9.一歩手前の日

 




今日は学校がお休み。
だけれど待ちに待った勉強会の日なんだ!
私服の夾子とか見れちゃったりして。勉強教えっこしたりして。
そんでもっていい雰囲気になっちゃったりして、わああ恥ずかしい!
…だめだだめだ、朝からボクは何を考えているんだろう。
ちょっとばかし妄想が炸裂し過ぎているよ。
時計を見る。
あ、もう時間だ行かなきゃ!
ええと、筆箱持ったしノート、教科書…。特に他にはいらないよね。
階段を駆け下りるとリビングではお兄ちゃんがテレビを見ながら朝ご飯を食べていた。
「克也どこか行くのかぁ?」
「うん!友達の家!」
「そか、気ぃつけてな」
待ち合わせは学校だけどね。
ドアを開けると、ボクはひゃっと声を上げてしまった。
何故なら、門の前で女の子二人が今にもインターフォンを鳴らそうとしていたからだ。
「あれ、もしかして直也の弟さん?」
「は、はい!」
お兄ちゃんの友達だろうか。
ボクは体を起こしてしゃっきり向き合った。一応、先輩だろうし。
「初めまして。僕は和月 音嗚。ネオって呼んでよ」
ストレートの髪が目映い長身のお姉さんはそう言ってボクにあわせて屈み込んだ。
ボク、僕っ娘の方って始めて見ました…。
「それでこっちの娘は水谷ようこ」
「…は、初めまして……」
ようこさんは控えめに頭を下げた。
緩やかにウェーブのかかったショートの髪の小柄な女の子…先輩だけど、で、結構可愛いかも。
あ、違うちがうボクは夾子一筋だから誤解しないで!
「君のことは直也からいつも聞いてるよ。克也君…だっけ?」
「はい」
「よろしくね。後、どこか行くところだったのなら、引き止めて悪かったね」
「はい……はっ!」
時計を見たら、やばい遅刻だ!
ボクは頭をぺこっと下げると全力疾走で学校へ向かった。
息を切らしながらもどうにか辿り着くと、既に三人は到着していた。当たり前か。
「克也、何かあった?」
レモの心配そうな目ときたら。
大丈夫だよ…志賀君そこにいるし…。
「……そうだね」
うわ、なんだかすごく間があったんだけど。
昨日の夢を見た時も思ったけれど、レモの返答に間があるときは他に何か考えてることがあるんだよ。
なに、なんなのさ。
「まあいいじゃないの!じゃあ、行きましょ!」
執り成したのは夾子。行くってどこに?
「こいつの家よ」
彼女が指差したのはレモ。
ボクがいない間にどう話し合われたのかは分からないけど、そういうことになっているらしい。
「じゃあ克也、僕の後ろに乗っ…」
レモは自転車で来ていたようで、そう言いかけて志賀君を見た。
自転車の数は二台。デザインから言って、多分志賀君が乗って来たやつだ。
つまり、ボクがレモの後ろに乗ってしまうと、必然的に夾子は志賀君の後ろに。
レモも言いかけて途中で気付いた模様。
「…………」
ああきっとどうしようか考えてるんだろうな。
ボクの気持ちを汲み取って夾子とボクを組み合わせるとなると、レモは志賀君と乗らなきゃいけなくなるから。
ボクだって分かってるんだよ。レモが志賀君をあまり好いていないことくらい。
だって今までの言動からしてあれじゃない。
でもレモの頭には、志賀君とボクを組み合わせるという発想はないんだろうな。
うん…ちょっと色々危機を感じるしね。
「ほら、行くわよ!」
そしてまたしても展開を打破したのは夾子。
彼女は志賀君の自転車に飛び乗り、志賀君の腰に捕まった。
あああああああああ。
「克也…ごめん」
良いんだよレモは気にしなくて良いんだよ。
あれは夾子の意思なんだもの。深層派として仲睦まじいからしょうがないんだよ。
ボクは自転車に乗っている間、ずっとそう言い続けた。
レモのマンションへは、数分もせずに到着した。
なんだか奇麗なところだ。そんなに建てられてからの年月は経過していないみたい。
今更なのだけれど、レモ達はどうやって家を確保しているんだろう?
お金とかも…かなりの疑問。もしかして交渉相手を洗脳したりなんなり…まさかね。
そして、中へ通されたボクらはリビングの端に荷物を置かせてもらい、勉強道具をテーブルの上に広げた。
夾子はトイレへ。
……はためくスカート、最高!制服もいいけどやっぱり私服も良い!
背中に一瞬レモの痛い視線を感じた。ちょっとボクの思考読まないでよ!
「…頬が緩んでるんだよ、克也」
「ええっ」
顔に手を当てる。あ、揺るんでる。
でもさ、今朝は遅刻しちゃって夾子の私服を眺める機会がなかったんだもの。
ちょっとくらいいいじゃんねぇ。
…私服のレモは、どちらかというと夢の中でのレモに似ている。
「さて、やるわよ!」
夾子が戻って来た。すごいやる気。なんだかんだ言って夾子は真面目だ。
なんていうか、何事にもまず全力で、という感じ。
とまあ、そういうわけでボクらは各自ノートを広げた。

