8.赤くなった日

 



「パトロン、少しお時間よろしいでしょうか」
ドアをノックする音が聞こえて、レモは顔も上げずに己の右腕ともいえる青年を招き入れた。
彼は丁寧にドアを閉めると、レモを真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に申し上げます。他派閥より先行して、個体を掌中に収めておくべきです」
「…本当に単刀直入だな」
「失礼は承知の上です。ただ、現状の方法では時間が掛かる上、どうしても後手に回ってしまいます。万が一の事態が生じた場合、取り返しがつきません」
「つまり、方法なんてどうでもいいからさっさと克也を押さえ込め、と言いたいわけか」
レモは淡々とケイの意見を受け止めると、椅子に座ったままその顔をじっと見上げた。
彼は随分と前から、レモの右腕としての役割を果たして来た。
したがって、当然レモは彼のその率直で生真面目な性格も知り尽くしているし、彼の自分に対する痛いほどの忠誠心も知っている。
彼が少々過激ともいえる思想を持っているということも、またそれが己を思うがためだということもだ。
ただそれを直接ぶつけられたのは、今日が始めてのことだった。
(目を瞑っていられなくなってきたのか)
おそらく自分がシガと衝突するたびに彼は胃の痛むような思いをしているのだろう。
つい先日、克也を守り損ねた件もある。
(それか……)
レモが克也を陥落させるまでの心情を思ってか。
「ケイ」
「はい」
「お前の意見は受け入れられない。分かっているとは思うが、『中途半端』過ぎる」
「……はい」
「分かったのなら退室しろ」
「はい」
「それと、………余計な気は回さなくていい」
「…それは了承致しかねます、パトロン」
(それが一番重要なことなんだ)
入って来たとき同様静かにドアを閉めて出て行ったケイの背中を見送ったのち、レモはぎしりと背もたれに寄りかかった。
緩く三つ編みに結ばれた髪が、さらりと肩から落ちる。
それを解こうとして指を伸ばしたが、宙で一旦停止したのち、やはり下ろした。





レモの部屋から出て来たケイに声を掛けた人物がいた。
「しょぼんとしちゃって、怒られたの?レモに」
「カナンさん」
カナン、と呼ばれた女性は、落ち着いた雰囲気のスーツを着用している。
身長は男性と定義されているケイよりもやや低いだけだ。
ただしこれは、ケイの身長がそれほど高くないともいえる。
「はい。私が意見じみたことを申し上げたために…」
「余程おかしなことを言ったの?」
「いえ、…ただ、現在の方針にいくらか逆らうものではありましたが」
「心はいらないから躯だけでもさっさと手に入れたらどうか?」
「……ご名答です。何故分かったんですか」
きょとんとした顔のケイに、カナンはウインクを決めた。
線の細い女性だからか、それとも柔らかながら聡い雰囲気があるためか、ウインクされてもあまりうっとおしくない。
「それはね、レモを怒らすとしたらそれくらいしかないからよ」
「……な」
「何故何故言ってないで自分で考えてごらんなさい?深層派の女の子にも言われたでしょう?」
ぐうの音も出ないとはまさにこのことだ。
脳裏に一瞬深層派の少女の顔が過り、ケイは黙り込んだ。
ふと、カナンが真面目な顔になる。
「でもあの子、大丈夫かしら……」
「……え?」











どどどどどどどどどうしよう。
何がどうしようって、今日は今年初!の体育がプールの日なんだ。
それも男子と女子合同なんだ!
まあ合同と言ってもプールが半分に分かれてて女子が右、男子が左、となってはいるんだけれどね。
でも、見れるんだ。
何がって聞くだけ野暮だよ、ねぇレモ?
もう君はどうしてボクの中の人なのにそんな胡散臭い目で見るかな。
「…僕にはどうして克也がそんなに興奮しているのかが理解出来ないのだけど」
もう!ボクが夾子と映画デートのときもそうだったけど、君はどこか冷めているよ!
プールと言ったらあれじゃない!うわっ恥ずかしい。キャッキャ。
「……」
うわやめてそんな痛い目で見ないで。
おかしいなあ、レモはどうしてそんな女の子に興味がないんだろう。
せっかくかっこいいんだからさ、口説こうと思えば口説き放題でしょう。
「…僕は克也を守るために此処にいるんであって、女の子と一緒になるためにいるんじゃないんだよ、克也」
あれ微笑んでいるけど目が冷たいんじゃないちょっと。
ごめん、ごめんて。分かったよ。ちょっと落ち着くよ。
「それで、プールって言ったらなんなんだい、克也」
え、それ言わせちゃうの恥ずかしいなあ。
夾子今いないよね、ね?
ボクは周囲を見回し、女の子がいないことを確認する。
ちなみに此処は廊下を突き当たった階段前だよ。
「み」
「み?」
もう水着だよ!恥ずかしいな言わせないでよ!
「ああ、そういえばそうだね」
そんなしれっと。
絶対レモ女の子興味ないよ。むしろ恋愛とかしたことなさそうだよ。
まったく、ボクの中で恋愛とかしたことないの?
「克也の期待に添えなくて残念だけど、ないよ」
うわはー。
実際にいくつかは知らないけど、外見年齢二十歳前後で一度もないとは。
そういえば夢の中で会っても、これまでに恋愛相談とか全然受けたことなかったね。
「克也、あれってもしかしてお兄さん?」
「え?」
レモが指さした方向には、ボクの兄こと直也の姿。
うわ、また女の子と一緒じゃない。人混みに紛れて可愛いかは分からないけど両手に花とか。
否、誤解しないでよ。ボクは夾子一筋だからね!
…ああ、こういうことを本人に向かって言えればいいのに。











