必ずしも瑞樹の場合内面まで備わっているとは言い難く。
「それで?自称下々の名無しくんは、名前を覚えてほしくて声を掛けてきたわけ?」彼はわざと高慢な物言いをした。
「お前、」
「自己紹介くらい聞いてやるよ。後で聞かれた際に覚えてるかは別としてね」
…蒸した空気にいささかいらついていたのは事実であったし、鬱屈したエネルギーのやり場に困っていたところ、格好の的を得てしまったということもある。とにかく瑞樹は立ち上がって、彼と目線を合わせた。
ここで彼が折れれば平和的な解決も出来たものの、瑞樹の挑発に彼も怒りが沸点に到達していたようだ。
彼は勢いよく襟首を掴んで顔を寄せるなり、吐き捨てた。
「…その捻くれた言葉しか吐けない口を、真っすぐに強制してやるよ」
「他人の振り見て我が振り直せって聞いたことないの?」
火花が目に見えるものならさぞかし派手に散っていたろう。ささやかな敵意が先の敵意を生む。












保健室に着いて新をベッドに寝かせるなり、睦月は言った。
「それじゃあまず瑞樹から説明してもらおうか」
いつも常在しているはずの白衣の先生は、今日に限って外出しているらしかった。
しかし睦月も保健教諭に負けず劣らず保健室が似合う容貌なので、雰囲気だけ成り代わることは十分可能なように思えた。そして頭の中に浮かぶ一つの答え。
こいつはシマウマじゃなくてムーミソだな。
そして説明を求められたので、考える…理路整然とした筋書きを組み立て、それを説明するという行為に頭やら何やらが拒絶反応を示している。あまり政治家のことを笑えない。
「えー、僕は身の危険を感じ取り、彼を突き飛ばしました」結果極めて投げ遣りな説明となった。
「何故、どう身の危険を感じたの。女の子でもあるまいに、変態的な視線でも感じたの」
「僕はそういった性的な危険を感じたわけじゃありません。言葉の意味そのままに取って食われそうな危険を感じたんです睦月先生」
新のあの眼。飢えた獣といっても通じそうにないから砕いて言ってやってるのになんだこの”かば”め。
彼は無駄に天使のわっかなんか乗っかっている髪をさらりと揺らし、目許を歪めた。
「それは瑞樹、本気で言っているのかな」
「そうだよ、僕も今回ばかりは純然たる草食動物の気持ちがわかった」
「念のため確認しておきたいのだけど、新には君の特異体質のことは言ってないだろうね」
「言っちゃいないさ」
…睦月の言葉に、皮膚の下で泳ぐ魚が笑うように身体をぷるぷるぷると震わせた。
「なら良いんだけどね。絶対に彼には言わないことだ。いまの関係を壊したくないならね」
「関係を壊す?」
「そう」
どうしてだろう。彼は…何か続けようとした言葉を飲み込んで、無理矢理口を閉ざしたように見えた。
そして必死になって代わりになる言葉をさがしている。沈めた言葉の表面を剥がすように。ぴりっとぺりっと、ああさぞかし痛痒いだろうな。
「上手く言うつもりはないんだ。だけど僕は、」
…何をそんなに懸命に押し隠そうとしているのだろう。状況はそんなに悪質?絶望的?
(僕が分かっていないだけだって?)
「睦月、」
彼の視線がしなやかな強さを持つ。
「僕らはこのままでいいと思っているから」
それは誰に向けての言葉なのだろう。



