14.自覚してしまった日

 






目を覚ますと、そこは白いベッドの上だった。
「?……」
(僕は……どうしてこんなところに寝ているんだ?)
レモは上半身を起こそうとして、強烈な目眩を感じて再びベッドに沈み込んだ。
壁の時計を見上げれば、針は四時三十五分を指し示していた。
(…もう放課後なのか)
いったいいつから此処で眠っていたのだろう。
確か昼休み、亜崎の手伝いをしていたことだけは記憶に残っているが。
「あ、レモ。起きたんだね!」
ドアを閉める音、克也の声。
今度はゆっくりと上半身を持ち上げると、特に異変は感じられなかった。
「克也」
「……ごめんね。やっぱりボクのせいで無理させてたんだよね」
泣き笑いのような表情で、彼はベッド横の椅子に鞄を置いた。
こうして自分がベッドの伏せっていることから考えれば、彼にまた心配を掛けてしまったのだろうということは想像に難くなかった。
(それにしても……)
何故彼はこうも優しいのだろう。
勝手に倒れたのはこちらのほうなのに、…勝手に自分のせいだと思い込んでいる。
思えば昔から、喧嘩してもすぐ謝ってしまうような少年ではあった。
ただ以前はすぐ泣いてしまっていたから、長い年月が多少は彼を成長させたのだろう。
レモは手を伸ばし、克也の髪を撫でた。
「…克也のせいじゃないよ」
「でも…!」
「…克也が心配しているほど、僕は無理なんてしていないよ。克也の中にいるときは、君がベッドで眠っている時と同じようなものだから」
嘘だ。けれどこうとでも言わないと、彼は納得しない。
いつからか、自分達の都合のために彼を丸め込むようになった。
平気な顔で嘘に嘘を塗り重ねた。
「ならどうして倒れたりなんてしたの」
「栄養失調かな。全然ろくなもの食べてないから」
「……駄目だよ、一人暮らしなんだから、そのくらいちゃんとしないと」
泣き笑いの泣きがようやく少し消えた。
レモは撫でていた手を放し、克也の鞄を持った。
「ほら、もう遅いから。帰った方がいいよ、克也」
「レモは?」
「僕はもう少しやることがあるから。それが終わったら帰るよ」
「倒れたばっかで…無理しない方がいいよ」
「大丈夫だよ、寝たら治ったから」
渋る克也を帰らせ、レモはベッドから降りた。
帰り道はケイに見晴らせている。これといって問題はないだろう。
後は、日直の日誌を職員室にいる亜崎に届けるだけだ。


「いきなり倒れるんだもの、吃驚しちゃったよ」
職員室には亜崎の他に二、三人の教師が残っていたが、それぞれ仕事をしているようだった。
「ご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません」
「いいよ別に。……君たちの場合、色々有るだろうしね。特に君の方はそういう無理しやすいって話だし」
「話?」
「ああ…昔から夢見る方は休む暇もないって愚痴っていたからさ」
亜崎の頃の『夢幻派』の話だろう。
レモは微笑した。
「先生は現在の…どちらかというとあいつ側でしたよね」
「そうだよ。あっちは楽でよかった。夜は寝れたし。もしかしたら今よりずっと……良かったかもしれない」
亜崎の意味深な笑みに、レモは口の端を引き下げた。
不意に制服の襟を乱暴に引かれて屈み込む。
耳許で亜崎が囁いた。

