6.甘酸っぱかった日

 





頭が痛い。おかしいな、風邪をひいたのかな。
ボクは体温計に手を伸ばす。
うちの体温計は今どきはもう珍しい口にくわえるタイプで、いい加減買い替えて欲しい。
お母さんにそう言ってみても、使えるうちは使いなさいと言われるだけだろうけれど。
「うう」
鼻水もずこずこ出る。これは風邪だ。熱も38℃にも達している。
はあ、今日は夾子に会えないんだなあ。…レモにも、会いたかったのだけど。
昨日の夜は何故か夢の中で彼と会わなくて、あれ?って思ったのを覚えている。
別に毎日会っているわけではないのだけれど、ボクに会おうとする気持ちが少しでもあれば必ず彼のところに辿り着いた。
それが昨日はなくて。昨日あんなことがあったから面会謝絶?
確かにレモはボクを守ろうとして現実世界に出て来てくれているのかもしれないけれど、だからってそれほど気にする必要なんてないのに。ボクは彼がいるだけで嬉しいのだから。
それに…『人間とは違うから』?ボクには分からないよ。
レモや夾子や志賀君がボクの作り出したゆめまぼろしだなんて。
触れたり、話したり、…一緒にいるのに。幽霊とかとは違う、他に人にだって見えてるんだ。
なんだか、初めてレモがこの世界に来て、ボクが夢を見ているのか思ったのときに戻ったみたい。
曖昧で、でもいつしか当然に感じていて、ちょっと変わってるけれどボクは彼らをちゃんと人間として見ていた。
それって、いけないこと?
どうなの?レモ。ボクの病床の夢の中にでもいいから、出て来てよ。

…駄目かな、駄目なんだろうな。多分今頃学校に向かう途中の通学路だろうし。
いくらなんでも一度に二つの場所にはいられないだろうし。理屈はよくわからないけど。
でもボクがいないな、くらいは気付いてくれただろうな。だってレモだもん。ああ、意味分かんないや。
…つまんないな。ちょっとゲームでもしよう。











今日は小さな後ろ姿も、その隣に並ぶ少女の姿もない。
だが…、とレモは隣の男を横目で見た。何故かこの深層派の首領だけはいるわけだ。
「…克也が休みなのに何故お前は学校に登校しようとしているんだ」
「……」
「大人しく克也の中で寝ていればいいものを」
彼が外に出ている限り、自分も外にいなくてはならない。
何故なら、克也の中から出入り出来るのは克也の意識がないときにだけなのだ。
克也の意識があるときに彼が不意に克也に襲いかかっても、中にいたらこちらとしてはどうにも出来ないのである。
無論外に出ているときでもお見舞いと称して克也の側に張り付いていることは出来るが、何せ彼の家族の眼がある。
それなら被害を及ぼす側であるこの男を見張っているしか方法はあるまい。
しかしながら、男二人が並んで登校だなんて、寒々しいにもほどがある。
ましてやこの男は無口で、コミュニケーションというこれまた薄ら寒いものも成り立たない。
そうなると自然と頭は昨日の出来事つまり過去の出来事に思考を向けようとする。
(…僕は何をあんなに動揺していたのだろう)
個体である克也をシガに奪われそうになって、夢幻派の首領としての責任に震えた?
彼の躯を最後まで奪われてしまえばこちらは終わったも同然なのだから。
勿論それもあったろう。だが、漠然とそれだけではないという想いもある。
そしてそれは『私』の部分の感情でしかない。
(…違う。もうそんなことを考える段階ではないんだ)
夢幻派の首領として、成すべきことをするだけ。
過去の想いに惑わされるだなどと、今更…自分はどうかしている。
レモは目を閉じた。