その夜、新に電話をかけた。
そういえば彼に電話なんてしたのは初めてだなと思いながら、呼び出し音が彼を捕まえるのを待った。
しかしどうして連絡を取ろうだなんて思ったのだろう。こうでああでとちゃんとした理由があるわけではない…強いて言うなら、睦月の言い方は胸中に巣食った不安を助長するものでしかなかったし、瑞樹自身なんともなしに胸騒ぎがしていたからなのだけれど。それらが内側の生命体のふるえと合わさって大変気持ちが悪かった。
「もしもし、…北浦くんのお宅でしょうか」
新個人の携帯の電話番号なんて知らなかったから、自宅の方に直接かけた。
これまではわざわざ電話をかけてまで話すようなことはなかったし、スクールで直接会って言えば事足りていたのだ。いまだって、自分が何を伝えようとしているのかさっぱり分からない。ただ、いざ繋げればどうにかなると思っていた。
「そうですか、わかりました」
だのに、彼の母親…快活そうな声だった…は、新は外出しているのよと申し訳なさそうに告げた。こんな時間に外出?夜遊びは関心しないぞと茶化そうにも、電話の相手が新本人でないと言っても意味がない。繋がりを断ち切られた機器が手のひらで重みを増した。
…せっかく電話してやったのに、新のくせに生意気だ。
内心毒づきながら、ことりと胸の内が音をたてたのを聞いた。出掛けたって何処に。コンビニにでも行ったのか。新に興味なんてなかったから、彼の行動範囲なんて到底予想もつかないし、知らない。
だからもしかしたら、昼間見せたようなぎらついた眼差しも、そんなに珍しいものではなかったのかもしれない。だけれど、瑞樹の心の中でそれはない、と訴える声がある。あれは必死な、とか、そういう形容の似合うものではなかった。それよりは尋常でない、という表現を使用するほうがふさわしいと思えるような。
「瑞樹、お客さんだよ。あら、電話中だったかしら」
「いや、もう終わったよ。…だれ?」名無しなら帰ってもらおう。
「北浦くん。あの三角巾、骨折?大変そうね」
…あの後、新は教室に戻ることなく帰らされてしまったので、瑞樹と睦月とは顔を合わせていない。
瑞樹はマチコさんの横を通り抜けて廊下を曲がると、開け放たれた玄関の出先で待つ新の姿を認めた。
「…よお」
「こんばんは」
とりあえず第一声として挨拶しておく。…新は普通の顔だ。異常な様子は見られない。
「どうしたの。こんな時間に」
てっきり…こんな夜八時という団欒時に押し掛けて来る図太い客は睦月かと思ったのだが。新は萎縮しながら、
「いや、昼は迷惑かけたみたいだったからさ」
と、殊勝なことを言う。瑞樹は片眉を顰め、小さく微笑してみせた。
「そうだよ、いきなり飛びかかってくるんだから。驚いた」
「…お前が驚いたのかよ、本当に」
「なにその僕が人外…血も涙もない、ついでに感情もない冷血漢みたいな言い方」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
新は眼をひた、と見開いたまま、どこか嬉しげに笑った。
彼の背後に映る夜の闇。三角巾から覗く手の甲が、電柱の光に晒されて青白く色を為している。その上で血液を送り出す管が薄く動く。
「何処か行こうか」
「え?」
「いやだって、此処で立ち話もなんでしょ。夕飯早かったし、小腹が空いちゃった」
本当はさっき食べたばかりだ。だけれど、わざわざ来てくれた彼を無下に帰すのも気が引ける。

「マチコさん!ちょっと新と出掛けてくるから、鍵閉めといて」
手元に鍵がなかったので、声だけ掛けて家を出た。

先導するように歩き出して、彼が横に並ぶまでゆっくりゆっくり足を動かす。やがて新が遠慮気味に追いついて来て、横に並んで、瑞樹は可笑しくなると同時に少しもの悲しくなった。彼は臆病だ。中等部の頃からの付き合いなのに、未だに遠慮が抜けきれない。
だけれどそれも仕方がないか、と瑞樹は多少思い直した。新と瑞樹との間柄は憎まれ口ばかり、売り言葉に買い言葉で成り立っているようなものなのだから。心配する言葉一つ吐けば、ぎこちなく互いの何かが萎んでいく。膨れ上がっていた空気が力をなくして潰れるような、慣れぬ違和感が付きまとう。
だから、衝突の挙げ句、新が怪我をした瑞樹を気遣ったときも落ち着かず。けれど彼が自分の非を認めぬほどの子どもではないことには否応無しに気付かされて。
(いつのまにそんなんなっちゃったんだろう)
昔はただの嫌なガキだったのに。勿論、優しくされれば良い奴だなあとは思うけれど。それでも妙にやり難いと思ってしまうのは自分の方こそ子どもじみているからなのだろうか。
「なんか時間の流れを感じるよなあ」
「ん?」それはこっちの台詞だろう。
「…べっつに。俺もだいぶ馴らされたなってはなし。昔は本当にくそみたいな奴だって思ってたし」
「…だれがくそだって?」表現が汚過ぎるので訂正していただきたい。
しかし瑞樹が噛み付いても新は喧嘩腰になることもなく、自由な利き手で瑞樹の肩を軽く叩いただけだった。…調子が狂う。
だけれど、確かに以前はもっと互いに尖っていた、と思う。態度の前面に相手への疎ましさを剥き出しにして。