「…君は、あの子を裏切る覚悟があるの?」

目を見開いて息を呑む。
亜崎はあっさりと離れ、何もなかったかのように机の書類の上に手を置いた。
椅子ごと机に向き直る。
「君が倒れたとき、あの子は随分心配していたよ」
「……」
「それと、ああ…志賀君もね」
レモは眉を寄せた。
「……シガが?」
「うん。僕が運ぼうとしたら血相変えて睨まれちゃって。怖い怖い」
そう言いつつ亜崎は笑っている。
レモは訝しげな表情のまま、ひとまず職員室を後にした。
胸が鈍く疼く。
(僕は……)
嬉しいのだろうか。彼が、心配してくれたことが。
そして同時に脳裏に過った、ネオの姿。
胸は極端に鈍く痛みを訴えた。
(…僕には関係ないはずなんだ)
シガが誰といようと、ネオといようと。
所詮敵対勢力の首領。
彼がどうしようと、克也に実害を及ぼさない限り、自分には何の関係もない。
そのはずだというのに。
「…シガ」
昇降口に辿り着くと、下駄箱の前にはシガの姿があった。
レモは感情を舌の上で押し殺すと、至って平静な顔を努めた。
「ネオでも待ってるのか?」
心配を掛けたかもしれない相手に対し、随分冷たい態度だったようには思う。
だが心が動揺し過ぎていて、そうでもしないと自分を保っていられる自信がなかった。
するとシガは。
「…亜崎と一緒にいたのか?」
「え」
「個体が此処を通り過ぎて行ったのはだいぶ前だ」
克也のことだ。シガに『レモが目を覚ましたみたい』くらいは言ったのだろう。
レモは肯定した。
「ああ。…多少亜崎とは話すこともあったしな」
「……」
「…シガ?」
シガは沈黙し、すっとレモの腕を掴んだ。
何やら不穏な気配を感じ、思わず後退すると。
「い……っ!」
ギリ、と腕を掴む手の力が強まる。
振りほどこうとしてはみたものの、やはり力では劣るのか、壁に強引に捩じ伏せられてしまった。
彼の気配が間近に迫る。
「っ、放……っ!ん、んぅ……っ」
しばらく触れることのなかった熱が唇を蹂躙する。
ねっとりとした彼の舌が、唇を割ってレモの舌に絡みついた。
「っ、ふ、ん、ん……っっ」
ちゅく、と濡れた音が耳を犯し、身体が熱く痺れそうになる。
透明な糸が互いの舌を引き、飲み込み切れなかった唾液が、口の端から伝い落ちた。
「!…………っっ」
その生々しい状態のまま、彼の唇がレモの首筋に触れる。
「……ぃ、やだ…っ、やめろよ……っ」
微かな痛みとともに赤い痕が白い首筋に散らばり、その存在を主張する。
制服の襟を押し開かれ、ボタンが無惨に引きちぎれる。
「…お前は俺の物だ」
皮膚の上を、彼の冷たい手が撫でた。
「……いや、だ……」
だが首筋を這う彼の舌だけは熱く、この行為のどうしようもない生々しさを、ただひたすらに訴えていた。
彼の発した言葉だけが、何度も何度も頭の中を通り過ぎる。
そして圧力を増した胸の重し。
(……僕は…………)
何をどうやったのか覚えていない。
しかし気がつけば、レモはシガを突き放していた。

「っ僕は…っ、お前の性欲処理のための道具じゃない……!!」

逃げるようにその場を駆け出してしまったのは、あふれだしそうになった涙を見られたくなかったからだ。
走って走って走って、息を切らし、何処かも分からない路地裏でしゃがみこむ。
涙がぼろぼろと零れ落ち、とてつもない絶望が、彼を襲った。



