17.望んだ日

 





「お兄さんは失敗作だったけど」
長身の少女が、さらさらと髪をたなびかせる。
「個体君にはちゃんと宿ったみたいだね」











朝、起きたらすごく眠くて、まだ学校まで時間あったし…ボクは二度寝してしまった。
目覚まし時計を見たら九時半。やばい、もう一時間目始まってる。急いで行かないと、って思いかけて、でももう始まってるし急いでもしょうがないんじゃないかと思う。
昨日、一昨日と色んなことがあったから、少し疲れたみたいだ。
お腹空いたなあ。でも眠い。
どうせ二度寝しちゃったんだから、三度寝しても同じだよなあ。
お兄ちゃんもお母さんももう出掛けちゃってるだろうし…。
瞼が重い。眠い。そういやレモ、迎えに来なかったのかなあ…。
来たけどボクが寝てて来る気配がなかったから、先に行っちゃったのかなあ…。
そういえばボクレモとしちゃったんだっけ…………。
でも今だって普通に意識有るし、お腹も減ってるし、なんら変わりない気がする。てっきり目覚めたら、っていうか目覚めないかもって覚悟をちょっとはしてたのに…。でも眠い。こんなに眠いのはやっぱり…あんな人生初の行為で疲れたからなのかな…。よく本とかには体力いるって書いてあるし…ボクの体力じゃそりゃあ足りないもんな…。
なんか怠いし、三度寝しよう。











「彼女の死亡が確認されました」

部下であるケイの報告に、レモは「分かってるさ」と一言発しただけだった。
そのまま現実世界へと移動し、個体の彼を迎えに行くこともなく高校の屋上へ足を向ける。夏特有の熟れた生温い風が吹き付けるも、身体の内側にはひやりとした薄い膜が張り付いているかのような奇妙な感覚が居座っていた。
「やったのか」
分かっていることを確認する口調で、シガはその無感動な瞳をレモに向けた。
一昨日殴り合った怪我など、互いの姿何処を見ても残ってはいない。その争いを含め、それから引き起こされた出来事もすべて夢だったかのような錯覚に囚われそうになり、レモは視線を反らした。それこそ己の願望、夢でしかない。
「当たり前だろう。…あんなチャンス、逃せるはずもない」
昏い笑いを浮かべて、手すりに突っ伏した。ここで勝ち誇るのが獲物を捉えた者としての立場だろう、と自身を鼓舞しても、身体が言うことを利かない。渇いた笑いが、喉から突っ掛かりながら落ちた。
「…何故、邪魔をしなかったんだ」
個体である克也の状態の変化は、その内に潜む者なら誰にでも察することが出来るというのに。
「お前は死にたいのか?」
獲物として捕らえられた個体はいずれ役割を果たして朽ちる。
そして獲物を捕らえられなかった内々の者達は、本体である彼共々抹消される。
「シガ……」
その不安定な運命から逃れたいがために、勝者にならんとする。争いを巻き起こす。
なのに何故、最後の最後で彼は妨害一つしてこなかったのだろう?
レモの手に、克也をいだかせたのか。
(……けれどこれで、夢幻派の皆が救われるなら)
何も言わぬ背中。
すべての終りに、孤独がか細く心の隙間に忍び込んだ。
正しいことをしたにも関わらず、悔いるような焦燥の風も、強く彼の身体に打ち付ける。





