4.予兆















「お帰りなさい、瑞樹」
「ただいま」
「今日はスクールで何かあった?」
「特には。だけど、今度交流会があるって聞かされたよ」
「交流会?」
「東部の生徒との異文化コミュニケーションを図るそうだよ」
確かそんなような内容だった気がする。鞄を机の上に置き、瑞樹はマチコさんの手元を覗き込んだ。
ちなみにマチコさんは漢字にすると眞智子さんだ。母親の代わりに瑞樹が生まれたときから世話をしてくれている。口元には皺があって、もうすっかりおばあさんだけれど。
「いやだ、そんなに近くに寄らないと見えないの?」
「うん。何だか最近目が疲れちゃって、海老フライか」変な再生能力はあるのにおかしいなあ。
「つまみ食いは駄目だよ、目の方は疲れたら、ほら、水で濡らしたタオルを電子レンジにかけるといいって」
「ほんとに?じゃあやろう」
「でももう晩ご飯だから、やるなら後にしてちょうだい」
それからマチコさんはぱたぱたとスリッパの音を鳴らし、二階へ向かって「ご飯よ」。夫であるサクタロウさんにこれまた漢字にすると朔太朗さんだけれど…に声掛けして席に着いた。サクタロウさんの分のお皿には海老フライではなく秋刀魚が横たわっている。歳のせいか脂っこいものが食べれんのだ。と、以前彼が言っていたからその所為なのだろう。衣の油っ気と魚の脂とでは違うんだね、と瑞樹は返した覚えがある。だってテレビなどではよく脂の乗ったマグロとかいうではないか。今でも瑞樹には油と脂の違いはよく分からない。そして分からなくとも日常に何ら不便はなかった。たかがあぶらだった。
全員揃って食事開始。習慣的にサクタロウさんがテレビを着けて、周りがそれに引きずられてる感じ。
だけれど、珍しくマチコさんが食事中なのに瑞樹の方を見た。
「さっきの話だけど…」
「電子レンジの話?」
「そうじゃなくて、交流会の話よ。東部って言ってたけど」
「うん」
「欠席とかは出来ないの?」
おや珍しいことを言う、と瑞樹は思った。マチコさんは催しものがあれば良い機会だから参加してきたらと彼を唆すのが常だ。するとサクタロウさんまでテレビを見るのをやめてこちらを見ていた。
「希望制ではなく全員参加だとは聞いたけれど」欠席が可能かどうかまでは聞かなかったな。失敗した。二人の顔色を見たら何だか面倒な予感がむんむんしてきた。むんむんむん。更に瑞樹の中では別の生命体が泳いでいる。むんむん。最初は気持ち悪かったけれどそのうち慣れた。
「どうして?」
「…昔お母さんの友達が東部でひどい目にあったから、あっちには良い思い出がないのよ」と、マチコさん。
この場合のお母さんはマチコさん自身のことを指している。彼女は瑞樹の前ではお母さんということになっている。
「一度の経験で東部の人全員を色眼鏡で見るのもよくないよ」たまにはまともなことも言ってみる。
「そう、なんだけど」マチコさんは歯切れが悪い。薄々理由が想像つかないわけでもないから、敢えて切り込んだりなんてしないけれど。そんな悪趣味じゃない。
「とにかく参加するならなるべく目立たないようにして、発言も控えめにするんだよ」と、サクタロウさんが援護射撃。
彼は白い髭を口元に蓄えていて、一見とても教養があるように見える。実際あるのかどうかは分からない。好きだけれど、知ろうとは思わない。
フォークに突き刺さった海老の身体にかぶりつく。白いソースが皿の縁に垂れる。指の腹で拭って舐めとったら、つられるように”それ”は指の裏を泳いだ。

新のはしゃぐ後ろ姿。
