15-2.壊れだした日

 




翌日の日曜日。
克也はレモとともに帰宅すると、まずトイレに駆け込んだ。
行きは電車で帰りは母親の車に乗せてもらい帰って来たわけだが、途中渋滞していてなかなかトイレに行けなかったのである。
母親は二人を降ろしそのままスーパーへと買い物に向かった。
レモは慣れた足取りで克也よりも先にリビングへと進んだが、家に入った瞬間から嫌な予感がしていた。
否、玄関に並ぶ女学生の靴があったことから、予感どころかそれは確信といっても良かったろう。
克也はトイレにいるのだから、そんな予感を感じることすらおかしいと思うかもしれない。
だがレモは、リビングへ入って確かに足を止めた。
其処にいたのは、不自然に交わう男女。立ち上る血の匂い。
「ネ……」
「意外と早かったね、レモ…いや、遅かった、かな?」
薄く笑う女。意識もなく横たわる男。
顔に生気はなく、むしろ青白く痩けている。
息も浅く、まるで死の目前に迎えた病人を思わせた。
……その尻に、女の『一物』が深く押し込まれてさえいなければ。
「……ネオ……!」
ごぽりと音をたてて、男の尻から一物が引き抜かれる。
先端からは子種を発射した証拠ともいえる白く濁った液体が、筋を描いて伝い落ちた。
「何を怒ってるんだい、レモ?」
くすくすと笑い声がリビングに響く。
レモは男の腕を掴み上げて、その尻から彼女の放った精を懸命に掻き出そうとした。
汗が滲み、指に生々しい液体が絡みつく。

「僕は克也には何もしていない。『彼のお兄さん』に種を植え付けてあげたんだよ」

直也の躯がソファから崩れ落ちる。
レモはその躯を支えようとして、トイレから出てくる克也の存在を思い出した。
(もし克也にこの光景を見られたら……!)
水を流す音。レモは急いで手を拭い、リビングを出て克也を捕まえた。
「克也」
「あ、レモどうしたの」
「いや、荷物を運ぼうと思ったんだけど…克也の部屋って二階の何処だったっけ?」
「なんだぁそんなことか。レモって意外とボクの家の中知らないんだね」
克也はレモをリードする形で二階へと上がる。
付いて行きながらも、レモは先程までの光景を脳裏にくっきりと思い起こしていた。
(現場を見れば克也は逃げ出す。ショックのあまりパニックを起こして自殺でもされたら困る)
あまりに突然の出来事だったがために、情が削り落ちた計算でしか頭が働かなくなる。
だが言い換えれば、その思考は『夢幻派の首領』としては当然のものである。
(しかし克也に直也の衰弱を知られること自体は時間の問題…原因不明の衰弱を見れば克也とて何かしら勘付く……)
荷物を二階に運びこみ、レモは克也に休憩を促した。
「少しお茶でも飲んで休もうか」
「うん、じゃあココアでも……」立ち上がろうとした克也を静止する。
「良いよ、僕が入れて来るから克也は此処で休んでて」
時間を稼ぐ形で、レモは階段を下り、リビングへと戻った。
ネオが整えたのか、ソファに寝そべっている直也はきちんと服を着用している。
彼女は微笑を浮かべて制服の乱れを直した。
「彼をわざと二階へ連れていったね?」
「克也にあんなショッキングな光景を見せるわけにはいかないさ」
「逃げ出されたら困るから?」
不愉快げに見下ろすと、ネオは髪をかきあげた。
「もう少しでシガが来るよ。この異変に気付かないほど、彼は鈍くないからね」
シガの存在を失念していたレモは、ハッと息を飲んだ。
おそらく、彼はこう思うだろう。レモ自身、薄らと考えていたことだ。
……逃げられる前に、やってしまえばいい、と。
だが、と第二の人物が客観的に絡んで来たことで、レモの思考に感情が戻って来た。
(そんな無理矢理克也を捩じ伏せるようなことを……)
「そろそろ戻らないと彼が不審がるよ」
ネオの言葉に、我に返る。レモは麦茶をコップに注いで、二階の彼の部屋へと戻ったが。