瞼をじりじりと焼き付ける日差し。残された命を燃やし尽くさんとばかりに蝉が鳴く。
あの面倒な少年の名を知ったのはつい先日のことだ。出席確認の際、ふと何処かで聞いたことのある声に顔を上げると、見覚えのある茶色い軽そうな後頭部が見えた。同じクラスだったのか。瑞樹自身も名前を呼ばれて生返事をすれば、いくつか向けられた視線の中に強い嫌悪の念を送る主がいて、顔を上げずともそれが彼だと分かった。何だか知らないが突っかかってきて、挙げ句勝手に増幅させた嫌悪感を押し付けて来るとは、なんてうっとおしい奴なのだろう。顔のことで因縁つけてきたからには、己の容貌にコンプレックスがあるのだろう…と決めつけるのはあまりにも短絡的な発想だけれど、それ以外に心当たりがない。そもそも奴の顔はそれほど醜くはないというか多分平均だ。しかしそういう奴に限って他人には理解し難い悩みを抱えているというのも有りがちだ。というか理解し難いという点が前提にある時点で、関わりたくはない。やはり面倒な奴なのだ。
だのに、面倒というものは避けても向こうからやってくる。
「おい」
休み時間。瑞樹の席の前に奴は立ちはだかった。返事もせずに目線だけ向ければ、ああ、あからさまに苛立っている顔。自分から来たくせに、自分から。そういう顔をしていいのは来られた側だけだろうという嫌みが喉元まで迫り上げる。真意が分からないのでとりあえず飲み干す。
彼はずいっと一通の手紙を瑞樹の前に突き出した。
「お前へのレターだ」
「それをキミがわざわざ届けてくれたとでも?僕の為に」有り得ない。
「そうだよ」
彼は躊躇うことなく、あっさりと肯定した。
そして、ぐしゃりとその手紙を握りつぶした。
シンプルな、それでいて十二分に腹の立つ嫌がらせだった。ぽろりと床に落ちた紙くず…と化した手紙。宛名は確かに晴野瑞樹だった。
瑞樹は沈黙し、それから聞いてやった。
「こんな低次元な行為をするだなんて、キミは僕に特別な感情でも抱いてるわけ?まさか、ホモなの?」
「…」
予想もしていない切り返しだったのだろう。彼は絶句した。
しかし逆に瑞樹にとって彼の反応は想定内のものであった。とはいえ、質問自体に深い意味があったわけでなく…それ自体は僅かな仏心を出してやっただけに過ぎない。もしそれで彼が万が一肯定するようなら…塩ひとつまみ程度の可愛げもあるのではないかと思ったのだ。しかしどうやら違うようなので、瑞樹はシンプルに彼の脛を蹴飛ばしてやった。
「痛ッ」
「ざまみろ」












「新、欲しいものがあれば奢ってあげるよ」
商品がびっちりと陳列されていたはずの棚は、人々の手によってまさぐられ、寒々しい空白を露にしている。
瑞樹の言葉に新は弾かれたように顔を上げ、憤慨した。してみせた。
「なんで俺がお前に奢られなきゃならないんだよ」
「いつになく大人しくて不気味だったからだよ」
「…俺にも反省心ってもんがあるんだよ」
ほーお、と瑞樹はわざとらしく嘆息した。肩を竦める。
「僕は別に驚いたけど怒ったわけじゃない。いつまでもへこへこされてちゃ気持ち悪いよ、新のくせに」
「お前なあ」
新は一瞬眉を吊り上げてから、…それから。

「じゃあカフェラッテ」

と、言った。
種類が多かったので、どれ、と聞いたら、彼は右手でそれを取って差し出した。

「分かった。…新」
彼の分を受け取り、自分の分である飲むヨーグルトの紙パックを手に取る。
「ん?」
「腕が治ったら、それまでにノート書いてあげた回数分、ご飯奢ってよね」
「…ほんとくそ野郎だなお前」
「どういたしまして」
その通り、彼の隣にいるのは、あの頃と変わらぬくそみたいな奴だ。



…だからもっとうっとおしくても良いんだよって、言いたかったのに。






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