瑞樹はそれをのうてんきでいいな、と感じる。瑞樹にしてみれば能天気なのは新の良いところだと思うのだが、本人に言って以前憤慨されたことがあるので最近は言わないようにしている。とはいえ、またいつ口を滑らすかは分からないのだけれど。勿論瑞樹とて、本気で口を閉じようとすれば出来ないこともない。しかし、良いと褒めているのだからそもそも怒る必要などないのに。という思いが根底にしぶとくあるため、本気で口を閉じようとする気構えもあまりないのである。また言ってしまったらそれはそれでいいし。瑞樹は基本的に思ったことは言ってしまいたいたちである。出来れば歯に衣なんて着せたくないのだ。
「新は元気だね」
同様に瑞樹の隣で動き回る新を見守っていた睦月が、「ねえ」と瑞樹に同意を求めた。
彼は果たして楽しいのかどうか、この三人の中では常に保護者の立場に徹している。彼が取り乱した姿など見たことがない。…ああ、一度だけ自分の傷口を見たときがあったか。あのときの彼はとても顔色が悪かった。
「…睦月は良いの?」
視線を向けたテーブルの上にあるもの。新や他の生徒の手にも握られているもの。
「お腹減ってないから。瑞樹こそ、さっきから付け合わせの葉っぱしか食べてないだろう」
「ぼくは…」
その皿の主菜であろうフライはまるで出来立てのように湯気を昇らせ、切れ目からは肉汁を滴らせている。ぱりっとこんがり焼かれた皮は食欲をそそらないこともない。だが…何故だろう、身体の内側がぞわぞわする。あの結婚式以降、瑞樹に取り憑いた何かが肉を拒絶している。ただの鶏肉かもしれない豚肉かもしれない牛肉かもしれない、将又別の羊や犬の肉かもしれないのに。何かは肉全般を受け入れたくないのか、それともこの肉だけが特殊なのか。だって昨日海老フライ食べたではないか。
「瑞樹!ほら、お前も食えよ!美味いぞ!」
新までが走って来て瑞樹にフライの乗った皿を差し出す。彼の頬には仄かに赤みが差して、とても生き生きとしているように見えた。よくよく周囲を見回せば、他の生徒も同様だ。皆、この交流会を心の底から楽しんでいるようだ。だけれど、こちらを眺める東部の生徒たちの眼差しには、純粋な興味や緊張とは違う色が混じっているような気もする。
(嫌な感じ)
中には談笑している姿もあるけれど、何処か交流会というわりに遠巻きに見られているような。
「僕は、揚げ物はそんなに好きじゃないから」
「なあに言ってんだよ。お前今まで普通に揚げ物食べてたじゃん」
「昨日揚げ物の油が跳ねて火傷して以来嫌になった」
「うだうだ言ってないでほら」
口にフライだか唐揚げだかを押し込まれた。余程新は興奮しているのだろうか、普段ならここまで無理強いなんてしない奴なのに。
内心愚痴りつつ、仕方なく顎を使って異物を咀嚼しようとした瑞樹だったが、喉に流し込もうとして「むぐ」と呻いた。
これは、まずい。だめだ、なんでわからないでもだめだ。うけつけない。きもちわるい。
「瑞樹?」
新を突き放し、閉じられた教室の扉の鍵をこじ開け、(視界が二重だ)、トイレへと駆け込んだ。(床がたわむ)。胃が、ぐるぐるしている。
特有の感覚が喉の奥に突き上げる。便座の前にかがみ込もうとしたら、誰かに腕を引かれた。睦月だった。
なんて空気の読めない奴なんだろう。睦月はまともそうに見えて昔から少しずれたところがある。おかげさまで彼の胸に盛大に吐いてしまった。
呆然としている可哀想な睦月。(だけど冷静に考えてみれば僕の所為じゃない)。彼は緩慢に瞬きをして、それから着用していたニットのベストを脱ぎ去った。ワイシャツにも少し付いてしまっていたけれど、彼は極めて冷静な口調で、
「まあ後で洗えば良いか」
寛容なのか感覚が鈍いのかよく分からない。かと思えば、彼は瑞樹に向かって「大丈夫?」と心底気遣わしげな声を出した。瑞樹自身は吐いてすっきりしていたけれど、吐かれた方はさぞかし嫌な気分だろう。しかし彼はそれが顔に出ない。
「睦月のそれ、洗わないと」
「うん。それより瑞樹はもう大丈夫なの?」
