1.花嫁






宙に放たれた花束は、次の幸福を求め、せめぎ縺れ合う者たちの真上へ。
瑞樹はその花束を放った花嫁を見遣り、束の間、彼女にまつわる噂を思い出す。”花嫁は美貌だけでなく、超能力をも兼ねそろえている”。友人である新(あらた)がわざわざこの結婚式に瑞樹を誘ったのも、彼自身が婿側の親類であることも然ることながら、その噂が現実と化した際、感動を共有する相手が欲しかったからに違いない。ただしそんな彼の期待に反して、結婚式は至って平穏に進行し、幕を下ろそうとしていたわけだが。
突如、強い風が吹いた。
瑞樹は花束が突風に煽られて自分の方へ落下して来るのを見た。誰かが滑り込んで来て奪い取るのではないか、花束がひとりでに舞い戻るのではないかという僅かな期待は裏切られ、鮮やかな色合いが腕の中に収まる。隣に居た新の嘆息が聞こえて、周囲の女性たちは落胆の息を漏らした。しかしその瞬間、視界が強烈なほど目映い緑色に染まって、(なんだ?)、瑞樹は全身が締め上げられるような息苦しさに見舞われた。
「瑞樹?」
「なん、でもない」
黙り込んでいるのを不自然に思ったのか、訝しげに自分を見る新に背を向ける。目眩でその場に座り込みたくなるのを堪えて花嫁の様子を窺えば、彼女は惚けた顔をして立っていた。まるで、何故自分が此処に居るのか分からないとでも言うように。
(何故?)

「で、昨日、結局何だったんだよ?」
翌日、スクールに登校途中。後方から走り寄って来た新の開口一番の台詞がそれだった。
「別に何でもなかったよ、ただの立ち眩みだよ」
「何だよ、とうとう異常事態が発生したのかと思ったのに」
彼の頭には元よりそれしかなかったらしい。不満そうに唇を尖らせたアヒル顔に、瑞樹は呆れて肩を竦めてみせた。
「そっちこそ、僕の心配はしなかったわけか」
「いやもちろん、瑞樹の心配もしたさ。誤解すんなよ」
「別にどうだっていいけどね」
そんなことよりも、昨日急激に生じた不快感はいったい何だったのだろうと瑞樹は眉をひそめる。今は何ともないので、一時的に花嫁の超能力とやらに当てられてしまっただけなのだろうか。超能力者が異端であると認められているこの時代に、超能力の存在有無自体を否定することほど馬鹿馬鹿しいことはないけれど、それが自分に降り懸かってくるだなんて全く以て運が悪いとしか言い様がない。どうせなら新が花束を受け取れば良かったのに、彼なら嬉々としてあの不快感に感じ入ったろうと内心友人を貶しながら、瑞樹は黙々と足を動かした。今朝は少し寝坊したので遅刻しそうなのだ。
教室に着くなり手提げ袋から体操着を引っ張りだす。一限目は体育で、順当に着替え終えた者は既にグラウンドへと向かいつつあった。
「やばい、後一分しかないぞ」と、新。
「なんで今朝に限って寝坊なんてしたんだろう」
いつも寝坊なんてしないのに。やはり昨日の苦痛でいつになく身体が疲労したんだろうか。瑞樹は一人愚痴り、わたわたと駆け出す新の背を追った。