「君は酷い奴だね」
ネオは言う。
シガは眼を伏せ、先程まで『彼』が居た場所を見た。
そしてその呟きは、風の声に掻き消される。
「初めから分かり切っていた結果だ」








午後だ。
どうしよう学校行こうかな…やめておこうかな。
すごくだるい。あ、でもせっかくだし夾子の顔を見たい。
そっか、昨日は全然順序立てて考えてなかったけど、ボク夾子に何も言わずに終わっちゃうところだったんだ…。なんか寿命を告知された人が後からあれれ死んでないよみたいな心境みたいだけど、やり残したこととか考えてなかった。
でもボク今生きてるし…どうなってるのかな。志賀君とレモのいざこざは終結したの?ちゃんと教えてくれないと分からないよ。…というよりも、今日夢でレモと逢ってないや。なんだろうレモ、気恥ずかしかったとか?普通気恥ずかしいと思うのはボクの方なんじゃないの?
学校に着いた。時間はちゃんと三時間目にずれ込まないようと気を遣ったから、まだ昼休みだ。
教室…レモいない。志賀君は……、あ、夾子もいた。
「おはよう克也、遅いわよ!」
夾子はいつも通りだ。ボクも、夾子が悲しそうにしてるのは見たくないから、「ごめんね」って言われるよりはずっと良い。志賀君も良くも悪くもいつも通り。無表情。ボク別に志賀君のこと許したわけじゃないんだからね。
「…レモは?」
「あいつなら今日は来てないわよ」
「…ふぅん?」
もしかしたら休養中なのかな。よくよく考えれば、あんな重傷の身体であんなことしちゃったんだもんな…。
あー、うん。なんか、今更ながら何故かボクが申し訳なくなってきた。
いやでも、飛びついて来たのはレモだし、ボクは…うん、やめよう言い訳はやめよう。だって志賀君と…深層派と夢幻派との争いを止めるには、それしかないって思ったんだよ。
でもボク今はこうしてなんともないし、効果があったのかなかったのかはよく分からない。それともボクはいいよって言ったのに、レモがやりたくないって思っちゃったのかもしれない。…何をやるのかはよく知らないけど。そもそもボクの躯の支配権を得るってことに、得たくないという選択肢があるかどうかも謎だ。
…とにかく、レモ、説明してよ。あ、でも休養中なら無理しないでいいから。
…志賀君に聞いてみてもいいんだけど、…なんか、彼の場合話してくれることとくれないことがあるみたいだから。
なんでかなあ、ネオさんのことを聞いたときはちゃんと答えてくれたのに。なんでボクの躯を手に入れようとするのか、って聞いたら、「夢幻派に聞いてみろ」だし。多分ボクが今気になってることは、後者に近い方だと思うし。
………、ストレスかな、胃が痛い。
胃って言うか下腹部。もともとボクはタフでもないのに、健康だった方がおかしいのかも。
覚悟してたのに何もなくて気が抜けたのかな。
とりあえず立っているのが辛くて、ボクは自分の席に着いた。
空席の隣が空しい。
亜崎先生が教室に入ってきた。…ああ、今日LHRなんだ。
最近めっきり勉学とは距離を置いてるから、覚えてなかった。
夏休みの課題について。…そっか、夏休みか。
胃の調子が悪くていまいち盛り上がれないや。せっかく夾子と遊べるチャンスなのに。来年受験生になろうものなら遊べなくなっちゃうし、今年はぱーっと遊びたいのに。
ボクは途中から先生の話を聞くのをやめてしまった。
どうせプリントに書いてあることだし、プリントの内容自体面白くないし、校長先生の抱負とかだし。ボクは机に突っ伏した。すごくだるいし胃は痛いし、もしかしたらレモとあんなことしたからかもしんないし。
でもレモは優しいから、そんなに乱暴にしなかったし、むしろ壊れ物並の扱いだった。
もはやあれは人間の神秘だよ。下手すれば躯をあげるどころか死んじゃうんじゃないかとか思ったりもして。
うう、駄目だ、いま本当に別の意味で死にそうだよ。トイレ行きたい。
違う。トイレじゃない、よく分からないけどじっとしているのが返って辛い。
のたうつような胃の痛み。脂汗が滲んで、亜崎先生もそんなボクに気がついたかのように歩いてきた。
「境君、調子悪い?」
授業中の先生は廊下で会った時とかよりはずっと真面目な顔をしてる。
けど今は、それが半々くらいの顔。ボクは頷いた。先生は「じゃあ」とボクの腕を持って立たせようとした。
うう、先生今はじっとしていたくもないけど、立ちたくもありません…。
ボクの意思表示に気がついたのか、先生はボクの身体ごと抱え上げた。
「急病人が出たようなので、しばらく自習にします」
先生、大袈裟だよ。
そう言おうとして、ボクは喉を引きつらせた。突然、内部の圧迫感が増す。内側から食い千切られるような痛みに、呼吸すら覚束ない。
ボクはきっとこれ以上にないくらい青い顔をしていただろう。
否、もしかしたら苦痛のあまり真っ赤になっていたかもしれない。
熱い冷たいも分からないほどに、ボクはその『何物』かに翻弄されていたんだ。

