2.呼吸する人形








尚、姉と結婚式を挙げた男性は、友人たちに笑いながらこう話していた。
「ESPと結婚しただなんて気味が悪いよ。伝染ってたらいやだよなあ。俺も検査した方がいいのかな」。





いくら姉がそれとはいえ、ESPという存在について、睦月はそれほど詳しく知っているわけではない。
だがまだ彼自身が幼かった頃…両親が彼女を妙な検査機関に連れて行った日のことは、今でも覚えている。帰って来るなり小躍りして異常な喜び様を見せていた両親とは対照的に、姉の顔からは表情ともいえるべきものが抜け落ちていた。心配になってその手に触れても、ぴくりとも反応しない。
「長閑ちゃん、どうしたの」
歳近い姉のことを、睦月は名前で呼んでいた。
「長閑ちゃんはね、検査に見事合格したのよ」
黙ったままの姉の代わりに、母が答えた。些細なことではあったけれど、見事、という言葉に大人の欲が透けて見えて何だか嫌な感じがした。そのため睦月は母の口からではなく、姉の口から何か言葉が紡がれるのを待った。(綺麗な言葉で訂正してほしかった)。だけれど、彼女の唇は話すという機能を忘れてしまったかのように硬く引き結ばれたまま。睦月はそのとき漠然ではあったが、長閑ちゃんは嬉しくないんだ、と感じ取った。そして、本人が嬉しくないことを、どうしてお母さんたちは喜んでいるんだろうと疑問にも思った。
以後の姉は母の抱っこ人形のようだった。着替えも母の手によってなされ、排泄も最初のうちこそ数時間ごとに連れて行かれていたが、やがておしめをあてがわれるようになった。そうして、十になった娘が自分の身の回りのこともできぬ、赤子のように成り果てているというのに、母は「幼さは純粋な証だ。清らかで価値がある」だとかわけの分からぬことを言って、娘の退化を肯定的に捉えてさえいるようだった。それどころか、この恩恵を姉の弟である睦月にも分け与えんと言わんばかりに、彼女は姉のおしめ替えを弟の睦月の役割として割り振った。
もはや見る影もないとはいえ、姉は元は芯の通ったところのあるおしとやかな娘だったがために、幼心に睦月は反発に近いものを抱いた。姉をかわいそうだ、とも思った。だけれど、その思いを誰に伝えればよかったのだろう。母も父も、睦月とは考え方の違う人間だった。かわいそう、と言ったところでどうしてかわいそうなのかと問い返されるのは目に見えていて、彼は哀しくなった。実の弟に下半身の世話をされる姉の羞恥を思いながら、湿ったおしめを替え続ける日々が続いた。
そして姉は一年と少し経った頃、部屋から忽然と姿を消していた。睦月がスクールから帰ってきたときには既にいなかった。両親は神隠しだと嘆いたが、睦月はそうは思わなかった。おそらく彼女は、彼女自身を守る為に、勇気を振り絞ったのだろう。そして本来、そんな勇気は必要なかったはずだった。彼は思った。
たかだか十歳の子供が家を出て、どうして生きていけるだろう?
例え、彼女の精神がこの一年で、あらゆる喪失で渇きひび割れていたとしても。

それから睦月は文献を読み耽り、両親にESPのことを聞き齧った。
常日頃、両親は日陰に寄り添って生きているかのような、質素さと寡黙さを併せ持った夫婦であったが、ESPのこととなると途端に人が変わったかのように饒舌になった。ESPとは超能力者のことで、素晴らしくも長閑ちゃんはその素質があったのだ、なのに…と熱っぽく語り出しては必ず最後は姉への愚痴で終わった。長閑ちゃんの超能力ってなに、と聞けば、それはまだ発現するにまで至ってなかったので分からないという。もう少し付け足せば、発現する能力には個人差があるのだという。睦月はそこで口を挟んだ。その頃、姉と同じく十になろうとしていた睦月でも、超能力者が世間の一部では未だに偏見の目で見られることがあると知っていたからだ。そんな状況で、娘が超能力を持っていたとしたら親としては厄介の種でしかないのではないか、歓喜するのは間違いなのではないか。世間の目はさておき、一種の才能を持った娘を自分の子供に出来て幸せだという側面もあったかもしれないけれど。すると母は頬をぶくぶくと粟立てた含み笑いを浮かべて、睦月に顔を寄せた。睦月ちゃん、
「超能力者はね、おいしいの」
そして咀嚼するような真似事をしてみせる。睦月が理解出来ずにいると、母は「睦月ちゃんももうすぐ十歳ね」と薄気味悪く嗤うのだ。

