7.ぐらぐらした日

 









薄暗く角張った空間。
酷く人工的な作りであり、壁には装飾などといった部類は何一つ施されていない。
例えるなら、都会の息苦しさだけを取り除いた世界である。
「ちょっと」
そこに少女のとんがった声。
シガが顔を上げると、制服姿のキョウコが立っていた。
こうして彼女が個体である克也の中に存在しているのは、彼が休んでいたためであろうが、比較的珍しいことであったりもする。
「昼間の、あれはいったいどういうことなのよ」
「……」
「黙ってないでちゃんと説明しなさいよ!」
キョウコは目をつり上げ、今にもシガに飛びかからんばかりである。
それを後ろからニロが腕を引いて諌める。
「まあ落ち着けよキョウコ」
「落ち着けないわよ!こいつが男を見れば品定めするような奴だってのは分かってたけど、いくらなんでも敵の大将に手を出す奴なんていないわよ普通!」
「品定め云々の時点で普通じゃないのは分かってるだろ、な」
「そうだけど……!」
シガは目の前で交わされるやり取りなど全く聞いている様子もなく、頬杖をつき、明後日の方向を向いている。
そして二度ほど瞬きをしたのち、
「ニロ、理性派に関する調べは進んでるのか」
関係のない話題に切り替えた。
ニロも咄嗟に切り替える。
「ああ。今高校にはシガの言っていたネオの他にもう一人在籍しているらしい。残念ながら女の子だ」
「あんたがそういうこと言うからこいつが助長するんじゃない!」
「それと…目立った行動をしそうなのも他にいることはいるが、それはまだ個体内にいるらしいな」
彼の説明が終わったと判断したシガは、ニロから視線を外した。
「…おそらく、理性派の目的は………」











ボクとの面会拒否期間を終えたのか、ようやく夢の中にレモが出て来た。
彼は、心配そうにボクの顔を覗き込む。
「克也、風邪はもう…」
「大丈夫だよ、一日寝て治ったから」
本当に、突発的な熱だったみたい。
でも一日で済んでよかった。
ただでさえボクはそれほど頭良くないんだし、あまり勉強が遅れてもまずい。
いくら近々勉強会があるかもしれなくても…うわ、考えるだけでどきどきしてきた。
冷静に、冷静に。
そう、勉強が遅れてもまずいし、レモや夾子に会えなくても寂しいから。
あ、うん、志賀君もね。別に忘れてないよ。
忘れられるわけないって。もしかしたらボクの人生を握ってるかもしれないんだから。
やばいやばい。
ボク絶対護身術とか習った方がいいな。
でもあんまり志賀君相手に勝てる気がしな…ってこれじゃあまた彼の思うつぼだよ。
思うつぼって何だよと思うかもしれないけれど、ボクが勝てる気がしないと思った時点で勝てないのは決定事項なんだもの。
勘弁してよ。
「…克也」
あ、どうしたのレモ。
ごめんね一日休んだせいか久々にレモの顔を見た気がするせいか、ちょっとテンションがおかしいんだ。
熱は下がったはずだけど。
「克也は、担任の亜崎先生をどう思う?」
「亜崎先生?」
この間志賀君に襲われかけたときに助けてもらったからかな。
化学の先生で、でもボク達のクラスの理科は受け持ってないから授業を教わるってことはないんだけど。
うーん、他の先生に比べると若くて良い先生?だよ。
特定の生徒を贔屓したりっていうのも見たことないしね。
レモ?
「…うん、ならいいんだ」
何がいいのさ。なに、亜崎先生も実はボクの中の人ですーとかそういうことなの?
「いや、亜崎先生は違うよ」
ならいいけど。あ、なんかさっきのレモと同じようなことを言ってる。
ならいい、ってのは、自分の考えに対して相手の答えが結構適当に満足した場合に出ちゃう言葉なのかな。
レモは何やら少し考え込んでいるみたい。
ボクは、ちょっと彼の三つ編みを引っ張った。
本当に軽くだよ。彼はボクの方を向いた。
「なんだい克也」
「レモのこの髪って、わざわざ結んでるの?」
長さは腰くらいまである。それを毎日。
もし身体が人とは違うから髪型も自動生成だとかいうなら話は別だけれど、ボクだったら嫌になってしまう。
…髪の長い女の子が大変そうなのと同じ。
そしたらレモは、
「そうだよ」
と、あっさり肯定。
ええ!?なんでそんな面倒なことを…。
「特に深い意味はないよ」
しれっとした態度で、それがまるで何でもないことのようにレモは微笑んだ。
実際そうなのかもしれないけれど、何故かボクはそのとき奇妙な違和感を覚えた。
…なんだか、少し無理してるような感じ。
気のせい?





