6.怯え










血を抜き羽をもぎ丸ごと茹でて、切れ目を入れて関節を捻り、肉を剥がした。
その後はきちんと焼いて調理らしい調理をした。
けれどそれでは新鮮さに欠けるのだ。ただの肉に成ってしまうのだ。

だから掴んで直接かぶりついてみたら、少しだけあの肉の味に似ていた。




綾城の父親の方に、顔だけが取り柄の子供を与えた。
息子の方は既に顔色が優れなかったので、いつもの牢ではなく中の休憩室まで連れて行くことにした。
「具合が悪そうですね」
全く手間のかかる親子だ。
横を歩く息子に声を掛ければ、感情の込もらぬ声で「お気遣い頂いて申し訳ありません」と返って来た。彼は堅苦しいスーツを着用していたが、父親の姿が視野から消えるや否や、襟元を締めていたネクタイを緩めた。その仕草にふと年齢相応の青臭さを感じ取り、少しばかり可笑しく思った。この息子が父親のことを苦手としているのは、態度で分かる。分かりやすすぎるくらいだ。そんな話をわざわざ聞こうとは思わないが、聞いたところで彼も正直には答えないだろう。
黙っていたそうな息子に適当に話を振る。
「ESPの子供に何か言われましたか?」
「え?」彼は訝しげな表情をする。
さほど小さな声でしたわけでもない質問に対し、まるでこちらの言葉が聞きづらかったとでも言わんばかりの反応である。さてどうしたものかと千尋は思案した。貧血でも起こして聴覚が混乱しているのか、それとも普通の人間には感じ取れぬものにでも翻弄されているのか。見れば足取りも何だか危うい。仕方なく「失礼」と断りを入れて千尋は彼の手首を掴んだ。ここで倒れられて、怪我でもさせようものならこちらの責任に成りかねない。
「椿さん、大丈夫ですか」
鈍い反応を受けて、意識的に、抑揚をつけて言い聞かせるような言い方をする。
「あ、の…」彼は目に見えて動揺している。なんだ?
「休憩室はもうすぐです、歩けますか?無理そうなら、此処で少しお待ちいただいてから、家までお送りしますが」
彼は蒼白な顔色をしたまま、言葉を並べ立てるほどの余裕もないのか、頷いて千尋に手を引かれるがままに歩き出した。体調が優れないのなら、初めから来なければいいものを。以前の口振りから親子間は良好でないらしいとは察してはいたが、結果こうして迷惑をかけるくらいなら、せめて最低限の遣り取りくらいしてもらえないだろうか。
同建物内にある休憩室に辿り着き、息子の手を放してベッドの前まで追いやると、千尋は背を向けて「座って」と指図した。備え付けのポットから注ぎ入れた白湯を差し出す。何をこんなに自分でも苛々しているのだろうと思ったが、それは相手が綾城の息子だからに他ならないと早急に結論を下す。先日、彼に苛立ちを覚えてから、彼の顔を見るだけで苛立つのが癖にでもなってしまったかのような。出来るだけ態度に出さないようには心掛けてきたものの、いきなりこの非常識な展開では。息子自身、自分が迷惑をかけているとは感じているようで、千尋のいささか高圧的な態度にも文句を言う気配はない。
それどころか白湯を手にしたまま、頭を下げた。
「すみません、お手を煩わせてしまって」
千尋は、一瞬黙した。息子の態度はこの状況においてある意味当然のものだったろう。読めなかったわけでもない。しかし、これまでに交わした数少ない会話の中で、彼が遠慮のない言い回しをする場面は何度か見受けられていたのだ。そのため、てっきり千尋が高圧的な…つまり明らかに不利だと思われる…立場を弁えていない対応をすれば、いくら迷惑をかけた立場であっても彼だって怒りをあらわにするかもしれないとも千尋は予想していたのだ。(それも極めて真っ当な怒り方ではある)…だのに、実際は肩透かしを食らわされたわけだ。
…事なかれに徹すれば、確かに彼の態度も有り得るわけだけれども、それは彼…というよりも息子が、ユエよりも下の立場である場合ではないのか。謙虚で真面目な性格なのは結構だが、相手に付け入る隙を与えかねない。ましてや千尋のような人間であったなら尚更だ。
しかしそこで、千尋は自分の性格を踏まえた上で変に冷静になった。というより、此処で相手の隙に便乗したところで、何らメリットはないし、むしろ反撃されて墓穴を掘りかねない。さすがに彼もそこまで大人しくないだろう。子ども同士で争うこと自体、好ましくはない。
「いえ、とにかく今はそれを飲んだら休んだ方が良いですよ」
「…はい」
息子は僅かに逡巡したのち大人しく白湯を飲み干した。それから、どうすべきか考えているかのように視線を泳がせたので、ベッドに横になるように促した。多少シャツが皺になるくらい我慢してもらおう。心配しなくとも、洗濯はちゃんとしている。
「一時間したら起こしにきます」
彼が控えめにとはいえ横になったのを確認し、千尋は立ち上がった。他人の家では寝付きにくいであろうことは分かっていたが、横になるだけでも多少は楽になるだろう。一呼吸置いて、電気の紐を引いた。…この部屋は妙に造りが古いのだ。外は曇天。室内は昼間だとは思えぬほど暗くなった。