そして眼が覚めたのが学校の保健室だった。
まず視界に映ったのはベッドの横に座る亜崎先生の姿。
身体を起こそうとして、そっと押しとどめられた。
「今は起きない方がいい」
不思議だった。何故、先生が此処にいてくれてるのだろうと。…授業はどうしたんだろう。それと見たところボクの腕には一本の点滴。…どういうこと。
「効果のほどは分からなかったんだけど、一応鎮痛剤と…栄養剤をね」
ちんつうざい?ああ…鎮痛剤か。
だから今はお腹が痛くないんだ。でも、…あれはお腹の痛みだったのかな。
どこがどう痛んだのか、ボクには上手く説明出来そうになかった。
あんなこと、今までなかったのに。
「境君。君は、自分の躯の…身体の状態について分かってる?」
先生の神妙な顔。
ボクは笑った。多分、弱々しく。
「単にお腹を壊しただけじゃないんですか?」
内側が蠢く。
「単純に腹を下しただけで、鎮痛剤を打つと思う?」
「せんせい」
「君はどちらとしたの?…今日来ていないところを見ると…瀬川君かな」
先生、とボクはもう一度先生の話を遮ろうとした。
けれど声が思うように出なかった。
「君はそれがどういうことか、理解してる?」

してるつもりだった。

「君は」

ボクはボクなりに考えて、あの行為の結果も知っているつもりだった。
この体調の変化だって、先生。……いくらなんでも気付かないほど、ばかじゃないよ。今までお腹が痛くとも、こんなふうに痛むことなんてなかったもの。
それがレモとしちゃった後なら、尚更。


「このままでは、…死んでしまうよ」


きっと笑ったけど、やっぱり声にはならなかった。
体内を何かがのたうち回っている。
ボクは両手で、顔を覆った。
「……たんだ」
ようやく出た声も、掠れて音を無くしている。
栄養剤なんかじゃ追いつかない。何かが急速にボクの中から失われていく。
ボクは、…薄ら気付いていたんだ。
胃が痛むのをストレスだなんて思ったところで、本当はそんなふうには思ってもなくて。
ボクは怖かったんだ。
彼を受け入れた時から覚悟はしていたはずなのに、実際身体が内側から歪んでいくこと。ただのそれを腹痛だと誤摩化して、現実から逃れて、安楽な空想を抱えていたかったんだ。こんなの一過性で、今だけだって、明日になれば何もなかったって、思いたかった。

レモはボクをずっと守ってくれていたから。
心の奥底では、彼なら大丈夫なんじゃないかって甘えがあったんだ。
ボクは、レモを信じていたかったんだ。
彼なら、ボクを…死…に触れさせるようなことをしないと。
勝手に受け入れておいて、そんなことを考えるボクはきっと間違ってるんだ。
…覚悟は出来ていたと思っていたのに、本当はそれには偽りの覚悟が少し混じっていたんだ。
「君の躯は、彼らのとって一種の餌、否…媒体なんだよ」

「ば、ぃ、たい」

「彼らが偽りの身体ではなく、本当の人間として生きるために必要な栄養」

……必要な、栄養。
…そう、か。そうなんだ。
夢幻派と深層派がどうして争ってるのか。
どうりで、おかしいと思ったんだ。
ボクの躯なんか支配したって、志賀君らにとって美味しくも何ともないはずだもの。