「…僕は………あいつのことが、好き…だったんだ……………」











お好み焼き屋でニロと逢った日から、カナンはずっと考えていた。
自分のこの胸の内にある感情が、一般に『愛』と呼ばれる代物なのであれば、
(…もう、彼とは逢わないわ)
どうせ一方が『消え去る』運命なら、こんな想いを抱いたところで意味はない。
逢って想いをつのらせても、いつか…余計辛くなるだけだ。
(…そう、……今日が最後よ)
ハンカチを返すと約束した今日の日。
ふと芽生えてしまった自分の中の気持ちも、彼との関係も、終止符を打つ。
「カナンさん!」
約束の時間の十分前。ニロは息を切らせてやってきた。
この間はカナンが遅刻して、彼を待たせたが今日は逆だ。
「そんな焦って走ってこなくても、まだ十分前よ」
「いえ、男としては女性を待たすわけにはいきませんよ……」
息を整える彼に、悪いことをしたかしら、とカナンは内心つぶやく。
今日は最後だから、早めに来ただけなのだ。
…少しでも一緒にいる時間を長くしたかったから。
別れ際に突然彼を驚かせないためにも、前もって言っておいたほうが良いかもしれない。
「私、あなたに言っておかなければいけないことがあるの」
「?…なんですか?」
「今日であなたと逢うのは、最後にする」
不思議なほど、声は震えなかった。ちゃんと彼を、見ていられている。
だから、彼の表情が凍り付くのも、分かってしまった。
「どうしてですか」
「…」
「こうして俺が貴女に逢いたいと望むことは、迷惑なことだったんでしょうか」
彼が懸命に自制して、落ち着こうとしているのが分かる。
誰だってある日突然もう逢わないと言われれば、動揺して当然だろう。
だがカナンは、どうしても今日中にその言葉を伝えなければならなかったのだ。
そしてその理由も。
…勝手に突き放しておいて、理由を言わないのは卑怯でしかないのだから。
「迷惑なんかじゃなかったわ」
「…なら、……何故」
彼はきっと今、必死に理性派のセリのこと、派閥間のことを考えているのだろう。
それはあながち外れてはいない。
カナンは微笑する。
「私、あなたを愛してしまったのよ。それだけだわ」
ニロが言葉を失う。
「でもあなたには好きな人がいる。それに……私たちの立場じゃ、『無理』」
叶えられることのない想いを抱いて、いたずらにつのらせても、辛いだけなのよ。
決断することで心を鋼にした。
もう痛みなど、感じないように。
それが紛い物の強さでも、いつか忘れられるのなら…それで良かった。
しかし。
「待って下さい!」
彼の腕が、その強さごと包み込んで粉々にした。
「俺も、……貴女を愛しています」
「嘘よ」
「嘘じゃありません。そんな嘘がつけるほど、俺は器用じゃありません」
力強く温かい体温が、すぐそばにある。
心は強く彼を求め、歓喜し、……同時に嘆いた。
言ってしまわなければ、こんなふうに幸せを感じることも、それを失うことも知らずに済んだのに。
「馬鹿ね…あなたも私も、言わなければよかったのに」
これじゃあ余計辛いだけじゃない、と眼を閉じる。
静かに、涙が一筋伝っていく。
「いずれは、逢うことも叶わなくなるのよ」
一方しか生き残ることは出来ない。それは、夢幻派と深層派の宿命だ。
だからこそ、この想いを断ち切ろうと思いきって打ち明けたのに。
こんな温もりを知ってしまっては、

「それなしでは生きてはいけない、ということですか」

いつぞや耳にした機械のような声。
カナンははっと顔を上げ、声のしたほうを見た。
スーツ姿の蒼色の髪をした青年。
「セ、リ……」
名前を呼ぶと、心無し彼の唇がつりあがった気がした。
そして、それは彼の出現以上に突然の出来事だった。

「…っぐ……………」

「ニロさん!」
セリの拳が、ニロの腹部にめり込んだのだ。
ニロの体は脱力したかのようにセリの腕に寄りかかり、セリはそのままニロの体を地面に放り出した。
駆け寄ろうとしたカナンの腕を掴み上げる。
痛みはなかった。しかし解けない腕にカナンはもがいた。
「放して!…っあなたはどうして、こんなことを……っ」
「…分かりませんか?」
分かるわけがない。
非人間的な口調で、突如現れたかと思えば誰かを傷つける。
けがらわしい、と嘲り見下す。
理解できない。
「分からないようですね」
嘲弄する瞳。冷ややかに整った顔が、焦点の定まらないほど近くにあった。
口付けられたのだと分かり、その腕の中から逃れようとして、カナンは転倒してしまった。
コンクリートがざらりと肌の表面を削る。
セリは氷のような微笑を浮かべ、カナンを前に片膝を立てる。
「貴方がたが永遠に結ばれる方法を、一つだけ教えて差し上げましょうか」
「……っ」
この青年に隙を見せてはいけないと分かっていながら、動揺してしまう。
いま、彼はなんと?
思わずセリを凝視せずにはいられない自分を、カナンは止められなかった。
セリは嗤う。