六時間目の水泳の授業が残り時間半分を切り、見学だったレモは他の生徒よりも一足早く教室へ戻ることが許可された。
しかし授業中とはいえ、克也をシガとともにプールに残していくなどという危険極まり無い真似を出来るはずもなく、彼はプールを外から見張っていた。妙な誤解を受けぬよう、男子生徒が泳いでいる側に立ってだ。
「…レモー、ごめんね」
比較的行動の自由がきく授業であるため、克也が金網からこちらを覗き込んで来た。
無論彼が気にすることではなく、レモは「気にしなくて良いよ、克也」といつものように流す。
克也自身、視線の七割は女子サイドに向かっているため、それほど気にしているようではなかったが。
「やあ、瀬川君ご苦労様」
そして今度は明らかにプールではない側から声を掛けられた。
振り返ると、教材を胸に抱えた担任の亜崎が立っていた。
「…今授業中ですよ、先生」
「この時間化学はどこのクラスも入ってないんだよ。そうそう…ちょうどよかった」
亜崎は教材の中から可愛らしい封筒を取り出した。
「これ、志賀君に渡しておいてくれないかな。朝うっかり渡しそびれちゃって」
「…なんですかこれ」
「深層派同窓会の集まりのお知らせ」
「この場で引き裂いてもいいのなら受け取ります」
「冗談だよ、誰だったかな、えー名前は知らないんだけど、とにかく頼まれたんだよ」
押し付けられた封筒の裏側を見ると、「ニロより」と署名が記してある。
ニロというのは、確かあのシガの夕飯を作りに来ていた男だったような気がする。
「とりあえず、頼んだからね瀬川君」
「直接渡せばいいと思いますよ」
「今日SHRないんだよね。だから僕は志賀君と会う機会が今日はもうないんだ。というわけでよろしくね」
亜崎はそう言い、まるで逃げ込むように化学室へ足早に入って行った。
と、同時に水泳の授業が終わったらしく、プールからざわついた話し声がし出した。
男子は女子よりも着替えるのが早く、数分もすると克也がひょっこり顔を出した。
「レモ、おまたせ。夾子来た?」
「まだだよ。…シガは?」
「志賀君?まだ着替えてたよ」
そして待つこと数分。
夾子が女子更衣室から出て来た。
「克也待っててくれたのね!じゃあ行きましょ」
「あ、うん。でも志賀君がまだ…」
「あいつなら先生と話してたわよ。水泳部部員少ないから転校生は狙い所なのよね」
結局克也は夾子と帰って行った。
レモも帰ってしまえばよかったのだろうが、彼は変に生真面目なところがある。
次々と生徒が帰って行く中、彼は人気のなくなった男子更衣室へ入り込んだ。
「お前いつまで着替えてるんだ」
若干うんざりした声になるのは仕方がない。
シガは未だにのんびりとワイシャツのボタンを留めていたのだから。
彼はレモを見ると二度ほど瞬きをした。
「ニロさんからお前宛てに手紙」
シガは手紙を見ると黙って受け取り、着替えに戻った。
「それと、今日はSHRはないからさっさと帰れ。克也の家には寄るな。以上だ」
レモはお礼の一つも言わぬシガに最低限のことだけを言うと背を向け、教室へ戻った。
教室には既に誰もいなくなっていた。
が。
「『……当教室、四時より使用します……』?……」
黒板に白い文字。
六時間目が終わるのが三時二十分ではなかったか、と教室の時計を見上げると時刻は三時五十五分。
気がつけば廊下からざわざわと人の声。
レモは慌てて自分の鞄を肩に引っ掛け、教室を出ようとしたが。
(……シガの鞄)
教室が使用されている間はまず立ち入りは禁物だろう。
だが別段使用が終われば入れるだろうし、シガは鞄がなかろうと不便はしないだろう。
しかし。
(ここで出しておいてやらないのもどうなのだろう)
良心が働いている。
レモはとりあえず扉が閉め切られる前に、シガの鞄を持って教室の外へ出た。
廊下を見回したが、この物騒な世の中…それは学校の中とて同じであるが故に、鞄を置いておくに適当な場所が見当たらず、彼は途方に暮れた。
「……」
それからどのくらいの時間が経過しただろう。
もしかしたら数分だったかもしれないし、数十分だったかもしれないが、廊下の向こうにシガの姿が見えた。
彼は教室の様子を見ると、レモの正面まで歩いて来た。
レモにしてみれば、「ようやく来たか」という思いでシガに鞄を押し付けたのだが。
「…なんだ、待っていたのか」
その一言に、何故かカッと頬が赤くなった。
「っ別に僕はっ…、単に教室が閉まるからで…!」
「閉まるから俺の鞄を持って待っていたわけだろう」
「待ってない!」
レモ自身、いったい何をこんなにムキになっているのか分からなかった。
くるりとシガに背を向けて歩き出す。
早歩きで歩いているはずなのだが、シガは同じ歩調でしっかりとついて来ていた。
(僕はいったい何をやっているんだ……)
顔が熱かった。











