5.隔たり







他のものと一緒に洗ってはいけないと思ったので、水面台に水をためて、その中にニットのベストを沈めた。
一度は彼の胃の中にまで達した食物が、再び外の世界へと戻されて、緩やかに溶け出して浮かび上がる。
きっともう程よく消化されてしまっているのだろう、米粒とかも残っていなくて、意外にそれは綺麗なものだった。それとも、彼の中に住み着く生命体による働きなのか。分からないけれど、瑞樹は造りが綺麗だから、内側まで綺麗なのか。
だけれど姉が下痢してしまったとき取り替えたおしめは汚かった。割れ目を拭ったガーゼからは顔を背けたくなるような匂いが立ち上がっていた。それでも次のおしめにまで汚れが付いてしまったらいけないと思って、それはもうきれいきれいに拭き取った。だのに、すぐに新しいおしめもしっとりと濡れてしまって。せっかく取り替えたのに、だめだよ長閑ちゃんと叱ったら、てっきり聞いていないものとばかり思っていたのに彼女の瞳は僕を映し、

「睦月」

水面台の薄く濁った水たまり。その向こうに瑞樹が立っていた。
「おはよう」
ああもう朝なのかと今度は顔を上げて本物の彼を見た。手にビニール傘を持っている。睦月自身も持っている。強かに地面に打ち付ける水滴。
「どうしたの、ぼんやりして」
「ちょっと歩きながら夢見てたみたい」
「白昼夢?」
言葉少なに瑞樹はつらつらと喋る。まるで言葉を紡いだ数だけ命が削れてしまうとでも言いたげに。そんなこと、あるはずがないのに。
だけれどふと、ひとつの疑問が浮かび上がってきたので、聞いてみた。
「気を悪くしないでほしいんだけど」
「うん」
「瑞樹は死ねるのかな」
彼は驚いたように目を見張った。透き通った碧の瞳はとても綺麗だ。口を開かなければ彼は美しくよく出来た人形と勘違いされてしまうかもしれない。…何だろう、夢の名残に囚われているのか、内容を覚えていないのにも関わらず思考が変だ。何だか取り留めもないことを考えている。いくら見た目がまともでも、瑞樹はただの人間で、睦月の友人である。特別視なんてもってのほか、それ以上でもそれ以下でもないはずなのに。
ただ彼が死ねるのかどうかということには興味があった。彼は姉を巣食っていた生命に気に入られてしまったから。…かたちを成していなかった姉のそれが、彼にどんな影響を及ぼしているのかは、わからないけれど。
しとしとと雨が細やかな針を連ねる。その中でも彼は新緑のような柔らかく淡い光を纏っている。
「僕は八十歳くらいで死ぬのが理想なんだけど」
「すぐ冗談で済まそうとするのは瑞樹の悪い癖だよ」
彼は黙り込む。だが彼自身分かっていないはずがなかった。その紛い物とすら思える身体にはESPと称される得体の知れない生物が住み着いている。傷を負えばまるで自分が漏れ出すのを恐れるかのようにすぐに内側から繕ってしまう。驚異的な再生能力は逆に彼の身体を酷使するように思えるけれど、どこからなにからエネルギーを得ているのか枯渇はすぐ補われる。だから、
「もし君のESP能力が老化を上回れば、君は死ねないよ、きっと。歳すら取れないかもしれない」
「睦月、」
「僕はひどいことを言っているんだろうね、でも、可能性としてはありえるから」
彼の雰囲気に流されるように睦月も淡々と言葉を紡ぐ。新がいないときの僕たちの会話は本当に盛り上がりがない、と心の中で思う。嫌なわけではなく、ただの事実だ。嫌だったら、一緒になんていやしない。
「睦月は、」
「うん」
「ちょっと変なところがあるよね」
「どうして?」返事としては適当でなかったと言ってから気付いた。
「自覚ないの?」
瑞樹は非難するわけでもなく、少し呆れたように肩を竦める。それなら、残酷ともいえる言葉を突きつけられても動揺する様子のない彼もややおかしいと思う。彼はもともと、良く言えば物静かな性格であるのだけれども…悪く言ってしまえば感情が希薄に見えてしまう人間なのだけれども。だからもしかしたら、そうは見えなくとも彼は彼なりに動揺とかしているのかもしれないのだけれど。
そういえば自分もいま、彼に感じの悪い言葉を突きつけられているのだった、と睦月は思い出した。
「僕は変じゃないよ、少なくとも瑞樹よりはまともだよ」
「そう?…」
まとも、という言葉を吐き出して、意識が急速に水面に浮上する。そうだ、こんなところで立ち話なんてしていたらスクールに遅刻する。