「この現実世界で死ぬことです」

その瞬間、世界が呼吸をするのをやめてしまったかのように思えた。











なんだか最近穏やかでないボクの日常。
そしてそれはきっと理性派のネオさんがボクの日々に登場してから。
異物混入?
それはちょっと違う…というよりも、ネオさんらに失礼だ。
でも彼女の存在をきっかけに、割れ目からひび割れてってとうとう穴が空いてしまった、という感じ。
ごめんボク自身よく分かってない。
レモと志賀君も仲直りしたようだし、もう元通り問題ないとは思うんだけども。
…隣にいるレモは、どこか上の空で。
夢の中にいる彼は、ボクが訪ねて来ても夢に漂っているかのように反応が鈍い。
どうしたんだろう。
悩み事があるなら、相談に乗るよ。…ボクで聞けることがあるならね。
…無理かなあ……。
ボクの中の人々の悩みは複雑怪奇そうでボクの理解の範疇を越えているかもしれないし。
でもさ、物は試しに言ってみるってのも有りかも。
「…大丈夫、なんでもないよ克也」
………。
いくら常日頃から鈍い疑惑のあるボクでも分かってきてるよ。
レモの『大丈夫』『なんでもない』コンボは絶対なんでもなくない。
実際それで今日の昼間倒れたんだし。もう。
ああでも、今回はなんだか重症そう。
だっていつもにも増して意識が宙に浮いちゃってる感じの横顔。
我、心此処に有らずだ。
ボクはどうしたらいいんだろう。
レモがすっきりしないとボクもすっきりしないよ。
やっぱりレモはボクの中の人だからとかそういう問題じゃなくて、隣に悶々と悩んでたり心飛ばしてる人がいたら単純に落ち着かないんだ。
あーぐー。
…そうだ。
「レモ、あのさ」
「なんだい」
果たして反応してくれるかどうか。
「ボク今度の休みに田舎の…おじいちゃんのところに行こうと思うんだけど、レモも一緒に行かない?」
ほら、悩み事があるときは自然の中でリフレッシュしたほうがいいとか良いじゃない。
まあそんなにおじいちゃん家は自然溢るるっわけでもないけどさ。
たまには、そう、気分転換が必要だと思うんだ!
いつもボクの保護ばっかりしてても息が詰まるしさ!
あ、なんか自分で言っててぐさっときた。
「…でも家族水入らずのところに僕がお邪魔するのはどうかと思うな」
「大丈夫だよ、昔っから友達もよく泊まって行ってたし、レモ一人が嫌なら志賀君も誘っていいからさ!」
ボクがそう言ったときのレモの顔ったらなかった。
不自然に強張って、どういう顔をしたらいいのかあからさまに困ってる顔。
…夕方下駄箱で志賀君がレモを待ってるみたいだったから、てっきりもう仲直りしたのかと思ってたんだけど。
もしかしなくともボクのさっきのは失言かもしれない。
ごめんレモ。
でも結局、レモはボクの田舎日帰りに同行してくれることになった。











空気がいつになく停滞しているように思え、キョウコは眉間に皺を寄せた。
ニロは一見朗らかな顔をしながらも時折思い詰めたような顔をしているし、大将であるシガはシガでどこか浮かぬ顔だ。
換気したくとも、この空間には窓一つない。
(んもう……息が詰まるわ!)
こんなことなら今日は戻ってくるんじゃなかったわ、とソファにダイブする。
克也は寝てしまっているようだから、今日はもう外には出れないのだけれど。
「シガ!」
シガは顔を上げる。
「悩み事があるなら言いなさい!大将が悩んでちゃ話にならないわ!」
本当は少しでも息詰まり要素を減らしたいがための提案である。
するとシガは「夢幻派が……」と言いかけたのだが、すぐに口を閉じた。
キョウコを相手にする顔から、考え事をする顔になっている。
彼女は苛ついた。
シガは無表情の下で、策略から憂いまで様々なことを考えている。
彼女には、そのすべてを見極めることは出来ない。
出来たとしても結局それは口には出されないのだから、余計に苛つくだけだった。






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