「レモや志賀君達は、…本当の人間になりたかったんだ……」

おそらくそれは、彼ら自身の身体という意味で。
ボクはそのための、まさに『栄養』となる。
ボクの躯は、彼らに献上されるためのものだった、というわけだ。
…そうなんだ。
争っていたのは、きっと…先生も言ったように、ボクがどちらかと行為をしてしまえば、死んでしまうから。
栄養となるボクが死んでしまったら、どちらかは残ってボクと一緒に消えるしかなくなるから。だからレモは、ボクをずっと守っていてくれていたんだね。
大事な栄養であるボクを……深層派に渡すわけにはいかなかったから。
夢幻派の首領としての、当然の対応。義務。
彼個人の意思なんかじゃない。必要に駆られて仕方なくしていたこと。
いずれボクを利用するための。

『克也』

…なのに思い出すのは、幼い頃の彼の姿。伸ばされた腕のぬくもり。
大丈夫だと言い張る大人びた今の彼の横顔。
無理をして倒れてしまったときの白い寝顔。
そして、

『…嬉しいからだよ』

言葉や口元に浮かべた笑みとは裏腹に。
…彼が流した涙。何かを堪えるような声色。

嗚呼、とボクは小さく嘆息した。
これもボクの勝手な思い込みかもしれない。
けれど。


「待ち人が来たみたいだ」
不意に亜崎先生が席を立つ。
ドアの前にはレモが立っていた。
先生はレモと入れ替わるように、部屋を出て行った。
気を利かせてくれたのだと、思う。
レモはボクの姿を見て、目許を歪ませた。
「…克也」
ボクの横に立ったレモは、もう怪我も治っているのに、先日意識を取り戻した直後の時のように脆い雰囲気を醸し出していた。いや、脆いというよりは今にも崩れ落ちそうな、と言った方が正しい。
だけれど細い何かが、彼の身体を頼りなく支えている。
……それは、きっと、夢幻派の首領としての『彼』。
「説明は亜崎から聞いたんだろう?」
無理に気丈に立ち振る舞う彼を見ているのが辛い。
ふと、ケイさんが言っていたことを思い出す。
…レモは『パトロン』という役割には向いていない、人が良過ぎる、と。
「…レモ」
ボクが声を発すれば、びくりとその肩が僅かに強張った。
ボクは泣きそうになった。レモが大事だったから。
こんなふうに自分で自分の首を絞めている彼を見るのは、辛かった。

彼はきっと、幼い頃の彼のままなんだ。ボクと何も知らずに一緒に居てくれた頃の。
ボクを「すきだ」と言ってくれていた頃と、…同じ。
けれど現実は、あまりにも残酷で。
ボクはレモの腕をそっと掴んで、握りしめた。
「…お願いがあるんだ」
彼の眼に怯えが走る。どうして、彼にボクを手込めにするという役割が与えられたのだろう。
このままじゃ、ボクより彼が先に壊れてしまうよ。
そう思えてしまうくらい、彼の全身は今にも泣き出さんばかりで。
けどやせ我慢していて。

「自分のしたことを後悔しないで。…いいんだよ、ボクの命で……レモ達が人間になれるのなら」

なんだかんだ言ったところで、受け入れたのはボクなんだから。
それに、こんなふうに、来てくれたのだってボクを心配したからなんでしょう。レモは優しいから、ボクも夢幻派の人々も、完全に容赦なく切り捨てられなかった。
だから。
レモがそうやってボクを想ってくれたように、ボクもレモのことが大切だから。事情なんて知らない。ただケイさんも言ったように「ボクがいるから」、そのせいで争いが起こるなら、ボクは喜んで…、…。
…ごめん、喜んで、だなんて白々しいことは言えない。ボクはそんなに聖人君子でもないし。
勿論、今だって苦しいし怖いよ。自分の内側がどんどん食い荒らされているようで。
感じるんだ。どんどん身体の中身が削られて、空白が増えて、身体が言うことをまともに利かなくなっていってるのを。
だけど、平気。
……
………ボクは今までずっとレモを見て来たんだ。ずっと一緒にいた。ずっとさ。
だからボクみたいにちっぽけな存在で、すべてが解決出来るなら、レモの苦悩が終わるなら。
ボクは『君になる』。君が人間になるときに必要なすべてになる。

「かつ、や…」

だからほら、そんな顔しないで。
君なら良いんだ。君になら。
レモ。ボクは、君に躯も心も全部捧げてあげるよ。






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