5.痛かった日

 










「学校の生活には慣れたかな?」
「ええ、おかげさまで」
「そうかい、クラスにも無事溶けて込めているようで安心したよ」
「ところで、まさかそんなことを聞くためだけに電話してきたわけではないですよね?」
「勿論。ただ昼間はお守りで忙しいかな、と思ってね」









空間がぐにゃりと歪み、虹色のノイズが入る。
びりりと肌の表面を痛みが駆け抜け、藍色の髪の青年…ケイはハッと顔を上げた。
世界を鮮やかな色と灰色が交互に忙しなく波打っている。
「大変です!ケイさん、深層派からの干渉が…!」
仲間の一人が、ドアだと思われる物体を開け、叫んだ。
ケイはその横をすり抜け、干渉を最も強く感じる場所へと足を急がせた。
その間も空間は落ち着きなく色彩を変え、砂嵐のような音を何処からともなくたてた。
(深層派はいったいどういうつもりで…)
これまでにも深層派からの干渉がなかったわけではない。
だが、過去においてのそれらは…表面上だけだとしても、秩序と穏やかさを保ったものであったのだ。
今回のように、空間をひずませるような、攻撃的としか思えない干渉を行ってくるなど、極めて異例な事態なのである。
『…………………』
強烈な干渉波。ケイはその場で足を止めると、空間に映り込む少女の姿を見た。
ざざざざ…という耳障りなノイズとともに、少女が話し出す。
『意……と…夢…派の空…壁ってやわ……ね』
「あなたは…、!」
学校で個体と行動をよく共にしている深層派の少女。
そうケイが認識したのと同時に、びりり、と干渉が強まった。
おそらく、こうして会話するのは、彼女にとってそれほど楽な芸当ではないのだろう。
ただでさえ攻撃的な干渉はする方もされる方もかなりの労力を要する。
そこに会話するスペースを削ぐために波動を一定に保とうするなどと、余程力に余裕がなければ無理なのだ。
彼女のように、干渉波が分散して制御が効きにくくなるのが普通である。
「何故こんな真似を?」
だが、強かろうと弱かろうと長時間に渡る攻撃的な干渉は、個体の躯に影響が生じる。
それは夢幻派にとっても、深層派にとっても好ましいことではないはずだ。
ケイの疑問に、少女は笑った。
『理由…んていうほどのも…はないわよ。ただ、深層派は夢幻派ほど優先されないんだし、たまにはちょっかいの一つも出したくなるってものよ』
「それが個体の躯に影響を及ぼしたとしても?」干渉波はやや安定した域に入ったようだ。
『これくらいで壊れるくらいなら、始めっから人格なんて生まれないわ』
少女は腕にしている腕時計を見る。此処が彼の内側の世界だとしても、彼女の腕時計だけはどうやら現実世界の時を刻むらしい。
『そろそろ行かないと学校に遅れちゃうわね。それじゃあ、もしまた会うことがあったらそのときはよろしくしてよ』
「もし会うとしても、そのときは現実世界でお願いしたいものですね」
『あたしは基本現実世界にいるんだから、それは貴方次第ね』
ザザザザザ、と砂嵐。
ふっと干渉波が消え失せ、空間内は静寂を取り戻した。