「僕は、別に。睦月こそ、それじゃあ帰れないでしょ。僕の服貸すからちょっと待ってよ」
「別にちょっとくらい平気だよ。でも、今日はこのまま帰ろうか、担任には後でメールしておけば良いよ」
彼はニットベストを軽く水道水で濯ぎ、緩く絞った。空いている左手で、瑞樹の肩を支える。
「…大丈夫だって、もう楽になったし」
「僕が不安なだけ。瑞樹は気にしなくていいから」
「わけわからん」
本当に、最近はよくわからないことだらけだ、と瑞樹は思う。








『あれは貴方を気に入ったんですよ』
何気なく告げられた言葉。青年の軽やかな声色。淡い、水色。
あそこへ足を運んで以来、椿は体調を崩し、ベッドの上で過ごす日々が続いていた。
風邪の怠さや貧血等とはまた違う違和感が、身体の内側をうごめいている。医師には、慣れないもの…それはESPの子どものことを示している…と関わったからでしょう、そのうち回復しますよと言われた。しかし椿は自分の身体が既に”これまでとは違うもの”になってしまっていることに気が付いていた。ベッドの中で丸くなっていても、扉の向こうを行き交う人々の感情が漏れ出して来る。
実に忙しなく怠惰で、義務的でもあるそれらは腐りきった……言葉のないネガティブな感情の洪水だった。まともに受け止めてしまえば額には脂汗が滲み、指先やら背中が冷たくなって呼吸が覚束なくなってくるようで、彼は目を閉じて耳を塞いだ。そうしてさえいれば、流れ込んで来る情報も少しは引いていくような気がした。
(伝染(う)つされた…のか?あの子供に)
まだ分からない。ただあの少年の能力に感化されて感覚が興奮しているだけなのかもしれない。しかし何にせよたまったものではない、と彼はベッドから身を起こした。体調を崩して三日。いい加減起きて生活しなければ、際限なくこの状態が続いてしまうような気がする。寝間着を脱ぎ捨て、長袍に着替える。異国の衣装らしいが、父に子供のときあてがわれて以来、逆らうのも億劫なのでこの手の服ばかり着るようになっている。無論、先日のユエ訪問時のように、スーツなどを着る時もあるが。
ドアノブを回すと、椿の世話係である淑恵が立っていた。
「体調の方はもうよろしいのですか、坊ちゃん」
「ああ。…ちょっとユエに出掛けて来る。…親父には聞かれても言わなくていいからな」
「かしこまりました。病み上がりですので決して無理はなさらずに」
ユエまでは多少距離がある。玄関を出ると、椿は送迎の人間に車を出させた。運転手は嫌な顔一つせず、エンジンキーを回す。滲み出る感情も決して不快がっているものでなく、椿はいくらか安堵し、同時に自身の変化に戸惑いを覚えた。この妙な能力は一時的なものなのだろうか。だとしたら早く消えてほしい。いまこの瞬間、通行人の感情が思考をちくちくと刺激してきて煩わしい。柚谷はあのESPの能力がどういったものか知っているようだったが、この現状を打開する術も知っているのだろうか。そうであってほしいという気持ちが椿の中にはある。
「やあ、どうも。また来てくださったんですね」
どの程度時間を所要するか分からない。車を返し、入り口ゲートを通過すると柚谷が速やかに姿を現した。
作業着なのは相変わらずだが、今日のは血が跳ねていない。僅かに胸を撫で下ろす思いで椿は息を吐き、無駄に爽やかな面に言葉を投げかけた。
「あのESPの子供に会いたいんですが。それと、柚谷さんにも多少お時間をいただきたい」
「もちろんかまいませんよ。中へどうぞ」勿忘草色の澄んだ瞳が笑う。
いざなわれて、記憶にある通路を通り階段を下りる。子供が嬉しげに舞い上がっている。頭が痛い。強烈過ぎる。
「綾城さん、どうかしましたか」
思わず頭を抱えた椿を、柚谷は興味深そうに見下ろす。慌てたり、不審がったりする様子はない。…彼は、どこか歪だ。