気分が高揚している。
新は予鈴直前に教室に入って来た友人に駆け寄った。どうせ担任は予鈴が鳴って少ししてから来るのだ。多少話してもかまわないだろう。
「瑞樹!よお、昨日はどうしたんだよ?」
「ああうん、ちょっと食べ物が口に合わなかったみたいで。でも、一晩寝たらよくなった」
愛想の欠片もない口調で彼はそう言うと、新に背を向けて席に着いた。彼にしてみれば他意はないのだが、他の生徒にしてみればかちんと来る態度かもしれない、と新は思う。新自身、余裕がないときなど彼の態度にムッとしてしまうことが稀にある。しかし、そんなことでいちいち目くじらを立てていては彼との付き合いは成り立たない。ただ今日は何故だろう、昨日から続く興奮で多少絡みたい気分になってはいた。
予鈴前にも関わらず、彼の席まで付いていく。
「俺はあんな美味い肉は食ったことないって感動したけどな。まあ、ちょっと香辛料効き過ぎかな?とは思ったけど」
「多分そのせいだよ」
興味なさそうに彼は鞄の中身を机に詰める。いつものこと。
…他の連中も美味いと言ってたけど?
喉まで突き上げて来た言葉を飲み下す。諍いは嫌いだ。
…でも、瑞樹は異端だ、どんな場面でも。
おかしいな、今日に限って彼と距離を感じるだなんて。素っ気ないのは彼の性格で、いつもは気にもならないのに。
たった机一つ分の距離が異様に遠い。予鈴が鳴って、のろのろと担任が入って来て。新は自分の席に着いた。思考が円周上にぐるぐる回る。
あれが美味しくなかったなんて、可哀想だよな。そうだ、瑞樹はかわいそうなやつなんだ。多少のことくらい、目をつぶらないと。





目と目があった瞬間、子供の中に喜びの感情が弾けたのが椿には分かった。
何故喜ぶ?何をしたわけでもない、姿を見せるだけの人間にこの子供は何を求めているのか。椿には、何故初対面であったはずの自分が気に入られたのか、理解出来なかった。…あの子供は、同じESPとしての隠れた資質を椿から感じ取ったのだろうか。

檻の前でしゃがみこんだまま、椿は思考の上っ面をなぞり流れていく子供の感情を眺めていた。請われるがままに通っているうちに、一方的に浴びせられる感情の波にも慣れてきていた。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないし、まだ時折受け取り方にずれが生じて、猛烈に気分が悪くなることも…あるのだが。
「こんにちは」頭上から落ちてきた声に顔を上げれば、もはや見慣れた甘い顔立ちの男。
「お邪魔しています」
しかし、このユエの息子もよく毎回目敏く俺のことを見つけるものだ、と椿は思う。いくら彼が通路の鍵を開けておくにせよ、訪問時刻は毎回適当であるし、彼とて他の階などでの仕事がないわけでもあるまいに。セキュリティに反応でも出ているのだろうか。
「やはりその子は椿さんのことが好きなんでしょうね、いるときといないときでは、まるで別人のようになるんです」彼は椿の隣に片膝を立てるように屈み込んだ。距離が近い。
淡い髪色や薄く青みがかった瞳は北部の特徴が強く出ていて、椿はそのことになんとも言えない気持ちになる。
「そうですか。いったい私のどこを気に入ったんでしょうね」
「さあ、私にはこの子供の気持ちは分からないので」
ユエの息子…椿と接触があるのは此処では専らこの息子の方なので、この際柚谷と呼んでもいいのかもしれない…は椿の隣に膝を立ててしゃがみこみながら、まあ…と言葉を続けた。
「きっと物珍しいんでしょう。本来此処は、貴方みたいな人が来るところではないですから」
そして椿を流し見て、笑う。その口調や表情には皮肉めいた色も自虐の影もない。
…椿は現在、この柚谷を初め、牢の子供以外の者が発する感情は徹底して受け流すことにしている。自身の感情だけでも生き難いのに、他人の感情まで背負っては神経が参ってしまう。したがって、他人の考えていることを読み取るには通常のコミュニケーション通り口調や表情を参考にするしかないわけだが、柚谷相手だとそれがあまり上手くいかない。互いの立場も当然あるだろうが、何というべきか、柚谷の態度に取りつく島がないのだ。相性が悪いだけか?別にこちらとて、同い年だから友達として仲良くしたいだとか空々しいことを言うつもりはないが、考えが理解しにくいというのも何だか。否、柚谷はお喋りな人間であるため、考えそのものは十分聞かされているのだが、観点が自分とは違い過ぎるというか。…失礼だろうか、短慮な結論かもしれない。
椿は落ち着かず、特に会話も思いつかず逃れるように牢の子供を見つめる。元来椿自身、話題が豊富な方ではない。それくらい、柚谷とていい加減察しても良い頃合いだろうに、彼は律儀に椿に声を掛けてくる。社交辞令…柚谷自身が一方的に話したいだけかもしれない。彼もずっとこんなところにいて、気が滅入っているのかもしれない。傍目にはそう見えないが。
そしてまた、柚谷は口を開いた。しかしその内容は。
「この子供、もう時期出荷することになると思うんですよ」
まだ、正確な時期は決まってないんですけどね。
爽やかな微笑で彼は言う。


