18-1.再生した日

 








『君に躯も心も全部捧げるよ』


弱々しい小柄な身体で在りながら、彼は強く優しい。
いっそ罵ってくれさえすれば、この胸の蟠りも捨ててしまえたかもしれないのに。
(克也……)
保健室を出て、自然と床の上に跪く。
授業中で誰も通らぬ廊下はひんやりと冷たく静かで、この世には自分以外の誰もいないかのような錯覚を引き起こさせる。
「克也……………」
昨日の今日で、痩せた身体。
彼の内部に住み着いた種は今この時も刻々と彼のすべてを養分として搾取する。そしてそのすべてを奪い終えたのち、命は分散し、夢幻派のものとなる。
それは自分が生まれるよりも前に決まっていたこと。
この高校に転校して来るよりもずっと前から、分かっていた、計画していたこと。
奪わなければ深層派か理性派にでも逆に奪われ、自分達は消滅する。無論派閥内にも積極的に人間に成りたがっていた者もいたが、大部分は消滅を恐れるがため個体を手に入れる必要があると主張した。
そしてレモはその案を呑んだ。首領として、彼らの意見を尊重してやらねばならなかった。
彼自身の意見など、何処にもなかった。
強いて挙げるのならば、個体である克也の意思を無視した強行策を取らせなかったことに尽きるだろう。だがそれは些細なことでしかなく、結果的には同じことだった。
彼は自分達のために死んでもらう。それだけだ。
(…割り切っていたはずだった)
首領として本格的に襲名してから、彼への情は打ち消そうとしてきた。あくまで利用出来る範囲の情、彼の心を引き付けておくためだけの情。嘘ならばいくらでもついた。昔がどうであれ、彼は自分達を生かすためだけの器に過ぎないと言い聞かせてきた。
なのにどうだろうか。
彼がシガに奪われそうになったとき、心底冷えきった思いになったのは。
あれは夢幻派の首領としてではなく、レモ個人の感情ではなかったか。
度々彼を気遣ったのも、そうした計算がすべて働いていたためだったか。
行為の最中に、涙が頬を伝ったのは。
(…僕は、これっぽっちも割り切れてなんかいなかったんだ)
過去の情が心を縛り、現状に置いてもそれを捨てられていない。
無理に考えまいとしてきた、自身の感情。優先されることのなかったもの。
本当は、自身が消滅しようが生き存えようが、どうでもよかった。
ただただ仲間を守ろうとした。首領として、当然のように。
だが。
(僕は克也を、犠牲にしたくない)
彼の壊れていく身体をこの眼で見て、そう思う心があった。分かっていたのに、どうして今頃になってそんなふうに考えてしまうのだろう。
止めたい。
夢幻派の仲間のことを見捨てたわけではない。だけれど、このまま彼が命尽きていくのを見ていたくない。耐えられない。克也を自分達のために無茶苦茶にしてしまいたくない!
(…行かないと)
どうにかして、彼の中で蠢き、成長を続ける種を止めなければならない。
レモ自身はそれを止めるすべは知らない。しかし。
(あの人なら、何かを知っているかもしれない)
ほんの数日前に、顔を合わせた克也の祖父。
妻を自分達のような存在に奪われた男。
あの自分を憎らしげに見据えた男なら、何らかの手立てを知っているかもしれない。


「お待ちください、パトロン」


その向かおうとした足を止めたのは、信頼なる右腕の存在だった。
「何処へ行かれるのですか」
「ケイ……、……もう時間がないんだ」
秒単位で搾り取られていく彼の身体。一刻も早く、手掛かりに成り得るかもしれない男のもとへ行かなければ。 ケイは無表情で冷酷とすらとれる声で、レモの行く手を阻む。
「あなたは個体を助けようとしている。何故、そんなことをする必要があるのですか」
「…頼むから、ケイ、」
「彼がいるから争いが起こる。あなたも、向いてない争いに巻き込まれる。…行かせることは出来ません」
さあ、と彼はレモの腕を引こうとする。それはもはや従う立場としての彼ではなく、年上の友人としての態度だった。彼はこの一刻レモが克也を失って傷つこうと、長期に渡って争いを強いられるよりはずっと良いという冷静な判断を下している。
それは正しい。その一刻の傷は所詮いつか癒える。
しかし。
「…さすが、夢幻派の参謀だよ。…否、僕の……親友だ、ケイ」
レモは微笑んだ。微笑んで、彼の腕を振り払った。
意識がなく、ベッドで眠っているであろう克也を利用して現実から離脱する。
「っパトロン!待ってください!」
追いかけようとするケイを振り返りもせず、レモは克也の中を利用して、別の現実の地へと駆け出した。
「……パトロン………!!」











