初めて足を踏み入れた現実世界は酷く開放的で。
年甲斐もなくはしゃぐ心を微笑ましく思いながら、夢幻派のカナンは街を歩いていた。
「まあ、奇麗」
そして彼女は、ある店の前で足を止めた。
色とりどりの花がお客である彼女を迎え入れるかのように咲き誇っている。
(これが『花』なのね)
彼女が日々暮らす世界には、花という物は存在しない。
したがって、こうして実際に見て触れるということは初めての体験であった。
しっとりとした柔らかな花弁の感触が、彼女の指を楽しませる。
「あら」
知らず知らずのうちに店内の奥まで入って行ってしまっていた彼女だったが、はた、と足を止めた。
その視線の先にはエプロン姿の一人の男性。
(もしかして…)
この店の店員なのか、彼は花の鉢の場所替えをしている。
それだけなら彼女もわざわざ足を止めたりはしなかったのだが、彼女はその男性に『何か』を感じた。
「あの、すみません」
声を掛けたのは、後から考えれば確信があったからに過ぎない。
男性はゆっくりを振り向いた。活発そうな笑顔の青年だ。
「不躾で申し訳ないのだけれど、あなたもしかして…深層派の方?」
カナンのあくまで質問の形をした確認の言葉に、青年はにっこり笑った。
「はい。お客さんは、うーん…夢幻派の方かな?」
「そうよ」
「はは!やっぱり現実世界にいても同じ空気の人は分かっちゃうんですよね」
太陽のようなカラリとした笑い方とでも言えばいいのだろうか。
カナンはこれまで抱いていた深層派のイメージとのギャップに驚きながらも、微笑んだ。
「名前をお聞きしてもいいかしら」
「ニロです。あなたは…カナンさんかな?」
「あら、どうして知ってるの?」
きょとんとした顔で聞き返すと、ニロは再度笑った。
「何せ敵対勢力でしょう俺ら。相手方の顔くらい覚えとこうって、派閥内で、シガ…ああうちの大将なんですけど、が克也君の学校に転校する前に予習のようなことをやったんですよ」
「つまり調べたのね」
「調べたというと人聞きが悪いですけど、まあそうですね。ハハハ」
ニロは余った値札をエプロンのポケットに入れると、「ちょっと待ってて下さいね」と言い、奥へ引っ込んでしまった。
(なにかしら)
カナンはじっと彼が出てくるのを待った。
すると間もなく、彼は再びひょっこりと彼女の前に現れた。
腕にチューリップの花束を持って。
「え、これ…」
「差し上げます。せっかく逢った記念に」
「でも私お金を持っていないわ」
戸惑うようにカナンが言うと、ニロは顔全体で微笑んだ。
カナンの腕をとって、花束をしっかと抱え込ませる。
「俺が個人的にあげるんですから、お金はいいんです。カナンさん、今日がこの世界初めてでしょう?」
「え?」
「すごく嬉しそうに売り場眺めてくれてたから。…だから本当は、この世界の案内でもしてあげたかったんですけど、今日はまだ仕事があるんでそのお詫びみたいなもんです」
カナンは、ニロの笑顔と腕の中の花束を交互に見つめ、柔らかく口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう。とっても嬉しいわ」
「こちらこそ、是非またおいでになってくださいね」
「ええ」
まるで子供同士が指切りの約束を交わすときのような気持ちで、彼女は目の前の笑顔を瞼に焼き付けた。
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