静寂。

自分の呼吸が妙に大きく聞こえて、千尋は息を止めた。
しかしほんの数秒経っただろうか、離れようとして、作業着の裾を掴まれた。驚いてベッドを見下ろせば、その感触は離れて、「電気を」と彼の掠れた声が聞こえた。
どうしたのだろう。もう気分は治ったとでも言い出すつもりなのか、それとも豆電気をつけていないと眠れないとでも坊ちゃんさながら宣うつもりなのか。彼の人を射抜くような眼差しを思い出す限り、後者は考え難かったが。
電気を点けると、彼は千尋に背を向けたまま、こう告げた。

「それほど長く休ませていただく必要はないので、電気はそのままで大丈夫です」

千尋は、僅かに掴まれたかたちを残す裾を見て、それから彼を見下ろした。

少し皺の寄った白いシャツ。
薄くて無防備な背中。
(包丁を入れれば、簡単に裂けてしまいそうな)
彼はこちらを見ていない。彼の、張り詰めた糸のように硬く清廉な眼差しもいまは閉ざされているのだろう。

無性に厭な気分になった。

日頃、目の奥に隠しきれない嫌悪感を浮かべている彼が、
綺麗な瞳に深く透明な戸惑いの色を浮かべている彼が、
そんな弱さを晒すことに。

(彼は俺をその程度の信頼は置ける人間だと考えているのか?)
だとしたら…どうかしている。全く理解出来ない。自らを卑下しているわけではなく、綾城椿という人間が。
彼にとって自分の存在は受け入れ難いもののはずだ。人間を飼育して平気な顔をしているような。
なのに、どうして軽蔑しない?
結局こんなくだらないことを考えているのも…自分だけということなのか。

立ち尽くしたまま、動けない。

駄目だ、やはり…彼が来てから、自分がどうしようもない人間のように思えて仕方が無い。
これまではこんな自意識過剰な考え方はしなかったし、特定の対象に強い不快感を継続して持ち続けるということもなかった。
馬鹿馬鹿しい…彼にこの場所へ何度も来るように仕向けたのは自分だというのに。けれど、そもそもどうしてそんなことをした?…否、それは為の肉質を良くするのに有益だと考えたからであって。そうだ、理由もなく…そんなことをするわけがない。もうあれを、出荷してしまえば用はなくなるのだ。
将来的に取引をするようになったとしても、いまのうちから頻繁に関わり合いを持つ必要は無いはずだ。
そう考えれば、たかだか残り、数回の辛抱だ。
だがそうして先のことを考えたところで、すぐそばで横たわる彼の背中が再び視野に入った。
彼は起きているのだろうか。背中、腕、何気なく握った手首の感触を思い出す。
「…つばき、」
彼は自分とは違う人間だ。…だからこんな気持ちを、味わうはめになる。