「柚谷さんは何も感じないんですか、この子供と、居て」
「生憎私にはそういった方面の感応力はないようでして」
だからなのか、この子供はなかなか懐いてくれないのだと柚谷は言う。
生まれたときにね、一応初めて視界に映った生物のはずなんですけれど、とも。
だが椿の目に子供は三歳児程度に見える。そう言うと柚谷は注射器を射つ真似をして、にこやかに。
「成長促進剤入れてますからね。ああ、勿論肉には無害のものですよ」
「…さすがに、痛がりませんか」成長が著しすぎる。
「何かを飼育するということは少なからず人の都合を押し付けるということですから。ねえ、だって綾城さん。植物や他の家畜だってそう、人間にしたって子供の身長を伸ばすという名目で成長ホルモンを投与することもあるわけですよ。何かおかしいことがありますか」
柚谷はぺらぺらとよく喋った。逆に彼の方面に疎い椿は閉口して「いえ」と目を伏せた。すると柚谷は僅かに屈んで椿に顔を近づけた。
「だけれど綾城さんは優しいですね。そんなこと考えたこともなかった」
「それは柚谷さんがお父上から専門的な教えを受けて、この仕事に従事しておられるからでしょう」
「そう。でも、それらが痛がることを考えたことはなくとも、その子供を初めとした成育過程にある為肉に、愛情が大切であることは知っているんです。綾城さんなんかは、矛盾している、と感じられるかもしれませんけど」
もはや何を矛盾と感じるべきなのか椿は混乱しかけたが(感じないが知っていると彼は言う、おそらく今後も同じことを続けるであろう口調で)、その後続けられた言葉に反応した。
「綾城さんには、その子供にささやかながらも愛情を恵んでやってほしいと思っているんですよ」柚谷は椿から一歩離れた。
「愛情?…私は、何を」恵んでくれと頼まれるようなものだったのだろうか、それは。
「会いに来てくれるだけで良いんですよ。別に餌をやれだの撫でろだのは言いません。そんなことはこっちで適当にやります」
勿論、適当にというのは適切な質と量と与えるということですからね、誤解しないでくださいね。







驚いた、というのが正直なところだった。
どうやら綾城の息子はESPの資質があるらしい。感応するというのはそういうことだ。
まだ若いので売りに出せば高値がつくだろうに、さすがに取引先の息子では諦めざるを得ない。
それにしても、と千尋は子供の髪をわさわさと撫で上げた。子供は気持ち良さげに頬を緩める。『柚谷さんは何も感じないんですか』目の前に商品があるということくらい感じるさ。
…この牢の中で生まれた時点で既にこの子供は人間ではない。大半の人間は人間以外の生物の痛みには目を背ける。そうした方が都合が良い。例え可哀想だの何だの言ったところで所詮それは自分の目に見える範囲の自己満足でしかない。加工された後は何にも思わないし感じない。別にそれは悪いことではない。感受性が度を超えれば生き難くなる。ある程度人間は鈍くなければならない。
しかし…彼との遣り取りを思い出すだけで、頬の筋肉が笑ってしまう。彼自身、取引先の息子という立場から生ずる発言もあっただろうが、あまりにもその態度が真っ当過ぎて千尋は感心する反面いらいらしてしまった。上っ面の言葉を並べ立てるのが本来の自分たちの間柄だとしても、所詮ガキ同士、何を無理に取り繕うことがあるだろう。否、彼の言葉が綺麗ごとではなく本気で吐かれたものだと分かっているからこそ、自分は苛立っているのだろう。涼しげで切れ長な眼と艶やかな黒髪は、否応無しに芯の強さを感じさせたけれど。
…自分が格別薄汚れているわけではない、ただ彼が。








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