……

何時間かすると、大体勉強の流れが決まってきた。
まずボクが分からないことがあると夾子に聞く。
そして夾子が分からないと志賀君に聞く。
志賀君は何故か分からないことは現時点ではないようでそこで答えは返って来る。
レモはレモでこれまた何故か異様に集中しているようで、正直…尋ねにくい。
否、聞いたら多分笑って答えてくれるとは思うのだけれど、なんというか本当に、邪魔したらいけないであろう雰囲気が漂っているのだ。
隣に座っている志賀君はよく肩が凝らないなあと感心してしまうくらい。
と、ボクが志賀君を眺めていたところ、志賀君もレモを眺めていた。
その視線は妙に興味深げで、ボクに向ける平らなものとは何だか違うような。
面白いものを見るような目、と言ったらレモには失礼だろうけども。
「あー、疲れたわね」
夾子がソファにもたれ込む。
同感だ。人間の集中力なんてそんな長時間続くもんじゃない。
…でも、やっぱり疲れるんだね。夾子。
息をして、考えて、手を動かして、じっと見つめて。
やっぱりそれが紛い物だとしても、疲れないはずがないんだ。
ボクは休憩しようよ、と正面の二人に声を掛けた。
レモがようやく周りの存在に気付いたかのように顔を上げる。
…集中し過ぎるのも、危ないと思うよ…。
「お茶にしようか」
「あたし紅茶がいいわ」
「…分かったよ」
この部屋の主であるレモは立ち上がり、キッチンへと姿を消した。
なんだか深層派の二人に囲まれているような状況になったけれど、きっとこの程度の距離なら大丈夫だと判断したのだろう。
それにボクは例え夾子になら襲われても…あ、でもやっぱり志賀君はなしで。ごめん。
そして、ボクがまあそんなこんなのことを考えていると、いつのまにか志賀君がいなくなっていた。
あれ?
「志賀君は?」
「…さあ」
夾子に聞いてみても、何だか不機嫌そうな様子。あれ?