二人分の白いラインが引かれた、赤黒い染みの残った現場。
その現場を目撃した者は言う。「確かに二人の人間が落ちて来た。けれどいつのまにか消えていた」。警察の人間もそれは同様で、死体を一旦移動させたのち、目を離したときにはもうそれらは消えていた。
探し回ったが見つからず、現在も死体は捜索中。
だが見つかるはずはない、と彼は確信していた。
その長い指先で時間の経った染みをなぞる。自分達が、偽りの身体であろうとこの世界に存在していたという証。
「お前はあの夢幻派の女が『好き』だったのか?ニロ……」
個体に投げつけられた言葉。意味だけは知っていて、ニロがその感情を持っていたことも知っていた。しかしそれがいったいどのようなものなのか、これまでその感情を一度も抱くことのなかったシガには分からなかった。
「ニロ……」
なぞった後から染みは薄らと消えていく。
「心も身体も何もかも独占したいと思うのは、俺があいつを『好き』だからなのか?」











「うあぁ……!」
腕の内部から骨を溶かされるような激痛が走る。
いくら鎮痛剤を施されても、もう我慢出来ない痛み。
「克也、しっかりして!」
夾子の顔も朧げに見える。
左手がじゅわじゅわと内側から溶けていく。絶叫が口から木霊した。
「あああああぁ、あああああ……!」
これならいっそ手を切り落としてしまいたい。
けれどそしたらきっと、ボクの身体はもっと別のところがいかれだすんだろう。
呼吸が追いつかず、ボクの喉はヒューヒューと掠れた息だけを繰り返した。
何かが体内で生きている。どんどん根を伸ばし侵蝕している。
「駄目だ、舌を噛ませないで!」
「あぐ、ぐぅううう………っっ」
烈しく暴れ回るボクの口に、タオルが押し込まれる。
痛い。くるしい。しにたい。
だれかボクをころしてよ!
レモ以外ならだれでもいいから!彼にだけはひどいことはさせたくない……っ!











突然訪問したにも関わらず、克也の祖父は驚いた顔一つせずレモを出迎えた。
部屋までレモを案内し、障子をぴしゃりと閉め切る。
「何の用だ」
「…貴方にお願い申し上げたいことがあって参りました」
握りしめる拳に汗が滲む。
口内はからからに渇き、レモは唾を一つ飲み込んだ。
畳に跪き、頭を垂れる。


「…克也を、助けてください」


「……なに?」
祖父の声色は地を這うかの如く、レモに迫った。
心臓がドクドクと脈打ち、冷や汗がどっと噴き出す。
「一刻も争う事態なんです。…幸恵さんを同様に亡くされた貴方なら、何か克也を救う方法を…」
「…貴様が克也に植え付けおったのか」
「…………はい」

「たわけが!」

その瞬間、畳に押し付けていた頭と肩を強く蹴り飛ばされた。ずざざ、と部屋の隅に引き倒される。仰向けになった瞬間、腹部を深く踏みつけられた。
「ぐ……!」
「そんな巫山戯た真似をしておいて助けを乞うだと?貴様其の口が何を言っているのか判っているのか?」
「…わ、かっています」
「ならば何故そんな馬鹿げた事をした!そうなることは貴様にも判っていたはずだ!」
祖父の踵が腹部を再度深く抉る。レモは咽せて血を吐き出した。
その血を見て彼は顔を歪める。
「人間のように血なんぞ吐きおって…」
「お、ねがい、します……かつ、やを…」
「……っ」
彼は唇を噛み締めると、レモの顎を蹴り上げ、一旦奥へと下がって行った。
間もなく出て来たときには、一つの瓶を手にしていた。
倒れたままのレモを見下ろして、怒りを押し殺した声を発する。
「これは幸恵が死んだとき、儂が貴様のような男を捕まえて解体したときに作り上げた代物だ。言わば貴様らの解毒剤よ」
「…克也の、お祖父さ、ん…」
「その男は幸恵の夢を出入りしていた。…貴様のようにな。効く保証は無いが克也の為に持って行け」
レモはぐっと身体を起こし、その瓶を受け取ろうとした。
だが直前で、彼は言った。

「是は貴様ら夢の連中の影響を無に還す事が出来る。判るか?」
「…」
「是を使えば最後、貴様らが人間に成る等と驕った真似は二度と出来なくなると云う事だ」

「……!」
ハッと息を呑む。それはつまり、夢幻派のみ人間となる力は失われ、深層派や理性派に克也を奪われるのを見ているしかないということだ。彼らのいずれかが克也を手に入れ、自分達は滅ぶ。
自分自身のことは別にかまいはしないのだ。けれど、仲間達のことを思えば。
汗が頬を伝う。首領である自分はここで決定的な選択をしなければならない。
克也を助け、仲間を見捨てるか。それとも、その逆か。
ぐらりと迷いかける。首領として、選ぶべきは………。
だが。

「…かまいません。克也を助けられるのなら」

思い出す。此処へ来たのは、…克也が大事だと思ったからではないのか。首領ではない、自分自身の意見として、彼を助けたいと思ったからではないのか。
レモは手を伸ばし、しっかりと瓶を手に握りしめた。
立ち上がり、頭を下げる。
「…お孫さんをこんな目に遭わせてしまい、申し訳ありません」
「もし克也を助けられなかったら儂の所に来い。叩き斬ってくれる」
「…そのときは喜んでこの首を差し出します。……失礼致します」
レモは部屋を出て、駆け出した。







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