翌日。
二時間目の授業を終えてボクはトイレへ行こうと教室の外へ出た。
夾子は志賀君と話していたし…まあわりといつもの如く一方的にだけど…レモは。
珍しいことに、廊下で亜崎先生と一緒にいるところが目に映った。
彼は教室から出て来たボクの姿に気付くと、すっと先生から離れ、ボクの横を通り抜けて行った。
…聞かれちゃまずい話でもしてたのかな?でも廊下で?
そもそも、先生とレモとで聞かれたらいけない話って何さ。
もしかしてこの間のボクが志賀君に襲われた件についての話?
だとしたら確かにあまり聞かれたくはないだろうけれど、ボクは一応当事者なわけだし…。
「境君、調子はもういいの?」
亜崎先生がボクに声を掛けてきた。
担任だし、ボクは昨日風邪で休んでいたから。
「あ、はい。もう大丈夫です」
「ならいいけど、今日は体育もあるみたいだから、あまり無理はしないようにね」
「はい」としか言い様がなくて、ボクは先生に背を向けようとする。
もともとボクはトイレに行こうとしていたのだから、休み時間ももう終わってしまうし、何もおかしくない。
すると先生の声が、ボクの背中に飛んで来た。
「本当に無理だけはしないほうがいい」
レモは先生をボクの中の存在ではないと言っていた。
けれど。
「君の場合は特にね」
先生は何かを知っているの?





ボクの周りにいる人々は、皆ボクの知らないボクのことを知っているのかな?





そんなわけはないのに、そんな気がして。
みんながみんな、ボクの中の存在ではない。
なのに、もしかしたらこれはボクの錯覚で、そもそもボクは現実世界にすらいなくて。
全員が全員、ボクだとしたら。
「克也、どうしたのそんなにぼっとして」
「…夾子」
「まだ風邪が治ってないの?…でも熱くはないわね」
夾子の手が額に触れる。
ボクはその手を掴む。人肌。でも夾子もボク。
「夾子…ボクの周りの人たちは…」
「なに?克也」
「…どの人がボクと関係があって、どの人が無関係なの?」
ボクは、いったい。
多分他の人は、こんなふうに周りが全部自分かもしれないだなんて悩んだりはしない。
普通そんなこと有り得ないから。
でもボクはその面では、きっと普通じゃない。
今まで漠然と受け止めて来たのに、どうして今になってボクは混乱しているのだろう。
レモも志賀君も夾子も、ボクの傍にいたから。
でも先生は、ボクとは全然関係がなかったから。
なのに何かを知っているから。
その他の範囲にまで、ボクはボクの影響が及んでいそうで怖くなったんだ。
「…克也、落ち着いて」
「でも」
「個体である貴方の影響が及んでいるのは、この世界の人間では手の指で数えられるほどにしかいません」
知らない声。
ボクも夾子も顔を上げて、その声のした方を見た。
紺色の髪の、スーツ姿の男の人。
「あら、貴方…」
夾子は知っているみたいだ。
男の人は、「いつぞやはどうも」と彼女に対して少し頭を下げてから、ボクの方へ向き直った。
「初めましてでしょうね。夢幻派のケイと申します」
「あ…」
「今日はこれをパトロンに渡しておいて頂きたいのですが」
…ケイさんはそう言ってボクに何かを押し付けた。
…袋の中を覗き込めば、それはお弁当だった。
「では、失礼致します」
そして、早々に立ち去って行ってしまった。
スーツ姿の彼は、遠目にも目立っていたけれど、結局一度もこちらを振り返ろうとはしなかった。
なんだろうか、もしかしたらあまり好いていないのかもしれない、ボクを。『個体』だし。
「克也、あたしちょっと次の時間休むわ!」
夾子は夾子でそれを追いかけて行ってしまうし。
ボクは少しばかり冷静になって、腕の中の弁当箱を見下ろした。
あの人は夢幻派でパトロン、ということは、多分これはレモに渡せってことなのだろう。
レモのお弁当は、いつもあの人が作っているのだろうか?
さすがにそこで手作りのお弁当かあいいなあと言えるほど、ボクのテンションも高くはなかったけれど。