ふわりと紅茶が甘く香る。
克也の分にはミルクと砂糖を多めに。
レモンを薄くスライスして乗せようとしたところ、背後に気配を感じて振り返った。
「なんだ、克也が襲えないから暇なのか」
「否」
シガはゆるりとキッチンを見回すと、戸棚を開けた。
「人の家の棚を勝手に開けるな」
「…俺はこっちのほうが良い」
「…深層派同士、意見を統一しようとは思わないのか」
「思わないな」
彼がレモの前に置いたのは、インスタントコーヒーのボトルであった。
夾子の希望した紅茶とは、ある意味真っ向から対立する存在ともいえる。
「もう三人分は作ってあるんだ。お前の分だけコーヒーとか、…かなり面倒なんだが」
「…」
「無言で圧力をかけるな。分かったよ、いれればいいんだろう」
レモは、コーヒーか紅茶かなどという些細なことで言い争うのもどうかと思い、あっさり折れた。
インスタントコーヒーのボトルを開封し、粉をカップに入れる。
「砂糖とミルクは?」
「いらない」
隣に立って眺めているくらいなら自分で入れろよ、とレモは思わなくもなかったが、黙ってお湯を注いだ。
四つのカップをお盆に乗せる。
(多少のお菓子くらいはないとキョウコが五月蝿いかもな…)
クッキーがいくらか棚にあったかもしれない。
だが、いったいどこの棚に入れたか…たまにケイが来て物を増やしたり減らしたりしていくので、よく分からなくなっていた。
「シガ、そっちの棚にお菓子があるか見てくれ」
ここはせっかく突っ立っている存在を使わない手はあるまい。
レモはシガが「…ああ」と返事したのを聞いてから、しゃがみこんで棚を開いた。
(…どうしてホットプレートがあるんだ…)
知らないうちにケイが購入したのか。朝食にでも焼けと言いたいのか。
レモはそこの棚を閉めると、その隣の棚を開けた。…ない。更にその隣の棚も開ける。
「シガ、そっちにはあったかー?」
「ないな」
「おかしいな…、ってうわ……!」
声が近い。
と思う間もなく、背後から腰を抱き込まれていた。
耳の後ろに息がかかる。
「ば、っ放せこの変態っ!」
「何かこの状態に問題でもあるのか」
「ないわけないだろうがっ、さっさと離、れろよ…!」
腕に力を入れて突っぱねようとしても、腰に回されたシガの腕はぴくりともしない。
彼はレモの耳朶を舌先で軽く舐めて、それを甘噛みした。
「……ッッ!…っや、めろって言ってるだろ……!」
背筋にぞくりとしたものが駆け抜け、レモは全力でシガを突き飛ばした。
触れられた耳がじんわりと熱い。
「顔が赤いな」
「うるさいっ!この、変態が…っ!」
真っ赤に染まる顔を隠し切れずに、レモはそっぽを向いた。
突き飛ばしたときの衝撃で、紅茶が一杯倒れてしまっていた。











内容までは聞き取れなかったけれど、二人が言い争っている声がキッチンから聞こえてきた。
志賀君、ボクとはあまり喋らないけれど、レモとだと結構喋るみたい。
「…ボク、志賀君とレモが仲良くしてると嬉しいんだ」
夾子がボクを見る。
言い争っているのに仲が良いだなんておかしいかもしれないけど、口論するにはまず相手への興味が必要だから。
それに、ある程度心を許してなければ、言い争いなんてしないと思う。
「…なんだか、初めはすごく仲が悪そうだったし…」
レモときたら「シガには気をつけろ」だの「深層派なんだから良いはずがない」だの刺々しい言動ばかりしてたし。
それに殴り合いはするしで、完全なる目の敵ってやつで。
でも今日、二人が普通に並んでるのを見て正直ほっとした。
勿論、ボクが見ていないときにもそういうことはあったかもしれないけど、見てないことは分からないし。
少なくとも、最初の頃よりはレモは志賀君に気を許してる気がするんだ。
まあボクの気のせいかもしれないけど。
志賀君は、どうだろう…志賀君については夾子のほうが知ってるかもしれないけど。
「シガは…」
夾子は視線を泳がせる。
ううん、別に無理に答えなくてもいいんだ。
二人のことは、ボクが勝手に気にしてるだけなんだもの。
よくは分からないけど、夢幻派と深層派の対立が薄まればいいな、ともね。
だって仲が悪くて得することなんて何もないと思うんだ。
二人とも…変な言い方、ボクなんだし。どうにかならないのかな。
「…克也」
なんてね。
ちょっと夾子と二人きりだからって真面目ぶってみた。
本当は心臓がうるさいから、二人の話で誤摩化してるだけなんだ。
…二人きり。
そうなんだ。レモと志賀君が多少打ち解けるだけの時間が経ったんだ。
ボクだって少しは、少しは言わなきゃ。
「……ボクと夾子が知り合ってからもだいぶ経つんだよね…」
高校一年の頃。同じクラスになって、いつのまにか仲良くなって。
「…そうね」
もしかしたら彼女は、ボクが『個体』だからこそ近付いて来たのかもしれない。
否、かもじゃない。そうなんだ。
彼女が『ボク』だからこそ、ボクは彼女と近付くことが出来た。
今となってはそう思う。
だけれど。
「ボクは、夾子ともっと仲良くなりたい」
「…」
「夾子がどんな事情でボクに近付いて来たのだとしてもだよ、ボクは…夾子にもっと近付きたい」
なんて辿々しい、しかも回りくどい告白。
違う、告白の一歩手前。
だけどボクは真剣に、夾子を見つめたんだ。
いい加減な気持ちで言ってるんじゃないと、信じて欲しくて。
「…克也」
夾子の瞳は明らかに戸惑っている。
……………あ、まずい、なんだか妙に恥ずかしくなってきた。
自分から言っておいて何だけど恥ずかし過ぎて取り消したくなるような。
うわあ、駄目だよしっかりしなきゃ。
うう、でもやっぱり思い切り過ぎた…恥ずかし過ぎるよ。