やがて迎えた十歳の誕生日に睦月に届けられたのは、検査機関からの陰性という報告だった。
あからさまに落胆する両親らの姿に、睦月はかつてない失望を感じた。姉の件もある。何を期待していたわけではないが、そうだこの人達はこういう人間だったと改めて突き付けられた現実を、彼は冷めた気持ちで飲み込んだ。飲み込むことは容易かった。不味いというよりも味がなかったので。

両親のESPへの異様な執着。
それを目の当たりにしてきた睦月は、友人を家に連れて来るのは勿論のこと、親類に紹介することも避けた。両親はESPの気配や兆候を見逃さない。無関係な彼らを、厄介事に巻き込みたくはなかった。
長いこと遠方で暮らしていた姉は、名前や素性すらも偽っていながら、結局は両親の執念ともいえる捜索により見つけ出され、”肉”となるべくして送り出された。
娘と引き換えに得るものを得た両親は精神的な潤いをも得たかのように見える。ただし得たものは金ではない。









麗らかな春の陽気に世界が夢見心地になっていた。
窓際の椅子に腰掛け、うつらうつらと木漏れ日に寄り添う母の姿。膝上に乗せられた手はがりがりに痩せ細っていて、まるで鳥の足のようだと千尋は思う。かつてはその腕で自分を抱きかかえていたというけれど、とても信じられない。ただ、昔の写真を見ると、今より少しふっくらしている姿がそこにはあって、随分と痩せてしまったんだな、と申し訳ない気持ちになる。母はいつも、彼女自身の取り分も自分に与えてしまう。
玄関から訪問を知らせるベルが鳴り響き、彼は起きてしまってはいないかと休む母を振り返ってから、立ち上がった。くしゃりと床でちぢれた新聞が春風に煽られる。軋む床板。古びた扉を押し開けた先に父が立っていた。
「親父、どうしたんだ」
出稼ぎに出ていたはずの父の突然の帰宅に不安が頭を擡げる。仕事が首にでもなったのだろうか。仕事から戻ってきたばかりでくたくたの母に、嫌な話は聞かせたくない。
「花枝は何処だ?」
「居間で寝ているよ。だけど、何だって急に…仕事が休みにでもなったのか」
決して裕福ではない家庭が更に貧しくなるのかという非難を込めたつもりで、千尋は声を尖らせる。自分などまだ働ける年齢ですらないということを棚に上げて。そのことに不甲斐なさを覚えながら。だけれど父は彼に見向きもせずに「居間だな」と抑揚のない声色で言った。いつもなら、千尋の態度を「まあ、そう言うな」と窘めるところなのに、何だか様子がおかしい。目が、彼を見ていない。千尋は父の自分より一回り以上広い背中を追うように、狭い廊下を伝い歩いた。
「花枝」
父の低い声色が柔らかな静寂にのしかかる。浅い眠りについていた母は気怠げに瞼を持ち上げて、「帰っていたの」と彼を見た。彼は「ああ」と返事をして、そっと母の肩に手を置いた。そして、そのかさついた首筋に甘い口付けを落とさんとばかりに唇を寄せる。…父の母に対する溺愛は今に始まったことではない、…千尋はそれを何とも見るともなしに眺めていた。けれど、不意に聞き慣れない…がちり、と歯と歯の擦れ合うような音が聞こえたように思えて、彼は瞬きをして”ちゃんとみた”。母は白目の部分を剥き出しにしている。重なる二つの影。父の赤く太い舌が、同じく赤みのある肉に挟まれた白い骨を舐めほじっている。骨と骨との隙間にある肉の欠片すら残すまいとでも言うように。そこで千尋は、父が母を食らっていることに気付いた。
「…親父」
千尋は唖然として……頭の中にあるはずの脳が突然役立たずの塊に成り果ててしまったかのように、何も考えられずに……目の前の光景を見ていた。ぶらりぶらりと振り子のように揺れる首、留め具が弾けて白髪の混じった茶色い髪が広がる。父の喉は引っ切りなしに何かを嚥下している。何か…母の血肉だろうとのろのろと判断を下しかけて、上擦った声で千尋は尋ねた。
「親父、なにを…しているんだ」自分の声でないみたいだ。返事は、なかった。
どうなっているのだろう。
こんなことしたら、母さんが死んでしまうではないか。というよりもう。
こんなになっては、駄目だろう。よくわからないが、駄目だろう。
さっきまで生きていたのに。
たぶん母は死んでしまった。たったいま、この瞬間に。
違和感に気付いたときに父の行動を止めることも出来たかもしれないのに、突然の衝撃に自分が完全に出遅れてしまったので。
彼はだれも聞く者の無い言い訳を並べ立てた。
それは、こんなことが起きるだなんて思ってもいなかったからで。
死というものを、知識としては知っていたのだけれど。