「新、それどうしたの」
遅刻してきた新の腕は三角巾で巻かれていた。アグレッシブ過ぎるのも考えものだ。
「ああ、階段から転がり落ちたんだよ」
「ばかだな、新は」
「なにい、もう一回言ってみろよ瑞樹!」
「ばかだな、新は」
頼まれたので仕方なくもう一度言ってあげたら、彼は猿のようにキーキー喚いた。そういえば顔もどことなく猿に似ている気がするけれど、階段から落ちるあたり間抜けな猿だ。新が猿なら睦月は何だろうか、草食動物っぽいな。
「シマウマとか良い線行ってると思うんだけど」
「?何のこと?」
隣にいた睦月に話を振ってみたけれど、過程を省略し過ぎたのか伝わらなかった。睦月なら人の考えくらい読めそうなものだけれど。
「睦月を動物に例えると何かな、ってはなし」
「それがシマウマ?」
「そう」
「なら瑞樹は…ナマケモノあたりじゃない?」
「草食動物のくせに生意気な」
くだらぬ会話を繰り広げたのちしばらくして、瑞樹は自分の席を新の席にくっつけた。有り難くないことについ先日行なわれた席替えで彼の隣になってしまったのだ。おかげで授業中は喧しいわ、今日からは彼の片腕の役目を果たさなければならないわで瑞樹としては散々である。睦月に交代してよと交渉してみたものの、「僕は目が悪いから前の方が良いんだ」としれっとした態度で断られた。彼は善人そうでいて、実は意外に自分中心の男である、というのが瑞樹の中の睦月評である。元々瑞樹は他人に厳しく自分に甘いという人間的に駄目な側面があるが、その件の熱りが冷めていない所為でよりいっそう辛口気味な評価になっていることは言うまでもない。
出席確認中、名前を呼ばれるまでの僅かな暇を持て余した瑞樹は新に話しかけた。
「いやあ、それにしてもその腕不便でしょうがないね、新」
「ん?ああ」
「もし大変だったらお弁当は新の分まで食べてあげるから心配いらないよ」
「余計なお世話だ!」
本当に新はすぐ興奮するのだから。もっと静かに生きた方がエネルギーの節約になるよと言って上げたい。エコだエコ。…静かに永く永く生きて、それが幸せなのかどうかはまだ分からないけれど。ただ、疲れることはしたくない。何故だろう。世間には己の身体を酷使して酷使して、充実感や満足感を得る人たちがたくさんいるのに。人間性の違い、と言ってしまえばそれまでだけれど。

「ほら新、ノートだよ」

授業終了後、瑞樹は速やかに彼に手書きのノートを渡してやった。
それを右手で受け取った彼は瑞樹の言い方に明らか何か言いたげな顔をしていたが、瑞樹は素知らぬ振りをした。…気に入らなかったのならさっきみたいに怒鳴ればいい。変な遠慮なんていらないのだ。なのに彼は何をそんな申し訳なさそうに口を噤むのだろう。つまらない。
と、瑞樹がひそかに現状を憂いていたところ、突然新の右手が伸びてきた。物凄い力だった。
「痛いな、この恩知らず」
襟首を掴まれて首の後ろ側が痛い。
昼休みで賑わっている教室では、この程度の遣り取りで誰も振り返ることはないのだけれど、あまり穏やかな行動ではないのは確かだ。