今日は夢を見ていると思った。
レモがボクに逢う気分じゃなかったのかな。
それともボクがレモに逢う気分じゃなかったのかな。
どちらにせよ、これは夢だ。
昔の夢。
違うな、正確には昔の夢の夢。
だって小さい頃のボクとレモがいる。
『どうしたの、克也』
レモ小さいなあ。でもってボクはもっと小さい。
『これ、キョウちゃんから貰ったの』
キョウちゃん?
誰だっけ……あ、そういえば昔近所にキョウちゃん…今日子ちゃんって娘がいたんだ。
そっか、夾子の名前もきっとそこから来ているんだろうな。
おかしいな、小さい頃の記憶って言われなきゃ全然思い出さないんだから。
それでボクは、何も貰ったんだっけ?
『ビー玉?』
『ビー玉?』
『きれいなガラスの玉のことだよ、克也』
ううん、これってボクいくつくらいだろう。
ご近所のキョウちゃん…記憶が薄いってことは、もろ幼少期、三、四歳くらいかな。
そんでもってレモはうーん…六歳くらい?
話し方からして土台は出来てるみたいだけど。
『これ、レモに一個あげる』
『でもキョウちゃんから貰ったものなんだろ?』
『うん、でも三つあるからひとつあげる』
うわボク優しい。とか自分で言っちゃ駄目なんだろうな。
小さい頃のボクはとてもはにかんでいて、すごく嬉しそうだ。
それがレモにも分かったみたいで、彼は、
『克也はキョウちゃんのことが好きなんだね』
とかませたことを言っている。
『うんだいすき。レモのこともすきだよ』
『僕も克也のことすきだよ』
『えへへ』
レモもすごいはにかんでて可愛い。
ボクが水着のことではしゃいでいたときのしらけっぷりは、この頃からは考えられないね。
『キョウちゃんもレモみたいに髪ながいんだよ』
『知ってるよ、可愛い女の子だよね』
『どうして知ってるの?』
『だって克也が知ってるから』
『へぇ〜そうなんだ、レモはぼくと仲良しだもんね』
幼少期ってすごく理論を超越してるよね。
『ねぇレモ、レモの髪貸して〜』
『…いいよ』
あ、なんかちょっと今、間があったんだけどレモ。
そういえばまだこの頃のレモは三つ編みしてないんだ。
単純に一つに結んでるだけ。今の志賀君みたいに。
『いたいよ、克也』
『ごめんね、レモ。ちょっと我慢して』
たどたどしい手付き。こりゃ痛いよ。
レモ幼くても大人だなぁ。ボクだったら怒り出してるよ。
『うんしょ、あ、できたあ』
『なにができたの?』もうレモ投げやりだね。
『三つ編み〜。キョウちゃんいつも三つ編みなんだよ。すごくかわいいんだ』
乱雑な三つ編み。だけれどボクは満足していたみたい。
『かわいい〜、レモすごいかわいいよ〜』
『でも三つ編みって女の子がするものじゃないの?克也』
『レモなら大丈夫だよ〜。ねぇ、これからはずっと三つ編みしててよ』
『ええ、なんで』
『いいじゃん、レモずっとここにいるなら恥ずかしくないでしょ?いいでしょ、ね?』
ずっとボクの夢の中にいるっていうのも、何だか今考えると残酷な気もする。
勿論、当時はそんなこと考えてもいなかったんだよ、確か。
そこまで気が回らなかったし。
『ええ〜』
『ねえってば。せめてぼくが大人になるまで!いいでしょ、レモ〜』
『もう、分かったよ。克也が大人になるまででいいんだね?』
『わーいやった。レモだいすき!』
幼いボクは幼いレモに嬉しそうに抱きついている。
レモも満更ではなさそうだけれど、やっぱり表情は複雑そう。
…いやなんだろうな。ボクでも嫌だよそんなこと頼まれたら。
『約束だよ、レモ!』
『約束だよ、克也』
指切りの約束。
きっとレモはこのときのこと、まだ覚えてくれてるんだろうな。
それなのにボクは全然覚えてないとか、…ごめんねレモ。
でもボクも後少ししたら大人になるから、どうかそれまで待っていて。


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