大きな欠伸。
窓からひょっこり顔を覗かせれば、登校する学生が点々と歩いて行くのが見える。
「じゃあ、克也。行ってくるからな」
台所で牛乳をがぶ飲みしたお兄ちゃんが、玄関へと颯爽と足を向ける。
ドアが閉まる音がして、話し声。多分お兄ちゃんと一緒に登校する女子生徒の皆さん。
チビガリで凡庸な顔立ちのボクとは違って、兄はバスケ部に所属するくらい背は高いはがっしりしてるわで。
顔立ちもそれほど悪くないから、女の子も放っておかないんだと思う。
「お母さんも行ってくるからね。ちゃんと休むのよ」
朝の玄関は慌ただしい。
パートで働くお母さんも、朝ご飯を片付けないまま家を出て行く。
食べかけのコーンフレーク。シーンと静まり返る家の中が新鮮。
誰もいなくなって初めて、ボクは休んでるんだなあという妙な実感が湧く。
今頃、レモや夾子は学校なんだろうな。
ボクの分のプリントは多分レモが机にでも押し込んでいるんだろう。
でも彼のことだから、ちゃんと折り畳んでいれてくれているかも。
あんまりぐしゃーって突っ込む感じではないもの。
…これで実際彼は丁寧に入れてくれる。ボクの先入観があるから。
他に誰か相手だったら、〜なんだろうなって思ってもそれは実際に見てから分かることだったり、勝手な予測でしかなかったり。
でもそれって不便だとか不愉快には感じないのだろうか。
レモは小さい頃から、ボクを怒ったりとか叱ったりだとかしたことはあったけれど、そんな不愉快げに追い払ったりしたことはなかった。
ボクって、レモ達からしてみればいったいどういう存在なの?











昼休み。
四時間目まで眠っていたせいか、身体がだいぶだるい。
だからといって、克也がいないのに起きていても無意味。気を張るだけ無駄だ。
「……!」
そう思いながらレモが重い頭を上げたのと同時に、もはや見慣れた長身が目の前に現れた。
彼はレモが寝ているときにでも来たのだろうが、いまさっき目覚めたばかりのレモにとっては、突然にゅっとそこに出現したようにしか思えない。
「お、まえ、いたのなら声の一つでも掛けろ」
ただでさえその存在を認めた場合、威圧感があるのだから。
シガは「…」と肩を竦め、レモの前の席に腰掛けた。
普段夾子に連れられでもしない限り来ない彼が、自ら一人でこちらにやってくるなど、初めてのことではないだろうか。
「何の用だ」
それに対し、この対応というのも相当冷たいのではないかとも思われるが、シガは気にした様子もなく、
「昼を食いに」
と、一言。そういえばそんな時間なのか、とレモは寝ていてぼけている脳内の時刻を修正した。
「こんなふうにエネルギーを補給しなくてはならないのも面倒だな」
本物の身体でもあるまいに、とあくまでも周囲の生徒に聞こえない程度に零す。
弁当を広げ、いざ食わんとして、レモは箸を持ったままの手を止めた。
「…お前昼は?」
別段この男と顔を突き合わせて食べることに関しては、たまたま今日克也と夾子がいないだけで、何かしら文句をつけるつもりはない。
だが「昼を食いに」と言った彼は、この状況になっても弁当一つ広げていないのである。
「忘れた」
「…買ってきたらどうなんだ」
「それほどのことでもない」
そして彼はさりげない動きで、レモの弁当からタコさんウインナーを摘んだ。
「あ、ちょっと待てっ」
「…」シガは戸惑うことも躊躇することもなく、食べた。
更に二つ目のウインナーを摘む。
「ちょっと待て!なんで僕がお前に飯を恵まなきゃならないんだ!」
「ある者がない者に恵む。夢幻派はそういう『きれいごと』は好きだと思ったが」
「だからって…!」
周囲の視線がこちらへ集まってしまっているのも気付かずに、レモは抗議の声をあげた。
シガはウインナーをレモの目の前で揺らしてみせた。おちょくっているとしか思えない。
そして。
「あーっ!」
彼はぽいっとウインナーを口の中へ放り込んでしまった。