「………克也?」

様子がおかしい。
麦茶を机に置いてその肩に手を掛けると、彼の身体はベッドの上に抵抗なく倒れ込んだ。
瞳孔は開いているのに、その瞳には何も映り込んでおらず、空虚な光だけが彼の眼球に反射している。
手足が、びくりと痙攣した。
「克……」
「個体の意識は深層の奥底に引きずり込んである」
…もはや聞き慣れてしまった、感情の推し量れぬ低い声が、背後から聞こえた。
振り返れば、予想通りの男がレモを見下ろしていた。
立ち上がり、その無感動な面を睨みつける。
「…どういうことなんだ」
「内部から覚醒下にある個体の意識を非覚醒状態に落とし込んだ。つまり現状、意識の所在は当然深層派内部だということだ」
シガは淡々とした口調でもって、レモの疑問をかわした。
レモの身体を退けるようにして克也に手を伸ばそうとしたので、その手を横から押さえ彼の身体を克也から遠ざけようとした。
「っ……!」
その瞬間、空いていた腹部に彼の拳がめり込む。
吐き気がぐっと込み上げて来て、レモは低く呻いた。
「今回ばかりは邪魔をされても困る」
冷徹な声色が鼓膜を揺さぶる。
レモは血を吐き捨てて、シガの襟首を掴んだ。
その顔面に強打を浴びせて、その隙に足を引っかけ床の上に薙ぎ倒す。
心臓がどくんどくんと脈打ち、全身に赤い血が巡る。
更にもう一発面にぶちこんでやろうとして、シガがレモの三つ編みを荒々しく引っ張った。
痛烈な痛みが皮膚に走り、一瞬顔を顰めると今度は前髪を引きちぎらんばかりに引っ張られた。
そのまま、もの凄い力で壁に後頭部を打ち付けられる。
意識が飛びそうになって、レモは堪えた。
しかし、立ち上がった足取りはふらつき、酷い吐き気にすら襲われた。
それでも彼は、克也に手を伸ばそうとするシガの腕を掴み、その首を押さえた。
遠くに聞こえる自身の息が荒い。
その首を締め付けようとして、同時にシガの左手もレモの首に伸びた。
喉笛に親指を押し込まれかけ、声にならない声で喘ぐ。首の骨がへし折られんばかりの力だ。
無論レモも同じように彼の首を押しつぶそうとはしたが、後頭部をぶつけた影響も大きく意識が朦朧としていた。
(……かつ、や……)
視界が真っ赤に染まる。
腕に力が入らない。
レモは遠のきかけた意識の中で、自身を克也の中へと離脱させた。
もはや克也が助かるには、克也自身に目覚めてもらうしかなかったからだった。







レモは息絶え絶えの状態のまま、重たい身体を起こした。
立ち上がり、深層派の空間の壁に触れる。
当然の如くその壁はレモを拒絶し、手には鋭い痛みが走った。
けれど克也がこの中にいるなら、行かなければならない。
レモは焦る心を抑え、目の前の壁に強烈な干渉波を叩き付けた。
壁は強力な電磁波を放って崩れ落ち、その電磁波の疎らな欠片が彼の神経を切り刻んだ。
思わず地面に倒れ伏しそうになり、手をついて耐える。
空間内に入っても、夢幻派とは全く異なった波動が彼の存在を拒否しようとした。
「……っ」
汗が噴き出る。
身体中の筋肉がみしみしと悲鳴をあげているかのようだった。
更には、深層派の連中が異物を排除しようとレモに襲いかかる。
それらと蹴散らしつつも、彼の残り少ない体力は確実に削られていった。
「か、つや……」
果たして間に合うのだろうか。
だが今頃、シガは現実世界で彼に。
レモは唇を噛み締めた。弱気が顔を出す。
しかし此処で諦めたら可能性が完全に断たれる。
彼はそう己に言い聞かせ、痛む身体を引きずって空間内を突き進んだ。
そこに。

「あら、どっかで見た顔じゃない」

克也の想い人である少女の姿があった。
彼女はレモの顔を覗き込み、せせら笑った。
「随分手酷くやられたみたいね」
深層派の空間内にいる彼女は、やはり敵か。
レモは思わず身構えたが、彼女はひょっこり彼の傍を離れた。
「あたしは何にもしないわよ。だって克也が可哀想だもの」
「……え?」
「え?って何よ。あたしだって自分を好いてくれてる人間に酷いことするほど外道じゃないわよ」
彼女はいーっと歯を剥き出し、はにかむように笑った。
以前、干渉波を夢幻派に仕掛けて来た少女とは同一人物とは思えぬ発言で、レモは一瞬身体の痛みを忘れた。
「……キョウコ」
「勘違いしないでよ。別に夢幻派のことはどうでもいいんだから。……とにかく、さっさと克也を迎えに行ってあげて」
ほら、あっち、とキョウコは右手を指差した。
其処に克也が横たわっているのが見え、レモは無我夢中で走り寄った。
「克也!…克也、起きてくれ」
克也は、小さく縮こまって震えている。
その頬を叩いて身体を揺する。重たげに、克也の瞼が開いた。
「……れ、も?」
「克也、お願いだから、今すぐ現実世界に戻るんだ」
「れもは?」
「僕も戻る。とにかく、今は一刻の猶予もないんだ」
克也は現状を呑み込めていないようだった。
だが、「分かった」と言ってくれた。
瞬く間に、彼の姿が空間内から消える。レモも後について、自身を現実世界へ移行させた。




・・

・・・


戻って来たとき、まずケイの姿が目に入った。
「パトロン!」
そして、唇の切れたシガ。
彼は血を拭うと相変わらずの無表情のまま、レモに背を向けた。
「部下に感謝するんだな」
そのまま部屋を後にする。
緊張の糸が途切れる。
その瞬間、レモはその場に倒れ込んだ。

「レモ!」

遠くで、克也の叫ぶ声が聞こえた。








← Back/ Top/ Next →