少女と並び歩く小柄な後ろ姿。
彼は何も知らない。知ってはいけない。知られてはならない。
当然の疑問には本当のことを半分だけ教える。完全な嘘では真実味に欠ける。

「今朝の件、知らないわけじゃないんだろう」
レモは、隣の無表情の男に声を掛けた。
本当ならこんな朝早くから顔を会わせたいような相手ではないのだが、こればかりはどうしようもない。
もともと克也があの少女とこの時間に登校することはわりとあるパターンであって、そこに自分と隣の男がくっついたのだ。
この隣の男と克也だけにしないためにも、迂闊に離れられない。…危険過ぎる。
「…」そして沈黙。初めから返事などそれほど期待してはいない。
第一、この男も全く話さないわけではない。必要だと思えば喋る。
それは以前した教室のベランダでの不愉快な会話で十分分かり切っている。
「あれも彼女の独断行動か」
今朝方の深層派による夢幻派への圧力。
その時間帯は克也の中にいなかったため、ケイから話を伝え聞いただけだが、それほど平和な圧力ではなかったという話だ。
「聞かれたから許可した」
それをこの男はいともあっさり言ってのける。
レモは眉を寄せた。
「克也の身体に何らかの影響が生じたらどうするつもりだったんだ」
「キョウコの干渉力ではその『何らかの影響』を及ぼすことはまずない」
「だとしても万が一のことも……」
「『万が一』にも死にさえしなければ問題はない」
「……」
深層派の意見と夢幻派の意見が違うことなど分かり切っている。
が、深層派の思考、行動により夢幻派への損害、悪影響が及ぶのだけは避けたかった。
そうでなければ、わざわざこうしてこの男の行動を監視しているわけもないのだ。
(…克也)
小柄とはいえ、昔よりはずっと大きくなった背中。
あの頃は、今が…こんなふうになるだなんて知りもしなかったのに。
(……らしくないな)
ふと脳裏を掠めた思考に、頭を小さく振る。
そして再び顔を上げたとき、後ろを向いていた少女の微笑が妙に視界に焼き付いた。











六時間目の日本史の授業。
授業で最も眠くなるのがお弁当を食べた後の五時間目だとしたら、次に眠くなるのが一日の疲れがどっとくる六時間目だと思う。
特にそれが日本史とか言う説明やら単語やらのもろ暗記の世界だと尚更。ボクは眠い。けど頑張って起きてる。
何故なら、それはボクの右斜めに座る夾子が寝てしまっているからで、彼女が起きたときにボクまで寝ていたらノートを見せてあげられないから。
…志賀君がばっちり起きてるけどね。多分、夾子は志賀君に借りるだろうけどね。…うん。
でも万が一ってあるから、ボクの汚いノートでも。そう前向きに思わなきゃ人生やってらんないよ。
なんだろう、どうも今朝から頭痛がして思考がすごく投げやりになってる。たまには、いいけどさ。
横を見ればレモも机に突っ伏して完全に寝入っている。その姿を見るとボクもとても寝たくなる。ある意味負の連鎖だ。
でもレモが授業中に寝るなんて珍しいなあ。夜ちゃんと寝てる?って夜もボクの相手か…。
ボクはレモと夜会うのは夢の中みたいなものだから別に疲れとか感じたりはしないけれど、…レモはどうなんだろう。
「じゃあここを瀬川君、読んでくれる?」
あ、レモ指されてる。レモ、レモ指されてるよ。ボクはレモの肩を揺さぶった。…起きない。
先生も困った顔してる。だけれど全然起きないのが分かって、別の人を当てた。
結局その授業中、ずっとレモは寝ていた。授業が終わった後も、起きる様子がない。
「境君、志賀君。これちょっと運んでくれる?」
そしてボクは運悪くというかなんと言うか志賀君と教材を運ぶのを頼まれてしまった。
こ、この状況大丈夫?…大丈夫、きっと大丈夫…なはず。
ボクは振り返ってレモを見たけれど、ぴくりともしない。
志賀君もじっと見ていたけれど、同様。
「…レモ、疲れてるのかな…」
準備室までの道中、ボクはそう漏らしたけどこれって志賀君に言うことじゃないよなあ。
志賀君は志賀君で特にコメントもなく。うん…なんとなく…ごめん。
準備室には誰もいない。
最近は志賀君、優しいから大丈夫だとは思うけれど、どうしても動作がせかせか急ぎがちになる。
逆に彼は特にボクを気にした様子もなく、教材を片付けている。
思い出すのは日直の日のこと。
あの日も彼は普通の顔して、でもボクが問い掛けたら急に態度を変えて。
「あ」
戸棚が高くて背が届かないっ。ボクは何度か飛び跳ねた。脚立もないなんて、なんて不親切。
そしたら、後ろからにゅっと腕が伸びて、ボクが持っていた教材を戸棚にすとんをおさめた。
振り返ると当然いたのは志賀君。
さすがの長身だけあって、お見事。だけど、う、不甲斐ない。そして、近い!
彼は真っ直ぐボクを見下ろしている。ボクは笑って、逃げようとした。
「うわっ」
捕まった。わあ待った待って待ってよ。
お願い脱がすのはやめて。
ボクはまだボクでいたいよー、よく分からないけどレモの説明によればすごくまずい。
「し、がくん…っ!」
レモ寝てたし絶対まずいし自分でどうにかしなきゃ!でもどうやって!?
彼の大きな手のひら一つでボクの身体なんか簡単に掴まれてしまうし。
「学習能力がないな」
こればっかりは学習とかどうとか。それ言ったら志賀君もなかなかどうしてワンパターンじゃない。
でも全然嬉しくないこのワンパターン。だって回避法をまだボクは会得していない。