目の前の景色が白く白く、蜃気楼のように霞んだ。
開け放していた窓から、風にあおられた花が吹き込んだのだろうか。
堪えきれず目をつむって、どれくらいたったのだろう、ふたたび目を開けたときには、それらは足下で無惨に散らばっていて。


降りそそぐ木漏れ日の暖かさの中に、うっすらとした肌寒さを覚えた。


千尋はそこに父の姿だけを見つけ、短い笑い声を漏らした…何故なのかはわからない…それは自然に込み上げてきたものだったし、聞き方によっては溜め息のようでもあったろう。彼は軽い目眩を感じて、手のひらを右瞼に押し当てた。どうやらこの出来事は夢ではないようだ。父は手のひらにすっぽりと収まった、ちいさな肉塊の筋を食いちぎっている。母を咀嚼する父の喉元を左目だけで眺めながら、彼は深く息を吐いた。
(母さんはこれで楽になれるんだろう)
死んでしまえば、もう日々の生活を送るためにあれこれ考える必要はなくなる。これでよかったのかもしれない。いや、よかったのだ。父もきっと、母に申し訳なく思っていたのだろう、だからこそこんなことを仕出かした。(親父は母さんをとても愛していたのだ、そうでなければどうして人肉なんて喰えたものだろう)
千尋は手を下ろして、乾いた手のひらを握りしめた。(心臓の音がきこえる、けどだれの?)。視野の隅に、ぼんやりと父が映る。
視線が合った。
いつのまにか、口周りをべとつかせた父がこちらを見ていた。
開いた口から覗く、蠢く赤い舌。かりこりと骨を転がす音が鮮明に鼓膜を突く。
最後の肉片を食し終えた男は、とても…慈悲深い笑みを浮かべ。

千尋はそのとき、下半身に焦げ付くような熱さが突き抜けたように思った。
それはちょうど、身体の変容する時期にあった彼にとって、生まれて初めてともいえる絶頂であった。圧倒的な爽快感と、僅かな罪悪感とが、その薄い少年の身体を満たした。
彼は床に膝をついて、無惨に広がる白い花びらを見下ろした。
かあさん、と声も無く呟く。
最愛の妻を食した男が歩み寄り、そんな彼の手を取って告げた。
「千尋、俺と一緒に来るんだ」



(…さようなら、母さん)




転居した先の東部のスクールには、少し生活が落ち着いてから通い始めた。北部特有の色素の薄い容姿の千尋には、物珍しさも手伝ってか、寄って来る生徒も多かった。
当初、彼は周囲に溶け込むため、人当たりの良い人間になることを自分に律した。変に浮いて、父親を困らせるのも嫌だったのだ。おかげで、彼は好青年として周囲には受け入れられた。しかし彼のためにと開かれた歓迎会での女子の発言には、思わず閉口した。
「北部の男の子って、穏やかで女の子に優しいんですってね」
諂うような声色。ありがちと言えばありがちな、多分これから先も珍しくないのだろうなと思われる言葉ではあった。だが、媚びるように脂肪の塊を腕に押し付けられ、千尋は笑顔ながらも内心うんざりしていた。いったい…何処からそんな妄想を引っ張って来たんだ?未成年であるにも関わらずアルコールが含まれたジュースを飲み干し、歓声を上げる同級生たち。ささやかなルール違反に陶酔している。確かに、そんな振る舞いが許される年齢ではあった。千尋一人が勝手に冷めているだけで。そして、それを悟られてはならない。
千尋は周囲に合わせて一人の少女の服を優しく脱がせた。母親以外に初めて見た女の身体だった。枯れ果てた母とは正反対な、それでも未熟な身体。アンバランスにやたらと大きな乳房に触れれば、彼女は故意的に恥じらう素振りを見せた。ああ、