椿は昨晩、此処に来る前に父親に投げかけられた言葉を思い出した。
「最近、ユエによく出掛けているそうじゃないか」
ソファに深くどっしりと腰掛けた父は、不快そうな顔をした一人息子を愉しげに眺めていた。淑恵が話したのだろうか。
「淑恵は従順な女だ。そんなことはお前も知っているだろう」
どちらとも取れる発言だが、ならば淑恵ではないのだろう。運転手だろうか…この際誰でもよかった。
「ええ。先日訪ねた際に、ユエの…息子と話が合いましてね。彼は面白い奴ですよ」
本当はESPの子供に会いに行っているわけだが、そうなると話がややこしくなりそうな気がして、誤摩化した。ただ、間違っても少年を嬲るという変態的な欲求を満たすためではないということだけ、例え意味があろうとなかろうと伝えておきたかった。血が繋がっているとはいえ、一緒にしないでほしいものだ。
だのに。
「ほう。彼は確かESPと人間とのハーフの子供を飼育していると聞いたがね」
卑しい笑み。子供と聞いただけで涎を垂らすような男が父親だなんて本当についていない。
「お前も一度くらい”か”を捌いてみたらどうだ。良い勉強になるぞ」
”か”は為肉の元となる人間を指す。椿は「…考えておきますよ」と一言残し、父の居座るリビングを出た。立ち聞きしていたのか、廊下に淑恵が立っていた。…彼女は昔から椿とその父である男との間柄を心配している。椿は微苦笑した。
「こんなところに突っ立ってると風邪ひくだろう。…自分の部屋に戻った方が良い」
もうその日の彼女の就業時間は過ぎていた。教育係であり、乳母であった彼女は彼の世話をどこまでもしたがる傾向にあったが、それでは彼女自身のことに手が回るまいと、敢えて時間を定めさせていた。


出荷されるというのはこの子供が捌かれるということだ。
柚谷の発言後、流れてくる子供の感情に恐怖の色はない。子供は柚谷…ヒトの言葉を理解する教育を受けていないのだろう。言語は人間特有の意思の通達手段であり、人間と見なされていない子供には意味不明な雑音でしかないはずだ。
だが例え捉えられずとも、柚谷の放った言葉は既に宙に浮き、彷徨うがままになっている。誰もそれを聞いていなかったのならまだしも、生憎彼の言葉は独り言ではなく、明らかに椿に向けて発信されていた。音は意味を成したのだ。

…椿は、いま自分はどのような顔をしているのだろうと思った。

決してこの子供に対する情に駆られたわけではない。何故ならどんな感情を持っていようとも、この生き物は為だからだ。食われるために飼われている存在なのだから。そう理解した上で自分は此処にいるのだから。半ばESPに対する興味本位で。けれど、ならばこの後ろめたさは何なのだろう。
柚谷はわらっている。

 









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