「こら、おそいぞ!」

しかしながら、人類である彼らが多少急いだところで時間を超越するには至らず、授業はとっくに始まっていた。
どうやら今日の授業内容…というよりも最近はずっとだ…はサッカーらしく、皆、砂煙を巻き起こしながら駆けずり回っている。
晴野はA、北浦はBチームだという教師の声を受け、はてどちらの集団がAなのかと首を傾げた瑞樹にコート内から中性的なお声が掛かった。
「瑞樹はこっちだよ」
むつき、とその少年の名を口の中で確認するように発音する。鳥越睦月。人様のシャンプー習慣など知る由もないが、彼が髪に天使の輪を乗せていない日はない。ちなみに肉体的は目立って強靭でもなく、極端に線が細いわけでもなく。つまり平均的な体力を保持する体育の時間においては特に目立たぬ男子だ。いまも声を掛けられなければ背景に沈んでいたに違いないと瑞樹は睨んでいる。
「なんだあ。二人ともAなのか」
「新はBだぞ」
「知ってるよ。瑞樹、ぼっこぼこにしてやるから覚悟しろよ」
「サッカーは人をぼこぼこにする競技ではありませんよーだ」
軽くからかえば新は鼻息も荒くわあわあ騒ぎだす。彼は何故か出会った当初から瑞樹と張り合おうとばかりしてくるのだが、瑞樹は競争だとかそういったことに興味もなく、いつも受け流してばかりいた。とはいえ、塵も積もればでそのうち刺されるかもしれないと考えていられるうちはまだ気楽なものだ。結局のところ、何だかんだで両者互いをそういう人間だと認識するに至っているのである。
ただ、実は新が瑞樹の与り知らぬところで鬱屈を抱えているだとかいう事実が仮にあったとしても、瑞樹がそのことに気付くことは現状ではまずないだろう。そもそも言いもしないで気持ちを汲み取ってほしいだなんて無茶苦茶だ、と考えている節すらある。決して冷血漢というわけではないと瑞樹自身は思いたがっているのだが、なかなかどうして淡白なところは否定し難い。そして彼の場合、なまじ見目が良いものだから、批判が半分以上は削がれる。新の反発ももしかしたらそんなところに根差しているのかもしれない。
「くらえ瑞樹!」
「あたっ」
早速というべきか、ぼこぼこ宣言をした彼は、呑気にディフェンスをしながら空を眺めていた瑞樹のところへ、不必要過ぎるスライディングで一直線に突っ込んで来た。派手に転がって砂が口に入る。はいはい離れて離れて、とゴールキーパーのポジションに居た睦月が瑞樹を引き起こそうとしてぴたりと一瞬動きを止めた。なんだ?と彼の視線の先を追えばなるほど膝上が切れていた。塩を擦り込んだらさぞかし痛かろうと思われる傷だ。新は、
「わりぃ、ちょっとやり過ぎた」
とあっさり頭を下げた。やたら勝負事ばかりする所為か、彼が瑞樹に怪我を負わせることも、その逆も珍しいことではない。にも関わらず毎回謝ってくる新の素直さを瑞樹は好意をもって受け止めている。勿論、友人として人としてという意味なのでそこのところ勘違いはしないでほしい。
「大丈夫だよ、そんな深い傷じゃない。ほら瑞樹、保健室に行こうか」
新と同じく昔からの付き合いである睦月も慣れた顔だ。瑞樹は大人しく立ち上がり、睦月の肩をぽかりと叩いた。
「連れてってくれるのは有り難いけど、深い傷じゃないってのは僕の台詞だぞ」