初めて足を踏み入れた現実世界は酷く開放的で。
年甲斐もなくはしゃぐ心を微笑ましく思いながら、夢幻派のカナンは街を歩いていた。
「まあ、奇麗」
そして彼女は、ある店の前で足を止めた。
色とりどりの花がお客である彼女を迎え入れるかのように咲き誇っている。
(これが『花』なのね)
彼女が日々暮らす世界には、花という物は存在しない。
したがって、こうして実際に見て触れるということは初めての体験であった。
しっとりとした柔らかな花弁の感触が、彼女の指を楽しませる。
「あら」
知らず知らずのうちに店内の奥まで入って行ってしまっていた彼女だったが、はた、と足を止めた。
その視線の先にはエプロン姿の一人の男性。
(もしかして…)
この店の店員なのか、彼は花の鉢の場所替えをしている。
それだけなら彼女もわざわざ足を止めたりはしなかったのだが、彼女はその男性に『何か』を感じた。
「あの、すみません」
声を掛けたのは、後から考えれば確信があったからに過ぎない。
男性はゆっくりを振り向いた。活発そうな笑顔の青年だ。
「不躾で申し訳ないのだけれど、あなたもしかして…深層派の方?」
カナンのあくまで質問の形をした確認の言葉に、青年はにっこり笑った。
「はい。お客さんは、うーん…夢幻派の方かな?」
「そうよ」
「はは!やっぱり現実世界にいても同じ空気の人は分かっちゃうんですよね」
太陽のようなカラリとした笑い方とでも言えばいいのだろうか。
カナンはこれまで抱いていた深層派のイメージとのギャップに驚きながらも、微笑んだ。
「名前をお聞きしてもいいかしら」
「ニロです。あなたは…カナンさんかな?」
「あら、どうして知ってるの?」
きょとんとした顔で聞き返すと、ニロは再度笑った。
「何せ敵対勢力でしょう俺ら。相手方の顔くらい覚えとこうって、派閥内で、シガ…ああうちの大将なんですけど、が克也君の学校に転校する前に予習のようなことをやったんですよ」
「つまり調べたのね」
「調べたというと人聞きが悪いですけど、まあそうですね。ハハハ」
ニロは余った値札をエプロンのポケットに入れると、「ちょっと待ってて下さいね」と言い、奥へ引っ込んでしまった。
(なにかしら)
カナンはじっと彼が出てくるのを待った。
すると間もなく、彼は再びひょっこりと彼女の前に現れた。
腕にチューリップの花束を持って。
「え、これ…」
「差し上げます。せっかく逢った記念に」
「でも私お金を持っていないわ」
戸惑うようにカナンが言うと、ニロは顔全体で微笑んだ。
カナンの腕をとって、花束をしっかと抱え込ませる。
「俺が個人的にあげるんですから、お金はいいんです。カナンさん、今日がこの世界初めてでしょう?」
「え?」
「すごく嬉しそうに売り場眺めてくれてたから。…だから本当は、この世界の案内でもしてあげたかったんですけど、今日はまだ仕事があるんでそのお詫びみたいなもんです」
カナンは、ニロの笑顔と腕の中の花束を交互に見つめ、柔らかく口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう。とっても嬉しいわ」
「こちらこそ、是非またおいでになってくださいね」
「ええ」
まるで子供同士が指切りの約束を交わすときのような気持ちで、彼女は目の前の笑顔を瞼に焼き付けた。


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