「うんざりしたろう」

帰ると父にそう言って笑われた。
「スクールなんてものはそんなところだ。どうだ、俺の仕事でも手伝ってみないか」
教育者が聞けば怒りを露にするであろうことをあっさりと言ってのけ、彼は千尋を彼の仕事場へと誘った。
人工的な建築物。一見して壁面は白く、病棟を彷彿とさせた。出稼ぎだったはずの父はいつのまにか経営者へと変貌を遂げていたらしい。だが何の?
冷たいコンクリートの床を踏み歩きながら、千尋は父の後をついて回った。すると彼らの行く先々で、鎖に繋がれた人間がいた。始めこそは個人経営の刑務所なのかと自分を納得させようとしたが、彼がそうして目を反らすのを許すまいとでもするように、父は施設内を歩き続けた。家畜のように与えられた餌をひたすら貪る人間。その眼差しには知性の欠片もなく。
「親父、此処の人たちは…」
「食用の人間たちだ」
「食用の、人間」
父は驚かそうとするでもなく、至って自然に返答した。
「人間といえど、世の中には食う人間と食われる人間とがいるんだ。千尋、よく覚えておけ」







教室に着くなり新は言った。
「おい瑞樹!聞いたか?」
「何を?いま来たばかりの僕は、何を聞いておけば良かったことになってるの」
「畜生め、朝から捻くれたこと言わないで黙って聞けよ」
彼は腹立たしげに唇を尖らせたのち、瑞樹の鼻先に勢い良く指を押し付けた。
「今度東部との交流会があるんだってよ」
「交流会?」鼻先が潰された程度で瑞樹の端正な面立ちが崩れることはない。
「そう、異文化交流だ。よく分かんねえけど楽しそうだろ」
「そうだね、新はいつも楽しそうで、僕も君のそんなところはきらいじゃないよ」
「俺じゃなくて交流会の話だから。ていうか…と言ったところで何だか結果は見えてるしなあ」
照れているのだろうか。新は悔しげに眉を顰めながらも、仄かに赤面している。
「さすが、新。よくわかってるじゃないか。長い付き合いなだけある」
しれっと返せば彼は恨みがましげな目で瑞樹を見遣り、それから視線の先を更に向こうへと移した。
「睦月!よう、聞いたか!」
「おはよう新。どうしたの?」睦月はちらりと瑞樹を流し見たのち、にこやかに新の姿を捉えた。
「今朝聞いた話なんだけどな、今度東部との交流会があるんだってよ」
新は先程瑞樹に言った言葉をそのまま睦月に繰り返した。
「…交流会?」
「そう、異文化交流だよ。聞いた話じゃ堅っ苦しいもんじゃなく、パーティ形式らしいぜ」
「へえ。それって希望制じゃなくて全員参加なの?」
「そうなんだよ。それも打診してきたのは向こうのスクールで、費用も向こう持ちだってんだから校長としては鼻高々だよな」
腕を組んで鼻をならす新を横目に、
(わざわざこんな片田舎にあるスクールに声を掛けてくるんだから、物好きも良いところだ)
と、瑞樹は内心つぶやいた。睦月の表情を垣間見、再び視線を新に戻す。はしゃいでいる彼は微笑ましいけれど。
(パーティとか嫌いなんだよなあ)
この間も結婚式で妙なものもらっちゃったし。
彼はチャイムが鳴って散らばる友人たちを見送りながら、自分の席によっこいしょと座り込んだ。


”ぼくにとってもふつうのことじゃないから”。
今朝方膝上に巻き直した包帯は真新しい白さを保ったまま、消えた傷口を覆っている。






← back/next →