オレンジ色の夕日が辺りを包み込む。
いつのまにか教室内は静まり返り、生徒の姿もなくなっていた。
(また眠っていたのか…)
眼を擦る。克也がいないからと言って、気を抜き過ぎだ。
これでシガに克也のもとへ押し掛ける暇を与えれば、昨日の二の舞にも成りかねないというのに。
「! シガ…」
そこでレモは、ハッと眼を覚ました。
呑気に寝ている場合ではない。放課後になり、学校は生徒を解放している。
(…シガは…)
教室には他に誰もいない。当たり前だ。
自分が深層派の首領であったら、このような絶好の隙を逃すはずはない。
(…また、克也に危機が迫っているような『感覚』はないが…)
家に向かっている途中なだけかもしれない。どちらにせよ、今すぐにでも追いかけなければ間に合わなくなる。
レモは教室のドアを勢いよく開けようとした。
「!…」
しかしその瞬間外側からドアが開けられて、レモの手は空を切った。
「なんだ起きたのか」
「っシガ…!」
そしてあろうことか、そのドアの向こう側に立っていた相手はレモが追いかけようとしていたシガ、その人物であった。
彼はレモの横を通り抜けると、彼自身の机の上に乗っていた通学鞄を肩に引っかけ、無表情のままレモへと向き直った。
その澄ました顔に、思わず怒鳴らずにはいられなかった。
「…お前、どうしてまだ此処にいるんだ!」
「お前を待っていたからだろう」
「っ、馬鹿か、せっかくのチャンスを無駄にするなんて…!」
この男が、何を考えているのかが分からない。
隙あらばと言わんばかりに二度も克也を襲っているくせに、今日に限ってその隙を見逃すなどと。
ましてや、その理由が自分を「待っていた」?ふざけるにもほどがある。
「…帰らないのか」
そんなレモの気持ちを知るわけもなく、シガは相変わらずの澄まし顔だ。
(わけが分からない)
胸を押さえる。この甘酸っぱいと形容されるであろう気色の悪い気持ちも、おそらくはあの夕日のせいだ。





電灯がつきそうでつかない中途半端な時間帯。
特にレモから話すことがあるわけでもなく、ただ黙って肩を並べて歩く。
靴のつま先で、小さな石ころを蹴飛ばした。
「個体がお前のことを気にしている」
「え?」
まさかシガから話を切り出されることがあろうとは思っておらず、レモの反応は遅れた。
シガは気にした様子もなく、話を続けた。
「個体は、お前が疲れているのを気にしている」
「…別に僕は疲れちゃいない」
「個体はそう思ってはいない」
克也はまだ昨日の会話のことを気にしているのだろうか。
人間とは違うと言ったこと、疲れたりもしていないと言ったことを。
(僕は疲れているわけではないんだよ、克也)
少し眠いだけで。だけれど少なくとも、彼の目にはそう映っているらしい。
…彼は優しいから、細かいことまで気にし過ぎるのだ。
しかし。レモは視線をシガに向けた。
「…何故お前がそんなことを言うんだ」
克也がシガにそんな相談を持ちかけるとは思えない。
シガはレモを見向きもせず、前を向いたまま口だけを動かした。
「個体が心の奥底で思っていることは、夢幻派よりも深層派の方に伝わるようになっている」
「…だろうな」
それが深層派は深層派である所以だ。
だが、ずっと一緒にいると言っても過言ではない自分よりもこの男の方が彼の気持ちを理解っているなどと言われて、
「…」
面白いわけもない。レモは俯いた。
そしてその様子から、シガは何を思ったのか、
「疲れているなら、俺のマンションで少し休んで行ったらどうだ」
…との言葉。レモは顔を上げて、「お前のマンション?」と聞き返した。
「お前のマンションよりは、此処から近いはずだが」
「…まあ、な」
曖昧に頷く。しかし、いったい彼はどういうつもりなのか。敵対勢力の首領を自分の家に上げるなどと。
…気遣いだろうか、克也の深層の影響を受けて?
そんなことが、有り得るとは思えないが。
「…じゃあとりあえずは、お邪魔させてもらおうか」
…克也が連れ込まれたときのために、場所くらい知っておいた方がこちらとしても損はない。
「…」
シガは無言で頷いた。