「新?」
…彼の眼を見て、思わず息を呑む。

そして体内を”あの”感触が蠢いたかと思いきや、彼を無意識のうちに突き飛ばしていた。床を転がる椅子。彼は派手に倒れた。強烈な脱力感が全身に襲いかかってきて、瑞樹は思った。
まずい、よくわからないがやってしまった。と。
さすがにざわつくクラスメートたち。一人の名無しがしゃしゃり出る。「大丈夫かよ、新!」…こうなってしまったが最後、仮に瑞樹が正当防衛だと言ったところで誰も聞き入れやしないだろう。何故なら新が先に手を出したところなんて誰も見ていなかったし、瑞樹はクラスメートに表立ってではないが好かれていない。日頃瑞樹を疎ましく思っている彼らにしてみれば、さぞかし”良い”機会だろう。
「おい、新に何してくれてんだよ」
…新はいつもやたら愛想だけは良いから、こういうとき面倒だ、と瑞樹は思う。友達面した連中が彼の肩を持つ。馴れ馴れしく新、なんて呼び捨てにしているが、どれだけ親密な関係を気取っているのだろう。声を掛けられたくらいで浮かれている。…それは瑞樹自身にも言えることなのかもしれないけれど。
「手、放してくれる?」服が伸びてしまう。
「なに…」
「君たちには関係ないでしょ」
名無しの顔が真っ赤に染まる。ああ火に油を注いでしまったと思ったけれど、歯に衣着せるのはやはり苦手なのだ。
「手前ェ…」
そして予想通りというべきか、名無しは手を放してくれるどころか拳を突き出して来たので、僅かに顔を反らして避けた。バランスを崩したところをするりと逃げ出す。
「新、保健室に運ばなきゃいけないんだからさっさと退いてほしいんだけど」
「てめえが新に手え出したんだろ!」
「だから僕が運ぶんだって言ってるじゃないか」
瑞樹はうんざりしながら名無しを見た。こんなくだらない言い争いで時間ばかりが経過していく。まだお昼ご飯だって食べていないのに。
名無しが血管を額に浮かべて瑞樹を睨む。血気盛んだ。溢れんばかりのエネルギーを持て余している。瑞樹とは正反対のタイプかもしれない。
「晴野…!」
「まだ何か?」
「ぶっころす!」
うわ殺すなんて穏やかじゃない。そもそも新は別にまだお亡くなりになったわけではないのに、こちらだけ殺されてしまうだなんて割に合わないと、瑞樹は思った。そうだ、どうして新は起き上がらないのだろう。頭を打ったわけでもないのに、とも。
…そして、こういう場に運悪く居合わせてしまうのが彼の役回りと言うべきか。

「何だか穏やかじゃないね」

睦月である。
こんな面倒な事態が発生しているときに限って何処に行っていたのかと聞けば、彼はあっさり「トイレ」と答えた。周囲を見回すなり、瑞樹に「どういう状況?」と尋ねるも、瑞樹の代わりに何故か名無しが口を開いた。この出しゃばりめ。
「鳥越からも言ってやれよ」鳥越は睦月の苗字である。滅多に呼ばれることはないが、睦月は鳥越睦月である。
「なにを?」
「そいつが新をぶっ倒しやがったんだ」
全く以て事実だけれど人聞きが悪い。名無しに促されて睦月は瑞樹を見るとこう言った。
「そう、じゃあ保健室に行こうか瑞樹」
それから「よいしょ」と新を引っ張り上げ、教室を出ようとする。当然、
「おい、鳥越…」とお声がかかるわけだけれど。彼は億劫そうな素振りも見せず振り返った。
「なに、×××」
勘違いしないでほしいのだが、彼はきちんと名無しの名前を発音した。それを迂闊にも瑞樹が聞き流してしまっただけの話である。
「そいつのことどうも思わないのかよ!」
そして彼は聞き返しただけあって、冷静に名無しの声に耳を傾けた上でこう言った。
「僕はまだ瑞樹にも新にも話を聞いてないからね。まずは二人の話を聞かなきゃ判断は下せない」
「なん」
「それにほら、死人に口無し…じゃなかった新はいま寝ているわけだから、やっぱりまずは保健室行かなきゃ」
にこりともせずそう言うと、彼は今度こそ新を引きずって教室を出た。瑞樹も後に続いてみる。
「睦月、」
「話は保健室で聞くから。それまでに内容整理しておいて」
「…わかった」
取りつく島もない。とりあえず素直に頷いたけれど。
整理しておいてと言われても、全くどう説明したものだろう。述べられないわけではないが、それが説明になっているかどうかも自信がなかった。

つまり、あのときの新は、飢えた獣のような眼をしていたのだ。





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