「こら、準備室は不純同性交遊する場所じゃないよ」

え、誰っ?
突然してきた声の方へ首を捻ると、ドアのところに担任の亜崎先生が立っていた。
亜崎先生は二十代後半のまだ若い先生だけど、しっかりした先生なんだ。
だけれど、この状況はまずいような。ほら、志賀君が先生を気絶させたりとかするかもしれない。
ボクはそう思って志賀君を不安げに見上げた。
そしたら、志賀君は亜崎先生としばらく睨むってほどではなく見合って、ボクの手を放した。
「克也!」
そこにレモも登場。あ、起きたんだね。…良かった。
彼の登場に、ボクはようやく安心した。やっぱ確実な救世主がいると違う。
レモは血相を変えてボクと志賀君を見ていたけれど、亜崎先生の姿を認めて肩の力を無理矢理抜いたようだった。
そしてボクの腕を掴んでから、「どうもご面倒おかけしました」って先生に頭軽く下げてから、準備室を後にした。

放課後でめっきり人気のない廊下を歩く際、彼はずっとボクの腕を掴んだままだった。
「ごめん、克也」
「え」
「ちゃんと傍にいてあげられなくて」
そう言ったレモの背中に、何故なのか幼い頃の彼の背中が被って見えた。
昔よりはずっと大きいけれど、なんだか細く見える背中。
「別にレモは悪くないよ」
どちらかと言えば、無力なボクに問題があると思う。
だけれど、レモの腕は震えていた。
「……僕は克也を守るために此処にいるんだよ。…なのに今日は、」
「違うよ!レモは、昼も夜もボクと一緒にいてくれてる。だから今日だってそれで、疲れが溜まって…」
「それこそ違うんだ、克也。……僕らは、人間とは違うから」
レモの言葉にボクは俯く。
多分ボクはその言葉は聞きたくないんだ。
レモや、夾子や志賀君と、関わっていても現実ではないように感じてしまうから。
まるで夢物語を相手にしているようで、嫌なんだ。
レモは実際に、もうボクの夢の中だけじゃない。此処にいるのに。
「…僕らは紛い物でしかないから、疲れたりはしないんだよ」
ボクは悲しい。
だけれど、レモの言葉が真実なのか嘘かなんてボクには分からないんだ。
疲れたりしないのかどうか、とか。
だって『ボクとレモは違う』んだもの。











「駄目だよ、時と場所を選ばないと」
「……」
亜崎と名乗る教師は微笑する。
「まあ深層派だから苦労するのは分かるけど」
「何故邪魔をした?」
「志賀君があまり気乗りしていなそうに見えたから」
亜崎は志賀が克也を襲った際に崩れてしまった教材をもとの位置に戻すと、付着した服のほこりを払った。
「それに、境君は僕が受け持っているクラスの子だからね、目の前で暴行被害にあっていたら一応助けないといけないんだ」
「…夢幻派に含むところでもあるのか」
「何故?」
「…」
沈黙。彼は鼻で笑いつつ苦笑した。
「なくはない」
「それはお前が元深層派だからか」
「なんだ、分かってるなら聞かないでほしいな」
この亜崎という男は、境克也ではない他の人間の深層派だった存在だ。
そしてそれはもはや過去でしかなく、今の彼は、何処からどう見ても志賀達とは異なる普通の人間。
だがどことなく人間とは違う共通した雰囲気を、お互いに感じるのである。
「何となくね、『もと』敵対勢力の側だからかな。味方してあげたくなっちゃうんだ。申し訳なくて」
「…」
「でも心配しなくとも、僕は手は出さないよ。ちゃんと同郷…後輩を見守る気持ちもあるし。まあ他人のだけど」
亜崎はひらひらと手を振った。


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