無論深層派の首領である彼が、夢幻派の首領である自分を陥落させようとしているのではないかという疑いもないわけではない。
以前の教室のベランダでの件もある。
だがそんなもの、予め頭にその可能性があると叩き込んでおけばそれほど問題ではない。
レモは、シガに続いてマンションのエレベーターに乗り込んだ。
此処まで来るのにもなかなかどうして面倒なマンションで、出入りの際にパネルに何らかの番号を打ち込まねばならないらしく、いざというときに嫌な足止めをくらいそうだ。
その番号は覚えてはおいたものの、シガのことだ。変更する可能性もある。
黙ったままの背中。レモは口を開いた。
「……シガ」
「…」
「何故、深層派は克也を襲う?…滅ぼされる前に滅ぼしたいからか、それとも……夢を望んでいるからか」
シガはボタンを押す。現在は一階。輝いたのは10の数字。
「…確かに、深層派の多数はそのどちらか、又は両方を望んでいる。だが、そういうわけでもない」
「…?どういうことだ?多数がそれを望んでいるなら、何が…」
彼の言葉が理解できず、レモは困惑した。
レモはこれまで、派閥の意見は派閥内で話し合い、多数の者が望むものを、といった形で決定してきた。
自分の意見は入れずに、…無論細かい動き方は自分の意見で調整したが…、首領としての務めを果たして来たのである。
それをシガは。
「多数の人間が何かを望もうが望むまいが、俺は俺のやりたいようにするだけだ」
真っ向から否定した。レモも反発する。
「だがそれだと派閥内に反発が…分裂でもしたらどうするつもりなんだ」
「消えてもらうだけだ。俺の邪魔をするような連中は派閥内に必要ない」
「なっ……」
なんという独裁。
「所詮決定権を持つのは俺だからな」
エレベーターは十階に到着し、シガはすたすたとレモの先を歩き出した。
そしてあるドアの前で立ち止まり、鍵を差し込んでドアノブを回す。
「…入れ」
「……お邪魔します」
休む休まない以前にエレベーターでの口論で相当なメンタル浪費だ。
レモは言われるがままに案内された部屋に進み、ソファに座り込んだ。
身体がどことなく重い。
「…お前一人暮らしなのか?」
「ああ」
「お仲間は来ないのか」今来られても困るが。
「飯を作りに来る程度に」
「キョウコも来るのか」
「ああ」
「彼女、得意料理は?」
「ゆで卵」
(…克也は彼女を料理上手に設定しなかったんだろうか)
出された紅茶を飲みながら、ソファに沈み込む。
染み一つない天井。当たり前だ。わざわざ汚いところを選ぶ理由がない。
しかし、改めて考えてみると奇妙な状況だ。
気遣われて、敵対勢力の首領の家にお邪魔しているなど。
克也の中でケイがやきもきしている状況が目に浮かぶ。
彼はレモのフォローをする役割にあるとはいえ、克也が起きている場合は出られないのだから尚更だ。
(いっそケイも現実世界に出入りさせたほうがいいかもしれないな)
現実世界に出入りしている深層派は何人もいるようだが、夢幻派は現在レモ一人だけだ。
いざというとき、数で攻めてこられたら克也を庇い切れないかもしれない。
「シガ、お前本当に今日はどういうつもりだったんだ」
「…」
「まさかお前が本気で僕を気遣ってどうこう…というわけでもないんだろう」
深層派の連中によってたかって袋叩きにされる可能性も、内心なくはないと思っていたくらいだ。
ましてやこの男は、気遣いなどというものからは全く無縁に見える。
「…そうだな」
シガはレモの飲み干した紅茶のカップを片付ける手を止め、レモと視線を合わせた。
にゅっとその手を伸ばし、レモの肩をソファに押し付ける。
「っおい、シガ…!」
「全く下心がない、というわけでもなかったな」
何が下心だ、と言い返す間もなく、シガの口がレモの口を塞ぐ。
この間のように唇を噛み切ってやろうとしたが、それを読んでかシガの手は顎をしっかりと押さえこんでいる。
「ん、ぅうっっ」
彼のもう片方の手が、脇腹を撫でた。
レモは必死にシガの身体を突っぱねた。
(ふ、ざけてる…っ)
全くもって理解出来ない。
個体でもないむしろ敵対勢力の首領である自分に、こんな行為をしようとしてくるこの男が。

「シガー、夕飯作りに来たぞー」

そこに知らない男の声。
彼はソファの上で繰り広げられている光景を見て、
「あ、お邪魔したみたいだな」
と、苦笑した。短髪の見るからにいいお兄ちゃんといった感じの男だ。
シガはのっそりとレモの上から引いた。
「…ああ、かなり邪魔だな。ニロ」
「仕事が早く終わったんだ。今日はそっちの…夢幻派の大将の分の飯も作った方がいいか?」
「…ああ」
レモは沸騰しかけて急降下した頭で、ニロという短髪の兄さんはおそらく深層派に属する存在であり、シガの夕飯を作りに来たのだということだけは理解した。
そして、何故かその夕飯を食べさせられる予定になっているということも。




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