電灯がつきそうでつかない中途半端な時間帯。
特にレモから話すことがあるわけでもなく、ただ黙って肩を並べて歩く。
靴のつま先で、小さな石ころを蹴飛ばした。
「個体がお前のことを気にしている」
「え?」
まさかシガから話を切り出されることがあろうとは思っておらず、レモの反応は遅れた。
シガは気にした様子もなく、話を続けた。
「個体は、お前が疲れているのを気にしている」
「…別に僕は疲れちゃいない」
「個体はそう思ってはいない」
克也はまだ昨日の会話のことを気にしているのだろうか。
人間とは違うと言ったこと、疲れたりもしていないと言ったことを。
(僕は疲れているわけではないんだよ、克也)
少し眠いだけで。だけれど少なくとも、彼の目にはそう映っているらしい。
…彼は優しいから、細かいことまで気にし過ぎるのだ。
しかし。レモは視線をシガに向けた。
「…何故お前がそんなことを言うんだ」
克也がシガにそんな相談を持ちかけるとは思えない。
シガはレモを見向きもせず、前を向いたまま口だけを動かした。
「個体が心の奥底で思っていることは、夢幻派よりも深層派の方に伝わるようになっている」
「…だろうな」
それが深層派は深層派である所以だ。
だが、ずっと一緒にいると言っても過言ではない自分よりもこの男の方が彼の気持ちを理解っているなどと言われて、
「…」
面白いわけもない。レモは俯いた。
そしてその様子から、シガは何を思ったのか、
「疲れているなら、俺のマンションで少し休んで行ったらどうだ」
…との言葉。レモは顔を上げて、「お前のマンション?」と聞き返した。
「お前のマンションよりは、此処から近いはずだが」
「…まあ、な」
曖昧に頷く。しかし、いったい彼はどういうつもりなのか。敵対勢力の首領を自分の家に上げるなどと。
…気遣いだろうか、克也の深層の影響を受けて?
そんなことが、有り得るとは思えないが。
「…じゃあとりあえずは、お邪魔させてもらおうか」
…克也が連れ込まれたときのために、場所くらい知っておいた方がこちらとしても損はない。
「…」
シガは無言で頷いた。
無論深層派の首領である彼が、夢幻派の首領である自分を陥落させようとしているのではないかという疑いもないわけではない。
以前の教室のベランダでの件もある。
だがそんなもの、予め頭にその可能性があると叩き込んでおけばそれほど問題ではない。
レモは、シガに続いてマンションのエレベーターに乗り込んだ。
此処まで来るのにもなかなかどうして面倒なマンションで、出入りの際にパネルに何らかの番号を打ち込まねばならないらしく、いざというときに嫌な足止めをくらいそうだ。
その番号は覚えてはおいたものの、シガのことだ。変更する可能性もある。
黙ったままの背中。レモは口を開いた。
「……シガ」
「…」
「何故、深層派は克也を襲う?…滅ぼされる前に滅ぼしたいからか、それとも……夢を望んでいるからか」
シガはボタンを押す。現在は一階。輝いたのは10の数字。
「…確かに、深層派の多数はそのどちらか、又は両方を望んでいる。だが、そういうわけでもない」
「…?どういうことだ?多数がそれを望んでいるなら、何が…」
彼の言葉が理解できず、レモは困惑した。
レモはこれまで、派閥の意見は派閥内で話し合い、多数の者が望むものを、といった形で決定してきた。
自分の意見は入れずに、…無論細かい動き方は自分の意見で調整したが…、首領としての務めを果たして来たのである。
それをシガは。
「多数の人間が何かを望もうが望むまいが、俺は俺のやりたいようにするだけだ」
真っ向から否定した。レモも反発する。
「だがそれだと派閥内に反発が…分裂でもしたらどうするつもりなんだ」
「消えてもらうだけだ。俺の邪魔をするような連中は派閥内に必要ない」
「なっ……」
なんという独裁。
「所詮決定権を持つのは俺だからな」
エレベーターは十階に到着し、シガはすたすたとレモの先を歩き出した。
そしてあるドアの前で立ち止まり、鍵を差し込んでドアノブを回す。
「…入れ」
「……お邪魔します」
休む休まない以前にエレベーターでの口論で相当なメンタル浪費だ。
レモは言われるがままに案内された部屋に進み、ソファに座り込んだ。
身体がどことなく重い。
「…お前一人暮らしなのか?」
「ああ」
「お仲間は来ないのか」今来られても困るが。
「飯を作りに来る程度に」
「キョウコも来るのか」
「ああ」
「彼女、得意料理は?」
「ゆで卵」
(…克也は彼女を料理上手に設定しなかったんだろうか)
出された紅茶を飲みながら、ソファに沈み込む。
染み一つない天井。当たり前だ。わざわざ汚いところを選ぶ理由がない。
しかし、改めて考えてみると奇妙な状況だ。
気遣われて、敵対勢力の首領の家にお邪魔しているなど。
克也の中でケイがやきもきしている状況が目に浮かぶ。
彼はレモのフォローをする役割にあるとはいえ、克也が起きている場合は出られないのだから尚更だ。
(いっそケイも現実世界に出入りさせたほうがいいかもしれないな)
現実世界に出入りしている深層派は何人もいるようだが、夢幻派は現在レモ一人だけだ。
いざというとき、数で攻めてこられたら克也を庇い切れないかもしれない。
「シガ、お前本当に今日はどういうつもりだったんだ」
「…」
「まさかお前が本気で僕を気遣ってどうこう…というわけでもないんだろう」
深層派の連中によってたかって袋叩きにされる可能性も、内心なくはないと思っていたくらいだ。
ましてやこの男は、気遣いなどというものからは全く無縁に見える。
「…そうだな」
シガはレモの飲み干した紅茶のカップを片付ける手を止め、レモと視線を合わせた。
にゅっとその手を伸ばし、レモの肩をソファに押し付ける。
「っおい、シガ…!」
「全く下心がない、というわけでもなかったな」
何が下心だ、と言い返す間もなく、シガの口がレモの口を塞ぐ。
この間のように唇を噛み切ってやろうとしたが、それを読んでかシガの手は顎をしっかりと押さえこんでいる。
「ん、ぅうっっ」
彼のもう片方の手が、脇腹を撫でた。
レモは必死にシガの身体を突っぱねた。
(ふ、ざけてる…っ)
全くもって理解出来ない。
個体でもないむしろ敵対勢力の首領である自分に、こんな行為をしようとしてくるこの男が。
「シガー、夕飯作りに来たぞー」
そこに知らない男の声。
彼はソファの上で繰り広げられている光景を見て、
「あ、お邪魔したみたいだな」
と、苦笑した。短髪の見るからにいいお兄ちゃんといった感じの男だ。
シガはのっそりとレモの上から引いた。
「…ああ、かなり邪魔だな。ニロ」
「仕事が早く終わったんだ。今日はそっちの…夢幻派の大将の分の飯も作った方がいいか?」
「…ああ」
レモは沸騰しかけて急降下した頭で、ニロという短髪の兄さんはおそらく深層派に属する存在であり、シガの夕飯を作りに来たのだということだけは理解した。
そして、何故かその夕飯を食べさせられる予定になっているということも。
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