「まったく瑞樹も新も十代半ば過ぎて成長しないんだからな」
睦月は手慣れた手付きで救急箱から消毒液とガーゼとを取り出して、一方をもう一方に染み込ませた。保険医は外出しているらしく、部屋の電気は消えていた。せめて暖房くらいつけていってほしいよと瑞樹が文句を言えば、睦月は「君のそういうところも変わらないね」ともはや全てを受け流す、この場合許容するというべきかもしれないが…態度になっている。
「僕は睦月ほど寛容じゃないんだよ」
「寛容というよりは諦めの領域だよ…はい、傷口出して。やれやれ、ゴールキーパーが不在じゃチームも敗北必至だ」
「他の誰かにやってもらえばいいさ。大体、もっとごついやつがいるのに、どうして睦月がキーパーをやってるの」
「遅れてきた君には分からないかもしれないけど、丁々発止の遣り取りがあったんだよ」
「ふうん」
曖昧な返事をして、瑞樹は切り傷のできた右膝上を見下ろした。保健室に入った頃から気になっていたのだが、砂でも入ったのだろうか、傷口がぐずつくような感覚がある。だとしたら水洗いをしなければ、でも肉が見えているし滲みたら嫌だなあと考えてから、彼は己の膝がきゅうと勝手に動いたのを感じた。否、膝が動いたというよりは、中の皮膚や血肉が移動したというような。睦月の方を見上げれば、視線が綺麗にぶつかった。…瑞樹一人の錯覚ではなかったらしい。
睦月はあからさまに表情を強張らせ、何か言わんとしているように見えた。しかし切り傷からぴゅっと血飛沫が飛び出て、再び黙した。みるみる塞がる傷口。よくは分からないが…自分の意思でない力が体内を這い蹲っているということに、瑞樹は言い知れぬ不快感を覚えた。昨日の異常な症状とは別次元で不快だ。恐怖…とはまた少し違う。
「瑞樹…」
「…?」
意味深な間。瑞樹は不審げに睦月の顔を見つめた。言いたいことがあるなら、気味が悪いと思ったのならそう言えばいいのに。少なくとも僕は結構気分が悪くなった、と瑞樹は心の中で睦月に突っかかった。皮膚の表面と表面とがくっ付いて細胞レベルで結びつく感覚。
彼は唇を固く引き結んで、瑞樹を見つめ返したのち、もう一度「瑞樹」と、名を呼んだ。諌めるような、彼自身の怯えを悟られまいと必死になっているかのような声色で。
「なに、睦月」
「落ち着いて、瑞樹」
驚いた。…睦月の目には、突然の状況に瑞樹が唖然としているように映ったのだろうか。無論、驚きがなかったわけではないが、超能力花嫁の件もあったし、そこまで動揺はしていない。否、瑞樹は瑞樹なりに驚いてはいたのだが、騒ぎ立てるほどの驚きには達しないというべきか。しかし、さすがにこの状況においてこの反応では、一部の同級生の間でささやかれている、晴野には人間味がないという陰口に瑞樹自身同意せざるを得ないかもしれないと思えてくる。反面、だからどうしたという気持ちがないわけでもないけれど。
「睦月には僕が慌てているように見えるの?」
「多少。瑞樹、今のことは誰にも言ったらだめだ。分かるね?」
「分かるよ。僕にとっても普通のことじゃないから」
睦月の藍色の瞳がネガティブな熱っぽさで揺らいで見える。
彼は傷が出来ていたはずの膝上に大袈裟な包帯を巻き付けると、一足早いけれど教室に戻ろうと瑞樹に促した。再び瑞樹が怪我を負うような危険は冒せないとでも言いたげな横顔だった。

数十分後、授業を終えた新や他のクラスメート達が、話し声を巻き散らかしながら教室へと戻って来た。
新は瑞樹の膝上に巻かれた大仰な包帯を見遣るなり、またしても取り乱し平謝りした。瑞樹が「別に大したことなかった」と言えば、「そんな包帯何十にも巻いて大したことないもくそもあるか」と新は憤った。一番前の席に腰掛ける睦月が振り向く。
「そういうことだから、新、当分瑞樹に喧嘩吹っ掛けたらだめだからね。瑞樹もだよ」
別に僕から新を挑発したことはないんだけど、と言い訳がましいことを口にしながら、瑞樹は着替え始めた。脱ぎ捨てる際に耳朶を僅かに引きちぎっても、今度は痛みさえ感じることもなく。








精神を焦げ付かせるような夕暮れ時の太陽が、睦月の影を水平線の彼方へと引き伸ばす。
瑞樹や新と別れ、家路を急ぐはずの彼の足取りは重たかった。徒歩で通えるスクールは利便性は良いが、遠回りしたいときには不向きだ。
閑静な住宅街。ポケットから取り出した鍵を玄関の鍵穴に差し込むと、馴染んだ感触とともに錠が外れてドアが開いた。
「ただいま」
返事はない。今日は母も父も仕事は休みだと言っていたから出掛けているのだな、とひそかに胸を撫で下ろす。他所の家庭でしばしば見られるような、子が親に荒々しくなる反抗期は自分には訪れていないが、いつからか両親と関わると疲れることが多くなった。いつからか…というもの白々しいなと睦月は自分の思考回路にすら疲れを感じた。確かに時期は曖昧だったけれど、その感覚が決定的になったのは行方を暗ましていた姉、長閑(のどか)が両親に連れられて数年ぶりに自分を前に姿を現した日のことだった。
悲壮な姉の表情と声を今でも覚えている。
『せめて契りの真似事だけでもやらせてください』
最後に恋人との結婚を望んだのち、存在そのものを消し去られた。
彼女はESPだった。

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