静寂の廊下を走る足音。
上履き特有のその音は学生である証。
「待って!」
響いた声。
それがおそらく自分に向けられたものであろうと、ケイは足を止めて少女を見た。
意思の強い眼差し。薄茶色い髪のかかる華奢な肩はこの世界に存在する少女達と何ら変わりないように思える。
「あなたは夾子さんとおっしゃるのですね」
それくらい見事な虚構。息切れして上下させている肩をへし折れば血が出る。
いくら紛い物とはいえ、深手を負えばその存在に危険が伴う。
(そんな世界にパトロンを行かせておくのは、あまり好ましい方法とは言えない)
やはりあの個体を手に入れるには、手段を選んでいる場合ではないのかもしれない。
ふとそう思考を巡らせて、ケイは視線を目の前の少女に戻した。
「あなたは何故、この世界に出てこようと思ったんですか。そちらの首領のためですか」
唐突な質問に、彼女は少し驚いたようだったが。 「…違うわよ」
「なら何故?」
息を整えると、笑みを漏らした。
「貴方って、あたしに何故何故聞いてばっかりね」
「…そうでしたね」
以前彼女が夢幻派に干渉した際にも、「何故」と言ったような気がする。
そのときも彼女の行動の真意、意味が理解出来ずに問い掛けたのだった。
「ずっと克也の中にいたら退屈でしょう。それに、見てるだけなんて面白くないじゃない」
でも、貴方はそうでもないみたいね?
と、少女はケイの顔を覗き込んだ。
楽しさを求める子供のような言葉とは裏腹に、大人びた笑みを浮かべて。
「私は、」
「わたしは?」
「…パトロンのお役にたてるだけで光栄ですから」
ケイは少女の大きな瞳とじっと見つめ合った。
それが数秒続いたかと思えば、少女は風船が弾けるように笑った。
「あはは!あなたって見た目通り真面目な人なのね!」
「何がおかしいんですか」
「別に、っおかしく、はないわよ。ただ、つい笑っちゃっただけよ」
「……」
間違いなく夾子の笑い声は授業妨害になっているだろう。
ケイは顔をムッとさせたまま、だが一部冷静に常識を考えられる部分で彼女の腕を引いた。
「ちょっとうるさいですよ」
「い、いじゃない、たまには。あはは」
酒が入ったわけでもないのに、彼女は笑い上戸なのだろうか。
もとより夢幻派に干渉して来たような少女だ。
授業の邪魔になるとかそのようなことを気にするような性格ではないのだろう。
「はあ、本当に夢幻派は良い子ちゃんが多いわけね」
ようやく治まったらしい。
だが彼女はまた、ケイの理解を超えている言葉を発した。
「どういう意味ですか」
「だって深層派にはそんなお奇麗な主従関係ないわよ。まあシガの性格にも問題があるんだろうけど。それに、…やっぱり貴方も躯だけを奪うのは気が進まないって主張なわけ?夢幻派なだけあって」
「……私は」
またしても沈黙が二人を包む。
少女の瞳は、ケイの答えを待つかのようにじっと彼を見つめていた。


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